終幕:先回り
あんまり長くはしたくないんですが、その……
やはり、と剣を合わせながらレイトンは考える。
手の先、手の中で、一度剣を回転させつつプリシラへと振るう。その剣は余計な動作を入れただけ鋭さを帯びてプリシラを襲った。
プリシラはそれを優雅に捌くように半身になって躱す。
プリシラの脳裏に浮かぶ光景。背後の青空に三つの裂け目が生まれ、ずれる。それは超感覚を備えた葉雨流剣士に特有の感覚で、受けたら危なかった、と感じるような焦げる匂いまで鼻についた。
「魔剣は使わないの?」
「使うと思っている間はね」
姉が日常の何気ない疑問を吐き、弟が答える。そんな風なのどかな口調で二人が言葉を交わす。その間にも二人の間には刃をぶつけ合う音が間断なく響き、そして幻覚でもなく足場が罅が入り荒れてゆく。
一太刀を入れる動作で二つ三つの刃が走り、二つ三つの剣の動作でも音は響かない。隠された刃と眩ましの高度な応酬。余人が見ても、その神技の応酬は理解できず、また彼らもさせる気はない。
音と周囲の景色を見なければ、単なる約束稽古のような緩い打ち込み合い。けれどもその裏で繰り返され続けている駆け引きと殺意のぶつけあいは拮抗を見せていた。
緩く遅く、徐にプリシラが突きの構えを見せる。長剣よりも短く短刀よりも長い片刃の直剣は彼女の好みで、修業時代から使い続けているもの。
(やっぱり、カラス君がいたからというのは言い訳かな)
突きの構えから繰り出された豪快な薙ぎ払い。
構えに惑わされずに跳んでそれを避けたレイトンは、しなやかに身体を空中に踊らせて前に回転しつつプリシラの頭部に踵を落とそうとする。
けれどそこまでも読んでいたプリシラは、前に跳んで身体を入れ替えるようにやり過ごした。
着地したレイトンの下衣の裾、足首の後ろに切れ目が入る。レイトンすらも視認は出来なかった隠された斬撃が二つ。
(ぼくも、怠けていたわけじゃないはずなんだけど)
今のところ身体に異常はない。それを確かめつつレイトンは片足で軽く地面を叩く。まだ《陰斬り》は自分の身体を切り裂いてはおらず、斬り合いはきっとまだ拮抗して『くれて』いるだろう。
艶やかに唇を舐めて、プリシラはおどけるように微笑む。
「私の腕前はいかがでしょうか? 葉雨流の当主様」
「腕前はいいのに落第点だよ。その心根がね」
まだ楽しんでいる。その言葉に確認できたレイトンが、内心の苛つきを表に出さないように堪えた。
前回のリドニックでの邂逅。その時の斬り合いでは、もちろんプリシラは優勢だった。
だがそれも、観客がいるからだとプリシラは口にした。暗に、『観客を気にしつつ技を使うレイトンと、対手しか気にせず技を使う自分の違い』だと。
けれどもやはりそうではない。石ころ屋に加入してから今まで何回か、彼女を殺せる機会はあった。けれどもその度にレイトンはプリシラを逃してきた。その理由。
単に、プリシラの剣士としての格が、レイトンを上回っていただけのこと。剣士としてだけではなく、暗殺者としても。
それを自覚しレイトンは嘆息をする。
修業時代父や兄から、また目の前の姉から、言葉にせずとも『天才』と何度も称えられてきた。自分には才能があるのだと信じてきた。時折父や兄や姉が自分を叩きのめしたとしても、その言葉は偽りではないと信じていたし、事実偽りではなかったのだと思う。
しかし、偽りではなくとも。
腕を落とし、直立不動となるプリシラ。
およそ殺意も敵意も、戦意すらも見えないその仕草から、空中を飛ぶ白い線を感じ取ったレイトンが、大げさに身体を左に傾げる。だがその動きも空しく、左の腿から血が弾ける。
剣を隠したままの斬撃。更にその斬撃を眩ましに使い、本命の斬撃を逆から。
視線、筋肉の動き、呼吸、重心、その他全ての生体反応。
通常レイトンが相手から読み取り、眩ましを暴き嘲笑うはずの要素が、更にまた眩ましとなっている。十重二十重と張られた伏線に、レイトンだからこそ嵌まってしまう。
一族で、『天才』と呼ばれていたレイトン。それは偽りではない。
しかしその上の才能を持つ者がいないとは言われておらず、そしていても撞着はしない。
目の前の姉のように。
(……類い希なる剣の才。それに優秀な指導者。そりゃ強いよね)
レイトンは羨ましく、そして忌々しく思う。それは強いはずだろう。自分を凌駕する才能を持ち、父や兄という恵まれた指導者の指導を自分よりも長く受けてきた彼女。
同じ年数を彼らに師事していたら、とレイトンはありえない空想を思い浮かべた。それは彼女が『姉』である以上、絶対にあり得ないはずなのに。
腿の傷に闘気を通し、傷を塞ぐ。
元々深いものではない。出血はあったが、それは一時の軽いもの。レイトンの闘気さえあれば戦闘中にすら治癒できる程度の。
「簡単には殺させてくれない、か」
目の前にいるのは自分以上の剣士。それは認めざるを得ないことで、レイトンも否定はしない。しかし、だからといって諦めるわけにはいかないのだ。請け負った依頼は、相手が誰であろうと完遂する、葉雨流剣士の名において。
「そう、まだまだだね。本当に可愛く育ってくれて、姉として嬉しいよ」
プリシラは眼前に握り拳を出して開く。そこから地面に落ちて高い音を奏でたのは、先ほどからレイトンと交錯する間に掠め取った寸鉄や小刀。しめて七本。
「可愛く育った? 育つのを邪魔した、の間違いだろう?」
隠し持つ残りの刃物の数を確認しつつ、レイトンも剣を持った腕を下げる。葉雨流においては、それは危険度を上げる構え。
「お前は恐れていたんだ。あの道場が存続して、ぼくがお前を超える日が来るのを」
「そうかもしれないね」
冷たく睨むレイトンの視線を、優しく微笑んでプリシラは受け流す。
否定する気はなかった。そうだろうとも彼女も思っていたこと。
プリシラは目を閉じて胸に手を当てる。思い返すのは、生まれてから今までのこと。自分が生まれてからではなく、レイトンが生まれてからの。
「レイトンは否定するけどね、やっぱりそういうことってみんな考えると思うんだよ」
「下らないな」
プリシラの言葉を聞く気もなく、そして言いたいことを全て読み切ってレイトンは返す。
下らない。心底下らない。人は自然と大きくなり成熟するものだ。その発達を、歩みを止めることなど出来はしないし、止めたところで歪に続くだけだ。
そしてレイトンの一言から、またレイトンの言いたいことを読み切って、プリシラは笑みを強める。
「うん、言いたいことはわかるよ。だから私も頑張った」
可愛いとは弱いということだ。プリシラはそう信じている。
目の前にいると想像した場合、多くの人間が可愛いという猫と、怖いという虎。その違いについての話。
猫は可愛い。その牙は人の肌を食い破るには小さく、爪は人の肉を引き裂く大きさはない。
虎は怖い。その牙は容易に人の肌を食い破り、戯れに引っかけた爪が人の肉を裂いて命を奪う。
プリシラは、『ただそれだけの話』と思う。
竜が人里に降り立てば、人は恐怖し震えて身を隠す。
けれども仮にそこにいる人々に、指先一つで竜を制するだけの力があれば、竜とはとても可愛らしい生物となって映るだろう。
『昼に飛ぶ烏』とてそうだ。
人々は、突如昼間に現れた烏に恐れ戦き、石を手に取り戦った。その大きな嘴が、黒く不吉な色の羽が、爪が他の鳥と違って『強く』思えたから。
仮にその烏が弱々しく、今にも死にそうなほどに痩せ細っていたら、逆に餌をもらえて保護されてすらいただろうに。
「私も努力はしたんだよ。お父様やお兄様の剣を必死に盗んで」
プリシラ自身、思いも寄らぬ体験だった。
幼い日、剣を握ったその時から、どうにも兄の動きが鈍いと思った。父の剣の『間違い』が何となくわかっていた。
剣を一つ振れば、それだけで自分は高みに登る。兄や父の高みに、すぐに追いつけるとも確信できた。……さすがに、四禁忌の修行には慣れなかったが。
「そしてある日気付いたんだ。身近にいた、とても弱っちくて、守ってあげたいと思うくらいの存在に」
母親が死んで、葬式も行った後。
まだ母親が生きていると思って、瞳に映る母を追って日夜家内を徘徊していたレイトン。
レイトンよりも年は上だが、それでも同じようにまだ幼かったプリシラが、よく子守に駆り出された頃。
「小さな頃は楽しかったなぁ。私の後ろをちょこちょことついてきて、私の真似をして大人ぶるレイトンの可愛かったこと」
本当に、とプリシラはおどけて笑う。たった数年の差でも、子供の頃の数才は大きな違いだ。
プリシラを見つめるレイトンの視界の中に、プリシラが目の前に投影した自分たちの影が映る。
女性らしさが混じり、袴姿が堂に入りつつあった少女の頃のプリシラと、まだ袴を着慣れていない自分の姿。
二人の影が、ちょこちょこと岩山の上を駆け回る。そして小さな自分は転んで泣きそうになり、姉に慰められていた。
「それでもどんどんと男の子らしくなってきて、十才を過ぎて街の女の子の目を気にし始めて……諦めて泣いていたのもその頃だったっけ」
「関係ない、昔の話だね」
家族が覚えている自分の思春期の頃の話。
それを聞くのは大抵恥ずかしく、そして苦痛なものだ。レイトンもその例に違わず、眉を顰めて遮った。
「私なんかどうでもいい、この子は可愛いままでいてほしい、と思った。このまま葉雨流を極めて、強くなった姿なんて見たくない、なんてね」
ぽつりと寂しそうにプリシラは口にする。
本当のことだ。才能があり、そして自身も含めた『手本』が周囲にいる環境。レイトンはどんどんと技を吸収し、工夫を重ね、その剣をものにするだろう。そうなってしまえば。
恐ろしい、とプリシラは小さく首を横に振る。
葉雨流剣士は、四禁忌の修行により超感覚を得る。
目は耳と鼻と肌の代わりをし、耳は目と鼻と肌の代わりをする。味覚を除く四感が、それぞれ別の感覚を代替する。そしてレイトンは、生まれつきその感覚を備えていた。
目で視ず、耳で聞かず、鼻で嗅がず肌で触れない。四禁忌を完璧に身につけていたレイトンは、幼い日には『人』の動作をとれなかった。
人と話していても、視線が合わない。合わせないのではない。視線を向けずともそちらを見ることが出来る彼にとっては合っているが、目を見なければいけない他の人間にはそうとは思えないのだ。
人との会話が成り立たない。成り立たせていないのではない。音の声ではなく心の内の声を読んで返すレイトンの言葉を、人は理解したくないのだ。
既に『出来上がって』いた不気味さに、幼い日のレイトンには使用人さえ恐怖した。
そしてその恐怖は、葉雨流剣士の強さに直結する。
「狙い通り、レイトンは可愛いままだよ。さて、お姉ちゃんに何を見せてくれるのかな?」
沈んだ笑顔から一転、にこにことプリシラは笑う。
「剣術だけじゃあ私には勝てない、だろう?」
「……そうだね」
囃し立てる言葉をレイトンは肯定し、一歩右にふらりと歩く。一歩崖に近づく。
葉雨流だけでは勝てない。レイトンは葉雨流を修めてはいるが、極めてはいない身の上。更にプリシラは、レイトンの知っている技術を熟知している。常人にとってはレイトンもプリシラも変わらない達人ではあったが、両者の間には明確な差があった。
だから、工夫が要るのだ。
レイトンが魔剣を握りしめる。
魔剣ユングヴィはドルグワント家に代々受け継がれてきたもの。細身の刀身に、豪華な柄と鞘が組になって揃えられている。
輝く刀身はよく練られた玉鋼で打たれており、狒々色金や青生生魂ほどの強靱さはないが剣としてはよく出来ている。
鋭く軽く、重心は柄よりやや遠い。熟達した者が闘気を通せば、前述の伝説の金属すら断つことが出来る。
だがその魔剣の本体は、刀身ではない。
プリシラが横に大きく跳ぶ。
それを追うように虚空に現れた幾百の斬撃が、その軌跡を切り刻んだ。
「どれだけ溜めたの?」
「お前を殺せるくらいさ」
まるで指揮者のような動作をとりつつ、また葉雨流の技法により実際の斬撃も混ぜながら、レイトンはプリシラを追う。
プリシラの外套の頭巾に大きく切れ目が入り、プリシラの金の髪が輪の輝きと共に露わになる。
先ほどまでのような、ほとんど一定の場所から動かない戦いではない。
共に疾走をしながらの、追って追われての忙しない戦い。
プリシラの腕に浅い傷が走ると同時に、剣がレイトンの鞘を上向きに弾く。手を離しはしなかったものの、それにより起こる事態にレイトンは舌打ちをして頭を下げた。
レイトンの頭上で殺気を帯びた斬撃の線が走る。プリシラの攻撃ではなく、レイトンの引き起こした事象だった。
魔剣ユングヴィ。賢き者のみにしか扱えぬと伝わるその剣の本体は、柄と鞘の二つにある埋め込まれた宝玉である。
その機能は『斬撃の保存』。
柄に闘気を通した状態での斬撃を、柄と鞘の位置情報のみに従って無機質に保存する。
鞘に闘気を通せば、保存してあるものを古いものから虚空に再生していく。
再生された斬撃は、使用者と他人を区別しない。ただ鞘の位置を基準に斬撃を再生するために、鞘の角度や差している位置により、その斬撃が使用者を通ってしまうこともある。
故に安全に扱うためにはその使用者は保存してある斬撃の全てを記憶する必要があり、また立ち位置や手足の置き所に気をつける必要がある。それこそが賢きものにしか扱えぬという由縁である。
自身の胴を掠める斬撃を感じつつ、レイトンはプリシラの進路を塞いでいく。
腰を切って、また手を添えて鞘の位置を変えて。
プリシラはそのレイトンの仕草から、斬撃の軌跡を読んで躱す。鞘に闘気を通すだけで走る斬撃を躱すのは、レイトンの心を読むような予測が必要な難事だった。
だが、難しくとも可能なことだ。弟の思考は、手に取るようにプリシラにはわかる。
余裕とはいえないまでも、危なげなくプリシラはレイトンの剣を躱していく。服にはいくらかの傷が走ったが、肌にはほとんど傷もなく。
(もちろん手はこれだけじゃないだろうしなぁ……カラス君に頼んでた件もあるし、〈山徹し〉デンアがネルグにいたことも気になる。……それに、この岩山は……)
考えつつ、豪快な剣で虚空から走った斬撃をまとめて叩き切る。彼女もドルグワント家の者だ。斬撃がものに干渉できる以上、干渉されることもあるということは知っていた。
レイトンの攻撃が更に苛烈になっていく。
実際の剣と、虚空からの斬撃。それに拳足も交えた剣は、嵐のようにプリシラを襲った。
(レイトンの用意してくれたものだから全部見てあげたいけど、……いや、逃げようにもさすがにここは厳しいね。さすがレイトン、遮蔽物もほとんどないし)
ちらりとプリシラは足下を確認する。
岩山、それも高い位置。足下には塵埃すらほとんどなく、視界を防げるものがない。葉雨流の歩法で隠れようにも、さすがに同輩相手には遮蔽物が必要だ。
右にはすぐまた崖があり、一段高い見上げる位置まで伸びている。左も遠くに崖がある。遙か地上まで一直線に落ちる切り立った崖が。
逃げられない。少なくとも、万全のレイトンから。
なら、付き合ってあげる。そうプリシラは足の横に抉るような斬撃を受けつつ、レイトンに肉薄した。
今回は逃げるわけではない。叩きのめしてあげよう。昔のように。
(……そんなことを考えているんだろうな)
プリシラが考えたこととほとんど違わず、レイトンはその思考を読む。
生来の共感能力で読み取ったものではない。相手の仕草や表情からではなく、性格と状況から読む類いの推測。人間らしさを消した後、人間らしさをまた刻み込む葉雨流の修練で身についた論理的推論能力により。
(だから、……なら、まずこれ)
プリシラに向けて考えてきた二十一の策の一つ。
レイトンの手が、プリシラの掌打を受け流す。さらにそれに隠され、金的のために伸びていた膝も。
そしてレイトンとプリシラの争うすぐ横。
一段高い位置まで伸びる切り立った岩山の壁が、ぴしりと音を立てた。




