よくぞご無事で
ほんじつにわめ
「おはようございます」
とりあえず新情報はない。
まだ人通りも疎らだが、見回せば道を歩く人はそろそろ増え始めてきた。店番として……ではなく、ここは貴族街に近いし、使用人たちが客として朝の市場に向かうのだろう。
もちろんそれでもまだ時間は早い。先ほど朝の六の鐘は鳴ったが、まだ二刻はザブロック家を訪ねることは出来ない。
あとは適当に時間を潰そうと、僕は掲示板に背を向けて立ち去ろうとした。
しかしその後ろで新しい声が響いた。
「ああ、毎日毎日ご苦労様です」
「いいえ。仕事でございますから」
僕は振り返る。
「? どうしたの?」
「……聞き覚えのある声だったので」
ぽつりと尋ねたアリエル様に答えて、僕は視線の先を注視する。先ほどの係も立ち去ろうとしていたのだろう。そして立ち去り際、新たにその掲示板を確認しにきた女性と挨拶を交わした、というだけの光景だ。
立ち去っていく係の人間に目もくれず、掲示板を見つめる女性。
ふわりとまとめた一つの髪を首の横に垂らし、エプロンなどはないが、使用人用の簡素な紺のワンピースを纏う女性。彼女にも、しばらく会っていなかったが。
じと、と掲示板の記事を見つめている彼女は、ため息をついて瞬きを繰り返す。
「アリエル様……? これだけ……?」
「今日の記事はそれだけらしいです。そろそろ戦闘も落ち着きますし、アリエル様のことがなくてもこれから戦争についてはそんな程度だと思いますよ」
「……そうなんですか」
僕は横から彼女に声をかける。
そして返答をしてから、そこに人がいると気がついたらしい。僕の方を見て、また瞬きを繰り返す。
「あれ、なんとなくお会いしたことがあるような?」
「一応同僚じゃないですか」
お会いしたことがある、というのはさすがに薄情だと思う。人の顔などほとんど覚えない僕が言えたことではないが。
「……いやいや、お嬢様ではあるまいし……まさか名前探しにそんなに疲れてるんでしょうか、私」
言いつつサロメが俯いて両目の間を揉む。瞬きを数度繰り返し、へらりと僕に笑いかける。
「この私がカラス殿の幻を見るなんて……ねえ?」
「幻ではないですね」
「えっ!?」
まだ理解できないようで、サロメはまた瞬きを繰り返した。
「……カラス殿? 本当に?」
「本当にそうですね。おはようございます、サロメさん。ここにいるということは、まだルルお嬢様は起床前なんですね」
「…………おはようございます?」
立ち尽くし、口をぽかんと開けたサロメは、「何でここにいるの?」とほとんど声を出さずに口にした。
サロメは毎朝早くに掲示板を確認して、起床したルルにその内容を報告するのが日課になっていたらしい。
「カラス殿の話は一時期ほとんど毎日載ってございました」
「へえ」
「第八位聖騎士団の補助として活躍した。敵拠点を魔法で吹き飛ばした。部下との連携で竜を倒した、などなど」
つまりもうサロメの用事は済んだらしい。踵を返し、ザブロック家へと戻ろうと歩き出したサロメに僕はついて行く。
「最後の報は三日前でしょうか。それっきりパタリと名前が消えて、お嬢様共々心配しておりましたが」
得意げにサロメは語る。
ぱちくりと瞬きをし、腕を組むように自分の左肘を右手で押さえてサロメは僕を見る。
「どうしてここに戻ってきたのかはさておき、お嬢様も喜びます。よくぞご無事で」
「ありがとうございます」
僕は頭を下げる。ルルではないが、多分嘘ではないだろう喜びの言葉に。
彼女もまた、アリエル様が言う一人なのだろうか。僕に優しい人間の。
「それで、どうしてここに?」
「あとでルル様にも報告しますが、一応内密な話ということで」
「はい」
どうだろうか。まだこの王都に伝わっていないはずだが、そういうことは言っていいのだろうか。
わからないが、彼女らには構わないだろう。
「ムジカルから講和の打診があったそうです。エッセンも前向きに調整中です。つまり戦争が終わりそうなので、一足先に戻って参りました」
「…………」
「私の現在の上役はミルラ王女殿下ですので、本当は一番に報告すべきなんですけど」
というよりも、名目上はやはり彼女に報告に来たとしておいた方がいいと思う。一応僕はミルラ王女の麾下、カラス隊の隊長として今動いている。それが個人的な用事で王都に戻ってきたというのはミルラ王女のどうでもいい面子を潰すことになる。
やはり対外的には、僕はカラス隊の指揮官として戦争の一大事を彼女に直接伝えに来た、ということで。
「私ごときが聞いていい話だったのでしょうか……?」
「実際は問題ないと思いますよ。公的な発表はまだでしたが、イラインでは既に噂になっていることですし」
外交の一大事だし、一応機密に当たるのではないだろうか、とも思うが。現在の文書の存在としては、公然の秘密、というやつだろう。
「まずかったらその時はその時ですね。サロメさんが黙っていてくれれば問題はありませんし」
「口が堅い自信はあるのですが」
ん、とサロメは言い淀む。正直それには同意できないのだが。まあいいとは思う。
「まあそんなわけで、もう私が出る戦闘はないので、ご心配をおかけしているルル様に元気な顔でも見せようかと急ぎ走って戻って参りました」
「そんな自由な……」
「それくらいの権限はミルラ王女にいただいておりますので」
戦争中の自由な動きはミルラ王女にも保障されている。実際は聖騎士団に従って歩いて回ったが、そうしなくともいいはずだった。
その延長だ。問題あるまい。……いや、多分問題はあると思うのだが。
そして、それよりも大きな問題が一つ。
「と、そんなわけでルル様にお会いしたいのですが、まだお休み中ですよね。いつくらいなら訪ねてもよろしいでしょうか?」
僕は今サロメについて歩いているが、そのままザブロック邸に入ろうとしているわけではない。それくらいの道理は心得ているつもりだ。
サロメは笑う。
「お客様としてならば十の鐘が鳴った後に……と本来ならば申すところではございますが、カラス殿はもう身内みたいなものですから、今日もお嬢様は特に予定もございませんし朝食も済んだ八の鐘以降ならば特に問題はないと思います」
「わかりました」
ならばそれまで適当に時間を潰すとしよう。
「仕方ないわね」
アリエル様に視線を向けると、彼女も不承不承と頷いた。
「では私はそれまで……」
どうしていよう。ミルラに報告をしなければいけない、ということはあるが、彼女に会うとしても似たようなものだ。謁見の許可を得るために一度王城へ行かなければいけないが、それもルルと同じく訪ねるにはまだ早い。
言い淀む僕に、サロメが明るい顔を向ける。
「それならば、邸内で待っててもらって構いません。控えの間を用意しますので、お嬢様を驚かせて差し上げましょう」
ふふふ、とサロメが楽しげに笑う。
「驚きますかね」
「それはもう。毎日私がここに何のために来ていたと思っているんですか」
「…………それは、ご心配おかけして申し訳ないです」
「ありがとう、も必要よね」
横からこちらに視線を向けず、つんとアリエル様が口を挟む。
もっともサロメにはその声は聞こえていないので、挟まれたことに気付いてもいない。
「なんのなんの。……しかし、心配なんてないと私は散々申し上げましたが、お嬢様はどうにも納得されないご様子でした。カラス様について申し上げることは、全て華々しい戦果だったというのに」
「さっきの記事ですか」
「そうですよ。聖騎士団に帯同し大いにその働きを助けたとか。敵拠点撃破の数は、私の見る限り一番のように思えます。毎回毎回小さな記事で目を皿のように広げて見なければいけなかったのが私的には大いに不満でございました」
「……小さな記事、ね」
僕は小さく言葉を繰り返す。
小さな記事。多分、もしくはおそらく一文だけ、とかそういうものなのではないだろうか。
サロメの一言だけで判断できるわけでもない。しかしなんとなく、誰かの意図を感じる。僕か、もしくは僕の上に向けてか。
もちろん僕の働きなど、外から見れば小さな記事で収まるようなごく小さなものしかなかったのかもしれないが。
しかしまあ。
「では、小さな記事では収まらないことは直接ご説明出来そうですね」
大々的になるか、それとも記事にすらならないことなのか、は置いておいても。
「なにか心当たりが?」
ほう、とサロメが目を輝かせる。その期待に応えられるかはわからないが、驚きのことはあるだろうし見せられる。今すぐ目の前にも。
「後でご説明しますよ。どこか人目につかないところならば、今すぐお見せできますが」
「人目につかないところ?」
「ええ。衆目があるのは本人が望まないので」
「……?」
不思議そうに首を傾げて、サロメが僕と共にそのまま数歩足を進める。
しかしその後僕に首を寄せて、じと、とした目を向けた。
「もしかして、二人きりになろうとしてます?」
「……違いますね」
何を唐突に。僕はそう思ったが、アリエル様は噴き出して笑った。
そしてサロメが、はははは、と明るく笑いながら僕の肩をばんばんと叩く
「ですよねぇ! そういうのはお嬢様にしてあげてくださいね!!」
「なんかサロメさん酔っ払ってませんか」
こちらは実は、唐突にそう思ったわけではない。先ほどから口数がやけに多く、語尾の発音がだいぶ上ずっている。まるで酔っているようなその感覚に、僕は僅かに身を引いた。
「こんな朝っぱらからお酒なんていただきませんよ。ふふ」
言い切ってから、サロメが足を速めて僕の前を歩く。
その後ろ姿が、鼻歌でも歌いそうに僕には見えていた。
「あんたと会えてテンション上がってんでしょ」
「……?」
今度は僕がアリエル様の言葉に首を傾げる。アリエル様といえば、不機嫌そうに鼻を鳴らしていた。
「ほら早く歩きなさい。ルルちゃんが待ってるわよ」
それから、ルルちゃんが、とルルの名前を殊更に強調して僕を急かす。
「まだ寝ているそうですが」
「言葉の綾よ!」
僕がその言葉に小さな声で反論すると、アリエル様は僕の背中に鬼の拳よりも強い蹴りを入れた。
そしてもしかして、アリエル様は予期していたのだろうか。
僕とサロメがザブロック家の門の前に辿り着いたちょうどその時、ザブロック邸の中から気配がした。
馬車や家人、客人を迎える用の大きな門の横、使用人用の通用口を僕たちはくぐる。
中の気配は使用人のものだと僕は思っていた。サロメは気配すら感じていなかっただろうが。
門から玄関までを繋ぐように並ぶ植木の向こうで、玄関の扉が静かに開く。
両開きの扉の片方だけを開く白い手が見える。
その向こうには、深緑の厚手のワンピースを着た大人の女性。……オトフシか。今日も重装備らしい。
そしてその奥から歩み出てきたのは……。
「……あ……」
僕とルルの声が揃った気がする。僕はルルの声しか聞こえていないが、僕ももしかしたら口から声が漏れたかもしれない。
静かにルルが歩を進める。その後ろで静かに扉を閉めたオトフシは、大回りでルルの先を行くように早足で前に出た。
ルルは無表情、に見えるが、きっとそうではないのだろう。
瞬きとは関係なく震えるように動く瞼に、なんとなく窺えるのは困惑。
唇の端が動いているのは、自惚れでなければきっと……。
「カラス様、ですよね」
小さくルルが言う。尋ねているわけではないだろう。
「です」
だが僕も小さく答えながら頷く。
屋根の上から、「ほらね」とも声が聞こえた。ルルが餌をやっている鳥だろう。
それに気をとられている間にも、ルルは僕に向けて足を止めずにいた。
「サロメ殿」
「なんでしょうか?」
背後で、オトフシがサロメに話しかける。並ぶように肩を寄せたのだと思う。
「あれは何だろうかー?」
「? あれとはどのことでございますか?」
多分どこかを指さしている。少しばかり抑揚のない声で続けたオトフシと、それに伴い首を動かしたサロメ。
何の話だろうか、と思った瞬間、僕の身体に衝撃が走った。
衝撃というよりも、ただ単に押されただけのような。
押されただけではなく、抱えられたような。
抱えられたわけではなく、抱きつかれたような。
気付けば、僕の背中に小さな手が回っていた。
「……無事でよかった……」
僕の肩口に顔をほぼ密着させて、ルルが呟く。
僕の脳内にはいくらか混乱の波が広がっていく。
何故、という困惑。柔らかい、という感想。ああだからオトフシは、という納得。
僕はその全てをどうにかして抑えようとし、抑えられずにルルの背中で両手を踊らせた。
だが後ろで響いた「ふふ」という笑い声に我に返ることが出来た。きっとこれが見たかったのだろう、あの母親は。
「はしたなくございます」
自分でも何を言っているのかわからないままに、ルルの背中に回した手でその肩を叩く。
それでルルも何かに気がついたかのように、涙目の目を見開いて、身を固くして一歩引く。
「わあっ! ごめんなさいっ!!」
「……いえ」
その離れていく感触に、なんとなく寂しいような、安堵のような複雑な気持ちを覚えたが、それをどうにかして押さえ込みつつ僕は仕切り直すために小さく咳払いをする。
心臓が早鐘を打っているが、ばれていないだろうか。
服の前の裾を握りしめて俯いたルルも、少しだけ顔を赤くしている様子だった。
「ただいま戻りました」
「…………お帰りなさい」
僕は頷くが、ルルはちらりとこちらを見てまた俯いた。
「……戦争、終わったんですか?」
「いいえ、まだです。もうほとんど終わりといったところですが」
その説明をするために、どこかでゆっくりと話をさせてほしい。……今の僕が、落ち着いて話せるとも思えないけれども。その前に少しだけ時間がほしいところだ。
「朝食が済むまで、中で待たせていただきます。ご報告はその後で」
開かれた扉から僕の鼻に、中で用意されている朝食の匂いが届く。
バターとクリーム。それにいくつかの花の香り。サラダにでも入っているのだろうか。
「では……行きましょう、サロメ」
僕の顔を見ずに、ルルは僅かに呂律が回らないような口調で指示を出しつつ中に入っていく。
「見えたか? サロメ殿」
「……いいえ、私には何も」
それを見送った僕の耳に、オトフシとサロメの声が遠くから聞こえている気がした。




