閑話:親心
一人の女性が王城の廊下を歩く。
深緑の治療衣の上、高等治療師以上が着ることを許された黄色い外套は毛羽立っており、その年季を窺わせる。
外見の年齢は六十以上、白髪の一部が黒く残って染まっているようにも見える年配の治療師。
『内密の話がある』
そうとだけ告げられ、王城の一室に呼び出されたジュラ王城治療師長の足取りは重い。
歩く廊下は絢爛豪華。一切の凹凸なく漆喰が固められた壁に、緋色の絨毯が敷かれる。
その向かう先はよく重鎮たちが『密談』に使う部屋で、人が立ち聞きできるような隙間はおろか、中で叫び声を上げようとも外にはほとんど聞こえない防音性を持つ。
王城の中でも深部に属し、王族の者か彼らに招かれなければ入れないような区画。
重い足取りの理由は嫌な予感。
ジュラを呼び出したのは王族、さらにその長である。彼に招かれ、さらに内密の事情と思えば勘ぐるに足るもの。
それが何なのかはジュラにはわからない。
きっと悪いことが起きたのだろう、王族に関して、もしくは聖教会に関して。
悪いことが起きそうなのか、それとも悪いことが起きるのか。
まだ大々的に発表はできないが、きっとこれから発表をせざるを得ないもの。
エッセン王、ディオン・パラデュール・エッセンがジュラを内密に呼ぶときは、大抵そんなときだった。
「失礼いたします」
目的の部屋の扉は、樫の分厚い一枚の板。近衛すら控えない扉を叩き、中の人間を待つ。
しばし待てば、静かにその扉が開かれた。……王の侍従の老紳士の手によって。
一歩入って中を見れば、中にいるのは王、それに王の最も信頼する侍従のみ。
それ見てジュラは、嘆くような言葉を心中で発した。
王とジュラ。二人は向かい合って長椅子に座る。王の後ろに控えるのは侍従のみ。
この部屋に来るときには誰ともすれ違わなかった。きっと自分と会っていたことすらも誰かに知られたくない類いのことなのだろう、とジュラは察し、静かに王の言葉を待つ。
そして王の目配せで、侍従が一枚の書簡を机の上に広げて置いた。
「大変なことになってしまった」
「……これは」
手にとってもいいのかと、ジュラが王に目で問いかける。頷いた王に会釈をして、その書簡を手にとった。
そこに書かれていた文章は、自身の部下ネウィン・パタラの筆跡によるもの。彼の字を知っているジュラには疑うこともなく。
「雲海路で今日届けられた。危惧していたことが起きてしまったようじゃ。ミルラの麾下として参加していた探索者が、重大な戒律違反を起こしたという疑いが」
「ああ……ああ……」
ジュラはその文章を読み、悍ましさに手が震えた。これが真実ならば、これが真実なのであるならば……。
曰く、第七位聖騎士団長テレーズ・タレーランが、拠点での治療後、何かしらの事情で死亡した。だがその後、既に死した彼女を、探索者カラスが蘇らせてしまったのだという。
死者蘇生という禁忌。死した魂を、命を取り戻すという悍ましい所行。
「何ということを……」
神はお怒りになるのだろう。御許に招き入れた魂を、愚かな人間がその尊いお手から奪い去ったのだ。嘆かれるだろう。神が定めた安息の運命を、愚かな人間がねじ曲げたのだ。
「命というものはいずれ失われるもの。だからこそ尊いものであるのに……」
「儂としても残念である。ミルラ王女が戦場に投入した探索者。そのめざましい活躍は、これこそ次代のエッセン王国に必要な人材だったととも思えるものだったのに」
王は首を横に振る。
「噂は本当のことだったのじゃろう。リドニックでの異端を疑う噂、ムジカルで非公式に治療師として活動していたという噂。しかし……追放したとされる記録はなかったんですな?」
「え、ええ。陛下から彼のことに関して調べよとの宣下があってから、イラインを中心に治療院での修行を行った形跡を調べましたが、そもそもに、彼は……」
ジュラとしても、いくつかの治療院に照会し確認はとった。
探索者カラスは治療師としての修行など積んだことはない。治療の業を使ったという噂はあったが、そもそもにその能力を身につけることも出来なかったはずだ。
とんでもないことだ。
治療の業は、聖教会の治療師が神に赦された奇跡の一端。人体を学び、怪我や病を学び、適切に扱わねば危険ですらある尊い業。
それを、聖教会での修行も印可もなく、位階を得てすらいない一般人が扱う。
治療師の一人として、特等治療師という治療師の最高峰に立つ一人として、道義的にも戒律的にもそのようなことが許していいわけがない。
「……聖教会の秘儀が、漏れているらしいですな」
「まさか……」
聖教会の法術は、聖教会の治療師のみが扱えるもの。
秘密の基準が個人に委ねられ、緩やかな秘密でしかない魔術師たちの魔術とは違い、治療師の中ではその禁忌は堅く守られているはずだ。
「しかし現実として、カラスは治療の秘儀を行った」
「ええ、……まさか」
「漏れているのかもしれませぬ。過去に異端とされている者から、……」
そして、王がその言葉を口にしたとき、ジュラは思い至る。
聖教会に仕え、神の奇跡を学ぶ治療師たち。その治療師が仮に異端とされた場合、追放され、その治療の業を禁じられる。さらにその業を他人に伝えようとしたり、重大な戒律違反の際には、その口を永久に封じることすらも視野に入れられる。
だが、過去に異端とされている者。その誰かの名前を、最近この王城で聞かなかったか。
悍ましい実験を行い、その口を封じるということすらも勘定にあった異端の治療師。
そしてさらに、この王城でその名を語った彼女は……。
ジュラは吐き気を催し口元を押さえる。
「エウリューケ・ライノラット……!」
「ミルラは、とんだ禍ものに魅入られてしまったようですな」
気が遠くなるのをジュラは感じた。
どちらがどちらを引き合わせたのかはわからない。
けれども現実に、ミルラ王女はエウリューケを城に招こうとして、今カラスを麾下に置いている。
きっと、エウリューケ・ライノラットは禁忌の実験の成果を探索者カラスに伝えたのだ。それをカラスは形にしてしまったのだ。
繋がった、とジュラは確信した。
根拠もなく、そうであるのだと。
「探索者カラスの異端審問はどのようになる?」
「…………」
王がジュラに問いかけるが、ジュラは茫然自失とその質問を耳から耳へと素通しした。
呆けたように机の上に視線を漂わせ、その木目を数えるように指を動かす。すべて無意識のままに。
一応は次の瞬間に、その意識を取り戻したように王へと視線を戻したが。
「ジュラ王城治療師長」
「は、はい、審問に関しては……」
どうだっただろうか。
エウリューケの名前を聞かされて、ジュラの頭の中から予定がすべて抜け落ちていく。
決めてあったはずだ。仮にネウィン・パタラが何かしらの証拠を発見した場合、彼に対してどのような手順でどのような処置を施すか、と。
「どこであっても、どこだろうと、探索者カラスが姿を見せたところで、拘束をするようイラインの治療院へと今から即刻連絡いたします……!」
「その場で処刑をさせぬ、と?」
「いえ、いいえ、聖約の書にそういった取り決めが、いい如何なる者であれ、神の前で正当なる証明の機会は与えられるべきと……」
申し開きの場が設けられる。
そうジュラに告げられ、わずかに思い通りにいかなかった王はこめかみを揉む。
出来れば、すぐさま処刑してほしい。余計なことを口にされては困るのに。
だが、それ以上にここで押し切るわけにはいかない。もう一つの重要な交渉があるのだ。
王家を守るため、この国を守るための。
「承知した。どうか、公明正大なる裁きをお願いする」
「ええ、ええ、それはもちろん。我が聖教会の汚点でありますもの」
王は頷く。鷹揚に、あたかも清廉潔白な一人の信徒のように。
そして一度腹をさすってから、もう一つの話題に着手した。
「ただ、一つ相談がある」
「…………?」
「ジュラ王城治療師長にしか話せぬこと」
「何でしょうか?」
王の唇が硬く結ばれる。それから絞り出すように、その名を口にした。
「ミルラのことじゃ」
ジュラは口を押さえて「あっ」と声なく呻く。
自分がここに来た理由。その半分。エウリューケの名前で頭の中から飛んでいってしまったもの。
「異端者を麾下とし、戦線へと投入した。それにはどの程度の波及がある?」
「……それは、お労しいことですが……」
王の言葉に、ジュラは難色を示す。
もちろん、今回の戦争でのことは、ミルラ王女が関わっていないことは誰の目から見ても明らかだろう。
けれど、彼女は彼が異端の噂を背負っていることを知りながら部下へと招き入れた。禁忌とされながらも有効ではあるその異端の業を使うことを期待して、戦線に投入した。そうとられても仕方がない。
まさか彼女が『やれ』と命令したわけではないだろうが、その可能性すら残っている。
事実の問題ではない。異端者と関わっていたと疑われること自体が既に王家としては瑕疵となる。
事実無根、それでも人は騒ぎ立てる。醜聞とはそういうものだ。
そのジュラの難色を見た王は、もう一つの切り札を出すべく手を組んで、額を乗せて顔を伏せる。
それは偶然手に入れたもの。偶然ながらも。
「……ジュラ王城治療師長殿だから話す」
「はい?」
「ミルラから探索者カラス隊への指示に、目的語もなく『存分にやれ』という文言があった。それが何かしらの符丁ではないかと……私は気が気でない」
娘から部下への命令書。
親書であっても、それは王にとって覗き見ることは難しくない。
次のカラス隊の動きに関して把握したいととった行動だったが、思わぬ儲けものだった。
「……なんと……」
そしてそれを聞いたジュラは、疑うことはない。
自身と娘に不利益な証拠。それを王が自ら差し出すことに、嘘をつく利点を感じられなかった。
それを差し出すほどに追い詰められているのだと無意識に思った。
ジュラも、王城に勤めている以上腹芸が出来ないわけでもない。しかし、それでも。
「王としては、ミルラ王女も審問の場に立たせ、仮に罪があれば裁くべきなのじゃろう。けれども、父としてはそのようにしたくはない。どうか、お知恵をお貸し願えませぬか」
「…………しかし」
「そう、仮に探索者カラスとの関係を即刻絶たせれば……。此度の戦に出たのは、ミルラ王女麾下カラスではなく、志願兵カラス。そうであれば、異端者との関係はなかったと、そう、出来ぬじゃろうか」
「…………」
ジュラの胸の内が一瞬揺らぐ。
聖教会を支える治療師としてはそれは出来ない。事実関係を明らかにし、ミルラ王女が異端の一端を担っているならば王家に向けて聖教会として抗議を入れるべきだ。
神に仕える一人の聖職者として、嘘はつけない。ミルラ王女とカラスの間に何かしらの繋がりがあったことは事実。それを秘密裏に処理することなど考えられない。
だがしかし、一人の息子を持つ母としては。
大公家に引き取られ、息子とも呼べず知らせずにいるとしても、母としては。
一瞬目を瞑り、ジュラは考える。
「……すべてを一度に済ませてしまうのは」
「…………それは?」
娘を大事に思う気持ち。その気持ちは、幻想であっても汲み取れる。その気持ちがジュラの側にしかなくとも。
「まず、探索者カラスを無名の兵士として扱うのは難しいでしょう。彼の噂は私の耳にも届いております。敵軍の多くを討ち滅ぼした英雄として、彼の名前は既にミルラ王女の名とともに知れ渡っているのだと」
「たしかに、そうですな」
王は頷く。それもたしかに厄介なことだ。
カラスの活躍とともに、ミルラ王女への賞賛の声はこの王城でも膨れあがっている。相次ぐ敵軍の撃破に加え、更に今日別に届いた知らせによると未確認ながらも五英将の一人まで討伐したのだと。
それを無にすることは出来ない。仮にミルラ王女麾下だということが間違いだったと周知しても、そちらこそ誰も信じないだろう。
「ならば、今はまだ公式には伏せておきましょう。カラスが異端ということも、捕らえねばならないということも」
「ふむ」
「ミルラ王女殿下は知らなかった。カラスが悍ましき深淵からの先兵だったことなど。ただし、私がその罪を告発いたします。陛下とミルラ王女殿下、それにカラスが揃ったその場で」
「しかしそうなれば……」
「ミルラ王女殿下には陛下からお話をお通しくださいませ。その場で殿下には、カラスの弾劾に加わっていただきます。その場でカラスとの関係を否定していただき、私がそれを認め、カラスを裁いてその口を塞ぐ。……それがもっとも穏便に済む方法ではないかと」
最も避けたいのは、ミルラ王女も連座で異端の烙印を押されてしまうこと。そうなってしまえば、その烙印を盾に民衆は醜聞をねつ造するだろう。
しかし衆目の場でそうではないと説明できれば、立場ある人間がその場にいれば、醜聞はその場にいた全員に対する毀損に発展する。
うむ、と納得したように、もしくは何かに悩むように重々しく王は頷く。
そして、だが、と首を横に振った。
「しかしカラスは現在多くの敵兵を屠った功労者じゃ。王国としては、その威に報いねばならん」
王としてはこれが本題。
ただし、問題になっているのはカラスの功績ではない。そのカラスを戦線に投入したミルラの功績だ。
そして、その答えは持っている。ジュラにその意はないが、ここまで誘導した王の意に沿って。
「放棄させましょう。もしくは王国そのものに譲渡することを条件に免罪することを私が申し渡せば」
「なるほど、じゃが、そうなればカラスの口を塞ぐことも」
「何も得られず城を去った一人の探索者が、人知れず消えても誰も問題にはいたしますまい」
むしろ、功績放棄に関してはジュラとしてはそちらが狙いだ。
仮に無罪放免になったとしても、ジュラはカラスを赦す気にはなれない。
奇才エウリューケの下で異端に染まり、神に背く恐ろしい行為を行った罪。決して許せるものではない。
ただ一つ、ジュラが気になるのは。
「……ただ、この案ではミルラ王女殿下がお可哀想なことになるでしょう。ミルラ王女は何一つ得られないまま、ただ部下を一人亡くされることになる」
ミルラ王女の麾下が、もしもカラスではなかったら。もしも異端者ではなかったら、ミルラ王女は多大な功績を献上されてどれだけの報奨を得ることが出来ただろうか。
戦況は押されていると聞くが、その中でもカラスは今や戦争の第一功労者だ。その名を王城で聞かぬ日はなく、王の頼みでパタラを配置したジュラですら、称えるべき人間だと薄々思ってしまっていた。
だが、カラスだから。
ジュラの渋い顔に合わせて、王も同じく渋い顔を作る。
まるで苦渋の決断をするように。
「なに」
王は深く息を吐く。まるで、大事な娘の晴れ舞台を汚してしまうことを悔いているように。
「あれでも王族。わかっておるじゃろう。何よりも、これは自分で蒔いた種。納得をするはず、しなければならぬ。ご迷惑をおかけするのは儂らのほうじゃ。ジュラ殿には、深く感謝を」
「いえ、こちらこそ、あのカラスとエウリューケ・ライノラットの繋がりをもう少し早く察知できていればと悔やむばかりでございます」
ジュラが一度頭を下げて、また王を見る。
王の長い顎髭の上、唇が悔しそうに震える。また、双眸は目尻も下がり、泣きそうに細められていた。
「それでは、お頼み申します」
「ええ、必ずや」
王が握手の右手を差し出す。ジュラがその手を取ると、王はその手をまた上から左手で包み込んだ。
「どうかお頼み申し上げます、お頼み申し上げます」
真に迫る懇願。まるで政を行う王には見えない弱々しい姿。
娘に災禍が及ばぬよう、頭を下げて。
玉座に腰掛ける姿とはまるで違う一人の父としての姿。
その迫真の演技は、後ろで見つめる侍従の目は欺けなくとも、他の人間の目には。
事実ジュラはその姿に、疑うことなど思いもよらなかった。
「決行の日はお任せします。まずは戦争が無事終わることを祈って……カラスがこの王都に現れたその時に」
言い聞かせるようにジュラは言い、王は深く何度も頷く。
二人は知らない。
その時は、彼らの予想よりもだいぶ早いのだ。




