第十五話
多分頬骨が折れている。なのにカンパネラの顔から僕の靴は離れない。その隙にと僕の脛が掴まれ、こちらも鈍い音を鳴らした。
「…………!!」
完全に折られた。闘気の賦活が半端だったのと、カンパネラの強化された膂力のせいだろう。脛骨と腓骨が完全に断裂し、破片が筋肉に食い込んでいるのがわかる。
激痛。先ほどの内臓が裂かれたものとは違う種類の。熱感ではなく痺れの混じる鋭利な痛みが足を中心に全身に駆け抜けた。
そして掴まれた足が振り上げられ、僕の身体が大きめのバッグのように持ち上げられる。
慌てて残った足でカンパネラの腕を蹴るが、折れたようでもその力は緩まない。
地面に背中から叩きつけられる。ようやく強化が出来たようで肋骨は折れなかったようだが、代わりに先ほど繋げたところが外れたようで骨折に似た痛みがまた広がった。
もう一度、とカンパネラは僕の身体を振り上げたのだろう、しかし手の力が緩んだようで僕の身体が投げ出される。
短い放物線を描いて投げ捨てられた僕は、また受け身もとれずに地面に落ちて悶絶した。
咳と共に口から血が溢れる。どこかの傷口も開いたらしい。
口の中に満ちる鉄の味が、唾を吐いても治まらない。
そして、足。
「…………っ」
僕はそれを見て、声にならない声を思わず発してしまう。
僕の右足。脛が、関節が一つ増えたようにねじ曲がっている。
痛みは勿論ある。闘争の最中痛みは麻痺するというが、その程度では収まらない痛みが。
釘を幾本も幾本も何度も何度も撃ち込まれ続けているような鋭利な痛み。転げ回りたいくらいの痛み。冷や汗も止まらない。
けれどもそれ以上に、見ていて気分が悪くなる。
気分が悪くなるどころではない。実際に、口の中に胃液が上がってきた。苦みのある液体を無理に飲み込めば、僅かに気管に入ってしまったようで咳が止まらなくなった。
「その程度、貴方ならすぐに治せるでしょう?」
カンパネラが立ち上がり、僅かによろめく。
僕も応えて立ち上がろうとするが、足に力が入らない。治せるはずなのに、魔力が通せない。
魔力が通せない理由が闘気を賦活しているからだと気付いた次の瞬間には、カンパネラの靴の裏が僕の視界の全てを占めていた。
また吹き飛ばされ、どこかの木に僕の背中が激突する。
口の中を噛んだらしい、新鮮な血の味がまた口の中に増えた。
歪んだ景色の中で、歩くカンパネラが自分の右耳を拭う。その手の先についた血に、「ふふ」と納得するように笑った。
涙を流すように右目からも出血しているようで、そちらは拭わずに落ちるに任せていたが。
「首から上がなくなったかと思いましたよ」
僕がずりずりと木の幹に縋り付くと、カンパネラが足を止める。それからごそごそと腰の辺りを探り、ピンポン球くらいの大きさの、癇癪玉のようなものを取り出した。閃光玉か。
「私の能力もすっかり理解されてしまった様子で」
僕が身を寄せている木の幹から、カンパネラの方へ影は伸びていない。
逆にカンパネラの影は僕の一歩前に迫っているが、これで何かをすることは出来ないのだろうか。……出来るだろう、先ほど木の幹の影で僕の足を固めたように。
震える手で閃光玉を持ったまま、カンパネラは僕へと笑いかける。血を流している右目は瞼も動いていなかった。
「足は治さないのですか?」
「今その最中です」
念動力で強引に整復した脛の骨は繋がりつつある。断裂した筋肉は元通りになっていないが、それでもこれで動けるはず。動けるだけ、だが。
「ではその前に」
カンパネラが閃光玉を放る。僕の後ろ、木のまた更に後ろで一瞬だが閃光が上がる。
その光で影がカンパネラの方向へと伸びる。ちょうどその木の影を踏むようにカンパネラが一歩ずれた。
身体が一瞬動かなくなる。
やはり。
僕はそれを確認しつつ、透明化、またカンパネラに向けて立ち上がりざまに拳を振るう。
その拳を、舌打ちをしたカンパネラは払った。
全快の時と比べれば拙い攻撃。そのせいもあってか、魔力波による把握だけでカンパネラに攻撃は全て防がれる。
僕が警戒しているからだろう、掴まれることもないのだが。
そして腹部に僕の攻撃が当たる……が、弱い。
突いた感触が弱々しい。カンパネラの障壁を破りつつのものだからだろうが、力が入らない今、カンパネラに有効な打撃が当たっているとも思えない。
逆にカンパネラの剣が僕の肘に当たり、肘の肉が裂けた。僕の気が遠くなるにつれ、障壁までも弱まっているらしい。そう思うことが弱まる一因だろうけれども。
闘気を賦活できれば強い攻撃が当てられる。
けれども闘気を賦活していれば透明化できず、影の攻撃を受けてしまう。
透明化している最中の魔力による強化では、カンパネラの障壁を突破できない。
本当に嫌になってくる。
戦闘を専門にする軍隊の有力者とは、ここまで隙がないものなのだろうか。
徒手空拳もまっとうな鍛練を積んでいるらしい。
鋭い裏拳が僕の首元を捉えた。避けられずまともに受けて視界がまた揺れる。
かろうじて伸ばした手がカンパネラの奥襟を掴む。
僕は渾身の力を込めて地面に引きずり倒すが、その最中に彼の剣がまた脛を掠った。
首尾よく引きずり倒したカンパネラの顔に正拳を打ち下ろそうとする。
けれども揺れる視界に目測が外れ、更にカンパネラの頭突きが僕の下顎を真下から捉えた。
怯んだ腕が取られ、綺麗に僕とカンパネラの位置関係が反転される。
僕が下でカンパネラが上。腰にのしかかられた上で、カンパネラが両手で逆手に剣を保持して、剣先を僕に向けた。
その剣とカンパネラの上半身の間に身体を滑り込ませるよう頭を持ち上げ、下から渾身の力で腹部に拳をまためり込ませる。
「うっ……!」
今度はおそらく鳩尾付近、肋骨に剣状突起が折れたようで、カンパネラが顔を歪ませた。
そのままの勢いで、腰に乗っかっていたカンパネラの股関節に膝を入れる。金的はきちんと届かず潰すことも出来なかったが、その衝撃で更に浮いたカンパネラの身体を巴投げのように投げ飛ばす。
それからもおそらく決して華麗でもないもみ合うような入れ替わりが続く。
カンパネラは剣を手放し、僕は元々無手でさらに先ほど拳が折れた。
今の自分の上下すらわからないもみ合いの中で、打ち、打たれる。
そして一段落したように静止したのは、やはりカンパネラが上、そして僕が下の時だった。
共に息が切れ、服は埃や千切れた草で汚れている。
カンパネラは動いている左目で僕を見下ろし睨んでいた。血走る右目はそっぽを向いたまま。
「貴方さえ、いなければ……!!」
僕の首にカンパネラの両手が絡みついている。
《山徹し》に何度も放った熱波、もう既に魔力は尽きかけ、カンパネラの手を外そうとしても念動力が上手くはたらかない。
やられているのは単純な首締め。その揺るがない手の力には、明確な殺意が見て取れる。
頸動脈と気道が塞がれる。苦しさに足をばたつかせても、もう力が上手く入らない。
「貴方が今どんな顔をしているのか見えないのが残念です。ラルゴ様の足下に転がってきた身の程知らずの石ころ」
パタパタと、カンパネラの唾が血と一緒に僕の顔に飛ぶ。
気が遠くなってくる。頭の中を支配しているのは、苦しさとそれに視界の端の白さ。
食いしばった唇の端に、泡の感触がする。
「ラルゴ様の下で働けば、黄金にもなれたかもしれない貴方が……!」
暗くなりつつある視界の中で、悔しそうにカンパネラの顔が歪んだ気がする。
「知りま、せんね!」
声にならない声で反論しつつ、僕は必死に脱出方法を考える。
まさに必死だ。ここでどうにか出来なければ僕は死ぬ。浴びている殺意はそう考えるのに充分なもの。
仮に僕がここで意識を失おうと、明確に死が確認できるまでカンパネラは手を緩めまい。どうにかしたい。どうにかしなければ。
どうにかしなければ、ルルとの約束が果たせない。
「……ぉっ!!」
僕の伸ばした手がカンパネラの左目を突く。
指先で温かいものが潰れる感触。一瞬緩んだ拘束を、懸命に力を込めて振りほどく。
ようやく息が出来る。
そして顔を押さえたカンパネラの隙に捻りこむよう、畳んだ両足で上向きに腹部を蹴り飛ばせば、両足から風船を潰したような感触が返ってくる。
敵を殺すときにたまに感じる、内臓を潰した感触。どこの臓器かはわからないが。
その勢いで飛んだカンパネラの身体がべちゃりと力なく地面に落ちる。
落とし穴の脇、一度背中から落ちた後、起き上がろうとして起き上がれずに俯せになって動かなくなる。
まるで落とし穴に向けて飛び込もうとしているかのような姿勢で。
……死んだ、のだろうか?
やはり呼吸による動作は見えず、心音は元々この距離からは聞こえない。
荒い息を意識して深くしつつ、仰向けのまま僕はその姿をじっと見つめる。《山徹し》でも追撃するべきだろうか。もしくは焦熱鬼の熱波だろうか。どちらにせよそこまで魔力は残っていないようで、矢を形作ろうにも指先であやふやにまさしく幻のように消えてしまうけれども。
透明化を維持する魔力ももう残っていないらしい。
歪んだ光が一瞬僕の周囲で揺らめいて、そして肉眼による視界が復活する。
全身が痛い。僕も這いずるように起き上がり、立ち上がろうとして脚の痛みで思わず転んだ。
竜鱗の外套がぐっしょりと濡れている。全身から流れ落ちているのは汗だろうか。それとも血だろうか。血といわれても納得してしまうほど、全身が痛い。
手近にあった小石をカンパネラに投擲し、命中させてしばらく待つ。
けれどもカンパネラはまさしく微動だにせず、力なくそこに横たわっていた。
勝った、のだろうか。
僕は息を吐いて、木々に覆われた狭い空を見上げる。
勝った気がしない。必死に抵抗し、その結果相手に多大なダメージを与えた。そこまでは正しくとも、その結果が。
今もなお全身に力がきちんと入らない。まるで数日間の徹夜の後、寝台に入ったように。
殺した手応えがない。いつもならば手の先に命がなくなっていった感触が残るのに。
おそらく死んだ、とは思う。
けれどもきちんと首を落とすか死体を始末するかしなければ。何だろうか、どこまでやれば僕は満足するのだろうか。
魔力がほぼ尽きたせいだろう。考えがまとまらない。どうすればいいんだろうか。どこへいけばいいんだろうか。何をするんだったっけ。
カンパネラを殺した。殺さなければならない。いや、何故だろう、死んだだろうカンパネラは。
座り込むようにして、ぼんやりとまとまらない考えを必死でまとめようとしていた僕。
その耳に、誰かの怒声が届く。
そうだ、今は戦闘中だ。未だ戦闘は続いている。だからカンパネラを殺さないと、いや、戦っているところへの救援が先だろうか?
誰が戦っているのだろうか。イラインの騎士団と、騎士団……じゃなくて、ムジカルの兵が化けた騎士たちで……。
夢現のように考えがまとまらない。
自分が何を考えているのかわからないのに、考えがまとまっていないことだけはわかる。
焦燥感のような変な気分が胸に満ちる。何かしなければいけないのに、優先順位がまとまらない。
どれからするべきだ。
まず、……まず何を。だから、カンパネラを殺さなければ。
いいや、と死体を見ればやはりカンパネラは死んでいる。ならば騎士団への救援に。それとも逃げるべきだろうか。優先順位をつけるならどれからだろうか。
思考がループしていく感覚。
どこから手をつければいいのかわからず、どこにも手がつけられない気分。
いいや、だから、まずは……。
「でええ!! カンパネラさん負けてやがる!!」
また声が響き、そして今度はその声が遠くでないことに一瞬遅れて気が付いた。
慌ててそちらを見れば、五人ほどの騎士団風の革鎧……だが多分、騎士団ではあるまい。
戦わなければ。新手だ。
そう思い、拳に力を入れるが入らない。
「でも、カラスの奴弱ってんぞ」
「うっし、じゃあ俺たちでやっちゃうか」
それでも、と膝に力を込めて立ち上がる。立ち上がってもやはり視界はふらふらと動き、身体のバランスを取るのに精一杯ではあるが。
「手~柄~」
のんきな声を上げてふらりと巨漢の男が棍棒を振り上げる。
だが遅い。カンパネラと比べれば雲泥以上の差がある。
その棍棒が振り下ろされるよりも先に、僕はその男の前に跳び、顔面に拳を叩き込む。その上で、二人目、左にいた男の首を叩き折ろうと手刀を入れるが、…………。
ガ、と二人目の男に僕の手が掴まれる。
「痛ってええええ!!」
そして最初の巨漢も気絶すらせず、折れた鼻を押さえて悲鳴を上げた。
まず……。
別の男により、肩口に鉈のような刃物が振り下ろされる。
鎖骨が折れるような衝撃とともに、僕の身体が地面に叩きつけられた。外套により骨は無事、だが僕の足が踏ん張れなかった。
「ぅぐっ……!」
「おいこいつまだ元気だぞ。腕押さえろ、お前、足」
頭上で男たちが声を上げる。僕の身体が押さえ込まれ、抵抗しても動かない。
カンパネラの時とは違う。カンパネラは膂力と技巧で僕を押さえ込んでいたが、今は僕の身体が動いていない。
振りほどこうとしても、男たちも鍛えていないわけではないのだろう、魔力もなく衰弱し力の抜けた僕など相手にならないようで、動けない。
「カンパネラ、油断したのか、もしくはこいつがそんだけ強かったのか」
そしてリーダー格らしい命令を下していた男が、呟いてカンパネラの所へしゃがみ込む。手を当てても何も反応がないことに飽きたのだろう。少しだけ揺さぶって動かせば、カンパネラの死体は落とし穴の底へと落ちていった。
次いでリーダーが、俯せに潰された僕に歩み寄り、顎を掴んで強引に顔を持ち上げる。
背骨が無理な体勢で軋む。
目の前には、おそらく皮脂だろうが、ポマードで固めたように頭が撫でつけてある男。
僕の顔を見て、不満そうに鼻を鳴らした。
「お前が〈赭顔〉のカラスか。随分とカンパネラに痛めつけられたみてえだな」
「…………」
「あいつの手柄を掠め取るのは気が引けるが、まあ役得ってことにしとくか。奴隷にも出来ねえのはちょっと不満だけどよう」
男が手を離す。重力に引かれて地面へと顔を打ち付けた僕は、ひんやりとした感触をまた頬に感じた。
「やれ」
そしてその言葉に、「うす」と誰かが応えて、刃物を振り上げる臭いがした。
死ぬ。
僕の頭にその言葉が浮かぶ。
先ほどのカンパネラの奇襲の時にも浮かんだその言葉。それがすぐにまた実感を伴い襲いかかってくる。
どうすればいいんだろうか。
死ぬ。その言葉、先ほど受け入れそうになった気がする。
でも、今は受け入れられない。思い出した今は。ルルと約束した。
優先順位をつけよう。
どうすればいいんだろうか。まず刃物を防ぐべきか、それともまず男たちの手を振り払うべきか。だがどれも行う術がない今、僕が出来ることといったらなんだろうか。
優先順位をつけよう。
いいや、つけるまでもない、決まっている。
ルルとの約束が一番だ。
生きて帰ることが、優先順位一番だ。
「あ……あああああああぁぁぁぁぁっ!!!」
思いっきり声を出して、思いっきり身体をねじる。
まだ身体には力が残っている。残っていないわけがない。もしも残っていないとしても、まだ使っていない力があるように、まだ残っている力があるように振る舞え。
そうすれば、まだ力は残っている。魔法使いとはそういうもののはずだ!
右腕を押さえていた男の力が緩み、引きずられるように前へと投げ出される。
暴れるようにして起き上がる。
その首を裸締めにするように誰かが僕の首に手を回す。だが遅い。
首に回りかけた腕に、力を込めて歯を立てる。
思いっきり力を込めて、思いっきり噛みつけば、革の鎧と中の骨ごと肉が僕の口の中を満たした。
不味い。
美味しい生肉などありふれているはずなのに、こいつらのは。
「てめええ!!」
怒る男たちになりふり構わず拳や足を当てる。
決して、突きや蹴りではない。ただ単に振り回した手足が当たっているだけ。だが構わない、生き残れるならば。
死んでたまるか。
僕の腰回りに抱きつこうとした男の顎に下から膝を当てる。それから目の中に指を突き入れて振り回し投げ捨てれば、その男は顔を押さえて膝から崩れ落ちた。
次、と僕は手近な男に目を向ける。
しかしその次の瞬間には、強い衝撃が横から僕の頭部を襲って、また僕は地面に突き飛ばされて落ちた。
それでも意識は失わない。
俯せに直り、立ち上がるべく地面を掻き毟る。膝が笑いなかなか立てないが、それでも立たないわけにはいかない。
「……殺されてたまるか……」
ルルとの約束を守らなければ。
生きて帰る。
「……死んでたまるかぁっ……!!」
戻るのだ。戦争が終わりましたと、彼女の下へと報告へ。
僕が、僕の足で。
僕は顔を上げた。
「そう。あんたもそんなこと言えるようになったのね。よかったじゃない」
未だ混乱している現場。
そこに突然現れた、見慣れない光に僕の動きが止まる。
僕だけではない。その場でまだ死んでいない男たちも。目を押さえて転げ回っている一人を除いて。
「前の『はい死にまーす。僕死にまーす』じゃなくなったのね」
クスクスと笑っている小さな光。
けれども強い青か薄緑の光。
光の中に、人の影が見える。小さくて、人形のような細身で、女性のような形の。
羽が生えている。昆虫のような、鱗粉のようなものまでも見える綺麗な羽が。
「それで?」
金の色の髪。小さくとも美しい均整のとれた身体。羽。
そのどれもが伝承で残り、また広められてきた人に似た生物。
悪戯好きで気まぐれで、人に優しく時には厳しく接すると言われる不可思議な生物。
多くの子供が夢想するというその生物は。
「私の息子をこんなにしてくれたのは、どこのどなた様かしら?」
月の欠片。
小さく可愛い妖精。
そして強い僕の母が、後ろ姿に肩を怒らせていた。
???『自分がやったことはね、絶対、どっかで返ってくんのよ!』




