閑話:掌の向こう
この次の話になる予定だった話の前半部分を前話に挿入しました。この話に修正はありません。
テレーズが目を覚ましたのは、カラスたちが天幕を去ってからしばらくの後だった。
先ほどまでの魘されていた姿ではなく、力なく寝相よくただ目を閉じていた姿から、静かに目だけを開く。
悪夢もなく、夢すら見ていない。気付けば自分はそこで寝ていた、と見上げた天井を見て気が付いた。
今はいつで、ここはどこだ。
何故自分はここにいる。
自分は何をしているのだろう。
見当識を完全に失ったテレーズは、視界に映る全てが何一つわからないまま、力の入らない四肢を動かして、自身の身体を確認しようとする。
だらりと横たえた身体は重い。だが、動く。それだけ確認できれば充分だと思った。
ここは、ムジカル軍の天幕だろうか。見慣れない天幕の中にそう考え始めた頃、天板の固い木の寝台の横に、誰かがいることにようやく気が付いた。
そして視界の端にいるその男は、見慣れた顔で。
「意外と早く起きたな」
安堵を前面に押し出し、クロードが笑いかける。その様に一瞬何が起きているのかもわからず、テレーズは猫目を見開いた。
「クロード!?」
反射的に勢いよく身体を起こそうとし、そして腹筋に力が入らず、起きられずに寝台の上でただばたついた。
クロードはそれを見て笑みを強める。
「傷はないそうだが無理はするな。今は少しでも身体を休めろ」
「起きられるか?」とクロードは尋ね、テレーズはそれに頷く。
ゆっくりと身体を起こせば、今度はたしかに起きられる。しかしそれだけで重労働を行ったように、テレーズは自身の心臓の拍動が強く感じられた。
息が切れる。胸が押し潰されるように。
だが身体を起こせば、息苦しさは少しだけ軽くなった。
寝台に足を投げ出したまま、力なく俯き右手で額を支える。
どうなった。どうなっている。自身に起きたことに戸惑いつつも、一つずつ現状を飲み込むように頭の中で整理していった。
「……第七位聖騎士団は、どうなったんだ?」
「全滅したらしい。お前を残して」
「…………そうか……」
全滅。それを聞いて、テレーズは目の前が更に暗くなったように感じた。
落ち込むテレーズを見てクロードは言葉に詰まる。自分のことよりもまず部下のことを、というのは彼女らしい、とどこか感心しながら。
「私は、……どうなったんだ? イグアル・ローコに負けたのは覚えてる」
力のないテレーズの言葉に、クロードはどう答えていいものかを一瞬悩んだ。『助かったんだ、それでいいじゃないか』という月並みな慰めが浮かぶが、彼女に対してそれが正しいのか、それがわからない。
忘れているのだろうか。それともまだ混乱していて、記憶が混濁しているだけなのだろうか。それを探ろうとテレーズの目を恐る恐る見ようとするが、俯き更に右手の陰にある彼女の目は見えなかった。
「…………」
「教えてくれよ」
懇願するような言葉。しかし何かに恐れているようにクロードには聞こえる。
それでも、はぐらかすのは無理だと感じたクロードは、正直に答えようと努めるよう決めた。
「……お前は、ムジカル軍にとっ捕まっていた。イグアル・ローコ直々に折檻を受けていたらしい」
「………………だろうな」
自嘲しテレーズは口元を歪める。クロードの言葉に、自身の身に何が行われたか少しずつ思い出せてきた。
切り落とした右腕の手当とイグアルは言っていた。楽しそうに、部下たちと共に自分の身を押さえつけ、骨を鋸で切り詰めていた。
血管は縛り、また焼き、傷口を縫い付ける。少々の痛みならば慣れているはずのテレーズすら、失神しそうになり、失神しても痛みが気付けになり覚醒させられる。
何度気絶と覚醒を繰り返したのだろう。数え切れないほど。せめて、とイグアルの顔を瞼の裏に焼き付けるよう睨み付けていたのも思い出した。
力なく右手を落とし、深呼吸する。
そうだ、思い出した。切り落とされた右腕の痛みを。
自分はこの右腕を失ったのだ。今まで鍛錬を続けてきた大事な相棒の一つ。素振りですら身体を痛める青星流の鍛錬にも、根気強く付き合ってくれた大事な身体。
もう剣は振れないのだ。
隻腕でも剣が振れないわけではないが、今まで通りの働きをすることは難しい。
大昔の戦で片腕を失ったこの国の第一位聖騎士団長〈隻竜〉は、それでも第一位という凄まじい働きだが、自分はそこまでの大物ではない。
右腕の、切り落とされた辺りを左手で撫でる。
「引退か。私も、これで」
「お前がやめたいと思うなら、止めんよ」
五体の有無にかかわらず、心が折れてしまえば、聖騎士として戦場に立つことは出来ない。
クロードもそれがわかっているために、敢えて止めなかった。
しかしそれと同時に。
笑うところではないのに、クロードは何故だか可笑しくなる。
その態度を表に出せば、テレーズが苛つきを覚えることすらもわかっていながら、今が深刻で大真面目な空気であることもわかっていながら。
クロードの内心を知らず、テレーズは力なく笑った。
「もう聖騎士に相応しい力はないよ。左手で剣を振るったとしても限界がある。これから日常生活も不便になるな……」
怪我や病で手足を失う。ありふれているわけでもないが、ないわけではない。ムジカルよりは少ないが、エッセンでも傷痍兵はいるし、残念ながら僻地などで治療師が間に合わずに手足を失った者も大勢いる。テレーズもそれは大勢見てきた。
そして中には適応し、利き手ではない手を利き手同様に使える者もいたが、そうでない者もいる。おそらくはこれからの自分も後者なのだろう。
引退だ。為す術なく、これは、もう。
クロードは真面目な顔で、深く頷く。その頷きは特に意味がなかった。
「俺も、さっき一度聖騎士をやめたんだ」
「は?」
そしてテレーズは、その言葉の意味を理解できなかった。
「……何を言っているのかわからないんだが?」
「うん。で、さっき色々あってまた聖騎士をやらなければいけない事になったんだが」
「だから、何? やめたって?」
テレーズの反応を見ずにクロードは続ける。
「一度やめたとき、じゃあこれからどうする? ってのはさっきカラス殿に聞かれたことなんだが」
「まずお前は私の話を聞けよ」
「実家に帰って、食堂や宿でも開こうかなとか色々考えてな」
他愛もない話。突拍子もなく脈絡もない。
だが、大事な話。
「お前は……聖騎士やめるのか? やめるんなら先にどこかで店を開いてもらってると助かる。事情が片付いたら、俺もその後合流するから」
「……さすがに、今はふざけるところじゃないだろう?」
苛々する。
テレーズは幼馴染みのあまりの無神経さに腹が立つ思いだった。
突拍子もなく脈絡もない話。人が部下を失い、腕を失い、職も辞さなければいけない悲嘆に暮れている今この時、そんなときにする話ではない。
クロードもそれはわかっている。
まだ状況がわかっていないテレーズに向けて発したこの言葉は、今彼女の癇に障るということも。
だが、ふざけざるを得なかった。真面目くさって言ってしまうのは性に合わなかった。
何せ、今の自分は品行方正な聖騎士様ではない。
無論、テレーズからクロードへの信頼は残っている。
テレーズは、薄々勘違いをしていた。この幼馴染みは今、きっと自分を発憤させようとしているのだろう。怒らせ、沈んだ気持ちを奮い立たせようとしているのだろう。
きっと悪意はないのだろう。幼馴染み故のそういった信用はある。
だが、さすがに今の言葉は限度を超えている、とも同時に思った。その言葉の意味を理解して、ありがたがるなどそういう気にもなれなかった。
しかしならばいい、乗ってやろう。
そうテレーズは顔を上げ、いきり立った顔をクロードに向けた。
「お前はっ……!」
右手でクロードの襟を掴み、思い切り引き寄せる。いつの間にか消えた真面目な顔の代わりに、「うひい」とおどけて怯える幼馴染みの顔にも腹が立った。
「私が、今どんな思いで……!!」
そしてテレーズの本気の怒気に、クロードも苦笑いを通り越し、本気の謝罪に入る。仮に殴られようとも防御をする気もないが、両手を顔の下まで上げて命乞いのように口にする。
「その、落ち着けって。俺が悪かった」
「もう私は剣を振るえないんだぞ!? 部下たちの仇をとるために戦うことも出来ない! あとは逃げ帰るだけだ!!」
部下が死んだ。腕を失った。これから職も失うのだろう。
全てがなくなってしまった。もう残されたものはなく、今の自分はただの少々腕が立つ程度の、片腕の、どこにでもいる女でしかない。
そうなってしまえば。
「もう、お前と戦うことも出来ないんだ……!」
もう追いつけない。昔は下にいた。いつか並んだ。今では遙か上にいる。この幼馴染みと、同じ場所にいるとはいえないのだ。
「…………」
また俯いてしまったテレーズに、クロードは『ふざけすぎた』と内心反省した。
なんとなく恥ずかしかっただけでとった自分の行動。軽口。今口に出すことではなかったものだろう。
たしかに今、この幼馴染みの状況は悪い。率いていた聖騎士団を壊滅させ、帯同していた騎士団の戦力の低下も招いた。それまでの功績もあるため罰されることはないだろうし、王の都合もあり職を失うこともないだろうが、しばらく身の置き場がなくなることは想像に難くない。
配慮が足りなかった、とも思う。彼女が部下たちの死を悼まないはずがないのに。
だがしかし、それでも。
クロードは自身の襟を握るテレーズの右腕をとり、静かにそっと引き剥がす。
それから握ったまま、「テレーズ」と静かに呼びかけた。
「すまなかった。俺のせいで、許せとは言わん。気持ちが晴れるなら、あとで存分にいくらでも殴ってくれ」
その手で、と内心クロードは付け加える。さすがに無防備な状態でテレーズの拳を受ければ死も充分に考えられるので、実際はやらないでほしい、とも思ったが。
「けれど、俺の気持ちもわかってほしい。お前が助かって本当に嬉しかった。何事もなく生きて帰ってきてくれて、本当に嬉しかった。お前じゃない誰かが千人帰ってくるより、お前一人が帰ってきてくれたほうが俺は万倍も嬉しい」
言いながら、その話ではない、とクロードは自身の発言が理解できなくなってきていた。
口を滑らせた、と同じ気分だった。嘘を言っているつもりもないが、それもここで言うべきではないのだと感じた。
今一番伝えなければいけないのは。
「お前のこの腕は」
「……もういいよ。クロード」
もういい、というよりも、もうどうでもいい。
テレーズはそう自棄になる思いだった。もうクロードと肩を並べることは出来ない。もうクロードに追いつくことは出来ない。もう戦士としても傷物で、そして捕虜になっていたと言うことで、事実は置いておいても噂の上では女としても傷物だろう。
命が助かった。それは良いことだ。しかし良いことはそれだけだ。
「もう全部終わりなんだ。私は……」
「いやその、俺の言い方とか、態度が悪かったのは謝るから、話を聞いてくれよ」
「話? 話って何だ?」
口元だけ笑みを作り、テレーズは苛立ちと怒りをクロードへ向ける。
話、話、話。今話などしてなんになる。
もう放っておいてほしい。足手まといで、傷物の汚れた私など。
「お前のこの右腕は……」
「話をすればいいのか? なんだ? お前と話せば、私の右腕が生えてくるとでも言うのか?」
クロードの言葉を遮り、テレーズがケタケタと笑う。
「さすがにいい加減にしてくれよ、クロード。一人にしてくれよ。私だって」
言葉を切り、クロードに手を握られている右腕をさすった。
「整理をつける時間がほしいんだ。これからのことだって考えたい。ここがまだ戦場だっていうのなら、ゆっくり出来る時間がないのもわかってる。でも、さ、本当に」
考えに整理をつける時間がほしかった。
部下を失った。右腕を失った。全て無くした今、少しでも。
クロードに瑕疵はない。八つ当たりなんてしたくない。だから、それが我慢できる位になるまでは。
「お前が私を元気づけようとしてくれていることも知ってる」
「あの、だから、な? この右腕の……」
「離してくれよ。腕のことについては……あれぇっ!?」
声を鎮め、懇願するように呟き続けていたテレーズが、自らの右腕を見て驚愕する。
心臓が跳ねたように動き、苦しいような痛みを発する。
クロードに今まさに握られている手。それはまさか、切り落とされたはずの。
「このお前の右腕のことについて、説明させてもらいたいんだが」
「………………」
ぱくぱくと口を開閉させ、テレーズがクロードを見つめる。
クロードは冷や汗を流しながら、気まずさに目を逸らした。
…………。
……
「なるほどな」
クロードに顛末を簡単に聞いたテレーズは、傷一つ無い自らの手を開閉させて眺めた。
まるで生まれたての赤子のような掌。もちろん筋肉の量のために赤子のような柔らかさはないが、滑らかな肌は左手と比べて差は明らかだ。
両手を摺り合わせれば右手側だけが削られるよう。まるでこの手を治してくれた二人の内一人、カラスと握手をしたようだ、とも感じた。
「まだ完全に治ったわけではないから、あまり力を入れてはいけないそうだ。握っただけで拳が割れるかもしれないとも」
「ふむ」
正確には手の甲の骨が折れるかもしれない、とカラスたちは言っていた。まだ完全に骨が出来上がったわけではないから、と。ソラリックは、まずは滋養ある食べ物をきちんと取って、期間をおいてから聖教会に来てほしいとも。
少なくともしばらくは、夜に果物しか食べない生活は禁止だ。
クロードが途切れ途切れに伝える言葉を、テレーズは話半分に聞いていたが。
「不思議なもんだ。たしかに私の手なのに、私の手じゃない」
見つめる赤子のような掌は、たしかに自分のものだった。見覚えのある爪の形、指の長さに太さ、色、その他全てが今までの人生で慣れ親しんできたものだった。
けれどもやはり、違う。
「傷もないし、固い肌でもない。きっとこれは、別の人生を歩んだ私のものなんだろうな」
「だが今はお前のものだ」
「そうだが」
クス、と笑いテレーズは足を寝台から下ろす。寝台に腰掛けるようにして、そこから立ち上がろうとして目の前が暗くなりかけてそれをやめた。
「無理するなと」
「一応礼儀というものがあるだろう」
立ち上がろうとしたのを見咎めたクロードの心配を、テレーズは笑い飛ばす。
「礼儀?」
「ああ。……さっきの態度、すまなかったな。お前が助けてくれたんだったら、まずお前に一番に礼をすべきだったのに」
言いながらテレーズは頭を下げた。金と白と緑の髪が、汗に濡れてもなおさらりと落ちる。
「ありがとう、クロード」
「俺は、当たり前のことをしただけだ」
「私を助けて、部下の仇をとってくれた。命令違反までして」
「よせやい」
気恥ずかしくなり、腰に手を当てクロードはそれを止める。
そんな幼馴染みのいつもの態度に、テレーズはなんとなく真面目な態度がばからしくなる思いだった。
それでもけじめはつけなければならない。
顔を上げたテレーズは、あくまで聖騎士らしく、規律正しく背筋を伸ばした。
「ソラリック殿とカラス殿の件、了解した。私は後遺症の残る怪我など負っていないし、単なる手当を受けただけだ。それでいいんだろう?」
「ああ。そうしてくれると助かる。俺も、カラス殿とは喧嘩したくない」
「私もだ。何か礼をして取り入っておかないとな」
二人顔を見合わせて、声を忍ばせて笑う。
テレーズが咳き込んで笑いを止めるまで。
「それで、さっきの話なんだが」
「さっきの話?」
クロードが切り出すと、テレーズはきょとんとした顔で聞き返す。どのさっきの話か見当も付かなかった。
クロードは白湯の入った水筒を握りしめ、その答えを探るように補足する。白湯は、カラスが先ほど沸かして置いていったもの。
「これからどうするかという話だ」
「これから、……ああ、それか」
テレーズは、クロードが聖騎士をやめるなら、という話だったと記憶している。
更に、右腕を無くしたテレーズが聖騎士などやっていられない、ならば、とクロードから言いだした提案のようなもの。
「宿屋とか食堂だっけ?」
「そう、それ。お前はどう思う?」
「どう思うって、勝手にやれよ」
テレーズは間髪を容れずに言い返す。僅かに苛立ちが混ざったのが自分でも不思議だったが、しかしそれでも事実そうだと思った。
「しかし難しいんじゃないか? まず仕事がなくなったらお前の場合水天流の道場の仕事しろって言われるだろう?」
「そうなるんだが」
聖騎士団長になってからは実家から催促されることはなくなったが、しかし以前は催促が止まなかった。
聖騎士よりも、道場の仕事を。全国数万の水天流の門下生を束ねる身として、相応しい仕事を、と。
そこから逃れるために聖騎士団長をやっているという側面もほんの僅かにある、とクロードは自覚している。
『水天流の看板に箔をつけるために』と理由をつけて。
苦ではない。向いていないわけではない。水天流掌門という立場。けれども、そこに束縛されることを嫌っての僅かな反抗で。
水天流の掌門は、分家を含めたラザフォード家の者の内最強の者が指名される。
既にひ孫弟子までいる立場。早く誰か次代の者が育ってくれないか、とクロードも焦れている思いだった。
それに、その話はそこが本題ではない。
「お前もどうか、って話だ」
「私も? 私に宿屋や食堂で何をさせたいんだ?」
何を馬鹿なことを、とテレーズは聞き返す。所詮自分は戦うしか能が無い一人の武術家だ。幸運なことに腕を失わずに済んだが、ならばこれからも戦い続けるしかない。
そう思い込んで、また決めていた。
クロードは唾を飲む。テレーズが頑なな態度を取っているわけではない。ただ自分の説明が下手なだけなのだろう、と。
覚悟して、また先に後悔しそうになる。
何故こういった話題になると、流暢な会話が出来なくなるのだろう。
「こう、させたいんじゃなくてな」
「?」
「一緒に、何が出来るかって話を、な?」
「一緒に?」
まだクロードの意図が理解できず、テレーズは首を傾げ、その仕草にクロードはまた『違う』とも思った。
今度は言葉の機微も交え。
「私とお前、一緒になんかやるっていうなら戦うことだろ。何言ってんだ?」
「ああ、うん。お前はそういう奴だった」
そして今回は諦めるべきだろう。なんとなくそう確信したクロードは、ぐい、と手の中でほとんど冷めた白湯を飲み干した。
白湯をもう一杯飲もうと、小さな鍋を傾けて冷めつつある湯を水筒へクロードは流し込みにかかる。
「お前も飲むか?」とクロードはテレーズに尋ね、まだ飲み終わっていないテレーズは「いや」と首を横に振った。
「なんか疲れたな。少しまだ休みたい」
「まあ、無理もないだろう。撤退は俺も付き合うから、好きなだけ休むがいい」
「うん」
特に意味の無い会話。共に戦場とも思えない穏やかな雰囲気。
テレーズはクロードの背中を見ながらぼんやりと考える。
(一緒に何が出来るか、か)
クロードの意図が理解できなかったまでも、テレーズはクロードの真意を無意識に解して思考を向ける。
宿屋。食堂。それはきっと一例までも、自分たちにはたしかにそういう道もあったのだろう、と。
何故だか鼓動が速くなったことを感じながらも、その道を考える。先ほど自分の掌を見つつ覚えた不思議な感覚。
掌の先にあるもう一つの世界。
この手に、剣の鍛錬の跡などない。
聖騎士などにならず、街の道場に通いもせず、街で静かに暮らして生きた自分のもの。
もちろんそんな生き方をした自分は、きっとこの歳まで生きられず、静かに老いて死んでいったのだろうが。
掌を通し、テレーズはそんな自分に視線で問いかける。
幸せだったのだろうか。戦いも知らず、争いも知らず。精悍な部下たちも連れず、死に別れることもない自分。
姉たちと共に葡萄を踏み、葡萄の収穫量と酒の生産量の書類の文字と睨めっこをする。おそらくそんな日々。
幸せだっただろうか。今のこの世界にはいない貴方は。
考えると胸が苦しくなる。
もし次の人生を送れるのならば。
考えが飛躍し思考が飛ぶ。自分が聖騎士になどならなかった世界。こんな自分が、聖騎士など目指そうとも思えなかった世界。
そうなる世界というのは、きっと戦乱など知らず、勇者の暮らしていたという優しさに溢れた世界に似ているのだろう。
諍いは口喧嘩で大抵終わり、手が出れば国中にそれが知れ渡る。人を殺せば大きな騒ぎとなり、そんなことよりも、可愛い動物や綺麗な花が咲いたという日常の風景こそを、皆が知るべく伝えられる。
平和な世、平和な国。
剣を振るしか能が無い自分が、剣を知らずに生きるような世界。剣を手に取ろうと思わずにいられた世界。
そこではどんな自分が暮らしているのだろう。
料理など戦場料理しか作れない自分が、宿や食堂で何かを作り客へと出す。そんな風景は想像できない。だが、仮にそういうことを自分がしているのであれば。
きっと一人ではあるまい。隣に誰かがいる気がする。いてほしい気がする。
そこには豪快で、たまに小心者で、剽軽でいつもふざけている幼馴染みがいる気がする。
いてほしい気がする。
いてほしい。
「クロード」
「ん?」
テレーズも勢いよく白湯を飲み干し、水筒をクロードに向けて差し出す。
やけに喉が渇く気がする。
最後の一口を飲み込んだときに、喉に詰まった気がして咽せた。
咳に水筒を揺らしながら、「私にもくれ」と言い、クロードはそれを頷いて受け取った。
テレーズは喉の奥で笛を鳴らすような音を僅かに発しながら、軽く胸を叩いて何かの塊を下に落とそうとする。
それでも何かの苦しさは落ちていかなかったが、手の力が抜けるようでそれ以上叩けなくなった。
「さっきの話だが」
「さっきの?」
先ほどの話。クロードが口にし、テレーズが見当が付かなかった話。
全く同じ事をテレーズが口にし、今度はクロードが一瞬何か解せずに聞き返した。
クロードの背中に向けてわずかにテレーズは笑い、深呼吸をしようとする。だが何故だか出来なかった。
「宿か食堂? お前と一緒にやるの、……わりと楽しそうだな」
「…………だろ?」
どちらが料理を作るかなど決まっていない。
もしかしたら案外自分よりもクロードは上手に作るかもしれないし、そうしたら自分は何をしよう。皿洗いや配膳、その程度しか出来ないかもしれないが、きっと楽しい。
ほとんど一瞬のこと。
テレーズがまどろむように目を瞬かせる。急に眠くなった気がする。目の前の視界が暗く、頼りなく揺れる。
うつらうつらと居眠りをするように、テレーズの力が抜ける。自身でもそれはわかっていたが、どうすることも出来なかった。
声を上げられなかった。声を上げるための口を開くための気力が、急激に失われた。
見えるのは、こちらを見ずに、しゃがみ込んで鍋を見ているクロードの大きな背中。
温かそうなそこに手を伸ばそうとして、手が伸びなかった。
幸せな夢想が、心に満ちたまま。視界だけが傾いていく。
脱力した身体が寝台にぶつかったのが、テレーズの感じた最後のことで。
勇者の世界では、ストレス性心筋症と呼ばれる病がある。
たこつぼ心筋症などというどこかユーモラスな別名もあるそれは、急激なストレスにより発症し、心臓の動作を一時不確かなものにする。
症状としては、胸痛、呼吸困難が主。心臓自体に器質的な変化もほぼなく、ほとんどが軽症で終わり、何の手当もなくとも完治することも多い。
だが、ごくまれに重症化した場合。
「テレーズ?」
どさりと重たいものが倒れた音がした。
振り返ってみれば、そこには今の今まで会話していたはずの幼馴染みが、寝台に一時もたれかかり、床に落ちていく姿。
眠っているわけがない。今の今まで受け答えまでしていたのだから。
ならば、何故。
名前をもう一度呼び、肩に手をかけクロードはテレーズを揺さぶった。
しかし反応がない。まるで気絶しているかのように。顔をすらも歪めず、吐息もなく。
たこつぼ心筋症。
ハートブレイク症候群などというどこか牧歌的な名前すら付くように、失恋などで発症することも多い。または恋愛が成就した、そのときにも。
強いストレスで発症するそのユーモラスな名前の心筋症は、ほとんどの場合ごく軽症で自然と完治するものだ。
だがごくまれに重症化した場合。
心不全、また致死的な不整脈。
それらを複合として起こし、意識を消失させ、全身の循環系を麻痺させる。
そしてその結果。
突然死の原因にもなることがある。
「テレーズっ!!?」




