第五話
「申し訳ありませんが、まずは傷の具合を見せてください」
テレーズを天幕に運び込んだクロードと、ソラリックに呼ばれた僕は、いきなり天幕から追い出された。
テレーズはクロードの手により膝程度の高さの寝台に寝かされたまま。僕らはほぼ天幕の中を見ることもなく。そしてソラリックの手で天幕の入り口の布がばさりと殊更に音を立てて下ろされた。
追い出された僕とクロードは顔を見合わせる。
テレーズの怪我はよくわからないが、正直クロードの怪我も軽くはない。命に別状はないとはいえ、先に手当てしてもよいと思うのだが。
「クロード殿も、あちらでまずは手当を受けられては」
僕は先ほどパタラたちがいた天幕を指さす。まだ治療師が複数名詰めており、中にはもちろんパタラもいる。現在天幕の入り口の隙間から怪訝な目で見ている彼らに任せればいい。
だがクロードは首も振らずに視線だけを逸らす。
「…………。いや。テレーズが全快したあとにしたい」
「全快、ですか」
テレーズの怪我の具合がわからず、僕は『全快』という言葉に引っかかる。
彼女はイグアルに捕らわれていたのだという。ならば、……全快をする怪我とは思えないのだが。
そもそも何故クロードはソラリックを頼ったのだろうか。
ソラリックは、約束をした、といった。けれど、彼女に任せる意味があるだろうか? ソラリックは優秀な治療師なのだと思う、けれども、それ以上だっている。
少なくとも一人、パタラは彼女以上の位階を持つ優秀な治療師なのだろうし。
「……ソラリック様とお話をされた様子ですが、約束とは、何を?」
「…………」
僕が尋ねると、左腕の肘の辺りを揉むようにしながらクロードが一瞬黙る。
それから僕を見たが、その目にはたとえば隠し事をするような後ろめたさはない。……どちらかというと、……困惑……?
「ここを出る前に、軽い荷物を渡されてな。戦闘でほとんどなくしてしまったんだが」
「荷物」
「ああ。捜索に走る俺が疲れるのだろう、と疲労軽減の生薬の根や毒消しの粉に……目潰しの煙を焚く葉や火打ち石なんかもあったな」
ははは、とクロードは笑い、「存外役に立った」と付け足す。なるほど、クロードから微かに漂う芥子に似た煙の臭いはそれか。
イグアルは常に大勢の直属兵を連れていると聞く。その撹乱のために。
「傷口は包帯で固く巻き、どのような状態であっても身体を冷やさぬように布で覆って運んでくること。そして」
クロードは天幕の布の向こうを見るようにして、うん、と頷く。それに小声で付け足した。
「どのような怪我であっても、他の治療師には見せずに一番に自分の所に運んできてほしい。そうすれば、……生きてさえいれば、どんな怪我でも必ずどうにかするから、と」
「それが約束ですか」
「ああ。俺としては治してくれるのならば誰でもいいんだが」
僕が確認すると、クロードが少しだけ悔しそうに右拳を握りしめる。左拳は痛みで無理のようだが。
そして無理矢理右拳を解くようにして、深呼吸をして長い息を吐く。無理に笑顔を浮かべるように。
「カラス殿から見て、ソラリック殿はどんな治療師だ? 優秀か?」
「……少し熱意が行き過ぎていると感じることはありますが、優秀ではあると思います」
この戦場に来て、幾度か見たソラリックの治療の業。僕自身が優秀と言いたいわけではないが、傷や怪我への場所や程度の判断は僕とあまり変わらないと感じた。この分では、おそらく病気なども。
ならばきっと、普通の怪我ならば僕も誰かを任せられる。普通の怪我ならば。
「ですが、容態によります。テレーズ殿の怪我は、どのような?」
具体的に言えば、欠損。
表面的な傷や骨折ならばどうにでもなるだろう。内臓が傷ついていても、生きてさえいれば治療師ならばなんとかなる。
だが、イグアルの捕虜となっていた、ということは。
僕が聞き返すと、クロードは唇を噛みしめるようにして黙った。
「……生きてはいるんですよね」
「…………ああ」
重ねて問うと、吐息のようなごく小さな声でクロードは答えた。いつもの鷹揚で、豪快な仕草とは打って変わった弱々しい態度。
生きている、のだが怪我の様子は芳しくないのだろう。未だソラリック以外は一切見ていないからわからないけれども。
天幕に寄りかかろうとして、壁代わりの布の強度が思ったほどではないようでクロードは慌てて重心を前に戻す。
そのまま前に倒れるようにして腰を曲げ、膝に手を当てて下を向いた。
「…………」
沈黙が続く。悔しそうに、歯を食いしばるようにして、またクロードは溜息をついた。
「……テレーズは」
それから、ぽつりと。
「テレーズは、聖騎士は続けられないだろう」
「そうですか」
その怪我が、尋常ではないものということを一言だけ語った。
「カラス殿」
「なんですか?」
「一発殴ってくれないか。頬でも腹でもどこでもいい。俺を一発がつんと」
「嫌ですよ」
俯いたままクロードが懇願するように言うが、出来るわけがない。
演武でも試合でも修練の場でもないここで、貴族にそんなことをしていいわけがない。相手が貴族だし、断るのもそもそも無礼だが。
「何故ですか?」
「許せんのだ。俺がお偉いさんの要望を上手く捌けば、もっと迅速に騎士団を動かす指示がだせたかもしれない。俺がもっと迅速に指示を出していれば、もっとエッセンの被害は少なく済んだかもしれない。そうしていれば、テレーズも……、俺の無能に腹が立つ」
「…………」
そうかもしれない、と一瞬僕は思う。
なにせ、ほぼ二人相手に五つもの聖騎士団が一日二日で瞬く間に壊滅したのだ。相手が優秀だったとはいえ、エッセンの兵も無能ではないはずだ。采配の不備もあったかもしれない。
仮にクロードの代わりにレイトンやグスタフさん……は無理にしても、音に聞く第三位聖騎士団長エーミール・マグナが同じ位置にいれば、とも思わなくはない。
だがそれは僕も同じ事。ならば彼を責めるべきは僕ではない。
「クロード殿は指揮官という感じはしませんからね」
どちらかといえば、そういうことではないかと思う。実際はどうか知らないし、水天流の当主として、人を束ねることも慣れているのだろう。しかし今の弱っているクロードだけを見れば、彼は単なる武術家だ。僕と同じく、使われるだけしか能がない。
そしてそれを言うのは。
「しかし、今はそういう話をするべきではないのではないでしょうか。今はまだ戦争は終わっていない。今するべき事が終わっていないのならば、後悔するのはあとにしろ、というのはオトフシの言葉です」
俯いたまま、神妙な顔でクロードは地面を見つめ、僕の言葉を聞いていた。
「今考えるべきは、これからどうするか、でしょう」
聖騎士の話では、クロードは命令違反で出陣したのだという。ならばその後始末もあるだろうし、この後の撤退の指揮もある。考えることは山積みで、ならばその間人は悩めない。……それもオトフシの言葉だったっけ。
「どうするか、か」
静かに目を閉じ、クロードが呟く。
それで拍子を取ったように起き上がり、肩を竦めてパキパキと鳴らした。
「どうするかな。聖騎士もやめたことだし、しばらくは水天流の道場主でどうにかするとして……いやそれも本業に戻るだけだしつまらん。どうせならテレーズも誘って食堂でも開こうか」
「そういうことではなく……」
この戦争が終わった後の話ではない。クロードも力なく笑いながら言うことでもないし……と思ったが、聞き捨てならない言葉があった。
「……聖騎士、やめたとは?」
僕も自分で思った以上に驚いているらしい。思った以上に勢いよく振り返ってしまい、なんとなく気恥ずかしくなる。
しかし、どういうことだ。やめた、とは。この戦争中、ここは戦場で、その最重要人物ともいえるクロードが。
またいつもの冗談だろうか。これからやめるから、とかそういうことだろうか。戦争が終わったらやめるから、やめた後の話をしているということだろうか。
「ああ、さっき、やめた」
だが僕の予想は笑みを浮かべたクロードのあっけらかんとした言葉で全て覆された。
固まった僕に、クロードは自分の服を示しながら続ける。
「聖騎士の外套は指揮権と一緒にさっきガウスに渡してきた。まあそんなすんなりやめることは出来ないだろうから、今の俺の扱いは逃亡兵というところだな。いやあ、すっきりした」
「すっきりして終わることじゃないでしょう……」
僕の言葉に反応せず、クロードはそっぽを向いて腰に手を当て胸を張る。
ハハハと笑う声は力はないが、殊更に込めている気がする。
そういえば、と僕は周囲を見渡すが、聖騎士がクロードの姿に反応した様子はない。
先ほど見張りの誰かが驚いていたようなのでクロードがここに現れたこと自体は誰かが知っているのだろうが、……意図的にクロードが聖騎士に発見されないように侵入したのか。
どうだろう、と僕が考えていると、クロードが腕を落として涼しげに笑う。
「ガウス……とはもう呼べないな。ライン閣下なら上手くやる。俺よりも」
「そういう話ではないのでは。突然の指揮官の交代……混乱はそのせいですか」
なるほど。
不祥事で混乱している、と聖騎士は言っていた。突然の命令違反、そして出奔による混乱だと。だが、それ以上のことが一つあったらしい。
愚痴を吐く相手の僕にすら言えなかったこと。もしかしたら、辞職も混乱の一つとして現れた流言だと思っていたのかもしれないが。
つまりガウスは一時的な指揮官ではなく、正式な指揮官ということか。少なくとも、クロードの中では。
しかし、それは好ましくない事態なのではないだろうか。ガウスが指揮できるかどうかは置いておいても、クロードが今消えることによる混乱による悪影響は。
「これから防衛戦に移るのでしたら、なおさらクロード・ベルレアン殿が欠けて良いことはないのではないでしょうか」
「もう俺に敬称はいらんぞ。門下生の前以外では、気軽にクロードと呼んでくれ! 俺とお前の仲じゃないか!」
「そんなに仲良くなった覚えはありませんが」
「ならばこれから仲良くなればいいことだな!!」
ケタケタとクロードが笑う。話題をはぐらかされた気がする。
いやまあ、彼の今後の進退については僕もどうでもいいのだけれども。
それに、まあ。
僕も無視して、改めて治療師の天幕を指し示す。
「あとは、とりあえず手当をお受けください。タレーラン殿のことはソラリック様にお任せして、ひとまずはご自分の怪我も」
「嫌っ!」
ぷい、とクロードが顔を背ける。駄々っ子のように。大柄な男性の彼がその動作をしたところで、可愛くともなんともないのだが。
僕は溜息をついて一歩近づき、その手を取る。クロードの左腕はかなりの深手を負っていることだし。
「……!? 痛でででで!!」
「この通り、骨まで届いているようですし、痛いですよね」
「痛いっ痛いっ! わかったからっ!!」
軽く捻り上げるようにすると、涙目でクロードは叫ぶ。
以前の仕返しも混じるが、だが僕の気遣いでもある。
感染症なども心配だし、そうでなくとも骨まで達した傷など放置していいものではない。少なくともまだ戦争はしばらく続くのに、この男に戦線離脱されては困る。あとは以前の仕返しだけど。
手を離せば、クロードは自身の傷をさすろうとして、傷故にさすれずに奇妙な踊りを踊るように腕を振って痛みを誤魔化しにかかる。
どう見ても威厳のない姿……だが、たしかに以前よりはどことなく『すっきり』として楽しげに。
僕は静かに頭を下げる。涙目になったクロードへ。
「と、失礼いたしました。どうにもベルレアン殿が心配になり、手荒な真似を」
まあそれだけ動ければ、後回しにしても問題あるまい。障害も残らないもののようだし、深さに反し出血も止まっている。すぐに命に直結する怪我ではない。少しの時間であれば。
「お前ほんっと、俺が貴族なら無礼討ちされても仕方ないからな本当に」
「現在聖騎士様でないのなら、無礼討ちも出来ませんからね。私も安心です」
「ぐぬ……」
詭弁だが、通るだろう。
通されても困るけれど、通さなかった場合も厳しい処罰はないと思う。彼の性格的に考えて。
それから、そっと天幕の布が捲られる。小さな手で支えられた布の向こうに、真剣な顔の少女がいた。
「どうぞ、ベルレアン様、カラスさん」
ソラリックの静かな声に、僕はクロードと視線を交わし、それから彼に向かって中へ入ることを促した。
寝台に寝かせられているテレーズは、おそらくソラリックの手により衣装が整えられており、簡素な布の服が着せられていた。半袖と長い裾。薄めの生地だがしっかりしていて、農民が暑い日に着るような木綿地の服。その隙間から絹の肌着が更に見える。
魘されているように顔を顰めているのは変わらず。だがその手足はばたつかせることもなく、一つを除いてだらりと力なく横たえられている。寝相のいいことだ。
そして、横たえられていない右腕は、……。
「……折檻のあと、でしょうか」
テレーズの姿を見て、また悄然とするクロードに代わり僕はソラリックに問いかける。
「わかりません」
寝台の横に立つソラリックは力なく首を横に振り、クロードに視線を向けた。
「この先はありましたか?」
「…………、いや」
「そうですか」
クロードの答えに、残念そうにソラリックが首を横に振る。
もっとも、聞くまでもないことだとも思う。右腕を持ってきていればすぐにそれをクロードはソラリックに渡しただろうし、ならばそれを繋ぐことくらいはソラリックにも出来ただろう。
テレーズの右腕は消失していた。
肘関節より少し上の辺りで切り落とされたのだろう腕は、その断面の皮膚が折り曲げて閉じられ、断端が丸く整形されている。
縫い合わせてある糸は、絹糸に似ているが絹糸のようではなく……ムジカルに生息する砂蜘蛛の糸を焼き固めたものだろうか、その出自はわからない。
しかし、見事な結紮だ。
僕は内心感心してその縫い目を見つめる。
まるでリコが僕の衣服に施したような精密で等間隔に並ぶ縫い目。結紮時、皮膚が丸まって奥に入り込んでいると、その奥が癒着せずに後遺症が残りやすいと聞く。しかし盛り上がりなども少なく、そうなってはいないだろうと感じる。きつくもなく緩くもない丁寧な仕事。
よほど腕のいい金瘡医が行ったのだろう。ムジカルにいたときでも滅多にお目にかかれないほどの精緻な業。皆がこれくらい腕が良ければ、傷の引き攣れなどで悩むムジカル人も少なかっただろうに。
「他に大きな怪我はありませんでした。あとは多分、この傷を受けたときに傷ついた胸の一部くらいしか」
縫い目の数を数えるように見つめている僕に向け、ソラリックは注釈を入れる。
僕もその言葉に応えて他を見る。たしかに、そうらしい。とりあえず見える位置には目立った傷はなく、あってもどこかへぶつけた事による痣や擦り傷が精々だ。
しかしまあ、この分では。
「つまり、命に別状はない」
「はい」
ソラリックはこくりと頷く。やはりその辺りは僕と同じ見解らしい。僕と違ってソラリックはおそらく全身を目視しているし、触診などもしていると思うので、彼女の方が正確だろうが。
それを考えれば、内臓系などもおそらくは大事ないといえるのだろう。
ならば僕としては、あとは気をつけるべきは感染症だろうか。
もちろんそれは、治療師がしばらく近くにいれば済むことだろうし、もともと闘気を扱えるテレーズは心配も少ないのだが。
そして『薬師として』協力出来るとしても、その辺り。
「補気剤の調合を行えばいいですか?」
「それと血虚への処方をお願いします。彼女は乾熱に腎虚の気もあると思います」
「そうですね」
手持ちの生薬でなんとかなっただろうか。なんとかならなくとも、まあここはネルグ、薬草ならいくらでも周囲にある。
僕はテレーズの首に手を添えて熱と脈と腫れをみる。今のところは高熱もなく……本当に手当てをした人間は優秀だったらしい。今のところ本当に、腕がなくなっただけだ。身体上は。
「主立った生薬は準備してあります。足りないものがあれば、一応掛け合えばまだ在庫はあるので」
そしてそんな僕を見て、ソラリックは天幕の隅に置かれた小さな箪笥のような箱に目を向ける。
至れり尽くせり、という言葉が浮かぶ。僕はその箱に歩み寄ると、四段ある引き出しを軽く開けて中を確認した。
胡麻や蓮肉などの上品から、牡丹皮や百合の中品、附子などの下品まで。昇圧剤や解熱剤などの材料が主のようだが、たしかにいくらか揃っている。
彼女の体質に合うように、と僕は頭の中でいくつか組み合わせを考える。
……しかし。
「充分です」
当帰に地黄、通常思い浮かぶような生薬はきちんとここにある。僕が使うとしても、と考えつくものも。
種類の充実、おそらくそれは治療師の在庫から持ってきたから、というだけではない。
下品が少ないのは治療師の薬箱ということで納得も出来るが、だったら附子は入るまい。
使うときには乾燥させるはずの附子は未加工で、ついさっき採取されたようなもの。つまりこれは先ほどソラリックが用意したもので、ならばおそらくここにある品目は、ソラリックの選別によるものだろう。
なるほど、やはり優秀だ。彼女と体系が違うはずの薬師の本草学。そこで必要なものを予想するとは。
あと用意してある備品としてはすり鉢程度のものだが、そちらも贅沢は言えまい。坩堝や大鍋など、簡単に用意できないものもある。むしろすり鉢があるだけでも上等だ。
「それと」
では、としゃがみ込んで、箪笥からいくつかの生薬をつまみ出して品質を確かめていた僕。その後ろから、またソラリックが声をかける。
僕は振り返らなかった。先ほどまでは真剣な声音。そして今はそこに、必死な懇願も混じっていたからだ。
まあそうだろう、とも思う。
薬の調合は急ぐものではない。
クロードだけならばまだしも、僕が呼ばれた時点で予測はしていた。まさかクロードの前で、ここではないだろう、という願望も混じってはいたが。
「テレーズ様の右腕を、お願いします」
言い切り、僕の反応を待つ気配がする。
クロードも視界の端で息を飲み、目を丸くしていた。
僕がゆっくりと立ち上がっても、振り返ってもソラリックは動かない。
じっと見つめても、彼女は僕の視線を真正面から受け止めていた。
「……治せる、のか?」
クロードが呟くように、ソラリックに問いかける。そして縋るように、僕に向けて。
その視線を真正面からは見ないようにして、僕は首を横に振った。
「いいえ」
「だ、だったら、なあ! どういうことだ!?」
痺れを切らしたように、苛つくようにクロードが僕に詰め寄り両肩に手をかけ強引に振り向かせる。
僕はソラリックを睨みクロードと目を合わせないようにするが、ソラリックは無言でそれを見つめていた。
今回の狙いはこれだろうか。
クロードに僕を説得させる。ソラリックからの説得は効果もなく、脅迫は返されるとみてからの。
なるほど。優秀で、賢しいことだ。もっともそうなると、僕は更に了承できなくなるのだが。
そして、ならばこれは簡単だ。いや、簡単でもないが単純なことだ。嘘をついてでも、クロードを説得すれば今回の手は無効になるのだから。
僕はゆっくりとクロードへと向き直る。
「ソラリック様は勘違いをされているようです。私は昔、リドニックで欠損した手を治したと、異端となったという噂が流れています。その噂を真に受けられるのも困りますが」
「何とかなるんだろう!? なあ!!」
だがまあ、単純だが簡単でもない。それもわかる。
今の僕の言葉はクロードの耳には入っているはずだが、聞こえてはいないだろう。
必死に懇願するような目。まっすぐに僕を見て、……。
横目でテレーズを僕は見る。その右腕、右手。僕が握手をした手。
正直に言えば、僕としてもどうにかしたい。
彼女はかつての僕のように弱い人間ではなかったと思うが、それでもその障害を残したくはない。
それでも。
「出来ません」
僕としてはそれを繰り返すしかない。
僕の肩を揺さぶり続けるクロード。どこか遠くで、何かを言っているような。
そして僕の鈍くなった聴覚の中で、ほんの僅かに笑うような声が聞こえた。
他ならないソラリックから。
それが聞こえたわけでもないだろう。しかしクロードも動きを止めて、僕も揃って、上目遣いで媚びるような笑みを浮かべるソラリックを見た。
「お二人とも勘違いをされています。私は、ただ、『お願いします』と言っただけです」
僕ではなく、誰かの怒りが天幕に満ちる。
バタバタと天幕の外で鳥が飛び立っていった羽音が響く。
僕の肩に置かれた手が握りしめられ、引きちぎられるように筋肉が軋む音がする。
クロードの怒り。
向けられていない僕も威圧されたようになったが、向けられたソラリックは更にだろう。
しかしソラリックは少しだけ震えたように奥歯を鳴らしてから、それでも笑みを引かずに口を開いた。
毅然と。
「私も驚きました。イグアル・ローコの捕虜となった女性が、このような姿で帰ってこられるとは」
クロードが僕から手を離し、ソラリックの方へと身体を向ける。
だがその手を僕は、一応、と引き留めるように握った。
もしや。
「奇跡的に、テレーズ様は五体満足で帰ってこられました。そうですよね? ベルレアン様」
クロードは虚を突かれたように固まる。
それから言葉の意味がわからず、ゆっくりと僕を見た。




