第六話
「ベルレアン様もご存じなのではないでしょうか。聖教会では、失われた腕を取り戻す秘術は許されていません」
「…………」
クロードは僕をぼんやりと見つつ視線を漂わせ、ソラリックの言葉を聞く。
僕はクロードの腕から既に手を離していた。今度は僕が止められそうになる番だろう。手負いのクロードに止められる気もしないが。
「『失われたものを取り返すべからず』。そう教えられると伝えられてきました。よって、歯を、髪を、腕を、命を取り戻す事は出来ない。そんな秘術に関することは禁忌として扱われ、禁忌を扱った代償に関わった者は異端として断罪されてきた」
「詳しくは知らんが……」
「仮にここで彼女の腕をカラスさんが治すとしたら、治せるとしたら、私は彼を異端者として告発しなければなりません」
ソラリックもわずかに震えながら僕を見る。
僕はそこに睨み返す。
たしかに彼女はあの夜のことを喋ってはいない。あの夜見聞きしたことはまだ何も仄めかしてもおらず、僕との約束を違えてもいないだろう。
だが。やはり、信用すべきではなかった。
「でも、許されてはいない。ただそれだけで、そういう秘術は存在はしているんです」
最後の言葉はどれがいいだろうか。
僕を見つめて静かに言葉を続けるソラリックを、僕は敵意を込めて見ていた。
「お願いします」
ぺこりとソラリックが頭を下げる。ただし、僕ではなく、クロードに向けて。
「ベルレアン様には、一つ嘘をついていただきたいのです。発見時、彼女は少々の怪我があったものの、治療師にも治せる怪我だった、と」
「それは、どういうことだ?」
「カラスさん」
ソラリックがクロードを無視して僕へと向く。一瞬怯えたような顔を見せたのは、僕の内心を読んだからだろうか。
「どうでしょうか。彼女の怪我は誰も見ていません。ここは密室、誰の目もない。彼女は全身の切り傷や打撲をここで治療され、五体満足でここを出た。それならば、誰も禁忌には触れません」
「……なるほど?」
軽口を叩くように僕は返す。納得しているような言葉だが、もちろん納得しているわけがない。お断りだ。誰の目もないわけでもなく、一番の問題の目がそこにある。
「それで本人を含め秘密を知っている三人は、また僕にこの話を持ちかける事が出来るようになる、と。そういうことですか?」
怪我を誰も見ていないわけではない。ムジカル軍はもとより、テレーズ本人にクロード、それにソラリックが見ている。
そしてここでテレーズの腕を治せば、必ず『次も』と来るだろう。
永遠に続く脅迫への道。
閉ざすなら出来るだけ早い方がよく、そして今一番早い分岐点が『ここ』だろう。
一歩ソラリックに近づく。
もう一歩でソラリックに手が届く距離。クロードを押しのけるようにして踏み出した僕を見て、ソラリックは一瞬下がろうとして踏みとどまった。
「いいえ」
そしてソラリックは胸を張り、それはない、とだけきっぱりと言い切った。
「今日限りです。これから、私はこの話をカラスさんに話すことは一切ありません」
「何の保証もありませんね」
「あります」
ソラリックはまた言い切って、僕の斜め後ろに立つクロードを見る。
「クロード・ベルレアン=ラザフォード閣下、並びにテレーズ・タレーラン閣下。私は誓います。目を抉られ爪を剥がれ、肉を削がれて骨を砕かれようとも、私は今日この日のこの天幕の中での全てを口にすることを自ら禁じます。誰の耳にも入れぬよう、誰の目にも触れぬよう、この身に鍵をかけましょう」
「それは」
「この誓いを違えるならば、どうか私の首をお打ちください。名もなく名誉もない骸として、野に打ち捨ててください」
何の話だ。
そう思い、僕はクロードを見返す。クロードは、愕然とした顔で喘いでいた。
「俺に、ソラリック殿の首を落とせというのか」
「私が禁を破るのであれば」
二人だけで納得したらしい。僕は置いてけぼりにされている気もするが。
説明を求めて僕はクロードを見るが、クロードは腕を組んで首を傾げた。
「……平民が貴族に対して契約を結び、それを破った場合、その者は法の保護を一切外れて処刑される。今時誰もせんものだが……」
「貴族法第五十七条第一項『一条で定める爵位を持つ者に対し、爵位を持たぬ者が別法『誓いに関する条文』で規定されている文章、または口頭で申し出た誓いは両者間における法として効力を持つ』。第二項『前項の内、口頭で申し出る場合は、第三者が証明できる形で申し出なければならない』。第三項」
クロードに代わり、ソラリックが無表情でつらつらと貴族法の条文を読み上げていく。
読み上げていくというか、暗誦なのだが……これも準備していたのだろうか。
そして暗誦も止まる。少しだけ言いづらそうにし、唾を飲み込んでから口をまた開いた。
「第三項『爵位を持たぬ者が第一項で定めた誓いに反する行為を行った場合、爵位を持つ者は刑法に刑罰として記されている限りにおいて、誓いの文に記されている刑罰を自由に選択し、また行わなければならない』……です」
「…………」
……つまり、と僕は今聞かされた法律に関してなんとなく当てはめる。
ソラリックは今、騎士爵であるクロードに対して誓いを立てた。秘密を破れば殺されても構わない……というか、殺せと。
「どうでしょうか。ここで起きたことは私の口からは漏れません。漏らしたとしたら、私はベルレアン閣下に首を打たれることになる。貴族法に則って」
「ベルレアン殿にそれを遂行する意思がなければどうにもなりませんね」
それで、と僕は再度問いかける。
それは二人、もしくは三人で秘密を共有するということだろう。その中ではソラリックが一番下で、……多分先ほどの言葉からすると、クロードもしくはテレーズには秘密を暴露したときにソラリックの首を打つ権利が与えられると。
文章も残していない空手形。
そういう印象が残る。
この場合、信用できないのはソラリックだけではない。この国の法律に関しての問題だ。
いいや、そもそも。
僕の力を当てにして勝手に用意をし、勝手に誓いを立てて強要する。
これは全てソラリックの問題だ。勝手な話、まるで僕のような。
「そんなものを信じて、私に禁忌を犯せと?」
「犯す禁忌などここにはありません」
頭が少しだけ冷える。
クロードの目の前で殺すのはまずい。それを狙ってこの場を設けたならば、更に僕の苛立ちは増すけれど。
そして僕のとれる手段が一つある。
僕は黙って踵を返す。
何のこともなく、僕はこのまま出ていけばいいのだ。
唐突に聞かされた誓い云々は気にしないで構わない。クロードに対しては、知らないふりで通せば通らなくもない。ソラリックにはこのあと事故死でもしてもらえばいい。
それだけでこの場は乗り切れる。あとは今後テレーズと顔を合わせなければ……。
そう思ったが、簡単にはいかないらしい。
僕の目の前に立ち塞がる影がある。もちろんこの場にいる僕でもソラリックでもない人物。
クロードだが。
数瞬睨み合う形になってしまったが、今回はクロードのほうから目を逸らした。気まずそうに、それでも、仕方ないな、と笑いながら。
「……さっきの誓いは役には立たん。俺は今聖騎士ではないということになっているからな。当然騎士爵もないと思っていい。ソラリック殿の首を落とすことは出来ないだろう。効力はない。カラス殿の推察通り」
「僕は何も言っていませんね」
それに、考えてもいなかった。そういえばそれを言われるとその通りだ。
先ほどの言葉はクロードが貴族であるという前提のもの。クロードが聖騎士ではないと主張する以上、全く効果のない話だ。
「……王貴典範第一章第四条二項『第一項で規定される爵位の剥奪に関する権限は王が持つ』。まだベルレアン閣下は爵位をお持ちです」
「…………だそうだ」
背後からのソラリックの補足にクロードも苦笑し僕に笑いかけるが、僕は笑っていられない。
それで? と僕は振り返りソラリックを見る。どこかしら超然とし、僕をぼんやりと見つめている彼女を。
お互い言葉はもう充分だろう。
ソラリックの説得は僕には功を奏さず、僕はソラリックの行動を止められなかった。
「残念ながら、私はこれで失礼いたします。薬に関しては後ほど届けますので」
「どうにかならんか」
クロードが静かに言う。握りしめた右拳がギュウと鳴る。
僕が見返すと、クロードは泣きそうな顔でこちらを見ていた。
その拳をどこに向けようというのだろうか。
僕を殴って叱りつけて、強引に何かをさせようとでもいうのだろうか。勿論、互いに手の届くこの距離、互いに素手ならばクロードに簡単に負ける気もないが。
「今までの話、ようやく俺にも理解が追いついてきた。テレーズを助けることは聖教会では禁止されていて、ソラリック殿には使うことが出来ない。そしてソラリック殿がカラス殿に嘆願しているということは、その秘術をカラス殿だけが使えるということだろう?」
「……私だけではありませんが」
「しかし今は、カラス殿しかいない」
ド、と勢いよくクロードが膝を突く。握りしめていた拳は地面に叩きつけられ、その中程までも埋まっていた。
「頼む。俺が差し出せるものならば何でも差し出す。この戦場の功績を譲渡しても構わない。財産なんぞ全部くれてやる。何でもいい。望みがあるなら言ってくれ」
「特にありません」
「お前のそれが本音だということも知っている……っ! でも、何か……!!」
僕の外套の裾を握りしめるクロード。俯いた顔は見えないが、少なくとももう笑ってはいまい。
だが、彼が差し出せるものといっても僕には価値など感じられない。
金貨をいくら積まれようとも、どんな地位を与えるといわれても、何も。
しかし、ならば一つ。
「なら、仮に、僕がソラリック様の首を望むと言えばどうしますか?」
「…………!?」
「たしかに、テレーズ殿の手は気がかりです。僕だってどうにかしたい。……でも、僕もザブロック家に迷惑をかけないために秘密は守りたいし、ソラリック様はもう信用できない」
僕の望みといえばその程度だ。
やはり僕は、問題があれば人を殺して解決するしか能がない人間以下。その程度しか。
もっとも、クロードにはきちんと逡巡があるらしい。僕はその後頭部に苦笑し、声なく「ね」と問いかける。
無論、クロードが無辜の人間に手をかけることはあるまい。僕もそれが望ましい人間の姿だとも思う。
だからきっと、僕とクロードは気が合わないのだ。
「構いません」
そして、なんとなく、彼女はそう言うとも思っていた。
クロードが顔を上げて目を丸くしてソラリックを見る。ソラリックは無表情の内に微笑みをたたえて、やはり超然として僕たちをぼんやりと見ていた。
「カラスさんの言っていることもわかります。脅迫までした私に、信がおけなくなっていることも。ベルレアン閣下の人となりを私以上に知っているのならば、先ほどの誓いすらも口先だけの空手形になってしまうと予想できそうなことも」
「それがわかっているなら」
「だから、構わないんです。本当に私に信用がおけないのならば、カラスさんの手で今この場で首を落としてください。その代わり」
ぼんやりとしていた目が、唇と共に引き締められる。決意のある凜々しい顔。
「その代わり、必ず、テレーズ・タレーラン閣下の腕を治してください。お願いします」
食い入るように見つめられて、僕の頭に同時に二つの声が響く。
『そこまで価値があることだろうか?』と、『それだけしか価値がないのだろうか』と。
前者は多分、ムジカルで似たようなことを散々してきたことで生まれた僕の価値観。安価で、時にはこちらから金を出してまでさせてもらっていたこと。腕を治す程度、銅貨一枚の価値もないのに。
そして後者は多分、日本にいたときの、僕の。
「……どうしてそこまで?」
王城にいたらしいから互いに顔を見たことくらいはあるかもしれないが、面識があるわけではないだろう。
だがソラリックの必死さは異常だ。まるで親兄弟、大切な人の命がかかっているくらいの。
僕が聞き返すと、ソラリックはまた唇を噛みしめる。
それから悔しそうに地面を睨んだ。
「もう、嫌なんです。人が苦しむのを見るのは」
ぽつりとこぼした言葉と共に、一滴何かが地面に落ちて消えた。
「この戦場で、手を失った人を見てきました。目も耳も、歯まで全部失った人も。まずみんな目が覚めたら、目が見える人は自分のその手を見て、見えなくなった人はその手足をさすって、何でなくなったのか理解出来ずに首を傾げるんです。本当は理解できているのに、理解したくないんです。永久にその手足は元に戻らないのに、理解してもしなくても、その手足はずっとそのままなのに」
一息に言って、ソラリックは目を瞑る。だがそれも一瞬、すぐに目を開けてテレーズの寝台に歩み寄って両手を突いた。
「なんでなんですか。何でみんなこんな酷いことが出来るんですか……! 傷をつけられたら痛いのに、指がなくなったら握れないのに……自分がそうなったときのことなんてちっとも考えないで!!」
天幕の外には漏れない小声だが叫び声。
言わんとしていることは少々わかったが、それは何というか対象が大きすぎないだろうか。
「わかっています。こういうことは戦場で兵士に言うべきで、カラスさんやベルレアン閣下に聞かせるようなものじゃないことくらい。でも、だからっ!」
涙を浮かべてソラリックが僕たちを見る。膝を突いているクロードは、立ち上がるタイミングを逃したらしくそのままの形で固まっていた。
「私は治療師です。神の御心に従い人を助けるべくこの身を捧げる信徒です。だから、私は、誰にだってひたすら繰り返し願い続けます。助けてって言い続けるしかないんです。それが唯一、私の卑小な人の身で出来ることなんです」
「…………」
「お願いします、私の代わりに人を助けてください。ベルレアン閣下の仰っていたことを私も繰り返します。この身一つしか持たない私ですが、望まれるならば何でも差し出します。首でも心臓でも命でも、なんだって。だから」
言葉を尽くして、鼻水を啜りながら、僕を見るソラリック。
なんというか、なんだろうか。
負けた、と思った。
何についてだろうとも思うが、なんとなく予想はついている。
僕はソラリックに向き直り、その感覚の正体について問いかける。
「一つ、ソラリック様は私に嘘をついていらっしゃいますね?」
「…………?」
「……占い師と、何を話しましたか?」
特に根拠はない。プリシラと関わっていることはレイトンに聞いているが、ソラリックがプリシラと話したということは。
また鼻を啜り、涙声になりつつソラリックは静かに口を開く。
「悩みを、聞いてもらいました」
「悩み」
こくりとソラリックは頷く。僕よりも年上のはずだが、なんとなく幼い動作で。
「あの夜のこと。……脅迫について、カラスさんに謝った方がいいって。謝って、まずは許してもらった方がいいって言われて……」
「謝ってもらった記憶もありませんが」
「私は、謝らないほうがいいと思ったんです」
「聞いておいてなんですけど、それは本人に言わない方がいいのでは」
僕にも余裕が出来てきたらしい。失笑してしまいそれを自覚する。
顔だけ動かし続きを促せば、言葉に詰まったソラリックは渋々口を開く。
「その日の夜、患者が五人とも亡くなりました。それで、やっぱり、って思ったんです。私があの時カラスさんに頼んだことは、私は悪いとなんか思えない。治療師が人を助けたいと思って何が悪いんですか? 助けられる手段がある人を頼って、何が悪いんですか?」
「私も大きな事はいえませんが、人付き合いってそういうものじゃないですか? 脅迫なんて、していいものじゃない」
「それについてはいくらでも謝ります。私の手段が間違っていたことも認めます。後から考えれば、あのときは諦めるべきだったんです」
「でしょう」
人付き合いが苦手な僕が言えることではないが、脅迫や恫喝はやはり信用を失う行為だと思う。それを反省するということもきっと必要なことなんだろう。
それに関しては、プリシラの言うとおり、な気がする。
「でも、やっぱり私は『そういう人間』だったんです。あのプリシラという占い師の方の助言どおり自分を見つめ直しても、やっぱりそうとしか思えない。私は、みんなを助けたい。どんな手段を使っても」
「そうですか」
プリシラに言われたこと、その断片的でよくわからないソラリックの話。
おそらく、と僕は付け加える。
プリシラに言われたことなど、これでも氷山の一角なのだろう。言葉だけではなく、さらに立ち居振る舞いや言葉にしない何かしらの言語で、いくつも付け加えられていた。レイトンと同じように。
だが、やはりと思う。
なんとなく彼女に芯がある気がする。きっと僕がここで立ち去っても、彼女は諦めないだろう。これ以上の面倒を防ぐには、彼女の首を落とすしか方法がないのだろうと思う。
彼女を殺すこと自体は簡単だ。
そして彼女を殺すことは簡単でも、何故だろうか。
先ほどまではなかった抵抗が僕の中にある。ここで彼女を殺すことが、何かの失敗に繋がる気がする。
ここで彼女を殺すのは、間違った決断。
どこかでこの感覚を覚えたことがある気がする。
思い浮かぶのは寒い国、その中で花を煮る匂いと一緒に。
敵意はない、と示すように僕は軽く両手を挙げる。
多分、僕は負けたのだ。誰かに何かの勝負で、今。
僕はソラリックから目を離さずに口を開く。
「クロード殿、財産はいりません。その代わり、聖騎士への復職をお願いします」
そもそも先ほどのソラリックの言葉では、まだ騎士爵のままなのだろうが。それでも念のため。
「お、おう?」
立ち上がってもいいだろうか、と戸惑うようにしていたクロードが、僕の足下で返事を返した。
「先ほどの誓い、守らせてください。クロード殿が責任を持って」
ここで起きたことは秘密。その秘密がソラリックの口から明かされるのであれば、クロードが処断するように。それは確実にやってもらわなければ困る。
「それと、クロード殿も口に鍵をかけ、あとテレーズ殿にも口止めをお願いします」
「……了解した。必ず。命に代えても」
「少なくとも戦後、僕がザブロック家から離れるまで」
うん、と頷きかけ、頷けずクロードがこちらを見る気配がした。
僕はそれを無視してテレーズの寝台に歩み寄る。
テレーズの右腕、その丸まった先。綺麗な縫い目だが、まずはこれを切らなければいけないだろうか。
助けを求められ、助けた。
ムジカルではずいぶんと繰り返してきたこと。
「わ、私は何を」
ソラリックが言うが、僕はテレーズから目を離さず一瞬無視した。
そしてそれでもと口を開く。
「何もいりません。その価値もない」
「その、さすがにそこまで辛辣に言わなくても……」
そして僕の自嘲混じりの言葉は伝わらなかったようで、それでもいいかと僕は返事をしなかった。




