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捨て子になりましたが、魔法のおかげで大丈夫そうです  作者: 明日
私の物語

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終幕:そのとき




 ピシリピシリと亀裂が広がっていく。

 元はレイトンにより岩に走った軽い切れ目。けれどもその軽い刺激により、頑丈な岩の壁は、中から噴出する圧力に耐えきれずに割れ始めた。


 レイトンはその音に構わず魔剣による斬撃を展開する。

 プリシラ本人に攻撃を加えることは怠らず、更に逃げ道を塞ぐように。


 避ける動作でさらりと靡くプリシラの髪がほんの一房、断ち切られてはらりと地面を舞った。


(この程度は分かっていたよ、レイトン。ここ数日、特にこの前降った大雨のせいだろう?)


 プリシラは前に足を踏み出しつつ、下がろうと重心を後ろへ向ける。余人が見れば、ただ前に向かうため足を踏み出しただけにしか見えない巧妙な動作。葉雨流特有の歩法。

 仮に腕に覚えのある者が前に立ちその動作を見れば、プリシラが一歩近づいてくるのを予測し剣を振っただろう。実際には遠ざかっているのに。


 岩山の中から、ずん、と腹にまで響く音がする。

 それと同時に緩い水鉄砲のように幾本か水の筋が岩山から空中に描かれ、プリシラの目の前を通り過ぎた。


(……来る)


 レイトンが用意した足止めの斬撃の壁をまとめて切り払い、プリシラは岸壁から遠ざかろうと跳ぶ。

 一瞬遅れて岸壁を構成する岩が割れ、小さな岩を弾き飛ばすように勢いよく水が噴出する。

 頭から被るわけにもいかない。それは出来れば近寄りたくもない水、薬または毒。

 この色は間違いない。


(調和水……!)


 笑みを浮かべたまま回避したプリシラを見つつ、レイトンが魔剣を岸壁に突き刺すように差し込む。

 そのまま捻れば、更に大きなひび割れが形成されて轟音が響いた。



 調和水。

 闘気の賦活を抑制し、魔力使いではない生物に致命的な被害を与える毒の水。

 海の聖領アウラにおいて、アウラに浮かぶ浮島から産出される毒性のある液体であり、海から訪れる魔物を防ぐ防壁として人々が利用しているもの。


 通常聖領ネルグを含め、アウラ以外では採取できないもの……ではあるが、ここは例外だ。

 レイトンたちがいる岩山は、聖領イークスから飛来したもの。それは聖領アウラに浮かぶ浮島と同じく。



 炸裂するような音と共に岸壁に入った亀裂が割れる。

 まるで窓の硝子に大きな衝撃を与えたように全面に罅が入り細かく砕かれた岸壁は、中にあった水分と共に崩れ流れだし濁流と化す。

 

 さすがに避けられない。

 舌打ちをしつつプリシラは上に跳ぶ。

 岸壁を構成しつつも、水圧に負けずまだ剥がれていない岩。その岩々を足場に岸壁を駆け上がっていく。


「慌てているね」

「それはそうだよ、こんなおっかないこと、よく考えたと感心してたところさ」

 

 駆け上がり、半ば空中に浮かぶプリシラ。そこに今度はレイトンから肉薄する。

 崩れた岩壁はまるで渓流のような風情の足場となり、駆け上がる二人の足下を濡らした。



 足を滑らせるわけにはいかない、というのは二人の共通認識だ。

 ここはネルグの森からみても、遙か見上げる岩山の上。足を取られて流されてしまえば、最悪の場合転げ落ちて地面に激突することになる。必ず大怪我をする、というわけではないが、一時の行動不能になることは避けられない。

 そして更に、その飛沫を身体に入れるわけにもいかない。飛沫一つ舐めただけで、死ぬまではいかずとも異変が起きる毒。また経口摂取でなくとも、粘膜や肌から吸収される分でも問題が出ないわけではない。


 岸壁から勢いよく噴き出す膨大な量の調和水。

 万が一にも身体に入れぬよう、プリシラは目を閉じ、唇を塞いで息を止めた。

 それで、視界がほんの僅かに色彩をなくす。だがそれだけだ。葉雨流剣士にとって、目を塞ぐということの効果はそれだけである。耳と肌が目と鼻の代わりを為し、いつもの『視界』の中、いくつかの要素(レイヤー)が欠落するだけで。


 二回ほど切り結びつつ、二人は崖を駆け上る。もうすぐ頂上ではないが一つ上の段に出る。

 出てしまえば、状況はまた元に戻るだけだ。後三つ、もしくは四つ跳べば辿り着く場所で、先程と同じように向かい合うことになる。

 ならば、このまま行かせるわけがない。プリシラはそうレイトンの行動を予測し、そしてレイトンもその通り行動する。


 レイトンが腰の隠しから取り出したのは、四つの小さな硝子の玉。

 中には壁にへばりつく黒く足の長い虫のような構造物が見て取れて、プリシラも、少しまずいと剣の軌道を変えた。


 闘気を込めてばらまかれた硝子の玉を、プリシラは切り払おうとする。

 けれどもレイトンがそれを予測するように魔剣の再生する剣撃を当てて硝子の玉を弾いた。結果、プリシラの剣は二つだけを切り裂いて空中に落とす。あとの二つは。


「っ……!」


 強く張った弦を弾くような音。轟音。

 強い閃光と共に二つが一度に重なり鳴った。


(閃光弾……!)


 至近距離、耳元で弾けたのは魔道具である閃光弾だ。圧力や衝撃波による破壊などはないが、強い光と音を鳴らす硝子の玉。もっとも、その使い道は間違っているのだが。

 咄嗟に耳を塞ぐが、間に合わずプリシラの右耳が強い耳鳴りと共に聞こえなくなる。視界の中、また一つの要素が欠ける。欠けるというよりも今度は不鮮明になり、片耳から聞こえる耳鳴りが靄のように視界を薄く覆った。



 ぼやけた視界。また、不鮮明な音。

 現在ほとんどを肌の感覚のみで代替しているプリシラ。その隙を逃すレイトンではない。



「これだけやれば、当たるだろ?」


 最後の一歩。崖の上に跳ぶための足を岩にかけたプリシラに、レイトンの剣が迫る。達人の剣速に、精密性。磨き抜かれた才能をそのまま叩きつけるような、それでも地味なただの突き。


 プリシラの視界が混濁している内に。その隙を逃すレイトンではなく。

 そしてその隙をレイトンが狙うと気付かないプリシラでもない。


 ほとんど勘のままにプリシラが逆手に持った剣の腹を見せるように構える。そこにぶつけられたレイトンの剣の切っ先。

 甲高い音を立てて、火花が散った。


 止まらず、プリシラが空いた手でレイトンの首元を払う。常人であれば首が飛ぶようなその手刀を避け、逆にレイトンがプリシラの胴に蹴りを放つ。

 

 最後に、プリシラがレイトンの蹴りを掌で弾いたところで二人が降り立つのは先ほどまでの崖よりも一段上の崖、その平地。

 互いの間合いから離れて着地し正対する。互いに楽しむように。


 一瞬の交錯で交換し合った攻撃に二人の腕は痺れ、立ち尽くすように力を抜いた。



 調和水の濁流が治まり、足下の音が静かになっていく。

 それに合わせるよう、静かにプリシラは目を開けて息を再開した。


「ひひひ……耳が聞こえなくなっちゃったみたい」


 プリシラの耳鳴りは止まない。

 しばらくは右の耳は使い物にならないだろう、と心の中で付け足した。

「さすがレイトン、一矢報いるなんてね」

「…………」


 プリシラが合図をするように片目だけで瞬きする。

 それと同時にレイトンの脇腹から、血がだくだくと噴き出した。

 

 レイトンは腹筋を固めて血を押しとどめる。腹腔内に血がじわじわと満ちていく膨満感を不快に思いつつも、その程度しか出来ない現状に息を吐いた。

「ここまで完全な失敗は予想外かな」

 嘆き、レイトンは耳に手をやり耳栓代わりの綿を外す。ごく小さな綿の塊を、もう用済みだ、とばかりに投げ捨てれば、風が埃のようにさらっていく。


 その耳栓の行方を見送り、溜息をついてプリシラは俯いた。

 風に飛ばされたゴミのようなもの。しかし、それはプリシラにとって悲しみの象徴とも思えた。


 この可愛い弟は、知らないのだ。

「知ってるかな? 耳を塞げば、人は音が聞こえなくなるんだよ」


「それくらい知らないわけがないだろう?」

「いいや、知らないさ、レイトンはあの静寂を」


 プリシラは上目遣いにレイトンを見る。

 睨むような目力だが、人によっては色っぽいとされる仕草。プリシラがほとんど人には見せない顔。


「目を閉じれば暗い。鼻を摘まめば匂いなんか分からない。厚着をすれば風の感触なんて感じられないんだ」


 それはプリシラが修行を積むごとに忘れていったもの。

 子供の頃見た暗闇も、聞いた静寂も。既にその感覚など失われてしまった。

 そしてレイトンも知らないのだとプリシラは確信していた。知っていても、理解はしていないはずなのだ。生まれながらの共感覚者、レイトンには。


「私たちは耳を塞いでいても話が出来ちゃう。悲しいことにね」

 プリシラは改めて溜息をつく。

 今の今まで、レイトンが耳栓をしている仕草はなかった。プリシラすらそこまでは気付かなかった。普通に会話し、普通に動いていた弟が、自ら聴覚を封じていたとは。


「…………」

 それが? とレイトンは無言で顎を上げる。

 意味の分からない話ではなかった、が、その程度はもはや今更だとも思った。


 プリシラは空の手を前に出す。その仕草に意味はなかったが、攪乱のためという意味はある。事実その動作で、レイトンの左肘の動きは止まり力が抜けた。


「だからやっぱり、お父様たちを殺したのは間違いじゃなかったよ」


 呟くのは本心。プリシラは、レイトンと会う度にそのことについては実感していた。やはりあれが、あのときがレイトンの成長を止める最後の機会だった。可愛いままでいてくれる最後の。

 もっと遅ければ間に合わなかった。あの道場は、弟に力をつけさせる理想的な環境だ。この弟ならば葉雨流を身につけ、極め、もっと高みへと至ってしまっただろう。

 もう少し早くと悔やまぬわけでもなかったが、しかしそれこそ望みすぎというものだ。天才たる弟は、きっとあの道場以外でも多くのことを吸収してきたのだから。


「帰りなよ、レイトン。今日は自分の足で、自分から私に背を向けて、さ」


 優しげにプリシラは笑みを浮かべる。

 本心から。姉として、弟に向けた。愛情を込めた笑みで。


 だがレイトンは冷たい目でそれを見て、首を横に振る。


「いいや。帰るつもりはない。今日、ここでお前とは決着をつける」

「どうしてそこまで私にこだわるのさ。レイトン、きみは幸せになってもいい子なのに」

 父からの依頼。そんなものは存在しない。父がどう書こうと思っていたか、というだけではなく。単純に、その文言がない以上、父からの依頼などというものは存在しないのだ。

 それを分かっていないレイトンではないだろう、とプリシラは目で告げる。

 しかし。

「幸せ? そんなもの、ぼくたちにはないだろう?」


 プリシラの言葉に、レイトンの脳裏に浮かぶのはあの惨劇の日のドルグワント邸。

 血に塗れた廊下。蟻が集る肉片。腐りかけた内臓の臭い。

 兄の細かな肉片。転がる父の首。文。優しげな笑み。


「依頼を受ければ誰でも殺す。どれだけ好ましくても、どれだけ愛おしくても。そう育てられたから。だから、ぼくらは幸せになっちゃいけない人間だ」


 殊更にレイトンはプリシラに剣を向ける。

 そうしなければいけない。ドルグワントであるために。ドルグワントであるから。


「……そっか」


 プリシラは悲しく目を伏せる。


「じゃあ、仕方ないね」


 とと、とプリシラはレイトンに小さく跳びつつ近づく。

 不用意に見えて大胆。事実、下げたままの剣であるのに隙は微塵もない。



 跳びながらプリシラは耳につけた琥珀色の耳飾りの声を聞く。それは神器《知恵笛(ギャラルホルン)》を模したとされるもので、『千歩』という彼女には正確には分からない曖昧な距離までに存在する全ての人間の声を拾い上げる魔道具。

 考えるのは残るレイトンの策。自分を殺すために用意した、用意してくれた策。

(……カラス君の出番があることは確定している。でも彼の出番は限られている。ここから千歩の距離の中には彼はいないし、……なら)


 壁の中にはもう使えそうな調和水の溜まりはない。

 調和水も含めて、自身の感覚を奪って隙を作るという策。それは失敗として終わった。

 この付近には、仕掛けはない。そうプリシラの鼻は自身へと伝える。


(なら、遠くから、かな)


 加勢の気配などはない。〈山徹し〉デンアも、〈狐砕き〉カラスも、ここに伏兵として待ち伏せているわけではないだろう。

 なら次に、ではないが確実にあるのはカラスの長距離からの介入。


 数日前のこと。

 レイトンとカラスが最後に顔を合わせたときのこと。

 内容までは分からずとも、『《山徹し》でいいんですか』と、レイトンに依頼されたカラスは言っていた。

 ならば。



 ギイン、と甲高い音を立てて剣が結ばれる。

 レイトンとプリシラ。どちらの剣も全く引かれず、震えもせずに交わり静止した。


「カラス君にここを狙わせても無駄だよ。彼の《山徹し》なら私は防げる」

「だろうね。普通なら」

 どちらともなく剣を弾いて離れれば、余計に二つ三つと剣を打ち合わせる音が鳴る。

 余人には確認できない斬り合い。どちらも互いの剣を知り尽くした拮抗状態。もちろん、どちらが未熟と問われれば明確に答えは出ているのだが。

「どうせお前には知られてる話さ。無計画に使うわけがないだろう?」

「その通りなんだけど」


 だから、とプリシラは下がらずにレイトンの振るう剣を弾く。

 カラスが《山徹し》で望遠長距離砲撃を行う。ならば、対処は簡単だ。

 彼の魔法による砲撃は、そう精密性が高いわけではない。望遠でこちらを狙ったとしても、至近距離にいるレイトンを外すことなど不可能、とプリシラは結論づけた。

 ならばレイトンと手が届き合うこの距離を保てばいい。


 そしてこの距離の攻防ならば、勝負は見えている。


 互いに一つ剣を振る。そのたびに虚空からいくつもの弾く音がする。

 二人ともが無傷のまま続く舞踏のようなやりとり。


 やがてその均衡が崩れた。


 レイトンの口から血が滴る。脇腹を切り裂かれていた傷からの出血。腹筋で抑えていただけのそれに限界がきた。

 いつの間にか腹部を更に横に走っていた傷。内臓が傷つけられ、穴が開いてしまった胃。そこから逆流した腹腔内の血が、喉の奥から口内へと満ち、押さえられずに唇の隙間から嘔吐するように滲み出る。


 プリシラは知っていて、そして待っていた。その時を。


 すん、とレイトンは右手首に走る冷たさを感じた。まずい、と思ったのはそれとほぼ同時。

 踊るように淀みなく、プリシラは剣を持たない左手で、レイトンの右の腕を横から迎えるように取る。まるで幼子から玩具を取り上げるように、身を翻しながら。


 右手首と腕、両方の切断面から遅れて噴き出す血が、プリシラの白い外套の裾を汚した。


 優雅にそのまま回転し、逆手に持った剣をレイトンの胸へと突き刺す。鎖骨の下、滑るように打ち込まれた剣は、肋骨の隙間をすり抜けて肺を通り背中へと貫通した。


「…………っ!」


 苦し紛れのようにレイトンが残る左手でプリシラの首を折ろうと狙うが、プリシラは右肘でそれを打ち落とす。肘の揺れに合わせて剣が動き、それでまた傷口が広がる。

 抱きしめるような距離のまま、一人はもう一方の身体に剣を突き立てる。異様ながらも一種荘厳な美しい姿勢で、二人は静止した。



 互いの呼吸の音だけが、風に紛れて二人の間を通り抜ける。

 二人の間には微かな隙間だけがある。胸が触れあうような、どちらかが重心を僅かに変えれば、唇が触れあうような。


 目を合わせるだけで彼らは多くを語りあうことが出来る。

 それでも敢えて、プリシラは口を開いた。


「残念だよ、レイトン。こんな結末は、私も」

「――――」


 応えるためにレイトンが口を開く。しかし血が満ちた喉の奥からは、碌な声が出なかった。

「生きてたら……」

 これ以上の攻撃は無意味だ。そして無駄だ。そうプリシラは告げる。レイトンといえども、もはや生死も危うい状態。更にプリシラの手は、無意識に寸分の狂いなくレイトンの気脈を切断している。闘気による治癒も、もう間に合わない。父と同じく。

 ならばもう、攻撃を加える意味はない。もはや死すならば。

「また」


「……生きて、帰る気はないさ……!」


 ほんの至近距離で、レイトンの視線がプリシラの目を追う。それと同時に、どうにか声が出た。長かった人生、葉雨流当主となって初めてに近い必死の声で。

 それと同時にレイトンは残った左手でプリシラの右の手首を掴む。剣を引き抜こうとしているわけでもない。もちろん更に深く突き刺そうとしているわけでもない。

 意図は固定。動かさない、ただそれだけのために。

 

「……ああ、そうか」


 プリシラは目を細めて、その言葉の意味を悟る。

 至近距離に近づいたのは失敗だった。カラスの《山徹し》を警戒してレイトンから離れずにいたが、しかしそれこそがレイトンの狙いだった、と。

 むしろ離れた方がよかったのかもしれない、とまでも思った。



 葉雨流剣士の視界には存在しない『視界の端』が、白く染まる。

 放たれた光の始まりは、ほんの小さな点だった。しかしそれが一瞬の後に広がり、視界全てを覆い尽くす。

 焼け付くような光。耳にこびり付き、鼻に焼き付き目に残るその光をプリシラが感じたと同時に。


 プリシラとレイトンを、人生最大の衝撃が襲った。




 青白い閃光が、岩山の最上部を貫き去っていく。

 《山徹し》に貫けぬものなし。まるで空までにも穴を穿つように。




 閃光が去り、シュウシュウと細い煙を吐く岩山。

 全身が痛い。プリシラがまず感じたのはそれだった。

 闘気による保護は間に合ったらしい。《山徹し》という王国史上最強の砲撃をその身に受けてなお、この身は形を保っている。

 

 だが、周囲には何も見えない白い暗闇が広がっていた。

 耳から音が入るが、全てが雑音。目が周囲の光を受け取るが、真っ白で何も見えない。鼻から感じるのは岩が焼けた煙だけ。

 立っているのか、それとも倒れているのか。

 感覚器官全てを破壊されたかのように何も見えない白い暗闇に、プリシラの背筋が久しぶりに粟だった。


 やがて僅かな時間の後、自分が倒れていることを知った。

 手が掻くのは高熱に灼けた岩の肌。顔を上げれば視界の中の世界が歪みながらも、その形を保っている。

 厚く白い外套は所々引き裂かれるように破けて下着と白い肌までもが露わになっているが、その肌に走る火傷や痣、擦り傷のような怪我にどうでもよくなった。


 頭蓋骨には細かな亀裂。頭蓋骨だけではない、脊椎から肋骨、骨盤、四肢に至るまで余すところなく。

 内臓にはいくつもの挫傷が。感覚器官にも影響が出て、世界がいつものように色鮮やかには見えない。

 耳からも鼻からも目からも僅かに血が滲む。

 

 おそらく生涯で最も多くの、そして深い怪我をした。

 プリシラはそう結論づけ、よろよろと立ち上がった。


 だがまだ自分は立っている。

 甚大な被害を被りながらも。後遺症すらどこかに残るかもしれない怪我を負いながらも。

 それでも自分は立っている。


 わずかな嬉しさと、そして悲しみに、プリシラは周りにあるべき『それ』を探した。




 数歩離れた先に俯せに倒れているのは愛しい弟。

 プリシラと同じく全身には大きな火傷と痣と擦り傷。それに、どこかにぶつけたのだろうか、それとも衝撃を抑えきれなかったのか頭部からの激しい出血。

 

 怪我をしている。もう立ち上がれないのだろう。しかし、驚くべきこともある。

 右手首から先が消失しながらも。服が破けてほとんど用を為さなくなっても。

 まだ形が残っている。息すら残っているのは、自身と同じく鍛え上げた闘気で身体を保護したからだろう。

 

 けれども、とプリシラは苦痛を紛らわせるためも兼ねて溜息をついた。

 

 自分ですら立ち上がるのも困難だった被害。未だふらつき、立っているのも辛い。

 だがそんな攻撃を同じく受けたレイトンは。その身に宿る障害故に、自分よりも脆弱な身体を持つ彼は。


「ひ、ひひひひひひ」

 

 笑いと涙が忍び出る。

 もう、愛しい弟は立ち上がることも出来ないだろう。

 まだ息があること自体が奇跡なのだ。自分と同じく闘気で身体を保護したのだろう、けれど、身体の基礎的な耐久力が違うのだから。


 もういいのだ。戦わなくて。

 安堵の言葉と弟にかける言葉。その両方を一度に思い浮かべてプリシラは倒れ伏したレイトンにそっと歩み寄る。


「……残念だったね。私の物語はまだまだ終わらないみたいだ」


 ぽつりとプリシラは呟き、それから憐憫に流れた涙を血ごと手首で拭き去る。

 しゃがみ込んで取るのは残ったレイトンの左手。もはや力は入っておらず、プリシラがそっと手を添えれば何の抵抗もなく持ち上がった。


 プリシラが求めるのは握手だ。それもいつものように。

 彼女の生業は占い師。人から相談を受けて、悩みを聞いて助言をする。彼女はその際客の手を握り、その感触から相手の人生を読み取るのも売りにしてきた。

 ドルグワントの修業時代、彼女が心底やりたかったこと。父や兄を殺してでも。


「じゃあね、レイトン。生きていたらまた会おうよ」


 弟の手はいつの間にか自分よりも大きくなっていた。それを悲しくも嬉しく思い、感触を確かめるように握る力を強める。

 この四十年。追って追われての関係の中、初めて行った握手はプリシラに多くのことを感じさせた。まるで『レイトン・ドルグワント』という一冊の本を読むように。

 人は皆、自分の物語を生きている。それはプリシラがレイトンに教えたことだ。



 名残惜しげにプリシラはレイトンの手を離す。

 だがそこで初めて気が付いた。自分の手首、そこに巻き付くごく細い白い紐に。


「……っ!?」


 驚きに目を見開き、その紐の出所を探る。舫いのように固く手首に巻かれた紐は、その端が伸びて更に違う場所へとくくりつけられていた。

 その場所は、レイトンの左手首。


「…………お前に剣術勝負で勝てるわけがない。そんなこと当たり前だろ?」


 小さく怨嗟のような声で呟きつつ、重労働じみた懸命さでレイトンは顔を地面に擦らせプリシラの方へと向ける。

 プリシラはその言葉にまた驚いた。言葉自体にではない。レイトンの意識があったことに。


 レイトンはほくそ笑むように唇を歪めた。

 全てはこの瞬間のため。調和水による感覚阻害も、勝てるはずのない斬り合いも、《山徹し》も全ては。

 全ては、プリシラが勝利を確信し、気を抜くこの一瞬のために。


 ビン、とプリシラの剣が紐を断ち切ろうとして弾かれる。

 闘気で強化された鋼線ですら断ち切れるはずのプリシラの精妙の剣が。


「これは……」

「焦熱鬼の髪の毛と狒々色金を編んだ紐さ。ぼくにだって、お前にだって断ち切れない」


 おそらく現在この世で最も強い紐。

 それで結ばれた二人は、決して離れることもない。



 レイトンが、折れた脚に力を込めて立ち上がる。プリシラよりも重傷故、既に力は入らない。けれども、最期と思えば力も入るものだ。

 咳き込み、血を吐き出しながらも。目に血が入り、視界を赤く染めながらも。

 

 なら、とプリシラが剣を握る手に力を入れる。

 紐を断つのは無理らしい。しかし紐以外の場所ならば。

 狙うのはレイトンに残った左手首。


 けれども、狙う場所が分かっていれば、レイトンにとって防ぐのは容易だ。

 ギン、と金属が割れる音がする。

 魔剣の鞘により再生された一撃は、手首を落とそうとするプリシラの剣を逆に断つ。


「言ったろ? お前の物語はここで終わる。そして」


 最後の力を振り絞り、レイトンはプリシラの腰に抱きつくようにしつつ立ち上がる。咄嗟のことと、怪我に踏ん張りが利かなかったプリシラは、押されるがままに後ろへと強制的に移動させられる。


「まさか」


 最後の一歩。

 レイトンが大きく踏み出すと同時に、プリシラの足が踏んでいた地面が消失する。

 浮遊感に空中で体勢を崩しつつ、背中越しに見るのは遙か下方、霞むように見えるネルグの森の地面。距離、およそ五里(約2500m)



「生きて帰る気もないって、ね……!!」


 プリシラの耳に届いた声。こちらの腹に顔を押しつけるようにして叫んだレイトンの声が、喘ぐような自分の悲鳴よりも悲痛に聞こえた。




次で決着

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― 新着の感想 ―
[一言] 読解力のなさか未だプリシラがわからない。
[気になる点] そうか。決め手は疑似メガンテか。(違う)
[一言] まさに執念という感じがよきよき。 トリックスターな姉弟が泥臭く終わるのもまたよし。
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