閑話:公正世界
「ひっでえもんだよ。楽しみやがったんだ」
「まあ」
「あの家は、グリッサンドだっけ、子供は?」
雑踏が踏むのは積み重なった細かな砂。
青空の下、口々に人々が囁き合う。
人々が囲む家屋の入り口は大破し、砕けた石材が砂利のように散る。二階建ての広くもないが狭くもない石造りの建物は、ムジカルの稚児組が暮らす街で、彼らに支給されるごくありふれた家だ。
熱砂の国ムジカル。その王都近く、稚児組と呼ばれる幼い魔法使いとその家族が集められた街の一角。
そこには一つの家族が住んでいた。
両親と子供一人。子供が魔法使いであるということを除けばごく普通の三人家族。
今その家の中は、赤黒い液体で染められていた。
「…………」
ムジカルの司法官が中を検分する様を見つめる群衆。
そこから一人、ぽつんと歩み出る少年がいた。
歳は十を少し超えたばかり、しかし未成熟ながらも艶やかに伸びた黒く長い髪に、褐色の肌は輝くよう。目を引く美貌は同世代の憧れの的だった。
その黒目は物事の正鵠を射貫く。そう評判だった彼の目は、今は自宅の玄関から離れない。
彼からすれば突然の悲報だった。
何の変哲もない日だったはずだ。今日もいつも通り暑い日で、日光は容赦なく地面を焼き熱気をまき散らす。いつも通りの喧噪が街に満ちていて、自分はいつも通り稚児組の遊戯のような魔法の修練に出かけたはずだ。
いつも通りの日だったはずだ。
なのに。
「運が悪かったんだ」
そう呟く声が聞こえた。
今目の前に広がる凄惨な光景は、ある一人の魔法使いが起こしたらしい。
とある一人の魔法使いが、突然無差別に人を襲い、家屋を破壊して回った。魔法使いにはよくあることだと少年も聞いたことがある。妄想にとりつかれた魔法使いが、目に入る全てを敵だと思い込み攻撃をする。
ムジカルの憲兵に抑えられるまでに、死人は大勢出たらしいと少年は聞いた。
その犯人の魔法使いは怪力で、目に入る全ての人間の首を、または四肢を引き千切っていったのだと。
そして結果が目の前の惨事だ。
今少年の家は血に塗れている。
少年の両親は怪力の魔法使いに抵抗し、いくらかの手傷までも追わせたのだろう。それがまずかった、とも憲兵が言っていた。
父親の頭の半分は屋根の上で鳥につつかれていた。母親の腕は向かいの家の壁にへばりついていた。血と汚物の臭いに溢れた家の中は、もはや立ち入れるものでもない。
無差別殺人。それはこの世で最も理不尽に近いものの一つ。
「運が、悪かった?」
少年はぼそりと呟く。その言葉に不思議な胸のわだかまりがあった。
泣き叫ぶ気にもなれなかった。往来には、別に泣いている声もする。路上で親の身体を引き裂かれた子供の、または子供の腹を引き裂かれた親の。
運び出されていった両親の身体は小さく、そして二人分なのにいくつもの小包のように分かれていた。
彼らはこの世にもういない、と布に覆われた小さな塊が少年に語りかける。大好きだった父の、母の声を聞くことはもう出来ない。
今朝家を出るときに、少年を見送った姿。それが少年の覚えている最後の姿だ。
運が悪かった、と野次馬の誰かは言った。
少年は、その言葉に納得がいかなかった。
ならば運が良ければ父は母は死なずに済んだのだろうか?
もしも運が良ければ、発狂した魔法使いは別の誰かを目に留めて、父母は助かったというのだろうか?
そもそも運が悪かったのは両親だろうか? それならもしかすると本来目に留まるべきだった誰かの運が良かったから、だから両親に矛先が向いてしまったのだろうか?
少年の握りしめた拳から血が滴る。目からも、いつの間にか血が一筋垂れていた。
『幸運』とは、誰しもに平等に与えられているのだという。それは個人の意思や力ではどうにもならないことで、単なる巡り合わせの結果だという。
だが納得がいかない。そんな言葉で納得してたまるものか。
運が悪かったから両親は死んだ。運が良かったから隣人は助かった。
運がそんなものならば、そんな不確かであやふやな何かで、人の生き死にまでも左右されてたまるものか。
運が悪かったから両親は死んだと人は言う。
ならば、『運』というものは確かな何かのはずだ。不定量で不明確な何かではなく、定量的で明確な何かなはずだ。
少年は大きな目で、運ばれていく両親の身体を見送った。
いつしか司法官もいなくなり、野次馬も興味を失ったように遠巻きに散っていった。
日が沈み、辺りは暗くなる。
それでも少年は動けなかった。何故、何故、と考え続けて。
暗闇の中、動かぬ少年を通行人は怪訝な目で見つめる。
そしてその少年が目の前の家屋の住人だと知ると、目を背けて去っていった。
少年は噛みしめた口の中にも血の味を感じた。運が悪かった、という言葉が幾百回も、幾千回も頭の中で反響していた。
幸運とは人の手に余るもので、幸運とは人の身ではどうにもならないものだという。
だからこそ幸運な者がいて、不運な者もいる……と人は言う。
けれど、と少年はその言葉に唾を吐いてやりたい気がした。その言葉を口にした者の首をこそ引き裂いてやりたい気がした。
運とは人の手に余るもので、無作為に人に配られるもの。
そんなわけがない、どんな人間にも無作為に運が向くのであれば、それはまったくの不公平だ。日に何百人の怪我や病の手当をする金瘡医が不運で、両親を殺したような狂気の魔法使いが幸運であって良いわけがない。
善き者、有能な者が幸運で、悪しき者、無能な者こそが不運であるべきだ。
そもそもに。
両親は、不運などではない。
両親の身体を引き裂いたのは狂気の魔法使いで、運などというあやふやな何かではなくやはり人だ。
両親は死ななかった。闘気や魔力、戦う術を持っていれば。
両親は死ななかった。暴漢による家屋内への急襲、それにきちんと備えていれば。
両親は死ななかった。屋外の異変に気付き、早急に避難していれば。
運が悪かったわけではない。力が、備えがなかったのだ。
なのに。
「運が悪かった?」
運が悪かったのだと人は言う。
両親が、魔法使いにも破れぬ厚い壁を家に備えなかったことを。両親が狂気の魔法使いにも抗える術を備えておかなかったことを。逃げるべき兆候を捉えず避難しなかったことを。
運が悪かった? そんなわけがない。
この国が平等で公正なように、この世は平等で公正なはずだ。
もしも運が悪かったというのであれば、誰しもにそんな不運が起こりうるはずだ。両親のような不慮の死が、全員に訪れるはずだ。
ならば皆あのように平気な顔をして通りを歩けるはずがない。『ああよかった』と、被害に遭ったのが自分ではない誰かだということを喜び安堵出来るはずがない。
この世は平等で公平な世界であるはずなのに。
両親は備えがなかった。危険に抗えるような、危険から自分たちを遠ざけるような、そういうものが。
仮にそれを運が悪かったというのならば、そうなのだろう。この世は運が良い者、悪い者がいる。ならば幸運な者は備え、不運な者は何も考えずに生きている。
なるほど、運が悪かったのだ。両親は。
この世は平等で公平な世界。
ならば、幸運を得る者が無作為なはずがない。幸運を得るには、きっとそれ相応の何かが必要なのだろう。
両親は、それを得るだけの力がなかったのだ。
力を身につけても、どんなに注意深く慎重に生きようとも抗えない不運。
そんなものはないはずだ。そんなものがあってはならないのだ。この世が平等で公平な世界ならば。
もしも父母が死んだのが、人の身ではどうにもならない不運というもののせいならば、そんな世界を自分は認めない。
優しい父だった。休日には砂漠に現れる湖で釣りを教えてくれたこともあった。
優しい母だった。裁縫の練習で傷つけた指を、顔を青くしながら手当てしてくれた。
彼らを、人の身ではどうにもならない不運というものが襲ったのならば、この世は全くの不平等で不公平な世界だ。そんな世界を認めてたまるものか。
だから、と少年は決意する。
俺は、全てを手に入れる。
この世で一番努力して、この世で一番輝かしく尊い人間になる。
この世で一番強く、用心深く、聡明になる。
両親の事故は不運ではなく失敗だ。
父母は失敗したのだ。暴漢から身を守ることに。日常に突然現れた人災から身を隠すことに。
単なる失敗。不運なのではない。そのはずだ。
けれどもそれを誰もが不運と呼ぶのなら。
ぐい、と少年は血の涙を手の甲で拭き取る。
その仕草に自分が泣いている気がして、それにもまだ腹が立った。
俺は失敗をせずに生きてやる。誰よりも努力して力を手に入れて、誰よりも用心して考えて行動して、全てに成功してやるのだ。
そうすれば人は言うはずだ。私は幸運なのだと。成功を続ける私は幸運なのだと。
根拠のあやふやな支離滅裂な思考に彼は気付かない。
ただ、魔法使いが故に。
成らなければならないと決意した。
この世で一番努力した人間に。
この世で一番輝かしく尊い人間に。
この世で一番強い人間に。
そうすれば、なれるはずだ。この世で一番幸運な人間に。
幸運が全ての人間に無作為に分け与えられるなどという不公平な世界を否定できるはずだ。
お父様、お母様、貴方たちの二の轍は踏まない。私は失敗をしない。不運などとは誰にも言わせない。成功し続け、いつかはこの世の頂点にまで上り詰めて見せる。
そう決意し、彼は破壊された自分の家を脳裏に刻み込む。
大好きだった両親の死からの学び。
それが現実逃避に近いものとも気付かずに、両親たちへの手向けになることを彼は祈った。




