理不尽な魔法使い
「ぐ……うぅぅぅぅ……」
しゃがみ込んで膝をつき、両の腕で身体を隠しつつ、唸るようにラルゴが呻く。
周囲の地面は蕩けたような赤い泥濘に変わり、昼の砂漠とも段違いの熱気が下から肌を炙る。グプグプと泥濘から上がる泡から、土砂の溶けた臭いが鼻の奥を刺す。
木々は全て消失した。木々の隙間から見えていた青空が広がり、頭上を覆う。
遮るものがなくなったために吹き付ける風には、もはやネルグの青臭さはない。
ただの湿気を帯びた熱風。それも、ムジカルのものよりも強い。
「やはり形は残るか。焦熱鬼の最期の熱波、我が輩とて無事には済まないというのに」
まだ死に体ではないラルゴを見つめ、スヴェンは賞賛の言葉を口にする。
この一撃で、決着すらあり得ると思っていたのに。
だが、とだらりと下げた自分の腕が重いことに改めて苦笑する。
「それに、……今は日に一度が限度だな」
スヴェンの髪の先からポタポタと銀色の滴が垂れる。水銀のような性状のそれは、まさしくスヴェンの身体そのものだった。
熱波の生成自体に使う魔力の量は莫大だった。さらに自身に届かないようにしたとはいえその熱量は膨大で、身体を保護するためと再生するために魔力を使う。
(よくもまあ、カラスも簡単に使えるものだ。精密な操作はやはり我が輩よりも上か)
銀の滴が溶岩の中に落ちて見分けがつかなくなる。それを見送り、柔らかくなっていた拳を改めて硬くした。
「どわっちいいいぃぃぃぃ!!!!」
ぶはぁ! と自分に被せていた服を払いのけ、レシッドが立ち上がり叫ぶ。そして周囲の景色に目もくれず、離れたスヴェンに向けて目を剥いて食ってかかる。
「熱いぞこれ! 普通に熱いって!!」
払いのけた服をばさばさと振り、何とかして風を肌に送ろうとする。勿論その風も、今は熱気を帯びて肌を炙るのだが。
「なにが『これは我が輩が常に身につけて変質した服で、並の鎧よりも強固なものだ。闘気を通せば熱も寒さも完全に防げよう』だ! 全っ然! 完全じゃねえよ結局熱いんだよっ! 金物だろ伝ってきてんだよ熱が!! あとなんだこれ中に棘みたいなちくちくしたもんがあって身体に食い込んでくんだよ着てられるくぁ! こんなもん!!」
「…………」
声なく苦笑するようにスヴェンは顔を歪め、しゃがんだラルゴの脇を通り過ぎるように足を踏み出す。
元々あった水分が地中からにじみ出るようになり、温度が下がりつつある足下の溶岩。そこを冷やしつつ進むスヴェンの足跡は岩のように残る。
そしてレシッドの手から優しく服を手に取る。鼻息荒いレシッドの肩を掴んで、強引に振り返らせて背中を自分の方へと向けた。
「まあ、まだ着ておけ。これがなければ転んだとき危ないだろう?」
優しく声をかけながら、ゆっくりと、またレシッドの後ろから服を肩にかける。
ジュッ、という音が微かに響いた。
「ふんぎゃあああぁ!!?」
「うるさい鳴き声だな」
「お前これ今わざとまた熱くしたろ! やめろやめろってやめろこのやろ……っ!!」
じたばたと暴れるレシッドは、動きを止めて赤い泥濘を蹴る。粘り着くような地面から熱を受けないのは、たしかにスヴェンの靴のおかげで。
そして回避できたのは、それを邪魔しなかったスヴェンのおかげ。
だがその感謝すらしたくない思いのまま、腕を振り衝撃波を放ってきたラルゴを見つめた。
「生きてんじゃねーか!」
「当然だろう。五英将だ」
同じように避けて離れたスヴェンがくつくつと笑い、しゃがんだままのラルゴを見つめる。期待通りだった。まだ戦意は些かも萎えていない。二人を睨む目には、まだ爛々と光が宿ったままで。
ラルゴはほぼ無事な二人を見て溜息をつく。
ほぼ無事、ほぼ無傷。どうやらここでの力比べは奴らが一時優勢らしい。レシッドの左腕は奪ったが、こちらももはや無傷ではない。
咄嗟に張った念動力による耐熱の障壁は上手く作用した。しかし莫大な熱量に競り負け全身に火傷を負い、盾にした腕はもちろんのこと耳や頬などは軽くもない火傷で、ぴりぴりという感覚以上のものすらも感じなくなった。
皮膚が破りとられたような感覚。
立ち上がり落とした手から、ポタポタと血のような浸出液と汗が滴った。
楽しげにスヴェンが足下の溶岩を蹴り飛ばす。空中で礫に変わった飛沫は、ラルゴの足下に落ちてまた溶けた。
「さあどうする? 五英将が雄、ラルゴ・グリッサンドよ。貴様の一番の武器は奪った」
「……奪われたものに心当たりはないな。五体は動き、我が頭脳に曇りもなし」
ラルゴは一歩踏み出し構える。
共に手札は出したが、その代償は向こうが上だ、と確信していた。
レシッドは片腕を使えず、そしてスヴェンの身体も今の灼熱の熱波で無理をしたらしい。
対してこちらは火傷を負ったものの、運動障害はない。この攻撃はほとんど無意味で、そして奴らは隙を晒しただけ。
万全の二人に向かってこられれば勝敗はわからなかった。
けれども今の二人は手負いで、勝機はもはや充分だ。
「わかってないな」
一歩踏み出しスヴェンは足に力を込める。
溶岩の上を歩行するために編み出した足下に対する冷気。それを放出し、さらに固める足場を際限なく大きくする。
ピシピシと何処かから硬いものに罅が入る音が響く。
スヴェンの冷気が足下の溶岩を固める。その冷気が固まった溶岩を伝い、さらに周囲の溶岩へ。
みるみるうちに赤熱していた地面の泥濘が綺麗に固まっていく。ラルゴの足下すらも越えて、直径数百歩の範囲まで。
「もはや森はなくなった。貴様に味方していた幸運もこれで落ち着くことだろう」
「……幸運?」
スヴェンは楽しげに目を細め、ラルゴは訝しげに眉を上げる。
レシッドはじっとそんな二人を見つめた。
たしかに成った、とも思う。熱波の目的は一番はラルゴを直接撃破すること。出来なかった場合は、周囲の森を消し去り、奇襲や遁走を阻止できるようにすること。
地面が固まったこの周囲では、見た目の凹凸以上に足を取られることはない。目を塞ぐ塵埃はほとんどなくなった。飛び込む茂みも罠が仕掛けられた大木も、全てが文字通り消失したはずだ。
なのに、何故、とレシッドは思う。
「幸運に味方をされた覚えはないな」
幸運とはラルゴにとって、実力で従わせるもの。
ラルゴが身を僅かに低くし、両の腕を前に構える。
その様が、レシッドには堂に入っているように見えて、そして些かの焦りも見えない。
「どうする? とはこちらの台詞だ。私は五英将、ムジカル軍の最高峰。手負いのお前たちが、私に勝てるとでも思っているのか?」
空気が張り詰める。青空の下、日光に照らされたラルゴの姿が、レシッドには巨大にすら見えた。
〈成功者〉ラルゴ・グリッサンドは策士だという。けれど、もはや周囲から森や罠、障害物は消えて、そして現在手の届くところで相対している以上策の入る余地はない。
なのに何故、今までで一番の脅威を感じているのだろうか。
「さて、それはわからん」
ふらりとスヴェンが足を踏み出す。
握りしめた拳の鉄槌は、ラルゴの頭部を確実に捉えて走る。
しかしラルゴは身を屈め、一歩踏み出すと同時にそれを避け、更には。
ご、と鈍い音が響いた。
黒々流を修めたレシッドの目からも、更に離れた位置からも残像しか見えない速度での踏み込み。そこから放たれた拳がスヴェンの腹を捉えてから響くまでにも幾分か時間がかかった音。
口から血を噴き出し空中に浮いたスヴェン、その顔を正確に捉えたラルゴの回し蹴りが、身体を引きずるようにして頭部を叩き落とす。
宙に舞う衣装の布と長い髪が優雅に見えて、レシッドは、『見事』と褒めたい気すらした。
徒手空拳の格闘に秀でた魔法使いというのは、思いの外少ないものだ。
五十人に満たないエッセンの魔法使いにはそれが顕著で、そして仮に秀でていてもそこには大抵の場合欠点がある。
スヴェンやそしてカラスにも通じるもの。それは、技術の欠落。
闘気使いの多くは、闘気を身につける過程として武術を学び技術を身につける。または、武術を学ぶうちに自然と闘気を身につける。
闘気で強化された身体で、武術という技術を扱う。それが闘気使いの戦い方。
けれども魔法使いはそうではない。
魔法使いの身体の頑強さは、闘気による強化ではなく魔力による変質によるものだ。大抵の場合それは鍛えたものではなく、生来の気質による背景のない突然の変化。
そしてその身体の頑強さをそのまま叩きつけるのが、魔法使いの基本的な戦略だ。
髪を炎に変えて相手を打つ。金属製の身体を槌として振るう。……そこでもカラスは例外だが。
しかしラルゴには、そういうものがない、とレシッドは思う。
魔法使いである意味がない、というのは言い過ぎだろう。けれどもそうだとも感じた。
仮に魔法使いでなくても、その身一つで彼は成り上がれるのではないだろうか。その技術に裏付けられた無手の武術は、仮に身体能力が同じだとしてもレシッドとて危ういと感じる。
理不尽だ、と思った。魔法使いという恵まれた素養の上で武術という技術を身につけている。
あの様子では相当な鍛練を積んでいるのだろう。
恵まれた才に、積まれた努力。
なんて理不尽な魔法使いなのだろう、とレシッドは息を吐いた。
そしてそれは、ラルゴだけではなく。
今目の前で殴り飛ばされている、スヴェンとて。
二度、三度、と繰り返されるスヴェンの豪腕や豪脚をラルゴは払い、逆にその腕や脚をねじ曲げる。それは魔法を交えたラルゴの力で、スヴェンでも完全に防げるものではなかった。
岩と化した地面を跳ねてラルゴから遠ざかり、体勢を整えてスヴェンがクツクツと笑う。ラルゴはそれを見咎めて舌打ちをした。
「楽しいか」
「楽しいな、闘争とは」
こういうものだ、と続けながら、四つ足でスヴェンが跳ねた。
踏み込んだ地面が背後で砕けるのも置き去りにして。
「獣め」
すれ違うような一瞬の交錯。その間にもいくつもの打撃や斬撃を攻撃しあった二人は、スヴェンは空中で、ラルゴは地上で視線を交わし合う。
ギシ、とラルゴの腕が痛んだ。それと同じく、スヴェンの腹も。
(焦熱鬼よりは緩いが、妙な痛みがあるな。これが武術の粋か)
腹部にあっても既にその用を為していないスヴェンの内臓器官。それが歪んで機能不全に陥っているのがわかる。力任せによる破壊ではなく、効果的な角度、効果的な瞬間を狙った効率的な人体の破壊。
(やはり一筋縄ではいかん)
腹の痛みを無視して空中を蹴り、またスヴェンがラルゴに肉薄する。
もはや戦闘は、双方共に音を超えた速度で動いていた。
ラルゴがスヴェンの両手を受け止め、取り、そのまま爪先を腹部に蹴り込む。
衝撃で弾けた金属の破片が背中から飛び散る。それで終わらず、振り返りつつ袈裟懸けにスヴェンを振り回し、叩きつけた地面が轟音を立てて弾けて割れた。
「お前の強みはその剛力と再生能力だ。なるほど、私でもなかなか殺しきることは出来ん」
首を引き千切れば殺せるだろうか。そうラルゴは思うが、それすらも疑問になる。果たしてこの生物が、首を落とした程度で死ぬだろうか。
だが、殺す必要はないのだ。撃退が出来れば、あとはカンパネラの合流を待って戦いを再開すればいい。そう思い直せば、もはや憂いもなかった。
手に持っていた腕を引き、念動力を作用させて引き千切る。両の肘から引きちぎれた腕の先は、いつからか指先がまとまり刃物のように変形していた。
「だが限界はあるだろう?」
腕を投げ捨てて、更に倒れたままのスヴェンの頭を念動力を込めた脚で蹴り飛ばす。
(やはり首を守っているな)
しかしそれでも千切れない首に、ラルゴはそこが急所だと思い直した。
ならばその首を落とすのみ。
技術もなく、単なる身体能力に身を任せて向かってくる魔物。灼熱の熱波は脅威ではあるが、それも日に一度程度と本人が先ほど口にしたのは嘘ではないだろう。
弾き飛ばされ、受け身も取らず地面に横たわるスヴェン。
その姿を見てラルゴは、腹立たしくすら思っていた。
技術もなく、単なる身体能力に身を任せてくる。
それも魔法使いだ。魔法使いの身体の強化は鍛錬というよりも『慣れ』に近いとムジカルの稚児組では教えている。頑強な身体を作っているわけではない。ただその攻撃に慣れるだけ。剛力を鍛えているわけではない。ただそれだけの出力を出すことに慣れるだけ。
勿論指導の下、ラルゴも錘を持ち上げ、また火で炙られ滝を浴びて身体を強化した経験はある。
しかしそんなものを努力とは呼ばない、鍛錬とは呼ばない、というのはラルゴの信念だ。
幼い日より、全てを鍛錬してきた。
武術を鍛え、兵法を学び、誰よりもこの身を鍛えて練ってきた。
足りないものがあれば、すぐさまそれを身につけようと努力してきた。槍術も剣術も刀術も弓術も棒術も。足りぬ知識があれば誰よりも本を読み、実践しようと心がけた。どんな小さな盗賊討伐すらも、実践練習の機会だと手を挙げた。
誰よりも名を上げたいとこの身を掲げてきた。そうすればより大きな、より重大な試練がこの身を襲ってくれる。その試練を乗り越えれば、また自分は一つ強くなれる。この世の頂点に近づける。この世で一番の幸運を身につけられる。
努力もせず、強くなる。賢くなる。魅力的になる。
そんなことがあってはいけない。そんな理不尽がこの世にあってはいけない。
全ては努力して勝ち取るべきものだ。全ては鍛錬の末、工夫の末、努力の末に。そうでなければこの世の公正さは守られない。
努力もせずに得た生来の強さ。
それに任せて考えもなく向かってくる獣。
その様に、その有り様にラルゴは静かに苛つきを覚えていた。
睨む先にいるのは、横倒しになったままのスヴェン。
首を落とすべきだ。そうすればきっとこの獣も死ぬ。生死を争う勝負事において、死は明確な失敗だ。だからこそ、この獣は失敗しなければならない。
鍛練を積まずに生きてきた獣。それは、鍛練を積んだ自分に負けるのだ。運悪く。
一歩一歩と緩やかにラルゴは歩を進める。
まだ油断は出来なかった。手負いの獣とはしぶといものだ。止めを刺すまで安心は出来ず、故にラルゴもスヴェンに対し警戒は切らさない。
そしてその警戒も正しく。
「……限界、か」
見つめている先、スヴェンが千切れた腕からシュルシュルと触手を伸ばし、絡ませ、腕を形成する。
地面に手を突き、地面にへばりつくように歪んだ身体全体を引き剥がした。
「我が輩自身の限界を我が輩は知らん。これから先も知ることはないだろう」
「自己を把握していないというくだらない告白だな」
ふん、と鼻で笑い、ラルゴは小さく跳ぶ。
その足の下を、長大な刃状に変形したスヴェンの腕が通り過ぎた。
「我が輩の限界を引き出す相手を知らんからだ」
「……ならば今日これから知ることになる」
スヴェンが軽く腕を振り、作り直した腕の感触を確かめる。
結果は上々。色はまだ灰色がかっているものの、その感触はいつもと相違なかった。
スヴェンの仕草に構わずラルゴは手を突き出し衝撃波を放つ。
射程は短いながらも、雑兵なら全身の穴から血を噴き出して死ぬ程度の衝撃波。スヴェンはそれを涼しい顔で受け止めた。
「いいや。どうやら貴様でも無理らしい。貴様もまた、我が輩に克服されるだけの存在だったということだな」
無防備なまま、スヴェンがラルゴに歩み寄る。
くだらない。そう感じたラルゴはそれに応えるよう横に回りつつスヴェンの頭部を打つ。
けれども。
「わからんか? 〈成功者〉よ。貴様の攻撃では我が輩の限界を引き出すのは『無理』なのだ」
こめかみに当てた拳。しかし、ミシリと鳴ったのはラルゴの拳で、すぐに下がりつつ引いた拳に鈍い痛みが残った。
微動だにせず、スヴェンが無感情な目でラルゴを追う。
その次の瞬間。
「うっ……!?」
スヴェンの放った拳がラルゴを襲う。まともに頭部に受けたラルゴは、防御すらも間に合うことなく背中で地面を滑った。
「素晴らしい念動力だ。昔のカラスと変わらんな。我が輩にとっては紙の盾だが」
障壁を破られ戸惑うラルゴにスヴェンは追い打ちのように言葉をかける。拳を突き出したまま、残心のようだが隙だらけなまま。
「楽しい闘争の時間は終わりらしい。我が輩は既にお前の攻撃に適応してしまった」
「何を」
言い返すよりも早く、ラルゴがスヴェンに向けて飛びかかる。
無防備に近いスヴェンの急所めがけて、いくつもの強打を瞬時に放つ。どれも先ほどは全て簡単に当てられたもの。
だがしかし。
パシパシ、とその全ての拳や蹴りが払われる。
それから打ち終わりの隙を狙ったように、握りしめられた拳をラルゴはしっかりと見つめていた。
スヴェンの狙いはわかっている。鳩尾辺りへの強打をやや上から。
それを感じ取ったラルゴは自身の腹部の前に両の腕を置く。本来素手の攻撃を素手で完全に防ぐことは難しいが、達人の彼にとってはそうではない。
思った通り、スヴェンの拳がラルゴの防御の上に叩きつけられる。
次の瞬間、強化した腕を突き抜ける衝撃に、腕自体を押し込まれて肋骨が折れる音をラルゴは聞いた。
「ガハッッッ!?」
堪らずまた跳んで距離を取る。
つまらない顔でそれを見ていたスヴェンは追わなかった。
着地し、踏ん張ろうとしたラルゴの膝が崩れる。
片膝をついて倒れることを防いだラルゴに向けて、また一歩スヴェンが足を踏み出す。
静かな歩みにラルゴは何故だか緊張感を覚えた。
今の今まで打ち合っていた。今の今まで優勢だった。しかし、どこからかおかしい。どこからかがこちらの思惑から外れている。
息をするだけでヒュウヒュウと音が鳴る。胸が痛い。
「終幕だ」
「…………っ!」
唇を噛んで自身を鼓舞し、ラルゴは転がるように前へ出る。
回転しつつ、スヴェンの足首、膝、胴、肩を蹴り上がり、最後に首に蹴りを当てる。《切り裂く力》の込められた蹴りは、刃物を用いた超高速の斬撃と変わらない威力と効果を持つ。
しかしその蹴りを受けてなお、スヴェンは無傷。逆に打たれたラルゴの首が、ビキビキと嫌な音を出した。
咳き込みながらラルゴが地面に転げ落ち、スヴェンを睨む。
青空の下逆光になった顔は、暗くつまらなそうに沈んでいた。
そして今受けた衝撃。受けられた蹴りの感触。
その全てで、ラルゴは何故だか予感した。打ち負けたこと、攻撃が通じないこと、それ以上のことが一つだけ。
俺は勝てないのだ、この男には。
ふざけるな。
ラルゴの胸に怒りが満ちる。
努力もせずに得た生来の強さ。
それに任せて考えもなく向かってくる獣。
そんなものに負けて堪るものか。
努力もせず、強くなる。賢くなる。魅力的になる。
そんなことがあってはいけない。そんな理不尽がこの世にあってはいけない。
全ては努力して勝ち取るべきものだ。全ては鍛錬の末、工夫の末、努力の末に。そうでなければこの世の公正さは守られない。
幼い日より、全てを鍛錬してきた。
武術を鍛え、兵法を学び、誰よりもこの身を鍛えて練ってきた。
この国の誰よりも。この世界の誰よりも。
こいつよりも。
こいつよりも!!
スヴェンの振り下ろす刃が見える。
ラルゴが咄嗟に地面を叩く。念動力の込められた衝撃波が、地響きのような音と激しい振動を引き起こす。
足場と目測の狂い。それによりスヴェンの刃が空振りし地面を裂いた。
負けるわけにはいかないのだ。この世の理不尽に。
理不尽に打ち勝ち、〈成功者〉となる。自分は〈成功者〉なのだ、理不尽に打ち勝つが故に。
「私は〈成功者〉!! 負けはないのだ!!」
予備動作のない念動力に、ラルゴの周囲、固まっていた黒い溶岩がバキンバキンと割れて崩れていく。
意に介さず無表情のスヴェンが刃を振るう。その刃を、ラルゴは丁寧に一つずつ避けていった。そして最後に一つだけ、避けられなかったものは。
ガキン、とラルゴの左掌とスヴェンの刃が切り結ばれる。
刃は僅かにラルゴの肌に食い込み血を垂らすが、それ以上は食い入らない。激情により増幅された念動力が、金属以上の頑強さをラルゴの腕に持たせていた。
残った右の手刀がスヴェンを襲う。スヴェンはその攻撃を躱し、また左腕で受け止める。超至近距離の攻防に、スヴェンの肌にも傷が入った。
「ようやく全力か。……些か遅かったようだが」
これだけの出力ならばまだ楽しめただろうに。
悔いるようにスヴェンは呟く。挑発のように。
だがラルゴの脳内では、何処か冷静な自身の声が響いていた。
(奥の手の出しどころは今ではないか?)
脳内には、なるほど、と感心する自分の声もあった。
今スヴェンは自分との攻防に集中している。自分が見せた攻撃手段は手足での打撃と衝撃波だけだ。当然手足の動きに注目しているだろうし、刃を切り結んでいる最中の左掌などはその最たる場所だろう。
だがもしも、それ以外の場所から攻撃がきたら。
更にその攻撃が、殺気もない『攻撃ではないもの』だとしたら。
今このネルグの森の下には、大きな切れ目が走っている。先ほどまで森を走り回りながらラルゴが作り上げていたもの。
上に被さる溶岩を割り、更に念動力でその切れ目を大きく開いたら。
突然現れた地割れに、この男が《浮遊》で対応できるだろうか。
俺はどうやら鍛錬が足りなかったらしい。この男に勝つ決定的な力がまだ足りなかった。
俺はどうやら勉強が足りなかったらしい。この男を封じる決定的な手段を思いつかなかった。
けれど今日の戦いは私の勝ちだ。
反省や感想戦は後ほどすればいい。今は、目の前の男に勝てばいい。
地割れに飲ませ、封じ込めれば、倒せぬまでもしばらくは追っては来られまい。態勢を整え、カンパネラを含めて部下を再編し、また迎え撃てばいい。
今日の戦いは、これで……。
ザシュ、という音と共に、ラルゴの背中に熱感が走る。
「ぐぁ……っ!?」
驚愕と共に抜けた力に、スヴェンの刃が首に掛かったのが感じられた。
そして首を捻り見た背後には、〈猟犬〉レシッド。その手には、先ほど引き千切ったスヴェンの腕が握られていた。
(そういえば……こいつも……!?)
首に掛かった刃がぬるりと動く。
筋肉に食い入る刃の冷たい感触。ブチブチと何かが断ち切られる冷感。硬い骨に何かが当たる衝撃。胸の辺りに走った痺れるような痛み。
視界の上下が反転する。白く暗転するかのように消えていく視界。
ラルゴが最期に見たのは、刃を振りきったスヴェン。そしてその補佐に徹して気配を消していたレシッド。
そして首元から血飛沫を上げて倒れる誰かの身体だった。
「上手くいったぁぁ……」
作り上げられた死体から少しだけ後ずさり、ふはあ、と声を上げてレシッドは尻餅をつく。硬い岩に打ち付けた尻が痛かったが、それ以上に安堵の感情が勝った。
「お前のことを上手い具合に忘れていたらしいな。我が輩を囮にするとは中々面白いことをする」
刃へと変えていた腕を手の形に戻し、スヴェンはまた握り心地を確かめる。こびり付くように残ったラルゴの血が、ニチニチと音を鳴らした。
スヴェンが考えた第一計画は灼熱でラルゴを殺すこと。第二計画はその熱で森を消し去り、ラルゴの逃げ場をなくしてスヴェンが討つこと。
そしてレシッドの考えた第三計略が『それ』だった。
「我が輩単独でも討てたものを」
「危なそうだったじゃん」
「…………まあな」
レシッドの軽口を否定せず、スヴェンはちらりとラルゴの落ちた首を見る。
少なくとも、頭部こめかみに受けた攻撃はやせ我慢だった。実際には景色が揺れて、足下もおぼつかなくなっていた程度には。拳をしまい体勢を整えることすら難しいほどの。
そしてその他の攻撃も見事だった。今現在も、修復しきれない傷が体内に残っている程度には。
ぐらりとスヴェンの身体が揺れて、そのまま前向きに倒れる。
直立した形のまま俯せになったスヴェンを見て、レシッドも少々の焦りを感じた。
「そんなにだったか?」
「ああ。しばらくは動けん」
顔面を地面につけたまま、スヴェンがそう口にする。いつもならば見えていたはずの余裕が一切感じられず、レシッドもその言葉を信じた。
「あー、まあ、あんたを抱えていくのも重たいし、しばらく休憩しようぜ。俺も傷の手当てとかしたいし」
折れた左腕の添え木を作らなければ。それと、ラルゴの首を持っていく包みも。
荷物は先ほどの炎で失ってしまった。森は遙か遠くにいってしまった。
だがとりあえず、手当のために枝がほしい。森に入るしかないだろう。
「なあ、レシッドよ」
「あん?」
「楽しかったな」
「…………」
表情も見えないスヴェンの表情が何となくわかる気がして、そして何となくレシッドは答えずに空を見上げた。いつの間にか雲が多くなったが、青空。
「またやろうではないか。五英将討伐」
「俺は絶対に断る」
それからレシッドの即答に、スヴェンは笑う。
ならば是非とも次も連れて行かなければ、と伏せた顔のまま決意した。




