第十一話
僕が馬車を前に集る聖騎士たちに歩み寄ると、待ってましたとばかりにクロードが身体をこちらに向ける。
聖騎士たちが道を空けるように騎獣の手綱を横に引き、ほんの僅かに隙間を作った。
意見を求められているのだろう。
クロードが騎獣を降りて、既に降りて直接馬車を見ていた聖騎士と合流する。それからまた僕に視線を向けた。
「どう思う? カラス殿」
「どう思うも何も、異常事態でしょう」
それ自体はクロードもわかっているだろう。
道を塞いでいるわけではないが、通行の邪魔になるよう横倒しにされた馬車。
普通ならばこれをこのまま放置などしない。
仮に何かしらの事故で馬車が破損したとするならば、この荷馬車を使っていた誰かは、馬車をもう少し道の脇に寄せるか森の中に放り込むはずだ。
もしくはそれをしない横着者がいたとして、後続が既にここを通っているならば、その後続の誰かはこの馬車を退けているはずだ。通れなくもないが通行の邪魔、であるならば。
可能性はまず、大きく分けて二つある。
まず、犯人は。
「魔物だと思いますか?」
「魔物にしては損壊が少ない。血痕も」
クロードの答えに僕は頷く。だが。
「血の臭いはしていますけどね」
「……?」
僕が言うと、クロードが眉を上げる。僕は鼻から僅かに意識的に息を吸い込み、その微かな臭いを改めて探った。
しかし、違和感というほどの違和感はない。ここは戦場ということであれば、血の臭いはするだろう。誰かの怪我、もしくは血痕、それはあってもおかしくはない。
だがそれもおかしいのだ。
こうして馬車に歩み寄ってはみたが、馬車から血の臭いはほぼしない。誰かがここで命を失ったというわけでもなさそうだし、そもそも馬車の外観はほぼ無事で、横倒しになるほど激しい何かが起こったような損壊自体がない。
ならば、と血の臭いの出所を探っても、やはり判然としない。
風上も風下もないようなぐるぐる回る緩やかな風で包まれたように、臭いの出所がわからない。逆にどこからでもする。どの向きからも、どの高さからでもその臭いが僕の鼻に届いてくる。
クロードも鼻をひくひくと動かすが、彼はわからないようで首を捻った。
「よくわかるな。獣並みだ」
「それはどうも」
「ああいや、馬鹿にしたつもりはないんだが……」
「?」
褒め言葉に礼儀として恐縮で返すと、クロードが妙に慌てたように口元に手をやる。僕は意味がわからず視線で続きを促すが、クロードはまた何かに納得したように瞬きを繰り返し、音もなく咳払いをした。
「それで、……では、ムジカル兵の仕業か?」
「ムジカル兵かどうかはわかりませんが、人の仕業でしょう」
この馬車がここにある理由。その理由の、大きく分けた二つの内の一つ。
おそらく犯人は人間だろう。
獣が馬車を襲ったならば、乗っている人間や、引いている馬や騎獣の血が残る。更に襲撃時の馬車の損壊はこれだけでは済むまい。
だが、そうでないのであれば、……人間でもおかしな点は残る。
何故馬車を残したのだろう。人や馬などは連れ去ったとしても、馬車は持って行くか、もしくは露見を恐れて隠すはずだ。
そうしないとなれば……襲ったのが露見しても問題がないほどの強者か、もしくは大人数か、という可能性も浮上してくる。
また犯人の正体は置いておいても、その『犯人』の何かを見てここにいた人間や馬は逃げ出した、という可能性も。
可能性を考えればきりがない。
だが多分人間だろう。ネルグの根の絡まる地面に、草花に紛れて見えづらいが、多分足跡がいくつか残っている。
…………。
……?
「どうした? カラス殿?」
僕はその足跡を見て、またおかしなことに気が付く。
確証はない。倒され踏まれた草、程度の足跡すらあやふやで、その性別や大きさすらよくわからない中、何となくおかしい気がする。
この馬車を先導するような足跡がある。
その誰かは『重量物』をここで喪失した。
そして最後に、この馬車自体の、轍跡がかなり薄い。
「……この馬車の持ち主は、誰でしょうか」
「わからん。紋章は、あるが……」
僕の言葉に、クロードや聖騎士が幌を引っ張ったり身体を屈ませて覗き込んだりと点検するが、名前を示すようなものは幌に一部記されたどこかの紋章しかない。
僕は各地の騎士団の紋章など把握してはいないし、クロードも同様だろう。わずかにわかるのは、どこかの騎士団の所有物だろう、程度で。
不思議な足跡を考えれば、この馬車はここに誰かが乗ってきたというよりは……。
「何かお困りか」
僕とクロードに、背後から誰かが声をかけてくる。
振り返れば、聖騎士をかき分けるようにこちらに近づく男がいた。右目に眼帯をつけた誰か。短く垢じみた髪の毛に、黒い髭。所々金属で補強された革の鎧に、大きな傷がいくつもついていた。
「…………」
「俺はデモクール騎士団、騎士団長のダイアン。何か手を貸せることがあれば、申しつけてもらいたい」
「……今はないな」
クロードがすげなく断るが、ダイアンと名乗る男が引き下がる様子はない。もう一歩足を進め、聖騎士の囲いに完全に足を踏み入れてきた。
「では、事情くらい教えていただいてもいいだろう。聖騎士様たちが道を塞いでいるため、通行が出来ない。我が騎士団も立ち往生だ」
ダイアンはそう言いつつ、聖騎士越しに背後を示す。そこには、たしかに彼の部下らしき同じ革の鎧を身につけた騎士たちが列を成し、おそらく五十人程度。手持ち無沙汰に馬の上にいた。
森の中を行けばいい、と僕は思ったが、まあここまで道を使ってきたのだ。その発想が一時頭から消えているのだろう。
……と、考え、僕の頭からもそれが消えていたことに気が付いた。
そうだ、道など、ただ通りやすいだけの地面に過ぎないのに。
まだクロードに向かい何事かを語りかけている騎士を視界の端において、僕は周囲を見渡す。
そうだ。森の中は道だけではない。茂みの中も、僕が跳んできた枝の重なりの中も、人が通る分は充分にある。
ならば、この馬車を置いていった誰かは、その茂みの中を行ったのだろうか。
僕は馬車から離れ、そっと手近な茂みに近寄る。
そういう植生なのだろう。この辺りの茂みは匂いの強い葉で、そのほかの臭いが判然とせずわかりづらい。
何かを隠すにはちょうどいいだろう。体臭や金気の臭い。そして血の臭いも。
「な……何をやってるんだ?」
僕が地面に顔を近づけ、血痕を探っていると上から声がかかる。
しゃがみ込んだ姿勢から顔を上げると、そこには鎧姿のテレーズがいる。
「誰かがこちらから逃げていないかと思いまして」
「逃げる?」
「馬車をここに持ってきて、それから逃げた人物がいます。複数名」
「どういうことだ?」
僕は立ち上がり、手を叩いて埃を落とす。埃というよりも腐葉土で、その臭いは落ちなかったが。
どういうこと、と聞かれても僕も困る。
何故そのようなことを、と考えれば、目的は『足止め』ではないだろうか、くらいだが。
「馬車は馬が引いてきたわけではなさそうです。おそらくそれも人間が」
「人間が引いてきた……というと」
ふむ、とテレーズが口元に手を添えて考える。僕はその様に、そういえばとクロードに目を戻した。
視線を察したのだろう、テレーズがひらりと手を動かし、口を開いた。
「とりあえず、いくらかの騎士団と合同で周囲に斥候を立てるらしい。私は留守番だ……カラス殿と一緒にいろだと」
「なるほど」
馬車の所から、皆が散っていく。
第二位聖騎士団員の半数ほどと、そして先ほどの騎士団長や他の騎士団の人間たちも、それとなく。
クロードも既にそこにはおらず聖騎士団員の班分けをしていた。
僕と揃ってその様を見たテレーズは、腰に手を当て溜息をつく。
「……歯痒いな。動けず、力にもなれないとは」
「それは私どもの要望でもあるので、お気になさらなくてもよいのでは」
まだ使えない右手と、心臓のこともある。
テレーズに今激しい運動はしてほしくない。いつまで我慢すればいいのか、などはわからないが、せめてイラインに辿り着いて一息つくくらいまでは。そうソラリックは進言し、クロードも承諾した。僕もそれに異論はない。
テレーズは声に出さず苦笑し、照れるように腰の剣に右手を添えた。
「カラス殿たちの心配はありがたい。だが、私は戦う側だった。今まで守る側だった。それが守られる側になるのは、やはり居心地が悪いよ」
「テレーズ殿ならばすぐに戻れるでしょう」
僕が言うと、テレーズは頷く。
「そのつもりだし、そうでありたいものだな」
テレーズとソラリックは固まって待ち、僕はその護衛として待機していた。
その内に、捜索は終了したらしい。ぞろぞろと参加した騎士団や聖騎士たちが集合を始め、馬車の前で顔を見合わせる。
もっとも皆のその顔色は暗くはないがその他の色もなく、何かしらの発見もなさそうだったが。
「誰も、何もなし、か」
報告を受け、クロードが重々しく呟く。
何もないならば本来構わない。けれども、今何もないことがとても不吉なことにも思えてくる。
僕も同じ感覚だ。僕が知り得たことも先ほどテレーズから聖騎士を通じて共有していたが、そこから先の推測には誰も進めなかった。
誰かがここで、聖騎士団の足止めをする。
ならばその次行うのは奇襲や何かで、罠を張るなり兵を潜ませるなどするだろうに。
その痕跡はなかったのだという。
クロードは顔を上げ、馬車を遠巻きに眺めるよう身を引きつつ目を細めた。
「仕方がない。各団、警戒を密にし、行軍を再開しよう。日が傾くまでには野営が出来る場所に到着できるよう」
おう、と遠慮のない返事をしたのは傭兵団の誰かだろう。クロードは気にせずそれを笑って流し、各団長に解散の指示を出した。
が。
クロードが散って行きかけた各団長を見回し、視線を止める。
同時に気付いたのは偶然だろう。輪の外にいた僕もソラリックたちを視界に納める位置に移動し、離脱のために重心を変化させた。
血の臭いが濃くなった。
「誰だ? お前は」
クロードが呟くように誰何する。その目は鋭く、いつの間にか槍を握っていた手にも力が入っている。
その視線を向けられた先ほどの騎士団長、ダイアンだっけ、は「へ?」と間の抜けた声を上げた。
「何を? クロード・ベルレアン閣下……!」
「…………」
クロードが握りしめた槍と、小手が擦れ合いギシと鳴る。クロードが一歩踏み出したところで、騎士団長は尻餅をつくように倒れ、見上げるようにクロードを見た。
クロードは、その騎士団長を気にもせず、視線を騎士団長の頭上を通り過ぎるように向けたままだったが。
視線の先には、一人の聖騎士。白い外套の下には金属の鎧。正装に近く、それは皆が着ているものと同じ。
だがそこからは……。
遠巻きに騎獣の側で準備を始めていた聖騎士たちが、ざわざわと声を上げる。
騎士たちのうちいくらかは、困惑のまま彼らを見ていた。
「カラスさん?」
「ソラリック様、逃げる準備をお願いします」
テレーズも、と僕が視線を向ける。テレーズも、頷いて応えた。
誰かが叫び声を上げた。
「うわあああ!!」
クロードと、件の聖騎士以外がそちらに注目する。声は森の僅かに奥から。
小用でもしようと思っていたのだろうか、下半身の鎧の留め具を一部外した騎士が、茂みから転げるように駆けだしてくる。
「死体が……!! 誰か、死んで……!?」
ざわざわとどよめきが広がり、聖騎士団がおそらく先ほどの班のまま数人森の奥へと入っていく。それは先ほど聖騎士が捜索していた辺りで。
「……なるほど、……な!!」
飛びかかるようにしてクロードが不審な聖騎士へと斬りかかる。
その槍を、腰にあった小剣で弾いて聖騎士は下がった。
「その服は誰の服だ? ジョージか?」
「知らない」
んべ、と偽聖騎士が舌を出す。失敗した、という雰囲気を隠しもせず。
なるほど、と僕も内心呟く。
馬車は聖騎士団を足止めするため。足止めされたクロードが斥候を立てることを考えて、森の中に潜み、そして現れた聖騎士を闇討ちし成り代わって……。
あ、と僕はその事実に気付く。
馬車を誰かが持ち上げて、クロードへと投げつける。それも聖騎士の外套を身につけた誰かで、おそらくクロードの知らない誰か。
聖騎士は班で行動していたはずだ。
そして気付かれずに闇討ちするならば、対象は一人だけというわけにはいかないだろう。
それに、この分では……。
「おおっと行かさね……!?」
僕の前に立ち塞がった鎧姿の男たちの頭を蹴り飛ばして引きちぎる。
剣を抜いたテレーズの前を、頭部とそれを失った身体が滑るように飛んでいった。
鎧姿の男たちは、騎士団員だったはずの者たち。
もう一度見れば視線の先、先ほどクロードに怯えるように倒れた騎士団長を、聖騎士の一人が引き起こす。
……そして、騎士団長が、聖騎士を、刺した。
騎士団の中にも既に『成り代わり』がいるらしい。
いいや、多分、元から。
漂っていた血の臭いは、きっと彼らから。
それからあっという間に、乱戦が始まる。そこかしこで剣が抜かれ、槍が打ち合わされ、矢が飛び交う。
街道の中に集まっていた騎士団たちが、敵味方の区別なく森に侵食するように広がっていった。
「っ糞がああぁぁぁ!!!」
僕に向かってきた騎士鎧の黒髪の女。その振り下ろす槍を避ける。地面に当たった槍を踏みつけ、僕は拳を握りしめた。
だが。
「あ、あの!! 待って!! ごめんなさい!! 味方でした!!!」
槍を踏まれた瞬間、更に僕の顔を見た女が槍から手を離して手を上げる。
本当だろうか。
「…………」
僕は無言で槍から足を退ける。それから一歩下がると、頭を下げて女が槍を拾い上げ背中を向けた。
僕はその背中を見て、手を下ろす。
そしてその次の瞬間、くるりと回転した女が身を翻しつつ懐の短剣を僕の首に向けて振るった。
鮮血が飛ぶ。
無論、僕が払ったために折れて骨が突き出た女の腕と、腹を蹴ったために女の口から。
乱戦。そして、敵味方がわからない。
見渡せば、同じようなことが起きているのだろう。困惑するような顔で叫び声を上げて倒れる騎士たちがいる。
テレーズもソラリックの前から動けず、手を出せずにいるのはそのためでもあるだろう。
聖騎士すらも味方とは限らず、顔見知り以外は信用できない。
その上この乱戦では顔の確認もしづらい、と。
逃げるべきかな。
僕は一歩足を引く。ソラリックを抱え……どうしよう、テレーズを抱えてソラリックには走ってもらった方がいいだろうか。走らせていいものだろうか。まあこの緊急事態だしよしとしよう。
そういえば、騎獣は。
乱戦の最中、待避している騎獣たちが森の中で遠巻きに見ている。彼らも彼らで困っているのだろう。緊急時、戦闘に参加できるよう訓練されているとはいえ、敵がわからないこの状況では。
僕が抱えるよりはその方がいいか。
「逃げましょう。適当な騎獣を使って、お二人はそれに乗って」
「わかりました」
ソラリックが素直に応え、テレーズは渋々と頷く。
視線の先には、偽聖騎士三名と打ち合っているクロード。一人は倒したらしく、足下に転がった白い外套からは内臓が零れていた。
僕たちの所は避けているのか、敵はなかなか来ない。
ならばちょうどいいだろう。
歩み寄っても、警戒しつつも逃げない騎獣たち。その手綱を僕は軽く引く。ソラリックにその手綱を渡すと、テレーズも近くにいた騎獣に跨がった。
手綱を揺すられた騎獣たちが、一声鳴いて走り出す。
僕も……。
「ああ、やっと一人になってくれた」
駆けようとした僕の足がぴたりと止まる。止めたわけではない。おそらく、止められた。
異変に気付いたテレーズが騎獣を止めるが、それよりも早く、視界の中に現れた剣が僕に迫るのが見える。
木の影が、捲れ上がるようにして立ち上がっている。
影の形が、人の形になっている。
その人が、僕に向かって剣を伸ばしている。
上半身が未だに半分黒く染まっているカンパネラ。
振りかざされるように迫る剣。
その姿を見て、何故だか僕は察する。
横たえられた馬車。聖騎士団への襲撃。
狙いは僕か。




