終幕:私のための物語
ネルグの森、その中層。森の上まで突き出し、一際目立ち聳える岩山があった。
太古の昔に聖領イークスからこのネルグに飛来した大きな山は峻険な山頂を持ちながらも、今は崩れて鋭利な山肌を露わにしている。
イークスから飛来する大岩は主に海の聖領アウラやまた溶岩の聖領エーリフに落下し、そこで島となるのが常だったが、ネルグに飛来するものもごく稀に存在する。この岩山も、その一つである。
大岩はイークスの動植物や時には魔物を付着または含有し飛来する。そのために、その着弾地点の植生や生物相をまるっきり変えてしまうことも時折あることだ。
四百年の昔、エッセン王国副都ミールマンに飛来した大岩が、街の全てを破壊してしまったように。
だがここネルグの森はそこまで弱くはない。
生息する強健な植物は外部の植物に負けることなく、また生息する生物たちもその強健な植物に適応して繁殖してきたもの。
故に、外部からの影響も大岩の周囲に収まることが精々だ。
そして逆にいえば、岩山となった大岩の周囲にのみ、外部から侵入した特異な動植物が生息し『残る』ことがよくあった。
そんな岸壁、その断崖に、一人の金髪の男性が腰掛ける。前で止める白い長袖の肌着。短く不必要ながらも、後ろで小さくまとめた癖毛は若き日の父譲り。
彼の座る背後は割れて崩れた断面が平らな足場となっており、ぽつんぽつんと疎らに稲に似た穂が揺れる。
見渡す限りの森が見下ろせる高さ。岸壁に当たり駆け上がってくる風は草の匂いと湿気を帯び、降り注ぐ日の光を遮るものはない。
ざあ、と風が森を揺らす度、その男性の耳には多くの情報が入ってくる。揺れる木々が、目からその感情を伝えてくる。風の感触が、暮らす動植物たちの自己紹介となる。
森に囲まれた岩山の上。
けれども、その青年レイトンにとっては、自分こそがその見渡す限りの景色を包んでいるようにも感じた。
「また一人死んだかな」
視界の中、森の奥、遠く肉眼では蚤のように小さくもなって見えない中。誰かが獣に襲われた。血飛沫が飛び、助けて、と叫ぶ。この血の感触はムジカル兵だろうか。男性。四十代後半。酒好き。吐息の色から、最近賭博にはまって借金をしたらしい。
人の死を喜ぶ感情はレイトンにはない。
幼い日からそう育てられてきた。葉雨流の皆伝と共に、それは具体的に言語化された。
人を殺して快感を得る殺人鬼になってはいけない。自分たちは誇り高き暗殺者の一族なのだ。殺す相手に敬意を持ち、命を奪う責任を常に自覚しなければいけない。故にレイトンも、殺してきた相手の知り得た限りの名前と顔は全て覚えている。
そう縛り付けられて生きてきた中。
家族だけが味方だと思っていた人生。それが、とレイトンは昔起きた惨禍を思い出す。
父や兄、それから十人以上の使用人に至るまでが、姉に殺害された夜のこと。
実際にはレイトンはその夜に立ち会ってはいない。
レイトンが見たのは、殺害から四日が経った日の朝の光景だ。流れた血も固まり、肉の腐敗が少しだけ進んでいた頃のこと。
目の前にいる人間の表情や仕草から心根を読み、残されたものからその状況を全て把握できるほどのレイトンの洞察力でも、もはや何も読み取れなかった。
いつもならば手に取るように全てがわかったのに。
残されたものからそこにいた人間が話していたこと、取った行動が手に取るようにわかり、さらにその人間の様子から考えていた嘘や真実までも、全て。
なのに、家族から読み取れたことは僅かしかなかった。
読み取れたのは、父の期待の笑顔。笑いかけてくれた、最後の微笑みだけで。
その場で、『プリシラを』という依頼をレイトンは受けた。
プリシラを殺してほしい、と受け取った。けれど本当にそうなのかは今でもわからないままだ。手紙の文面は、どう捉えても納得はいく。その中で、『殺してくれ』が正しいのかは、未だに判断に迷うところだ。
だがその上で、レイトンは確信している。
殺す。それだけだ。ドルグワント家に生まれた葉雨流剣士。それが出来ることなどたかが知れており、そして求められることもそれだけのはずだ。
そうでなければいけない。
暗殺者だ。人を殺して金銭を受け取る卑しい職業。そこには華々しさも輝かしさもなく、そしてまたあってはいけない。
人に対して正の感情を求めるわけにはいかない。この手は誰とも繋げない、とは姉からも何度も聞いたことだ。
レイトンは何も持っていない風の両の掌を、何度も握る。
この両手は殺すためにある。そう育てられてきたから。
あの父が、それ以外のことを求めるはずがない。私情を殺し、相手を殺せと何度も何度も言われてきた。
だからこそ、殺さなければいけない。
依頼に従い、何も考えずに。
それが聡明で、故に愚かなレイトンの決断。
そして今日それは成る、という確信。
ヒュウ、と風が鳴る。それに合わせるように力を抜いて腕を落とし、レイトンは小さく息を吐いた。
その仕草が、声も何もなく『だから』という文字列を読み取らせる。
「感想くらい、聞かせてほしいな」
虚空に向けて呟かれたレイトンの言葉。
けれどもそれと同時に、レイトンは背後に気配を感じた。
女性、身体年齢は二十代前半。いつからかそこにいたのか、もしくは今まさにここに来たのか。それすらもわからないほどの精度の隠密性。
誰だと考える必要性すらも感じず、レイトンは返答を待った。
そして微動だにせず、背後の女性が口だけを開く。
「楽しかったよ。とても楽しかった。王城からここまで、退屈することは一度もなかった」
振り返らずともその女性の顔に笑みが浮かんでいることはレイトンにはわかっていた。声、匂い、空気の感触、その全てがレイトンの視界を形作る。
それでも敢えてレイトンは振り返る。肩越しに見つめる先にいたのは、姉プリシラ・ドルグワント。葉雨流滅亡の犯人。
同じ金の色の髪は、レイトンが幼い日に亡くなった母譲り。
その他の温和な目鼻立ちも、母に似ているというのが使用人たちからの評判だった。
「随分と色々と考えてくれたんだね。ミルラ王女に、カラス君、勇者君にザブロック嬢。ベルレアン卿にタレーラン卿、王城で紡がれる物語はどれもどれも面白かったよ。特にカラス君をエッセン側で投入したのはよかったと思う」
探索者カラスの投入。その効果は大きかった、とプリシラは思う。彼がいなければラルゴ率いるムジカル正規軍にエッセンは抗う術が無かっただろう。クロード・ベルレアンやテレーズ・タレーランをエッセンは有効に使えず、仮に勝てたとしても局地的な戦闘のみ。彼ら自身は負け知らずとしても、国土を蹂躙されることは避けられなかっただろう。
もっともその『蹂躙』を、見たくないわけでもない、というのがプリシラなのだが。
プリシラは一歩踏み出し、崖に足を投げ出し座るレイトンの横に並ぶ。
見回す限りの景色は、葉雨流の大目録を得ているプリシラに、ほとんどレイトンと同じものを見せた。
「この戦場でも、多くの人が死んでいった。自分の物語を精一杯演じきって、命を燃やして輝いていた。これからの物語に期待できる子たちも大勢見つけた」
見えるのは、この戦場で今行われている戦闘、または生死。
そして既に行われた、過去の戦闘、そして生き死にの様子。
「勇者君は素晴らしかった。王城から一繋ぎになっていた彼の物語は、とてもとても。カラス君に憧れて剣を取って、ルル・ザブロックに一目惚れして、恋敵のカラス君に反発して、最期にはこの戦場で手柄を得るために散っていった。レイトンの演出で」
悪意なく、嫌みのようにプリシラは言葉を投げかける。
お前が勇者を死への道へと導いた。お前が殺したのだ、と強調するように。
「ただ正直、王城でもう一悶着起きることは期待したかな。勇者が懸想するルル・ザブロックと、それを助長するミルラ王女。そこに戻ってきた厄介な恋敵ヴィンキー・ネッサローズ、なんて想像したら面白いだろう?」
「……」
レイトンは虚空を見つめて黙る。正直彼もそれを考えないわけでもなかった。ルル・ザブロックに嫌がらせをしていたヴィンキー・ネッサローズは、ミルラ王女に強制退去させられた後、王城へと舞い戻ってきた。ルル・ザブロックを強制的に部屋から追い出し、更に勇者を巻き込んだ騒動を演出することも出来た。
しかし、一つだけ厄介な問題があったのだ。一つだけ。
「……カラス君に、嫌われたくなくてね」
自分が、自分の都合でこの流れに巻き込んだ彼。その彼の恋の相手。それを阻むのは憚られた。ずっと懐かず、今でも懐いてくれてはいない彼が、一度だけ頼ってくれたそのことに関しては。
「そうか。なら仕方ない、かな」
プリシラもその言葉に納得する。カラスのことではない。レイトンのことを考えて。
「勇者も、正直死ぬとは思わなかったよ。あそこで聖獣が現れるのも予想外だった」
「それも仕方ないよ。偶然というのは私たちにも排除できない。偶然の効果が面白くなることだってあるし、事実面白かったから結果的によかったね」
ニコニコとプリシラは応えて笑った。
素晴らしく可愛い一幕だった。勇者が聖獣を殺すとはプリシラも思わなかった。まさか、彼が嫌っていた『勇者』という称号が、それほどの効果をもたらすとは。
「偶然も、必然も、本当に人生というのは面白い」
また一歩踏み出し、プリシラは崖の縁に足をかける。体重を前にかければそのまま落ちてしまうほどの不安定な姿勢は、見る者を無意識に不安にさせて集中させる効果がある。
もっともレイトンには効果がない。それをプリシラは確認し、そして僅かに嬉しく思った。葉雨流四禁忌《散焦》と呼ばれる技法、または心構え。相手の攪乱にかからぬよう、全体を見るという基本の技術。
「人はそれぞれ、自分の物語の主人公だ。それが私を楽しませてくれる」
手を広げ、大きく息を吸ってそこからいくつもの匂いをプリシラは嗅ぎ取った。この戦場で今まさに興亡を賭けている者たちの、その一挙手一投足が眼下に投影されて映る。
「レイトン、ありがとう。よく私を楽しませるために、ここまでの物語を集めてくれたね。この戦場で生きて死ぬ人の人生。私のための物語、存分に堪能させてもらったよ」
左足に加重をして、くるりとプリシラが回る。
その足に力を込めて跳べば、ふわりと浮き上がるように崖から遠ざかった。
「ご褒美に、ここに会いに来てあげたんだ。レイトンが待ち構えていることを知りつつも、ここで何かを企んでいることを知りつつも、ね」
「それはどうもありがとう」
崖の縁に手をかけて、ゆっくりとレイトンは立ち上がる。
そうだろう。プリシラはそういう人間だ、と考えつつ。
そのためにここまできた。王城で、戦場で、いくつもの策謀を巡らせ、変装して人に干渉し、言葉巧みにこの流れを作り上げてきた。
全てはプリシラを楽しませるため。ご褒美、と心が緩むこの時のために。
「でもご褒美はまだ受け取っていないよ。ご褒美になるのは、プリシラ、お前の首さ」
レイトンの腰に帯びた魔剣ユングヴィが、何かしらの唸りを上げた気がした。
斬ってくれと言っている。ドルグワント家当主に受け継がれてきた魔剣が、その最後の一人である自分に。
豪華な拵え。細く長い剣。その柄に指を当て、震えを押さえた。
「間違いを訂正しようか」
「何かな?」
プリシラは、こて、と首を傾げる。白い頭巾の中で、柔らかな髪の毛が撓んだ。
レイトンはその仕草を見て、僅かに嘲笑に唇を歪めた。
約四十年。惨禍の日から、ほぼ同じ年数を社会に出て過ごしてきた。占い師として各地を回ったプリシラと、石ころ屋に所属し彼女を追ってきたレイトンと。立ち位置は違えど、同じように世間を見てきたはずだ。
けれども、その結論は違う。
「人は皆、自分の物語を生きている。主人公として、物語を」
「うん」
「でも、彼らが生きているのは自分の物語だ。自分のための物語だ。彼らは彼らの物語を必死で生きている。主人公として、舵を取って」
プリシラが一歩横にずれる。
その後ろの地面を、轟音を立てて亀裂が走った。
「プリシラ、この地上にお前のための物語なんて、一つもないのさ」
レイトンが剣を抜き、構える。
肉眼で見える剣は、葉雨流においてもっとも『安全』なものの一つ。
「ぼくは演出家。お前は観客。でもそれはここで終わり。ぼくらもそろそろ自分の物語の主人公をやるべきだ」
そして今日、ここで。
「終わらせよう。お前が主人公の物語を、悲劇をここで」
ここは四方を空に囲まれた断崖絶壁。
足場にはほとんど草すら生えず、見通しは地平線まで。
ならばもう逃がさない。
〈親愛なる〉プリシラ。お前との因縁も。
そう信じ、レイトンは剣を握りしめる。
その様を見て、「可愛い」と呟きプリシラはにっこり笑った。




