覚えてません
一応サロメはルルに付き添う仕事がある。
そういうわけで、客間に通されたのは僕たちだけ。「急いで戻ってきますから」というルルの言葉と共に閉められた扉の内側で、オトフシと僕らの三人がぽつんと取り残された。
ここで待つのはルルの朝食が終わるまで。通常おそらく半刻はかかるだろうと思う。
さて、それまで何をしていようか……と僕とアリエル様が視線を合わせると、その視界の隅でドカリと長椅子にオトフシが勢いよく座る音がした。
僕はオトフシを見る。寛ぐように長椅子にもたれ掛かり、背もたれに肘を乗せている。足は組まれ、明らかに行儀はよくない。
そしてその顔は半目で、挑戦的な笑みを僕に向けていた。
「それで? カラス、面白い話が聞けそうだと思うのだが?」
「話せることなら限りなくありますけど、面白いかどうかはわかりません」
「ならばまず聞きたいな……誰を連れてきた?」
ぴ、とオトフシが整えられた爪の先で虚空を指す。だが指先は明らかにその対象を捉えており、その対象は「わ」と驚くような声を上げた。声は僕にしか聞こえていないはずだが。
「さすがですね」
「とても古い魔術だ。子供が隠れる吊し布、机の下、そんな気配」
「……?」
喩えだろうか、それともその魔術の何かしらの要素だろうか。わからないが。
「お前も一応、そして妾もまだこれでザブロック家の警護のお役があってな。不審な人物ならば相手をしなければいかん」
ぴり、と空気が震える。もっともオトフシも冗談半分のようだが、……冗談が半分ということは本気も半分ということだ。
「僕のことも信用してほしいんですが」
「信用はしている。だからここまで入れてやった。だから、そろそろ教えてはくれないか」
「そうやって身構えられると登場できなくなるからやめてくんない?」
「…………」
仕方ない、とため息を吐きつつアリエル様が僕の横で姿を現す。
その姿を見て、ん? とオトフシが動きを止める。不敵さが混じるいつもの笑みを薄く浮かべつつ。
僕はアリエル様を指し示して口を開く。
「ご紹介します。戦況は確認しているでしょう、戦場に現れたと噂のアリエル様です」
「よろしくね」
「…………」
「本当はあとでルル様たちが揃ったところで紹介したかったんですけど」
その方が手間も省けるし。しかし、誰を連れてきたか聞きたいというのなら仕方がない。そこまで彼女の存在がばれている以上、隠す意味もないことではあるし。
オトフシが背もたれに回した手の先で、絨毯の上に金属の何かが落ちる音がした。握っていたか指に引っかけていた寸鉄だろう。
「落としましたよ」
「…………」
「オトフシさん?」
僕が問いかけても、オトフシは無言で微動だにしない。
遠くの使用人の足音が僕の耳に届くほどの静寂。
それから十秒以上待って、ようやく動きを見せた。組んでいた足を静かに下げて、背もたれの後ろに回していた腕を前に戻し、手を膝の上に置く。
額から一筋汗が垂れたと思ったら、オトフシは苦笑いをしつつ乾いた笑い声を上げた。
ひとしきり笑い終えたオトフシは、咳払いをして得意げに腕を組む。
「……なる、なるほど? あのアリエル様を、連れてきた、と」
「あたしがこの子を連れてきたんだけどね」
「フフン、なるほど、カラスごときに連れられるようなお方ではないはずですな」
うんうん、とオトフシが頷く。
いつものような尊大な態度は今はどうでもいいが、その仕草に違和感があった。
仕草というよりも、その表情というか、……ああ。
「しかし、安心しました。ならば、うん、なるほど、カラスがこの家に引き入れた理由もわかるというもの。アリエル様が、その指で、いえアリエル様が仮に敵だとしても、うん?」
ぼそぼそと言葉を喋ってはいるが、要領を得ない。
それもそのはずだろう。
オトフシの耳の先は赤くなり、顔面からはもとより首下まで滴るような汗が流れている。
尊大というよりは、今は何も考えられていないだけだと思う。続けている言葉の中、乾いた笑いが所々に混じることからも、頭の中が真っ白になっているのではないだろうか。
「オトフシちゃん、だっけ?」
「はい」
「ちゃん、って」
見かねたアリエル様の側から声をかけると、オトフシが清々しく返事をする。だがその言葉に僕が軽口を挟むと、オトフシが笑みを浮かべたままじろりとこちらを睨んだ。
「何か悪いことがあるか?」
「……特には」
「だろう」
ちゃん付けで呼ばれるような年齢でもなさそうだし、また年齢関係なく友達同士でそう呼び合うようなこともあるだろうが、オトフシはそういう中に入れる雰囲気でもあるまい。
そうは思ったが、反論してはいけなさそうな雰囲気を感じ取り、僕は口を噤んだ。
「あんたも余計な口挟まないの」
「はい」
アリエル様からもお叱りの言葉を受ける。ついでとばかりに小さな衝撃に僕の頭が襲われたが、これもアリエル様のデコピンの仕草からだろう。
「それでオトフシちゃんはどういうあたしを知っているの?」
「どういうあたし……とは?」
「聖教会の奴らがね、うざったくてやんなっちゃうの。聖典に載ってるあたしって、よっぽどいい女なのね、って思ってね?」
「ああ、それは仕方がない」
ニコリとオトフシが笑みを浮かべる。
なんだろうか。いつもよりもだいぶ爽やかに見える。汗はまだ止まっていない様子だが。
「私が存じているアリエル様像は、英雄譚と、……それ以前に、子供向けの物語で止まっておりましてな」
「子供向けの?」
「ええ。子供の時に祖父の膝の上で読んでもらった物語。どういうアリエル様かと問われれば、おそらくきっとそれでしょう」
「いいわね。素敵よ」
うんうん、とアリエル様は頷いた。
「アリエル様は幼い日の私の憧れなのです」
そしてオトフシの、花が咲くような満面の笑み。ただ、額の汗はそのままの。
「セイランの地での岩蜥蜴との戦いや、オルドの谷底で太陽の花を一斉に花開かせる話など、大好きな話ばかりです。是非とも、この機会にお話などを聞かせていただきたい」
「懐かしい名前ばっかりねぇ……」
くすくすとアリエル様が機嫌よさげに身体を揺らす。
そのうちに机の上に降り立ち、指を鳴らして出現させた丸椅子に腰掛けた。開いた足の間に両手をついて、行儀悪く前屈みに。
「いいわ。お話ししましょう。あたしに覚えてることなら何でも話してあげる。何が聞きたいの?」
「では、……悩みますな。こんな僥倖に巡り会えるとは思ってもいませんでしたので」
ええと、とオトフシは一瞬見上げるようにして目を閉じて顎に手を当てた。
それから、うん、と声を出して座り直して身を正す。
「そうです。東の果て、ヒンの地での盗賊退治など」
「……どんな話だっけ?」
「その辺り一帯を支配していた悪名高きラメク盗賊団を壊滅させたときのこと。捕らえた盗賊の首領を奴隷として裸にし晒し者にしたという」
「ん?」
「首輪をつけて四つん這いにさせた男たちの頭を踏みつけ、『ありがとうございます』と叫ばせて」
「そんなことしてたんですか」
僕はアリエル様に目を戻す。随分と過激なことをやっていたものだ。勇者一行の話だろうし、そこに聖女もドゥミも、それこそ勇者もいたのだろうに。
だがアリエル様は首を横にぶんぶん振る。
……つまり?
アリエル様の様子に構わず、オトフシは僕の問いに深く頷いた。
「ああ。有名な話ではないか? アリエル様、あの調教は実際どのように……」
「知らない! あたしそれ知らない!!」
「え、では、その時に放った『豚が人の言葉を喋るのかしら?』という名台詞も」
「あたしそんなことしてないわ!?」
……アリエル様は耳を塞いで首を横に振り続けた。
その話、僕もあまり聞きたくないが、アリエル様には暇潰しになるだろう。
まあ、アリエル様にはオトフシと楽しくお話ししておいてもらえばいいや。そう思い、僕も適当な壁際のスツールに座る。サロメが一応とばかりに置いていってくれた焼き菓子をつまんでかじる。
多分昨日の残りだろう。保管に気をつけたのだろうが、わずかに湿気たクッキーの歯触り。その歯触りを楽しむよう、僕は騒ぐアリエル様の声を意識して無視して目を閉じた。
ルルがこの部屋をまた訪れたのは、やはり半刻ほど経ってから。
「失礼します」
食事後のお色直しも終え、その気配もないような顔で。扉を開くのはサロメではなく自分で。
後ろでサロメが慌てたような顔をしたが、僕が見ていたことに気付いたようですんと澄ました顔を作っていた。
ルルがてくてくと歩を進め、僕の前まで来て立ち止まる。それから微笑み一息吐いた。
「夢じゃなかったんですね」
「そうですね。今回は」
つい意味深長な一言を付け加えてしまったが、僕の同意にルルは一瞬首を傾げた。
「今回は?」
「私も意識しておりませんでしたが、戦争中に一度お会いしていたそうなんです。夢の中で」
「カラス殿。口説き文句に聞こえます」
「事実文ですので」
僕はサロメに言いつつ振り返る。
机の上で椅子に腰掛け、彼女からすると一抱えもある大きさのクッキーに小さな歯形をつけている女性に向けて。
「ただいま戻りました、というのは先ほど済ませたのでご紹介したい者がいるのですが」
よろしいですか? と続けようとしたが、その前にルルとサロメは僕の視線の先を追って動きを止めた。
木の机の上に、ぼろぼろと食べかすを落としている彼女の正体は、見当がついているらしい。
「サロメさん、先ほど言った『小さな記事にならないこと』ですが、ご満足いただけるでしょうか?」
「カラス殿? そ、その方はもしや……?」
サロメがぷるぷると震える指先でアリエル様を指し示す。
「私の母のアリエルです。というわけで、挨拶してもらえます?」
「言われなくても自分でするっての」
抱えていたクッキーをそっと机の上に置いて倒し、アリエル様は立ち上がる。
まるで道で行き会った誰かに向けるように手を上げて。
「Hello! ルルちゃん! それにそっちはサロメさんね!」
「…………」
「どう? あたしはちゃんとこの子を連れて帰ってあげたわよ」
固まったルルに向けて、アリエル様が重ねて言う。
パタパタと羽が揺れる。その度に鱗粉のような光が無数に身体から浮かぶよう僅かに飛んで消えていく。
質問の答えがどのようなものになるかはわからないが、僕はルルに視線を戻した。
僕の視線に、今更ながらに気がついたようにルルは身体を震わせて勢いよく頭を下げる。
「は、はじめましてアリエル様!! ええと、ご、ご高名はかねがね!!」
ルルのお辞儀に合わせるよう、サロメも頭を下げる。
そんな二人を見たアリエル様が、なんとなく息を飲んだ気がした。
「……そう。はじめまして」
本当になんとなく、アリエル様の声が沈んだ気がする。
羽の音が止んだ。
だがそれも一瞬のこと。すぐに続けたいつものくだり、「うちの息子がいつもお世話になってます」で巻き起こる騒然とした困惑の波に、その妙な雰囲気も掻き消えていった。
「ではカラス様は、この後王城に?」
「そうですね。一応ミルラ王女に報告という体で戻ってきていますので」
自己紹介も済んだ後、ようやくこれからの話題に入る。
「一国の王女を口実に使うとはな」
「さっき作ったというか気付いた理由ですけどね」
本当に一応だが、ここに来た理由も作らないとまずいだろう。
ミルラ王女の命令で戦場にいるはずの僕だ。それが戦場を離れて動いている。それだけでも出奔や反乱を疑えるような事態だし、更にそんな僕が関係があるとはいえ貴族の家を訪れるために王都に戻ってきた、などといえば更に外聞が悪い。
もっとも、それ以上の騒動の種がまだ残っていることを考えれば、そのようなこと些細なものに思えてくるのだが。
「王城の窓口はあと半刻もすれば開くでしょう。そろそろ出て王城で待機しないと」
一応ミルラの麾下ではあるし、王城内に入ることは出来るだろう。
しかし、貴人に会うというのはどんな役職でも手順を踏まなければならない。
以前ミルラに直接会ったときとは状況が違う。というかあれも本来大問題だ。
具体的にいえば、今日はこれから王城の中の受付ともいうべき部署に申し立て、謁見の許可を取らなければならない。許可は出るだろう、が、その時間も折り返し連絡されるためにそこで待つことになる。
青鳥を飛ばして連絡してもいいが、これだけ近いのならば歩いていった方が早く確実だ。青鳥は文書をいったんまとめて、朝と夕の一定の時間に仕分けられる。今から送ってもミルラ王女の下に届くのは夕になってしまうと思う。
「さっきサロメに聞きました。戦争が終わるって」
「そうなります。講和のための協議がおそらく今日辺りから始まるでしょう」
僕はルルの問いに応えて、知りうる限りの報告を行う。
サロメから聞いているらしいが、講和を行うべくミーティア経由で既に文が交わされていること。既に両軍共に大きな被害が出て、戦争は継続できないこと。
あと、これはいらなかったかもしれない。決して、快進撃などではなかったこと。
「勇者様はお亡くなりに?」
「はい。まだ未確認ですが、敵兵の一人からそんな証言がありました」
勇者のことに話が及ぶと、ルルの表情が暗くなる。
当然、とは思わないが、喜んでもいいことだろうに。
だが何故か、喜ばれないことに僕は安堵していた。
「……もう、カラス様は戦わなくていいんですよね」
「そのはずです。あとの防衛などもきっとお任せできますので」
講和の話が進めば、ムジカルの散発的な襲撃も落ち着くだろう。
そうなれば聖騎士どころか騎士団だけでもどうにかなるはずだし、僕が戦いに出ることはない。
安心してほしい。
そう告げるため、一通りの報告を終え、僕は努めて笑みを作った。
「でも僕はまたイラインには行かなければならないんですけど」
「何故ですか?」
ルルがぎくりと表情を固める。
「慰労として、友人たちと食事の約束をしていまして」
「慰労会……」
だが僕の続けた言葉に、ほっと表情を崩した。
「いいなぁ、私も……」
「残念ながら、まだ治安の問題がございます。レグリス様からのお許しは出ないでしょう。お嬢様……」
「わかってます」
サロメに、ご辛抱を、まで言わせずにルルが呟くように応える。
それからまた、唇を締めたまま頷いた。
「わかっています」
そして上げた顔は、落ち込むようでもなく嘆くようでもなく、なんというか決意が見える。
「ですから、私たちは私たちで別にやりましょう。あとでレグリス様に掛け合ってきます。ティリー様やラルミナ様、私たちも友人を招いて」
「それがよろしいですね」
「アリエル様も、是非いらっしゃっていただけますよね?」
「……ええ。お呼ばれ出来たら」
「その時にはカラス様、アリエル様とどのようにして知り合ったか、全部話していただきますからね」
鼻息荒く……そんなはしたないことはしていないが、それくらいはしそうな勢いでルルは言う。サロメもゆっくりと頷いていた。
僕も断る道理はない。しかし食事会以外は。アリエル様のことに関しては。
僕は腕を組んで目を逸らす。
「全部はちょっと難しいですね。私は覚えていないこともあるので」
それは一部真実だ。その上で日本のことにも関わる。ならば僕はそれ以上、言う気にはなれない。
僕が言うと、ルルは少しだけ眉を顰め、悲しそうな顔で「覚えてない、ですか」と呟いた。




