降伏
「何この魚美味っ」
「奇余宝菜だ。餡は余の好みで甘めにさせているが、口に合ったようで何より」
アリエル様が、小さく切られた魚の切り身を更に手で引きちぎり、大口を開けて頬張る。魚に薄くかけられたとろみのある餡で手と口の周りが汚れていくが、グラーヴェの手も大差ないので誰もそれを咎めない。
いや、確かにそれがたしか作法だし。
具と共にかりかりになるまで炒められた長細い米。それをグラーヴェは右手でとり、掌で丸めて静かに口へと運ぶ。ムジカルでは手食文化は主ではないが、匙や三叉、また箸などと同じ程度にはありふれているはずだ。
「どうした? カラス殿。口に合わなそうなら作り直させるが?」
「あんたそんなもったいないことさせないわよね」
そして手を動かさなかった僕を見咎めるように、グラーヴェは対面に座る僕へと声をかけてきた。
長い机、その長辺を使い、僕とアリエル様は並んでグラーヴェの饗応を受けていた。
目の前に並ぶのは大小様々な皿およそ十。どれも山盛りに肉や魚に野菜が調理されて盛られ、担当者らしき人間がそれを取り分けていく。
僕の前の取り皿に盛られたアリエル様と同じ魚料理は、他の料理と同じように馥郁たる蒸気がもうもうと上がる。
「……圧倒されて手が止まっておりました。戦場の天幕でこのようなものが食べられるとは、と」
僕は本音半分でグラーヴェに返した。
実際圧倒されるか、もしくは呆れてもおかしくはないと思う。
ここは講和の調印に使われた陣地のすぐ近く、ムジカルの兵が使っていた野営所。
その中で急遽作られたような、一際大きな天幕の下だ。
一歩外へ出ればそこは野外。そしてもうすぐ終わることが決まったとはいえ今まさにまだ戦時中の場所なのに。
しかし目の前に並べられているのは、どれもムジカルの名菜だ。紙で蒸し焼きにし、野菜餡をかけた魚。香辛料多くまぶされ、小刀で入れた切れ目から大蒜や韮を差し込み窯で焼いた羊肉。その他手の込んだ料理は、ムジカルでもそこそこ良い料理屋で出されるような品。
戦場での料理というのは粗末なはず、というのはこの世界でも変わらないはずだ。実際従軍している間、エッセン軍の糧食は粗末な干飯や穀物が主だったはず。
新鮮な魚や果物、野菜がふんだんに使われたこれは、戦場で出るものではない。
「ムジカルは戦場こそが日常、という言葉。これほどまでにと実感している次第です」
まだムジカル暮らしに不慣れだった頃、観光がてら聞いたことはあった。
戦場での天幕が『暮らし』にも使えるほどの水準であるという知識と共に、戦場帰りの傷痍兵が話してくれたことがある。
ムジカルでは戦場での生活を特別視しない。戦場だからと飯を粗末にすることは耐えられないし、寝床を不便にしたくもない。もちろん限界はあるが、その場で出来る限り上等な飯を作ろうとするし、上質な眠りを求めるのだと。
もっとも、今回のはまた特別だろう。
たとえムジカルといえども、戦場に高級料理を持ってくるなどということは考えづらい。
今回はここに王がいるから。彼らの中で最も尊く、最も慇懃に扱うべき王がいるからこその対応だと思うが。
それでも僕はリップサービス代わりにそう口にする。
これが戦場の日常。それを維持できるならば、兵糧を維持する国力も兵の士気も高かろう。
グラーヴェは僕の言葉を聞いて笑みを強める。
「余としても無理を言ったつもりだったが、料理担当は余の期待以上に応えたようだ。後で褒めてやらねばなるまいな」
グラーヴェが左手で傾ける小さな硝子の器には、琥珀色の液体。葡萄酒ではなさそうだけれども……匂い的には林檎酒だろうか。これはムジカルよりもエッセンの方が発達している。
「あとうちの息子はね、心配してんのよ。あんたに何か無理言われないかって」
「ほう?」
「……そこまでではありませんが」
口を挟んだアリエル様は、大きな揚げ餅のようなものに齧り付いていた。輪切りの蕃椒を丁寧に避けながら。
僕はこれ幸いとアリエル様の言葉に同調する。たしかに、とも思っている。圧倒されたのは本音半分。後の半分は、その通りだ。
「気になってはおりますね。アリエル様を国家会談の場に招待したというなら、何か話があるということ。うちの母が簡単に騙されるとは思いませんが、相手はあのムジカル王です、何かあるのではないかと」
無論、相手はアリエル様だろう。目的は何かしらの取引か、懐柔か、もしくは暗殺か。
何かしらの交渉をしたいのかもしれないが、その場合も相手は僕ではあるまい。
「どのような目的があって、私たちをここへ招いたのか」
僕はグラーヴェをじっと見る。
腹芸や心理戦で勝てる気はしない。大国の王へと上り詰めるほどの男にそれをするには、僕には能力も経験も足りないだろう
一口二口程度しか入らないような器が揺れ、グラーヴェの持つ林檎酒が揺蕩う。
「目的、か」
小さく呟いた言葉に感じられたのは、悩み、もしくは思考のようなもの。自分に何かを問うように一瞬黙り、それからグラーヴェは首を横に振った。
「そんなものないぞ」
目を逸らしながら鼻で笑う。酒の器を丁寧に置いて、目の前の米に手を伸ばした。
「あるにはあるが、もう済んだことだ。あのエッセンの代表者に嫌がらせしたくてな」
「嫌がらせって……」
「見ただろう? カラス殿たちを誘ったときのあの顔。驚きと焦りと悔しさとが一度に噴き上がった顔だ」
炊かれた米を軽く咀嚼しつつ、ハハハ、と明るくグラーヴェは笑う。
やはり見た目若い。二十代前半と言われても僕は信じると思う。
「大国ムジカルの王が其方たち二人を誘ったという驚愕。其方たち二人への接遇で先を越された焦り。自分たちを差し置いて、其方たち二人が誘われた悔しさ。その全てを隠しきれないあの未熟さ。あれこそが、エッセンの具象だ。確かにあの男は代表者に相応しい」
林檎酒を呷り、杯を傍らにいた女性に差し向けて別の酒を注がせたグラーヴェ。今度は蜂蜜酒だろうか。先ほどの琥珀色よりも少しだけ色が明るく感じる。
その杯を持つ褐色の手。その指先の動きがとても優美に見えた。
「扱いやすい駒だ。悔しさは其方たちへの劣等感を呼ぶ。焦りは性急さを、驚愕は拙さを。彼の者はもはや其方たちの懐柔など考えまいよ。これでエッセン王国と其方たちの縁は彼の者が切ってくれるというわけだ」
「そう上手くいきますかね」
「いかずともよい。其方たちがもはや戻る気はあるまい」
喉を湿らせるようにグラーヴェは酒を僅かに舐める。口角は常に上がり、実に楽しそうに食事を取る。
楽しんでいるのは食事だろうか。
「つまりもはやこの会談は単なる宴だ。何も気にせず存分に飲み食らい楽しむがよい」
「もちろんよっ!」
あれ取って! と横にいた給仕に、アリエル様が呼びかける。
恐縮もせずに給仕は静かにグラタンのようなものを小皿に取り分けていた。
「あんたも食べときなさいよ。栄養は取れるときに取っておきなさい」
「まあ」
僕もゆっくりと手を伸ばし、おそらく腸詰め肉を一つ手に取る。チーズのようなものが溶けてまぶされており、噛めば中の駱駝肉がとろけ、塩漬けの魚卵が口の中で弾けた。
確かに美味しい。
食べて味を見れば、改めて戦場で食べられるものではない。
使われている茸や魚卵の塩漬けは保存食として元々軍が持っていたものかもしれないし、香り付けの野草は森に分け入り採取してきたものかもしれないが、塩漬けではない肉やソースに使われている乳などはそうではあるまい。
おそらく最初から彼がここへ来ると同時に、このような食事をここで取るつもりで食料も持ち込んだのだろう。
誰かを招く、などは確かに先ほど考えついたのかもしれないが。
「だがその様子では、そうは言っても何もない方が落ち着かない、というところだろう」
酒を、と給仕が差し出しかけたのを、僕は掌を見せて断る。
「……正直」
そうだろう。相手は、つい先ほどまで敵対し、戦争をしていた国の最高権力者だ。
そんな相手を前にして、悠々と食事を楽しめるような胆力は僕にはない。
「主催としては客に楽しんでもらえぬのは立場がない。ではどうする? せっかくの会談だ。何かの議論でも深めてみるか? それとも余に何か聞きたいことでもあれば、答えよう」
身を乗り出すようにして手を伸ばし、グラーヴェは先ほど僕が摘まんだ腸詰めを手に取る。
一口囓るとそれを自分の取り皿に置いて、また蜂蜜酒を舐めた。
僕はそれに合わせるように、葡萄のジュースを一口含む。当然アルコールのない。
「それではお言葉に甘えて」
「ああ」
「私たちを、恨んではいないんですか」
「恨み、か」
ふむ、と困ったように眉を寄せて、グラーヴェは小さく噛み千切った肉を飲み込んだ。
僕はその様子に続ける。挑発をするように。
「この戦では、私は大勢のムジカル兵を殺しています。アリエル様も、戦場に顕現すると同時に大量に。そんな私たちに、何のわだかまりもない方が不自然です」
反応としては、カンパネラの方が自然なのではないだろうか。
敬愛する上司を殺されて、その恨みに胸を焦がす。その矛先が今のところ指示を出した僕ではなく実行したスヴェンらに向いているのはありがたいことではあるが、それでもその憎しみは。
「恨みはないが、わだかまりはある」
大きく口を開けて、グラーヴェがまた手の中で丸めた米を口の中に放り込む。
指先で摘まんで米をかき寄せ、掌で丸めるその作法は、慣れていないうちは僕にも難しかった。
「当然だな。仮にカラス殿がいなければ、今頃我が国の軍はイラインをも通り越しエッセンの領土は大きく削られていたであろう。トリステやイグアルは諦めるとしても、ラルゴもフラムも健在であったであろう。カラス殿がいなければ」
僕のせいで、とグラーヴェは繰り返す。
だが何故だかその視線には、敵意は見えない様子だったが。
「だが、誰しもが戦う権利も自由も持っている。どれほどその戦いや抵抗が忌々しくとも、余はその自由を愛そう」
「自由、ですか」
「此度の戦では、皆が同等の条件でその場に立った。どんな理由があれども、最終的には自らの自由意思でな。そうして戦場に立った者たちが殺されたのであれば、余は恨むことはない。戦場に出た以上、恨みを持つのは間違いだ、と余は思っている」
グラーヴェはチーズのついた指を舐めた。手首に三本ほど引っかけられた緩い腕輪がぶつかって鳴る。
「無論それは余だけの矜持だ。誰にもそれを強要はせん。故にカンパネラも止めぬ。余の法に反さぬ限り」
「カンパネラってやつ、スヴェンに何かされたの?」
アリエル様が僕に向けて尋ねてくる。
そういえば言っていなかったか。興味を持つとも思わなかったけれども。
「上官を、スヴェンさんとレシッドさんに殺されています。もっとも僕の指示ですが」
「じゃああんたが一番悪いんじゃない」
「悪くはないといいたいところですけれど」
グラーヴェの言うとおり、これは戦争だ。
僕の指示で死んだラルゴ・グリッサンド、それに僕が殺したフラム・ビスクローマ。彼らも戦場に立たなければ死ななかった、……というのはやはり責任転嫁になるだろうか。
「そう、復讐、更にその連鎖とは実に厄介だ。では、仮にカンパネラが〈鉄食み〉と〈猟犬〉を討ったとして、どうなると思う?」
「気が済まなければ、私に向かってきますかね」
「そうなるかもしれない。そして首尾良くカラス殿を討ったとする。ならば次は? そこで終わると思うか?」
「そしたらこの子の仇を討ちに、……あら、討ちに出る人いるかしら?」
「…………」
僕はアリエル様の言葉に黙る。ありがたいことに、悲しんでくれる人はいるだろうとは思う。けれどもそれで誰かが戦ってくれるとは……。
「いるとは言えないんですけど」
「ならば健全に終わるな」
ハハハ、とグラーヴェは笑う。おそらくその言葉は、想定していた方向にはいかなかったのだろうが。
「だが大抵の場合、終わらん。討ち討たれて、血で血を洗う闘争の日々が始まる。不毛な日々だ。ならば恨みなど、戦場で片付けて終わらせてしまうに限る」
「基本的にはムジカルが恨まれる側では」
僕はまた挑発のように言ってしまう。どちらかというと無意識に出た軽口ではあったが、グラーヴェも気にしないように頷いた。
「だからこそ余は願っている。ムジカル側で終わらせようではないか。少なくとも余はカラス殿やアリエル殿、クロード・ベルレアンやエーミール・マグナを恨んではいない。カンパネラも、スヴェンやレシッドで気は済むだろう。その後カンパネラがその者たちの縁者に殺されたとて、余が恨みに思うことはない。精々が、カンパネラを殺した者を厄介だな、と心に留めておくだけだ」
「厄介だ、とは」
冷たくはないだろうか。
少なくとも軍の有力者である一将兵だ。二人を殺され戦争に踏み切ったエッセンとは……あれは無理矢理でもあるだろうから違う話か。
グラーヴェは僕たちに向けて指を指す。背もたれに背をつけて、足を組んで悠然と。
「カラス殿たちに抱えるわだかまりとはそういうことだ。余は次のエッセンとの戦こそ成功させたい。だがカラス殿たちがエッセンにいる限り、成功は難しいだろう。だから、ひとまずの脅威を取り除くのに、余はエッセンと其方らの離間工作に入った」
「それがこの食事会と、講和への参加という成立条件ですか」
「そうだな。では、カラス殿のお望みの通り、ここを会談の場とし、我らムジカルとしての要望を伝えようか」
ぎい、と背もたれが鳴る。
「此度の戦、ムジカルとしてはエッセンの国盗りのつもりだった。しかし残念ながら、エッセンは我らの動きの意味を解することもなく、滅亡の危機感を持つことすらもなく、いつもの通りの小競り合いで終わってしまった。これは余らの力不足で、其方らの参戦によるものだ」
静かに語るグラーヴェの言葉を、世話係たちが動きを止めてじっと聞く。グラーヴェの手を洗うための水盆と、それに乗せた水差しがカチャカチャと音を立てた。
「休戦期間の終わる二十年後、どちらからかはわからんが、両国間で戦争はまた起こるだろう。その時もしも余、もしくは余の志を継いだ者が王であるならば、その目的はエッセンを滅ぼすこと、更にその次を行うことだ」
「その次?」
「エッセンを橋頭堡とし、更に西へ。聖教会の本国を滅ぼす。完膚なきまでに破壊する」
僕はその言葉に返答に詰まる。
エッセンの滅亡、まではレイトンの予言にあった。しかし、それ以降は彼の言葉にもなかったことだ。
必要ないから言わなかった、のかもしれないが。
「ムジカルとしては、アリエル殿、カラス殿の連合国に対し、その戦への不参加を要求する……というのはいかがか?」
「別にあたしは構わないけど?」
「私としては国扱いにまず違和感があるんですが……」
もはや机の上で足を投げ出し座り、食事を続けていたアリエル様が即答した。
しかし僕としてはそれ以前の問題がある。
「ほう?」
「王はアリエル様でもいいでしょう。国民は私、ですがその他がありません。国土も神器も、名前すらない国などどこも国とは認めない」
「余は認める。そもそも国家として認める認めないは慣例に過ぎないし……」
グラーヴェは言葉を止めて、宙を見つめるように視線を漂わせる。
「必要とあらば領土を割譲してやってもいいぞ。神器もムジカルの内いくらか譲り渡せば文句あるまい?」
「…………」
「三十年の相互不可侵の条約も付けようか。先ほどの様子を見れば、ミーティアやリドニックとの同盟すら結べるだろう其方らには国防に関しては心配もあるまいがな」
降って湧いた幸運……とでも言えばいいのだろうか?
全て用意されたお仕着せの国、それを与えてくれるのだという。目の前の王は。
だが、やはり。
考えてみても、それは僕にとっては最高とは言えない。いや、数日前の僕にとっては最高なのかもしれない。ひとまずの住処が出来る。その一点において。
しかし、『国』という大きなものは、僕には今のところ想像すらつかない重荷にも見えた。
少なくとも責任は取れない。その重荷を背負うのは、今となっては僕だけではないのだから。
「そのようなものをもらっても、難しいでしょう」
「何故だ?」
「私たちには統治の経験がありません。そのような教育を受けたこともない。アリエル様が国を背負うとしても……背負えますか?」
「無理ね」
でしょう、と声に出さずに僕は応えてグラーヴェを見る。
「国土を、国民をもらえる。しばらくは平気でしょう。アリエル様のご威光で、表向き平和に過ごせるかもしれない。しかし、いずれ限界が来ます」
僕たちには国を運営した経験もない。史料を考える限り、アリエル様も同じだろう。彼女は爵位は得たようだが、領土を得たわけでもなく民の管理は経験していない。
その点、王が入れ替わろうとも混乱の少ないリドニックは素晴らしいと思うが……今はその話ではない。
「結論を述べます。私たちは次の戦に不参加、それは承知しました」
「それはありがたい」
「しかしそれは国家という形ではないのが条件です」
いや、アリエル様が国をもらうなら勝手にすればいいが、僕はもらえない、というだけの話。
僕だけならば苦労してもいいかもしれない。嫌だけど。
嫌だけど、しかし、苦労するとしても僕だけならばいい。
だが今の僕にはルルがいる。僕と運命を共にしてしまう彼女が。
彼女に苦労をかけるのは、僕が自分を許せない。
「領土をいただけませんか。ムジカル国内にほんの僅かなものでいい」
「水守りの一族に加わりたい、と?」
「水守りの徴税権は要りません。徴兵義務だってお断りです。ただ私は、欲しいんです。私の家族が、安全に戦争に関わることなく暮らせる土地が」
馬鹿げた話、と思うだろう。
施政者からすれば胸くその悪い話でもあると思う。
多くの国は、自国民から徴税をすることによって国体を維持し、国の防衛に充てている。衛兵を使って、また騎士団や何かしらの武力組織を組織し、そこで暮らす民の安全を守っている。その安全こそが民の権利。施政者から税によって買い取った彼らの。
しかし僕は義務を果たすことなく、権利だけ寄越せと言っているのだ。
「ムジカルでなくてもいいです。どこかにありませんかね?」
へらりと僕は努めて笑顔を作り、問いかける。
まあ僕には無理だ。国を運営するなど。
アリエル様だけに任せてはおけまい。国を維持するには衛兵などの治安維持組織と、騎士団などの防衛組織が必要だ。さらに彼らを養うための資金管理が必要で、外貨や内需を稼ぐ必要がある。役人組織を作って彼らに全て任せたとしても、その役人を管理する手間がいる。
突発的に起こる災害には指示を出して対処し、経年で起こる何かしらの劣化の問題には続々手を打たなければいけない。
国家運営とは永遠に続く人の管理。
全くの門外漢、素人の僕が適当に考えただけでも難しそうだと思う。
更に実際に携われば、この何百倍もの難しい問題が、時間も場所も問わずこっちの都合など考えずに降り注ぐのだろう。
リドニックほどに官僚組織が出来上がっていれば問題は減るだろう。しかし新興の国ではそれは望めないし、別の対処がいる。たとえばそうでないエッセンでも、貴族の者たちは子供の時からそれを学んでいるからどうにか出来るのだ、と思う。
口に出してから、多くを望みすぎている、という感はある。
グラーヴェの側にあるだろう、アリエル様と敵対したくない、という感情。
それを利用しすぎているかもしれない。
しかしまあ、僕としては気楽なものだ。
僕はこの場で交渉が決裂しようがたいした痛手ではない。僕とアリエル様個人はこの場からどうにかして逃げることも出来るだろうし、イラインを襲われたところでリコとモスクならば問題なく逃げてくれるだろう。スティーブンも死にはしまい。イラインから遠い場所にいるだろうルルはオトフシが守ってくれると信じている。
大急ぎでイラインへと赴き、彼らを回収するだけでいい。急げば半日もかからない。その程度ならば聖騎士団も持たせてくれるだろう。
あとはたかがイラインが全滅するだけだ。
「いいだろう。交渉成立だ」
そして笑顔で吐き出されたその言葉に、僕の側が少しだけ戸惑うことになった。
「少し気分を害する程度はすると思っていたんですが」
むしろ今まさに怒りを覚えてはいないだろうか。目の前にいるグラーヴェからは何も感じられないが、それは彼の腹芸によるものかもしれないのだし、僕には判別できない。
「不自由のない相互不可侵付きの土地をやろう。付近の魔物や賊の掃討にはムジカル軍を出す、が、それ以外のことには関わらん。それだけでいいのだな?」
「……構いませんが……」
危ない、と僕の頭のどこかでブレーキが掛かる。
上手くいきすぎている気もする。僕の要望がそのまま通る。そんなことはほとんどありえないはずだ。それは僕の気にしすぎなのだろうか。
その言葉の通りなら、既に問題の種はいくつもある。
僕の土地……がどれほどの大きさかはわからないが、そこに僕らだけが暮らすならいい。しかし、そこにムジカル人が住み着く恐れもある。住み着いてしまえばグラーヴェはその者たちに手が出せず、徴税も出来ず結果的に国力も落ちるかもしれない、というのがグラーヴェの問題。
それに僕たちの問題としては、不可侵の土地など犯罪者が逃げ込むにはうってつけの場所だ。ムジカルを追われた犯罪者がなだれ込み、行き着く先は、イラインの貧民街に似たような場所。
…………。
「構わずにはいられない問題が、いくらか浮かんだな?」
くつくつとグラーヴェは楽しげに笑う。僕の顔色を見たのだろう。
魚肉を摘まみ、咥えるように噛み千切る。
「何かを望むとはそういうことだと余は思う。何かを得ることは、責任を背負うことだ。カラス殿が責任を持って管理するのだと余は願っている」
乾杯、と誰にするわけでもなくグラーヴェは杯を掲げた。
「なに、返還ならいつでも応じよう。条約は個人として残して頂くがな」
「あんたいいやつね」
囃し立てるようにアリエル様が言う。
その髪についた餡かけがなければもう少し格好いいと思うのだが。
「いいやつ、という尺度は知らぬ」
「でもうちの息子にそんな言ってくれたの今のところあたしの前ではあんたが一番よ。何でそんなに?」
「……余には、声が聞こえるのだ」
「声?」
うむ、とグラーヴェは頷く。ふざけているわけでもなさそうだが楽しそうに。
「未来の自分の声がな。二十年後の自分の声が。『よくぞやってくれた』と『よくぞ話を付けてくれた』と感謝の声が聞こえてくるのだ」
内容は、やはりふざけているようだ。そしてその顔にも真面目な要素はなく、冗談と言われればその通りだと思ってしまう。
だが、もしや、という思いは捨てきれず、僕は曖昧に頷いて返した。
「そして余は責務を果たさねばならぬ。敗者の責務とは、勝者に戦利品を差し出すことだろう」
「ムジカルは負けていませんが」
「負けだろう。エッセン王国を滅ぼすという目的は達成できず、多くの将兵が殺され、五英将という最大戦力の内三人を失った。……そして一人も、帰っては来ない。ムジカルとしても、次の戦のためには力を蓄える必要がある」
グラーヴェの表情に、少しだけ悲しそうなものが混じった。
音を立てぬよう丁寧におかれた硝子の杯には、先ほど飲み干した後のものが注がれない。
「その多くを行ったのが、カラス殿。その際アリエル殿は最終盤のおまけに過ぎない」
少しだけ俯いたグラーヴェの髪が胸に掛かる。
「余は、ムジカルは、お前一人に負けたのだ」
髪の毛を払いのけながら、グラーヴェは言う。
弱々しい言葉。だがなのに、その姿は最後に見たエッセン王の姿よりも、ずっと雄々しく凜々しく見えた。




