閑話:試金石
「……下がって、よろしい」
王は静かにその言葉を吐いた。しかしその言葉に本来込められるべき威厳はなく、強要されたが故の弱々しさが宿っている。
その言葉に異議を唱えるものはそこにはいない。
言われたカラスとアリエルは、頭を下げた後、王を一瞥もせず外へと向かい歩き出した。
彼らを見送る観衆たちは、これで終わりかと胸を撫で下ろす。
二人の背中を見て、誰しもが一言も発せなかった。伝説ともいえる偉業を為す力を持ち、聖教会に絶大的な影響力を持つ〈大妖精〉アリエル。彼女と敵対することを恐れて。また、万の兵と英雄の将を撃滅した希代の怪物の気に障らぬように。
アリエル、そしてカラスの視線を受け、治療師たちが逃げるように道をあける。転がるようにジュラは絨毯の端まで下がり、這いつくばるようにして顔を見せない。
もはや二人を止めることは出来ないのだ。そして、止まってはくれないのだ。皆がそう相反する思いを浮かべて、溜め息をついた。
溜め息の行き先は玉座、そしてそこにもたれ掛かる王。
今の問答を正しく理解した人間たちは、王に向けて譴責の視線を向ける。
その視線の意味を読み取り、王の全身には垂れ下がるように粘る汗が滴った。
王は臣下の視線に応えるように、彼らを視線で辿った。王の脳裏には混乱と絶望、それと同時に僅かな怒り。臣下が自分を責めているとわかっていた。
わかっている。絶望的な現状を王自身冷静に分析していた。
今、妖精たちはこの国を出て行くと宣言したのだ。いいや、それも正しくはない。
正しくは、王が出て行くべく命令したのだ。妖精に。聖教会の聖人、そしてそれに連なる『その息子』に。
しかし、ならばどうすればよかったのだ、と王は臣下を怒鳴りたい気分だった。
王としても不本意だ。出て行けと命じたのはその『息子』のみだ。けれど、妖精本人はその息子について出て行くと宣言した。
そしてその『息子』にも、王は温情を出したのだ。
王が用意した落としどころは『謝罪』。一言、ただ一言で良かった。一言、自身の不敬を謝罪してくれれば。そうすれば今回の件を全て不問に出来たのに。
何とかしてくれ、と臣下が視線で訴える。
王も見返し、その意を視線で伝える。ここで妙案を出すような臣下はいないのだろうか。誰でもいい、誰かアリエルとの関係を修復できるような臣下は……。
だがその願いも虚しく、誰もその視線に応えることはない。アリエルは火薬庫だ。一見すれば垂涎の宝物であるが、手を出せば焼け付く危険な存在だ。それを今し方目にしてしまった彼らは。
ジュラは、と王が見ても皆と変わらない。治療師たちは扉の外のアリエルにまだ頭を下げており、特にジュラは床に頭をこすりつけるように動かなかった。
だが。
誰もが息を飲み、視線を巡らせながらも王とは交わさぬように逸らす中。
その中でただ一人。
王を真っ直ぐに見ている人間がいた。
王の娘、ミルラ・エッセン。
王と彼女の視線ががっちりと交わる。
互いの呼吸まで読み取れるよう、二人だけの世界が築かれる。
王は彼女の視線を忌々しく思う。
彼女こそが、ここに災いを連れてきた張本人だ。戦場へと災いを投入し、更に恐ろしいものを連れてきた。
彼女にも温情を与えた。異端者カラスの巻き添えとして、彼女も処罰して構わなかったのに。親として出来ず、そして王としてしなかった。
そんな自分の温情を騙し討ちのように払いのけ、この窮状を作り上げた張本人だ。
下がれと言ったはずだ。そう、王は怒鳴りたくなった。
その薄ら笑いに。勝ち誇るようにこちらを見ているその顔に。
しかしその行為すらも周囲の悪反応を招くことが予想され、出来ない。まるで縛り付けられたかのような不快感に、そして少しの畏れ。
彼女とカラスの関係が、どの程度深くなっているかわからない。彼女の怒りを買えば、それがまたアリエルやカラスの怒りを招く可能性もある。彼女すらもはや注意深く接遇するべき相手となったという現状を理解し、また拳を握りしめた。
「……ミルラ、まだ何かあるのか」
穏便に、と声をかけようとし、それでも滲んだ怒りで言葉に棘が宿る。
早く立ち去ってくれないだろうか。
自分は急ぎこれからのことを考えなければいけないのだ。
王の脳裏には、これからの道筋が幾通りも浮かんでいる。
アリエルとの関係を決裂させるわけにはいかない。
聖教会の聖人を追放した国ともなれば、聖教会からの非難が避けられない。聖教会の影響の大きい国民の、王家への感情も悪化するだろう。
出来るだけ早く彼女との関係を修復しなければいけない。出来れば息子と共にこの国から出て行くまでに。
状況は悪い。しかし今のところ、最悪ではない。
カラスとの関係を修復すれば、アリエルとの関係も修復出来るだろう。
そしてカラスの追放は戦後と決まっている。ならば戦後までの猶予はある。それまでに彼を懐柔できれば、悪影響は最小限で収まる。聖教会への申し開きも立つ。
彼の望むものはわからない。けれどまだ時間もある。
いっそ目の前の娘を嫁にでもくれてやろうか。
王家の娘との婚約、そして結婚。カラスはアリエルの息子といえども所詮はおそらく義理のもので、以前の調査ではイラインの貧民街の出身だという。ならばその条件は破格のものだ。それと同時に爵位でも与えれば、娘を封じ込めることも出来る。
しかしそれはミルラの味方にアリエルがつくことが決定的になるということ。
カラスの意向にもよるが最終手段になるだろう。
まだ時間はある。それまでに、他の手段も検討しつつ……。
「陛下に、二つほど報告しそびれたことがございまして」
「……後ほど書面で確認する」
「いいえ、僭越ながら、今この場でお伝えしたく思います」
皆様にも、とミルラは周囲を見回す。
観衆はその視線にたじろぐ。弱り果てて見える王よりも自信に溢れ、そして鋭い視線に。
何を言うのか、と王は眉を上げた。
嫌な気配を感じた。一月前までは頼りなかった娘に。権力を求めるその努力が忌々しくも、どこか微笑ましかったはずの娘に。
「私の麾下、カラスは昨日イラインを発ったそうです。そのカラスからの最新の報告で」
私の、と殊更に強調し、嘲笑うように顔を歪めた娘。
「ムジカルはミーティア経由で和睦交渉を始めました。イラインでは、ダルウッド公爵主導の下、前向きに検討しているそうですわ」
「……なっ!?」
ざわ、と謁見の場が色めく。
王と同じく目を見開いたものが多数。その意味は、驚きや喜びと様々だったが。
一瞬で焦りの新しい汗を垂らした王の顔を見て、ミルラはほくそ笑む。
やはり、と思った。まだ甘く見ていたらしい。まだあの父は、この現状を。
「前回の停戦合意では、こちら側の申し出よりおおよそ十日ほどで話がまとまったとか」
嫋やかな手で口元を隠し、くつくつとミルラが笑う。
つまり今回も同じであれば、その程度でまとまるはずだ。また、今回の申し出は既に二日前。カラスの追放まで、残る時間はいかほどだろうか。
王の内心で焦りが支配的になる。
いつまで続く、と予想をしていたわけではないが、まだ早いとは思っていた。
五英将の二人は討ち、一人は撃退したと報告にはあった。ならば五英将はまだ一人残っている。ムジカルとしてはまだまだ戦意はあるだろうし、事実森を支配している今、やめる理由はないはずだ。
しかし、やめるというのならば……。
……まさか、二つの報告のうち、もう一つは。
「ラルゴ・グリッサンドの動向に変化が?」
王は問いかける。ミルラだけではなく、侍従にも向けて。
だが侍従は首を横に振る。戦況の全ては目を通しているし、重要なものは全て王に報告しているはずだ。そして、侍従は把握をしていない。〈成功者〉に関してなど、何かがあれば最優先で報告するはずのものだ。
ミルラはその様子にまた口元を綻ばせる。
「首実検も終え、そろそろ報告が届く頃だとカラスは申しておりました。カラス隊所属スヴェン・ベンディクス・ニールグラント、並びにレシッドの両名の手によって、〈成功者〉ラルゴ・グリッサンドは討たれたとのこと」
「…………!!」
王は目を剥く。
落ち着こうと無意識に顎の髭に手を伸ばせば、汗でじっとりと濡れていた。
先ほどの言葉を思い出す。
カラスは言った。『二人の部下の功績をミルラ王女へ譲渡する。その褒賞は確実に与えてほしい』と。
そして自分は言った。『それは当然だ』と。
「馬鹿な……!」
謁見の場のざわめきが止まない。
そのざわめきに紛れて呟かれたはずの言葉は、謁見の間の精妙な設計により皆の耳に響いた。
ミルラはその言葉が聞こえなかったフリをして、しかし嬉しさに胸元に手をやる。
王が嫌がっている。それだけがわかれば彼女には充分だ。
敵の有力者が死んだ。その報は、通常ならば喜ばしいはずなのに。
嬉しい。
王が苦しむほど、自分の力が増している気がする。
王が嫌がるほど、正しい方向へ進んでいる気がする。
同時に、ミルラは感じる。
これ以上は踏み込めない。これ以上を踏み込めば、今得た『何か』が失われる気がする。
これ以上の強欲は身を滅ぼす。そんな気がした。
「……ご報告は以上です」
ご苦労、と労う言葉を吐くべきところ。王は吐けなかった。ただただ力なく娘を見下ろす姿は謁見の開始時とは雲泥の差である。
鬣のような威厳のあった髭は萎れ、引き締められていた口元は呆けたように開く。
冠は傾き、無意識に息は乱れる。
反対に、ミルラは謁見の始まりと変わらない。
喜ばしいことがあった、または自慢したいことがあるように胸を張り、堂々と立つ。またその視線は、見上げているのに睥睨するように。
ミルラはこの場における自分の価値を知っている。
現時点でミルラは、エッセン王家においてカラスへと命令系統を繋げるただ一人の人物だ。実際には城外にそれ以上の者が複数いるとしても、またその命令系統が機能しない可能性があるとしても、王にとってはもっとも近しいカラスやアリエルに繋がる唯一の手駒。
これからの展開をいくつも予想し、そのどれもをミルラは嗤う。
(さて、これからお父様はどうする? 私を頼る? ルル・ザブロックを探り当てる? それとも他の誰かかしら)
もはや親への尊びも、王への敬意もない内心の舌なめずり。
その嘲りを感じながらも、王は叱れず、立ち去るミルラを恨事と共に見送った。




