気を付けてね
クロードの天幕を出た僕たちを迎えたのは、先ほど会ったばかりのモスクだった。
天幕のすぐ目の前、資材の置かれた山に腰掛け、手持ち無沙汰だが気取るように組んだ足の先をいじっていて。
僕らを見ると、手招きして山から飛び降りるように立ち上がった。
「用は終わったか?」
呼ばれた僕は、モスクに歩み寄る。
「報告は済んだよ」
「うし、じゃあ俺も休憩もらったし行くぞ」
モスクは顎でどこかを指す。けれども、そこまでやってから、今気がついたかのように僕の隣で浮いている小さな人影を見た。
「……じゃねえや、あの、アリエル様、息子さんお借りしてもいいっすか」
「ちょっと困るわね。もう私たちこの街を出なくちゃいけないの」
出なくてはいけない、ではなく、出たい、というのが正確だが、僕もそれは同意する。
僕が以前ルルを護衛して王都へ運んだとき、その帰り。全速力で急いで、王都からイラインまで三刻弱の計算だったと思う。ならばあの時と同じ速度として、休憩を挟みつつ夜を越して明日の明るいうちに着くには今から出るとちょうどいい。
夜は休憩するとしても、まあ早いほうがいいだろう。
しかし。
「行くって、どこへ?」
モスクが突然誘うということは、理由がないわけではないはずだ。そもそもに、どこへ行こうというのだろうか。
行き先によっては、僕もアリエル様を説得しよう。
そう考えて問いかけたところ、モスクは困ったように髪を掻く。
「俺はさ、また怒られたくないんだよ」
モスクに対し、怒るような人物。その言葉に、モスクのいた工務店の親方を僕は思い浮かべたが、なんとなくそうではない気がする。
しかし、誰が?
そう重ねて視線で問いかけると、モスクは覚悟したように息を吐く。
「お前は多分、怒られるだろうけど」
言いつつモスクが僕に向けた視線。
胸の辺り。五色の外套の引き裂かれた穴。
その仕草に僕はようやくその人物に思い至り、苦笑しながら頷いた。
「えぇっ!? 何でこんなんなってんのさ!?」
その人物のいる工房を訪ね、彼に顔を見せた直後。
挨拶の言葉も言わせず、言わず、詰め寄るように彼は僕の外套に手をかけた。
「しかも胸の中央から横って……大怪我でしょこれ!?」
そしてまるで襟に手をかけて首を絞めるように、外套の布地を握りしめて、リコは中腰に僕の顔を見上げた。
「ええまあ……じゃない、うん」
「大丈夫なの!?」
「今はもう全然」
傷跡すらないというのは僕も当初驚いていたが。
僕が言うと、リコは一瞬だけ疑うように僕を窺い見てから手を離す。「そっか」と胸を撫で下ろしながら。
自分の作業机の前に立ったリコは、いくつかの待ち針を数えるように針山に指を滑らせた。
「とりあえず脱いでよ。今ちょっと素材がないし竜鱗はややこしい素材だから修理は何日か掛かると思うけど」
「これそんなに難しい服なんすか?」
モスクが尋ねる。モスクはこれがリコが作ったものだということは知っているし、頑丈なものだということも知っているのだろう。
だがその詳細は知らないのだろうか。
「そりゃ難しいよ。鱗鎧なら、適当に鱗状にした鉄板に穴を開けて縫い付けてくだけでもそれなりのものになるけど、この鱗の細かさになるとちょっと」
そしてその詳細を尋ねると、少々厄介なのも知らないのだろうか。
……多分、知ってはいるが好奇心が勝ったのだろう。モスクの眼鏡に覆われた興味深げな表情に、そんな気がする。
「はー」
「一つが砂粒みたいな細かな鱗だよ? 一個一個糸で縫い付けることも出来ないし、貼り付けるわけにもいかない。そんなことしたら耐久性も落ちてすぐにぼろぼろ鱗が剥げちゃう……早く、カラス君」
「それが」
「ああ、こいつこれからすぐにこの街出るらしいんですよ。王都に行くって」
僕が言いかけると、モスクが継いで答える。「なあ?」と問いかけられ、僕は頷いた。
「もう戦闘に出る気はないし、大事な用事が出来たから。雇い主に報告も必要だろうし」
「あー、じゃあ何日もは無理か」
リコは人差し指から小指までの指で机をリズミカルに二度打ち鳴らし、悩むように唇を軽く噛んだ。
それから、リコも一つ頷く。
「じゃあ繕うだけやっちゃうよ。普通の糸しかないから形しか直らないし、ちょっと色目も違うけどそれならすぐ出来るから」
だから脱いで、とリコはまた手で催促する。
僕は、それなら、と首下の留め具を外しかけて手を止める。
「だったら仕事として依頼した方がいいですか?」
「今は休憩時間だからいいって。ほら、早く脱いで。急いでるんでしょ?」
「まあ、急いでいるとまでは言いませんが」
言葉を重ねられ、僕の指が自然と動く。何故だろうか。リコの言葉に、強制的な何かの力があるような気すらした。
「俺の前で破けた服なんか着てもらいたくないからね」
鼻息荒く、奪い取るようにリコが僕の手から外套を持っていく。
作業机に広げるように置くと、引き出しからいくつかの糸の束を取り出した。紫のような黒のような細い糸の束。おそらくどれも色が違うのだろうが、ぱっと見は正直違いがわからない。
その糸を順に外套に当てて、一つを決めて他のものを引き出しに戻す。
針の山から一つ引き抜いた縫い針は緩く曲がっていた。
ちくちくと針が外套に刺さる。その度に引きずられた糸がか細い音を鳴らして縛るように傷跡を閉じていった。
そんな様を背中越しに見ている僕に、アリエル様が囁きかける。
「あんたの幼馴染みだって知ってはいたけど……すごい子ね」
「僕の知っている中では衣服に関して一番の職人です」
自慢するように僕は言う。モスクやリコへの褒め言葉ならば、僕はほとんど無制限に同意しよう。向こうはどう思っているかはわからないが、誇れる友人、だと少なくとも僕の方は思っている。
なにせ、僕ではなくとも王都の方にすらリコの作品の愛好者がいるのだ。リコの腕前に関しては、僕の色眼鏡ではあるまい。
「確かにあの手捌きはすごいと思うわ。多分頼子よりも上手。じゃなくて、それもあるんだけど……」
だがそういうことではないらしい。
まだ興味深げにリコの手先を見ているモスクにも聞こえないような音量で、アリエル様は続けた。
「あたしが見えてないのよ」
「…………?」
アリエル様の言葉に、そういえば、と僕は気がついた。
リコからアリエル様には未だに話しかけてはいない。モスクすら、僕と軽く会話をした後にはアリエル様に拙い挨拶をしたというのに。
しかし、アリエル様が他の人間に見えていないはずがない。リコ以外の職人……それも以前よりだいぶ数が減っているが……彼らは遠巻きに光り輝くアリエル様に注目している。
だがたしかに、リコだけは?
「見えないんですか?」
「ううん。多分視界には入ってるわ。あたしは隠れてるわけでもないし、肉のある体だもの、誰にでも見えるはずよ」
モスクが外套の強度についてリコに問いかけた。
自身の手先を見つめ、縫い続けながらもそれに答えるようリコは口を開く。
アリエル様は僕の頬に拳を押しつける。でもね、と口にしながら。
「あんたの姿を見た瞬間から、心の中があんたとあの服のことでいっぱいになったのよ。なるほどね」
「なにを納得されているのかわからないんですが」
「あんたに掛けられた守りのおまじないのこと。ルルちゃんのに負けないくらい強いやつ」
「…………?」
守りのおまじない。身に覚えのない言葉に僕は首を傾げる。
だがアリエル様は気にしないようで続けた。
「それにここには妖精がいる」
「妖精、ですか」
妖精。目の前には一人いるが、貧民街にはいないらしいもの。
「まだ動くまではいかないみたいだけど」
ほら、と僕の頬に押しつけられていた拳を解き、アリエル様はリコの作業机の端を指さす。
そこにいたのは……老人のぬいぐるみ?
「あれは?」
「今はあたしがあんただけに見せてあげてるの。……まだこんな子もいるのね」
うっとりとした目で微笑むアリエル様から視線を外し、僕は改めてそのぬいぐるみのような『妖精』を見る。
縮尺はアリエル様と変わらないだろう。一尺にも満たないくらい。しかしその姿は頭も手足も大きくデフォルメされており、おそらく男性の老人、だと思う。
衣服は緑系の色で統一されている。三角の帽子を被り、目は釦のような丸い隆起した部品。丸い鼻の下は白い髭で覆われ、口元は見えない。
そして質感は、やはり全体的にはぬいぐるみだろう。細い綿のような髭以外、フェルト生地のような質感で服も肌も出来ていた。
「モスクって子も、まだまだだけど惜しいわね。まだ形がないんだもの」
アリエル様が指を振る。光の粉が飛ぶ。
ふわふわと舞った光の粒が風に乗ったように巻くと、薄らと透けるような石の質感を持った立方体が転がるように地面に散った。
「これは……珍しいんですか?」
「これだけ大きな子にはね。本当は、誰の近くにも妖精はいるのよ。子供の頃はみんな遊んだことがあるはずなのに、みんな忘れられて消えてっちゃう。この二人も忘れちゃったみたいだけど、……どうしてかしらね」
けらけらと楽しそうに笑いながらアリエル様は目を細めた。
結局リコがアリエル様の存在に気がついたのは、修繕が終わり、糸を切った後。
振り返り、顔を上げて僕に外套を手渡そうとして目が合ったようで、絶叫するように驚いていた。
「じゃあね、またどこかの機会にご飯一緒に食べようよ」
「大丈夫でしょ。こいつ『雪の小さな鍋』に予約入れてましたから」
リコへの挨拶というか、頼み事が終わって僕らは店の外に立つ。
アリエル様の存在に気がついてからはアリエル様の衣服にリコの関心が移ったようで、素材や縫製などの確認に採寸までされていた。そんなアリエル様はぐったりと疲れている様子で少し離れて僕たちを見ている。
しかし、嫌がっているようには見えなかったし、リコを避けてもいないだろう。そんな気がする。
それよりも、食事の話だ。
「そういえばそうだった。豚一頭使った料理。戦争が終わった後に」
ササメの家の店に予約を入れてある。入れられてある、というほうが正しい気もするが。
「俺も参加するからね?」
「当然、どうぞ」
「やりぃ!」
小さく腕を振って、リコが喜ぶ。食事に関して貪欲なのは、僕らに共通することだろう。
モスクが両手を頭の後ろで組んで首を傾げる。
「これから講和すんだろ? ……こういうのって、何会っていうんだろうな? 祝勝会でもないし」
「慰労会でいいんじゃない? 俺たち全員の」
「ああ、じゃあそれで」
「みんな頑張りましたからね」
僕もその案に賛成する。
僕は戦った。リコやモスクは戦争準備に力を注いだ。戦った場所は違っても、全員戦ったはずだ。
「あと一踏ん張り、頑張んなきゃな」
ん、とモスクが伸びをする。これから頑張るのは彼一人だが、無理をしない程度に頑張ってほしい。
「これからまた仕事ですよね」
「おう。まだ俺の監督でも見張り台に矢壁が一つ、二つ……ええと、まだいくつも残ってる。明日までにやらないと……」
「頑張ってね」
指折り数えるモスクを、クスクスとリコが笑った。
「では、まだこの街でも戦闘はあるかもしれないので、気をつけて」
「おう」
「お互いにね。カラス君も」
アリエル様が、気のない声で「そろそろ行くわよー」と僕に向けて声を掛ける。
僕は二人に会釈する。二人も応えて頷いた。
モスクと僕は、リコを残して逆方向に別れて歩く。単なる雑談を終えたように。今はまだ戦争中とも思えない呑気さにも見えるけれど、彼らはきっと大丈夫だろうと思う。
何せ、貧民街や通陽口の中で暮らしてきた二人だ。危険を察知する力は、むしろ僕よりも高いだろう。
パタパタと羽を鳴らして横に着いてきたアリエル様は、僕を見てにやにやと笑っていた。
「何か?」
「感心してたのよ」
「……?」
僕が無言でいると、アリエル様は見上げるように中空を見つめて指折り何かを数え始める。
「こんな街でも何人いたのかしらね、あんたに優しい人」
「……さて、数えたこともありませんが」
「じゃあ今度数えてみなさい。その数が、あんたの今までやってきたことよ」
数えるのをやめて、楽しそうにアリエル様は前に出てくるりと回る。
「もちろんあたしはそれでもついていってあげるわ。あたしの分が残ってるとも思えないけど」
アリエル様は号令をかけるように「行くわよ。目指す到着は明日の昼まで! OK!?」と叫び、僕はそれに「はい」と答えた。




