黄金の手綱
は、と僕はルルの顔を振り返る。
彼女も知っていたのか、それとも知らなかったのか。それだけを確認するための行動だったが、彼女は渋い顔で首を横に振った。
「……何のために」
「さっきからお前自身が言っているだろう。お前相手の婚姻など上手くいかんからな」
オトフシは小声で「アリエル様も変わらん」と付け足す。
それから腕を組んだまま顔を上げ、唇を吊り上げた。
「悪い相手ではないだろう?」
「酷く悪い相手だと思いますが」
愉しむようなオトフシの言葉に思わず僕は反論する。決して良縁ではない、というのはオトフシも同じように感じていると思うのだが。
ジュリアン・パンサ・ビャクダン。ビャクダン大公家の三男。王族を除きこの国の最高位の地位を持つ彼の家は、この社会において絶大な権力を持つ。
権力者が全て悪い人間とは言わない。
けれども権力を悪いように使う人間はどこにでもいるものだし、彼はその最たるものだろう。
罪人を相手にした虐殺の噂は噂ではない。実際の素行不良も僕は見ている。王城内での強姦未遂、また僕の暗殺指示などを。
それよりも何よりも、その性格が。
思い出して、未だに僕の手が少し震える。
昼餐会での僕への罵倒の数々、中でもグスタフさんへの侮辱。
あの男はルルにいくら感謝しても足りないと思う。未だ奴の首が胴と離れずにいるのは、ルルのお陰だ。
温度を上げる僕の周囲。しかしオトフシは素知らぬ顔で、指折り数えていく。
「大公家の三男。つまり婚姻を結べば大公家との濃い繋がりが作られる。それだけでも皆喉から手が出るほど欲しがる種だ。跡取りのいないザブロック家に婿入りさせるとしても有望株だな。長男、次男までもいるということは、ビャクダン家断絶の危機に呼び戻される心配もないわけだ」
「……その結果、僕が敵対するとしてもですか」
僕はもとより、アリエル様とてこの婚姻は面白くないだろう。
あの男をアリエル様が気に入るはずがない、とまでは言わないが、決して好ましい人間ではないはずだ。それが僕の思い込みや偏見ではないと切に願いたいものだが。
「何故敵対するのだ? 貴族同士が縁と縁を結び合う。彼らの正当な営みではないか」
くつくつとオトフシが笑う。
「そう、この話の関心事はそこだ。貴族にとって、より家格の高い当主を求めるというのは当然のこと。ザブロック女伯爵閣下とてそうだろう。断る理由がないし、そもそも大公家の意向を伯爵家が跳ね返すことなど出来はしない。相手がたとえ、多少素行の悪いと噂される人間であろうとも」
「…………」
「なのに何故お前は目の敵にする? ザブロック家は良家の令息を迎え入れ、やがては女伯爵家という変則的な運営から正当なる伯爵家に立ち戻る。喜ばしいことだ。そこにお前の意思の正当性はあるのか?」
僕は言葉を失い、ちらりとルルを見る。
同じく何も言えずに俯くルル。その様は、どう見ても歓迎している雰囲気でもない。
「ですが」
「そして、お前がそう反応するということもわかっていてやっているのだろう。ビャクダン大公は」
僕の言葉をオトフシは遮る。
じと、と鋭い目で見つめられ、僕は自分が何を言おうとしたのか忘れた気分だった。
「ルル・ザブロックはこの王国でお前を御する唯一の軛だ。その黄金の手綱をいち早く見出したビャクダン大公の思惑は、その程度では収まるまい」
「でもザブロック家とビャクダン家は決闘中じゃあないのかい?」
「決闘は王陛下の命により凍結中。和解を陛下に掛け合うには、今回の件はその理由付けにうってつけでしょう。『両家のこれからの未来のため、過去の些細な諍いを清算したい』とでも」
ティリーの反論にもオトフシは動じない。
この程度ならば普通に考えて動くだろう、とでも言いたげな。おそらくその主語は、『貴族なら』というような。
「カラス。残念ながら、選ぶのはお前ではない。部外者である以上お前にも、もちろん妾にも、アリエル様すらもこの話に口出しする権利はないのだ」
オトフシに釣られるよう、部屋の中の視線がルルを向く。
選ぶのは僕ではなく、その他二人ではない。ならば、その選ぶ人間は、と。
ルルは唇を結び、ドレスの腿の布地を握りしめる。苦しそうに。
……もっとも、貴族同士の婚姻、ともなれば、そこに口出しできる権利はルルすらも持っていないのではないだろうか。
「…………」
一瞬の沈黙。それからルルは小さく首を横に振った。
そして、落ち込むような顔を少しだけ見せて、次に見せたのは。
僕は不可思議さに内心首を傾げる。
ルルは何故今、可笑しそうに口元を緩めたのだろうか。
「……嫌に決まってるじゃないですか」
ぽつりと呟き、うん、と頷く。
ちらりと向けた視線は、先ほどまで読んでいた本の表紙に。
瞬きをするような一瞬の後、またルルの視線は部屋にいる全員を一度見渡す。
「大丈夫です。私は大丈夫、きっと何とかなります」
僕たちに向けて、だが自分に言い聞かせるようにルルは言った。
「カラス様、オトフシ様、お二人は雇い主であるレグリス様と私、どちらの指示に従いますか?」
「ルル様です」
「同じく」
僕とオトフシは、視線すら交わさずに即答する。
今僕はミルラの部下であるので少々複雑だが、一応は契約上、僕たち二人はルルの警護だった。そのためにレグリスからも、自身よりもルルの指示に従えと言われていた。
ミルラの指示に違わぬ限りと面倒な話ではあるが、僕はルルの味方だ。
オトフシも、彼女の場合は純粋にルルの部下だろう。彼女は彼女でレグリスに気を遣うだろうが。
その上で、心情的にも、僕は。
ルルは僕たちの言葉に否定的な顔をせずに頷く。
「なら絶対に大丈夫です」
「しかし、お嬢様……」
「これは我が家の、私の問題です。ですから、お二人に何かしてもらうこともありません。レグリス様が帰っていらしたら、私が」
心配げなサロメを無視して。私が何をするのか、そこまでは言えずに、ルルは一度自信なさげに俯いたが、すぐにまた顔を上げた。
「大丈夫。お二人がいる限り、私はどこにいっても多分何とかなります」
ね、と懇願するように、泣き笑いをするような顔でルルは言う。
「どこにいっても、ですか」
「ええ」
フフン、とルルの言葉をオトフシが笑い飛ばすが、僕は笑えず奥歯を噛みしめた。
「ティリー様、庭に出ませんか? アリエル様をご紹介します」
「……いいのかい?」
「はい。もうこの話はやめましょう。あとは私の問題ですから」
もう一度懇願するようにルルは言って立ち上がる。
「カラス様も行きましょう。この前ティリー様が持っていらした花の種が、芽を出したんです」
僕の返答も待たずに出て行く背中は小さい。
サロメが一度ちらりと僕の顔を見てからその背について行く。
オトフシはそれに続いていくが、僕の横に並んで一瞬だけ止まった。
「早まったことはしないことだ。拉致するならば夜更けがいい」
「誰を」
「さて、誰だろうな」
僕の返答をくつくつと笑って、オトフシは手をひらひらと振る。
僕はそれを見送り、立ち上がるまでやたらと時間を掛けた。
「カノン・ドルバック様がおいでになりたいとのことなんですが」
庭でのお母様の挨拶を終えて、いくらかティリーの花解説を聞いて少し経ってから。
ザブロック家の使用人がそう僕たちに声を掛けてきた。
ただし、僕に向けて。
ルルが声を上げて応える。
「ドルバック様が?」
「はい。薬のお礼を言うために、カラス様にお会いしたい、と使者が」
使用人は返答のためにちらりとルルを見たが、それよりも僕に向けて首を傾げる。
訪問させてもいいか、ということだろうか。僕に聞くのではなくて、ルルの意向の方が優先されると思うのだが。
薬はこの前の貧血の薬のことだろうけれども。
「私は構いませんが……」
「カラス様が構わないのでしたら、どうぞ」
男爵家……子爵家だっけ? もう曖昧になっているが、貴族の令嬢から平民の僕への訪いだ。僕が断るわけにもいかない。
だが一応僕も、了承しつつもルルに顔を向けてそれとなく確認する。その意図を汲んだルルは、やや硬い面持ちで頷いた。
そして、了承してから僕は気がついた。
オトフシのにやにやとした顔を見てから、というのが遅かったのだろうが。
「カラス様、ご無事で何よりです!」
家は近いのだろう。そう待たずにザブロック家を訪れた彼女は、庭に入るなり笑みを浮かべてそう言った。
薄い桃色の髪が、日光を反射して輪を作る。
「ありがとうございます」
立ち止まり、僕は礼を返すが、一瞬僕は戸惑った。
顔が違う。いや、しっかりと顔を覚えていたわけではないのだが、印象が違う。
城にいたときに覚えていた彼女の『雰囲気』と、今の彼女が一致しなかった。
何故だろう、と思い、そして気付く。
「だいぶ調子が良くなられたようで」
「そう、そうなんです。そのお礼を言わなければと今日参上した次第なんです」
ずい、とカノンが一歩僕に近づいてくる。やや遠間ではあるが、立ち話をするならば普通だろう間合いよりも一歩。
だがそれだけでも、充分に顔色の良さがよくわかる。
城にいたときに、彼女は僕に薬を求めてきた。万年悩まされてきた身体の不調、貧血を何とかするために。治療師に相談するよりも、エッセンにはもういない薬師に相談してみたい、と。
見立ては間違いではなかったようだ。
長年、名前は知らないが貧血と聖教会では診断されてきた病状。鉄欠乏性の治療を受けてきたが、実際は腎性だったという僕の見立て。
むくみが取れたのだろう。以前見たときよりも、どことなく面持ちも細くなったと思う。血色も良くなり、青白かった顔に赤みもわずか戻ってきたのではないだろうか。
「まだちょっと調子が悪い日もありますが、もうほとんど」
「薬は飲みきられたんですよね?」
「はい。少し前に」
カノンが侍女に、ね、と振り返る。
侍女も満足げに頷いた。
しかし困った。
いや、困るわけではない。しかしもう彼女の顔を覚えなくてもいいとはいえ、せっかく覚えた特徴がなくなってしまった。
そして、覚える気はないというよりも、覚えるような事態になりたくはない。
今もまた微笑ましくオトフシが見ている理由。
彼女が来た理由。それを考えてしまうと。
また一歩カノンが踏み込んでくる。敵意はないが、仮にあったら手が出てしまいそうな距離まで。
「お父様も喜んでおりまして、お礼も兼ねて是非ともカラス様にお会いしたいと仰っております」
お互いに手が届く距離。そして僕の下ろしていた手を、彼女が手を伸ばして、掴んだ。
手袋越しだが、以前よりもやはり水気は抜けたような感触。見れば目の下の隈は薄くなり、化粧で隠す必要も共に薄くなっているようだ。健康状態はやはりよくなっている。それは喜ばしい。
「ご予定を合わせて、お食事会など、……」
「はいはい、そこまでー」
ティリーが僕とカノンの間に入るよう、横から首を突き出して吠えるように言う。
驚き、カノンが僕の手を離した。
「ここはザブロック家だよ。まずはルル君に挨拶するのが筋じゃあないのかね?」
それからティリーが口にした言葉に、僅かに不満げだったカノンが気を取り直したかのように笑顔を作り直す。
「申し訳ありませんでした。ご無礼をいたしまして」
「いえ」
そして、ルルの返答の声音が冷たい気がする。実際にカノンが無礼なのだろうが、それ以外に何かを気にしている。
事実、……ルルへの挨拶を後回しにしたのはティリーも同じく、更にお座なりにしたのは僕も見たし。
それからルルへ、そしてティリーへと挨拶を繰り返したカノンは察してもいないのだろうが。多分その作り笑いが、ルルの不興を招いていることを。
「それで、カラス様、お食事会についてはいかがでしょうか? たとえば今日の晩餐会などには」
「……申し訳ありませんが、先約がございます」
今夜、ザブロック邸で友人たちと慰労会をしよう、とルルが招待客を集めた。招待客といっても僕とルルの共通の知り合いで、なおかつ僕からも比較的気安い人物。つまり、ティリーとディアーヌ、それにルネスくらいの少人数で。
僕の追放騒ぎが起きる前なら、やるのは戦後の予定だった。更にそこにクロードなども招きたいと思っていたそうで、急ごしらえになってしまったのはルルに申し訳ない。
そしてそこに、カノンたちが入っていなかったのもなんとなく彼女に申し訳ないのだが。
「いえ、お気になさらないでください。それでは、出来るだけ近いうちにと」
「それも申し訳ありませんが、数日のうちに私はまた戦場へと戻らなければなりません。あまり時間が取れませんので、ドルバック男爵閣下には……」
言いかけて、ほんの一瞬僕は言い淀む。
『カラスがよろしく言っていたとお伝えください』と言おうとした。
けれども、その言葉がまずくはないかと一瞬躊躇した。
いや、多分一応間違ってはいない。少しフランクな気はあるが、礼儀知らずの平民から貴族へ向けた言葉では笑って流す程度の拙い社交辞令だろう。
だが、今のこの状況では問題だ。状況というよりも、カノンがここを訪れた目的からすると問題になりそうで。
オトフシの嘲笑からまず間違いなく、カノンがここに来たのは礼の言葉を述べに来たのでも、僕の無事を喜びに来たのでもないだろう。
おそらく目的はやはり婚姻。つまり僕と多分彼女との結婚。ドルバック男爵か子爵は、僕を通じてアリエル様をドルバック家に引き入れようとしている。仮に今日食事会へと行ったところで、そのような話をされるのではないだろうかという淡い予感がある。
その場合、『よろしく』とはどのような捉えられ方をするだろうか。
普通ならば単なる社交辞令だ。本来ならば『これからも良いおつきあいを願う』程度のもので、なおかつこのような場で出た場合は特に意味も持たない『確認しました』程度のものだろう。
しかし、今は。
ほんの僅かな引っかかり。気にしすぎかとも思うし、一々面倒な考え方だとも思うけれども。これが自意識過剰というものかとも思う。
でも、もしかして、が残る。貴族とは、そういうものだという気がする。
「カノン様のお体がよくなられたのが一番のお礼だ、とお伝えください」
そして言いながら、僕の頭の中で『もしかして』がもう一つ生まれたのが、僕自身よくわかった。
もちろん、その『もしかして』は正解だったのだが。
「そうですか、残念です……」
シュンとした顔で、どこかの家の赤毛のご令嬢が眉を顰める。
カノンが来て、そして帰っていったのを皮切りに、続々とザブロック家には人が訪れていた。貴族からの客、それもどこもご令嬢ご本人が、入れ替わり立ち替わりにザブロック家を訪ねてきているのだ。
そして今目の前にいる、見覚えだけはある令嬢と顔を合わせた。
先ほどのカノンのように先触れがあるわけでもないため追い返せばいいし、事実断っていたのだが、しかしこの令嬢が『王城でお世話になった』と僕の名前を出したらしい。すっかり騙されて、応対したある使用人が中に入れてしまった。
仕方なく、もう居留守は使えないし……と一応会うことにしたのだが、まあ確かに面識はあると思う。名前ももう覚えてないくらいだし、多分話してすらいないけど。
ちなみに彼女は園遊会の招待だった。
五日後ということで、出られるわけがないし追放のことを出して断ったけども。
すごすごと帰っていく令嬢を見送り、一息吐けばまた使用人から声が掛けられる。
今度は何だ、と聞こうとしたが、その理由は抱えている紙の束で窺い知れてしまった。
机にぶちまけるように置かれた二十数通の封筒を眺めて、ティリーはぼやいた。
「大変だねぇ」
「人間たちも無駄なことばっかするのね。食事会だの園遊会だの」
アリエル様が封蝋を破ってがさがさと便箋を引き出し、そこに並べられた文字を見る。
差出人は様々だが、宛先は全て僕。そしてその内容も、大体同じようなものだった。
園遊会へとお招きしたい。食事会はどうか。相談があるので一度会えないか。
大抵はそんなもの。もう少し平たく言えば、『会いたい』だ。それもアリエル様と一緒に。
中には、やはり直接的なものもある。
「養子に入らないか、ですか」
「あたしから子供を取ろうなんて喧嘩売ってるのかしら?」
どこかの貴族の、養子に来れば今後の後ろ盾になってやる、とのありがたいお言葉。婿を探している、というのもあったがこれも似たようなものだろう。
「断るのは前提で、全部返事を書かなくちゃいけないんですよね」
「そうだな。無論、無礼を承知なら無視しても構わんと思うが」
愉しむようにオトフシが一枚を拾い上げて、日を透かすように眺める。
「見事に皆太師派の貴族だな。大人気ではないか」
「これは大人気と……いえるんですか」
間違ってはいない、と思うが、どうも釈然としない。
今までこのような手紙の一通も送られてこなかった僕に、急に増えた連絡。
なんだろう、前世で聞いたことがある気がする。宝くじに当たった途端に増える、名も顔も知らない親戚や友達たちという不可思議な繋がりのような。
「大人気だろう。それもこの分では貴族たちだけではあるまい」
「どういうことです?」
「これだけの規模で広まれば、貴族以外の者もお前を欲しがるだろう。試しに大通りを歩いてみろ。十歩も歩けば、偶然にも困っている商家の娘を助けて礼の馳走を受けることになるぞ、大勢な」
「……出歩かないでくださいね」
心配そうにルルは言う。
僕はその言葉に応えて頷いた。本当ならば嬉しい話なのかもしれないが、僕にはなんとなく嫌な話だ。
ともかく、と僕は溜め息をつく。
一応断りの返事を書かなければ。必要ないだろうが一応このくらいは。
「オトフシさん、こういうときの断りの例文とか教えてもらえませんか」
「書くのでございますか?」
オトフシに僕が言うと、サロメが驚く。
僕は頷いて、そういえばと思った。紙と筆をもらわなければ。あと、……封蝋とかどうしよう。
そもそもどうやって届けよう。僕が回るとしても、それなら口で伝えた方が早い。
本当に人間たちの面倒な習慣だ。
鳥ならば地鳴きである程度遠くまで一瞬で伝わるのに。
パチン、とティリーが指を弾いて鳴らした。
「ならそういうのはうちの侍女に任せてくれたまえよ。ジェシー」
「……お任せください……と申し上げたいところなのですが……この量は大変なので半分お嬢様が書くという手も」
「私の字の汚さは知っているだろう?」
「フフフ」
そうだね、とでも言いたげな、暗い笑みでティリーの侍女は否定をせずに濁した。
ティリーも侍女に向かってにっこりと笑う。否定しろよ、となんとなくその顔が告げている声が聞こえた気がした。
だが、書いてもらうのはさすがに悪い。
「いえ、そこまでしてもらうことも」
「気にしないでくれよ。ジェシーはうちの館で代筆の手伝いもたまにしていてねぇ」
「主人が下手くそなので、その分上手になりまして」
侍女が顔を背け、長い黒髪で顔を隠すようにしてぼそりと言う。
ごく小さな声。しかしもちろんティリーには聞こえていたようで、その頬を突くように人差し指をぐりぐりと押しつけていたが。
頬が半分引きつったように歪んだ侍女に、ティリーは重ねて命じる。
「まあそんなわけで、ジェシー、罰として書いて差し上げて」
「ひ、筆記具と、便箋を頂ければと思います。あと、書く場所も……」
そして侍女もそれを嫌がっているようだが、避けずに頬を押しつけてティリーの指を弾こうとしていた。
拮抗した力でどちらともなく震えながら。
「……全部は申し訳ないので、手伝って頂けるとありがたいです」
しかし、申し出は確かに正直ありがたい。
他の問題が解決したわけでもないが、書く手間が少し省けるのは。
侍女の頬からティリーの指が離れる。指先が押しつけられた侍女の頬は赤くなっており、思わず僕は「大丈夫ですか?」と尋ねてしまった。
そして結局、手紙は殆ど全てティリーの侍女に書いてもらうことになった。
オトフシの書いた例文に沿って僕の書いた文字。それを「お嬢様と似た方がいらっしゃるとは」と評し、そして筆記具を取り上げた侍女は気を遣うように笑っていた。
それから夜が近づく、夕。
続々と手紙は来た。追い返してもらってはいるが、どこぞの令嬢たちも。
ザブロック家の使用人に届けてもらうことにして、手紙の返事を片付ける。それに乗じ、いい機会だからとアリエル様に命じられ、ティリーの侍女に書写を習っていた僕。何故だかルルも隣に加わり書き取りをしていた午後。
僕たちの下に、レグリス帰宅の報が入った。
帰宅したレグリスは、化粧を直し、また衣装も着替えた程度の時間を持って、ルルの部屋を訪ねてきた。
レグリスの登場に、僕たちの空気は再び冷たくなる。朝、ティリーとオトフシから伝えられた情報を思い出し。
レグリスが来たぞ、というような文句と共に、サロメの手で扉が開かれる。
ルルを含めて、六人が立ち上がる。一柱というか一人は座ったままだが
扉が開いてレグリスの全体像が見える前に、僕たちの視線は一瞬だがルルに集中した。
これは私の問題、と朝ルルは口にした。
だから口を出すな、と。もうその話はしないでくれ、と懇願した。
故に僕たちはその話題を口にするのを躊躇い、相談すらもしなかったのだが……。
何をするのだろう。そんな不安が僕の中に満ちる。
だがルルは、唾を飲むようにして喉を動かし、レグリスの登場を真っ直ぐ見て待つ。
動じてなどおらず、その姿に怯えや不安などは見えなかった。
「ルル、戻りました。皆様、ごきげんよう」
いつものように白塗りのような化粧をぱたぱたと仰ぎつつ、レグリスは部屋の中を見回す。
そして僕に目を留めると、その扇の動きを止める。べっとりと紅が塗られた唇を覆い隠すように。
「皆様の楽しい歓談を邪魔して申し訳ありませんが、アリエル様、カラス様、お話をよろしいでしょうか」
アリエル様はおやつのクッキーを抱えたまま羽を動かしてレグリスを見る。
「いいわよ。何の話?」
「ここでは……」
言い淀み、レグリスの視線がティリーたちを向く。
しかし少しの逡巡の後、扇で一度だけ顔を仰ぎ、油で固められた前髪を浮かせた。
「ここでは申せません。私の部屋へお願いします」
言葉に応えるよう、レグリスの侍女が扉に手を掛ける。先ほど完全に閉めなかったため開きかけの扉に。
侍女が開けたのを確認して、レグリスは振り返ろうとした。
「お母様」
そのレグリスを止める声が響く。
意を決したような、なんとなく切羽詰まったような声音。それを上げたルルは震えもなく媚びもない目でレグリスを見ていた。
「私からもお話があります」
「わかりました。後で時間を作ります」
「いいえ、簡単な話なんです、今、聞いて頂けませんか」
「…………」
ルルが喉を動かす。何かの塊を飲み込むように。
「私の縁談について、ですから」
どきり、とレグリスが動きを止めた気がする。白塗りに扇で殆どその感情は見えないが、瞬きを繰り返すその様に、動揺のようなものが見えた気がする。
「……いいでしょう。ですが、人を待たせています。場所を移しましょう、私の部屋へ。アリエル様方も」
「サロメはこの部屋で客人のもてなしを」とレグリスは付け足して、今度こそはと振り返る。
オトフシを見れば、指で『行け』と、楽しそうに合図を送ってきていた。




