第四話
フラムを殺し、クラリセンからムジカル兵を一掃した僕。
おかげで大分時間を使ってしまった。予定通りならば昼過ぎにはここに戻ってこれていたはずが、テトラの要望に応えたために。
……いや、まあ魔物とムジカル兵の生き残りにクラリセンが蹂躙されるのは僕も望むところではないので、そのせいで、というのも違うのだが。
木々を跳び、森を駆ける。
既に今いるのは、第二位聖騎士団の拠点があった辺りの近くだろうと思う。森の中の僕の方向感覚が鈍っていなければ。
戦火からわずかなりとも離れ、血の臭いも毒の混ざった煙の匂いも緑に染まり後方へと消えていく。休めているわけではないが、人心地ついた、というところだろうか。
クラリセン、街中でのエッセンの生き残りは十数名。それもほとんどが怪我を負っており、万全な者は数人といったところ。死者はその百倍以上いるようなのがまず一つの心残り。
更に森の中には、逃げ出した結果毒蜘蛛や毒鳥の餌食になりそうだった非戦闘員も多かったようだが、そちらは兵たちに任せてもいいだろう。
僕が集めた『話のわかる』毒鳥には逃げることを勧めてきた。エッセン兵たちの犠牲になるのは気の毒だ。
更に一応、逃げる前に蜘蛛を襲ってもらうように頼んできた。互いに天敵らしく、普段から敵対しているらしいので、僕が頼んだ個体は「わかった!」と元気よく言ってくれた。
森の中で死を待つばかりの人間の生き残りたちには悪いが、自力で助かってもらうか、救助を待ってほしい。僕の優しさの限界はそのくらいだ。
それで、他の五英将はどうなっただろうか。
フラムは殺した。それは僕がこの手で行ったのだ。間違いなく、フラムは死んでいる。
ラルゴはスヴェンたちに任せたままだが、こちらもあまり心配はないだろう。もちろんその結果はまだ伝えられていないが、彼らが簡単に負けるとは思えないし、そもそも勝てると思っているから彼らに任せたのだ。僕の判断はよく間違うが、今回はきっと間違えていないと思う。
では、あとの二人は。
フラムと並び、このネルグで被害者を出し続けていた〈歓喜〉のイグアル・ローコ。彼には集結した聖騎士団が当たると聞いたが、その結果はどうなっているのだろう。もしくは今、どの程度まで対策は進んでいるのだろう。
聖騎士団が当たるからと後回しにしたが、僕の手が空いた今、もう後回しにする理由はなくなった。もしかしたらもうスヴェンやレシッドの手で討たれているかもしれないが、そうでなければ僕が出ない理由はない。
イグアルに当たるのがオセロットとテレーズの組だけ、ならばいい。しかしそこに仮に勇者が入っていれば、僕の目的は達成できなくなる。仮に聖騎士団長がイグアルを討とうが、そこにはきっと勇者の奮戦が大きく関与するのだろう。記録上は。
暴虐の五英将、イグアルの討伐に貢献した若き勇者。……聖教会が好きそうな話題だ。
ともかく、イグアルがまだ生きているならば、聖騎士との接触前に討っておきたい。僕程度では討伐が出来ないとしても、せめて追い返す程度の打撃は与えたい。
フラムとラルゴの死。それは、ムジカルの混乱を招くのには充分な出来事だ。あとはきっかけさえ与えれば、講和まではいかずとも一時全軍撤退してからの膠着状態くらいは作れるのではないだろうか。
イグアルの動向については、第二位聖騎士団の拠点に戻り次第確認するとする。
だがあと一人は、どうだろう。
懸念は〈眠り姫〉トリステ・スモルツァンド。
昨日、彼女は第三位聖騎士団の駐屯する副都ミールマンを襲撃したという。思えばおかしな話だ。何故エッセンの、それも第二位聖騎士団に宛てて送られた報告が『襲撃』の報告なのだろう。
味方に宛てるならば、『撃退』もしくは『討伐』、または『壊滅』の結果報告が正しいのではないだろうか。
もしかしたら『襲撃』は第三位聖騎士団が取り急ぎ出した報告で、その結果も既に遅れて到着しているのかもしれないが、……だとすると……。
跳ぶために蹴った枝が折れて、転びかけて次の枝に飛び移れずに失速する。
代わりに出した手で頭上を通り過ぎようとする枝を掴み、身体を引き上げて新しい足場として足をかけた。
顔を叩く細い葉を目を瞑ってやり過ごせば、次の枝が目前にあって僕は焦る。その枝に弾かれるように方向をやや変えて、着地すればネルグのクッション性が高い根の絡んだ大地が足の下で手入れ不足の太鼓のように鈍く鳴った。
予期せぬ訪れた立ち止まり。僕は木々の隙間から見える狭い空を見上げて苦笑した。
こういうことに悩んでいると、またレイトン辺りに笑われそうな気がする。
僕が今注視して考えていることは、考えればすぐわかること、もしくは考えても意味のないこと、なのかもしれない。
今するべき事は単純で、既に決まっているはずだ。
第二位聖騎士団の拠点に戻り、報告し、戦況を確認する。イグアルが討たれていれば仕方ないが、討たれる前であれば僕もこれからそちらに向かう。
イグアルが討たれていれば待機になるが、その場合も第九位聖騎士団の援護に向かってもいいかもしれない。勇者に迫る敵を討つ……まるで勇者を守るような動きだが。
僕は茂みを避けるように跳び上がり、また枝に足をかける。コツはいるが、茂った森の中では地面を駆けるよりもこちらの方が速い。
ともかく、まずは拠点に戻るべきだ。行く先は二つで、どちらへ向かえばいいかは現時点でわからない。
だからまずは、そこに戻るべき。
そう思ったのだが。
「……大分減った、ような?」
僕は拠点のあったはずの場所に辿り着き、思わず首を傾げた。
場所は先ほど僕が発ったときと同じ。だがしかし、中の人気が大分少ない。
見張りの騎士は僕の姿を見て先ほどと同じく一瞬警戒をしたようだが、近くの聖騎士が僕の姿を認めてそれを抑えたらしい。
木から勢いよく跳んで、急増の粗末な門の前に降り立つ。
中にはまばらに人がいる。視界に入るだけで二十人以上。
けれどその大きな動きでも、ほとんどの人間はこちらを見ることもなかった。
「カラス殿」
呼びかけてきたのは、見張りの近くにいた聖騎士。おそらくクロードの部下だったはずだ。僕も見知った顔で、名前は知らないが見たことはある。
彼は、安堵のような不安のような、よくわからない表情を僕に向けた。
「フラムは」
「予定通り、クラリセンで討伐しました。クラリセンはほぼ壊滅、ですがごく少数の生き残りの方々が立て直しを図っています」
「……それは、……よく、無事で」
「私からベルレアン閣下に報告などは必要でしょうか?」
クラリセンにいた伝令の兵は全滅し、青鳥も使えない。必要だろうとは思うが、僕は一応お伺いを立てる。ここで全て済んでしまえば話が早いしその方が助かる。報告も、状況確認も。
だが、期待に反して予想通り、聖騎士は首を横に振った。
「その、団長は……」
「では天幕へ向かえば……団長は?」
何かを言い淀む聖騎士に、僕は続けようとした。
けれど、何かおかしい。今首を横に振ったのは、報告が必要だという意味ではないのだろうか。団長は、という言葉は、今の話題には繋がらない。
話の腰を折ってしまったようで、聖騎士は言いづらそうに口を閉ざす。
それから一度目を逸らして、意を決したように僕を見た。
「団長は、作戦行動のためにここを離れている。今現在ここの指揮を執っているのは、第十四位聖騎士団長ガウス・ライン閣下だ」
「わかりました。では、ライン閣下にご報告を?」
「閣下は現在退却のための指示に奔走している、から……」
忙しいから会えないだろう、ということ……だろうか?
僕はじっと黙り、その先を促す。聖騎士の額に汗がいくつか垂れてきていた。
そして数瞬経っても、聖騎士はそれ以上口を開かない。何かを後ろめたそうに。……何を?
いやそれよりも。
「退却ですか?」
僕としては望ましい一言ではあるが、どういう意図があってのことだろう。
ふと周囲を見れば、たしかにそうらしい。人が減っているのはもちろん、馬や騎獣の声も少ない。今まさに近くで荷造りをしている者たちすらいる。
つまりこれから退却というわけではなく、既にその真っ只中であるということ。
「ダルウッド公爵猊下の命により、退却命令が出た。第二位、第九位、第十一位、第十四位聖騎士団の面々は、これよりイラインで防衛戦に移る」
「そうですか……、で、……? 他の二つの聖騎士団は」
いい傾向だ、と思った。けれども、聖騎士は妙なことを言う。
防衛戦に移るといった聖騎士団は四つ。しかし、僕がここを発つときには、六つ残っていたはずだ。
テレーズ率いる第七位聖騎士団、それにオセロット率いる第八位聖騎士団。
彼らは、置いていくとでも言うのだろうか。
……それとも。
またしても答えづらそうに聖騎士は口を噤む。
そして僕も、少々答えを聞きたくなかった。耳を塞ぐまではいかずとも、なんとなく聖騎士が遠ざかって見えた。全くの気のせいではあるけれども。
「団長と友誼があるカラス殿だから言う。他言はしないでもらいたい」
「……機密に関わることならば結構です」
僕がそう言っても、聖騎士は唇を結んで首を横に振る。是非とも聞かせたい、とでも言いたそうに。
「これは周知の事実だ。第八位聖騎士団は、昼前から連絡がとれていない。戦闘に入ったか、どういう状況かもわからず、……消息不明、故に既に壊滅の判断がされている」
「つまり、私が別れたあと……」
「そうなるらしい」
ゆっくりと、辛そうに聖騎士は頷く。なるほど。……オセロットが……。
「捜索は」
「出されていない。少人数の捜索隊は、この森の中で自由に行動できないからと、団長がそう判断し……ああ、もう……っ!」
少々の苛つきと共に聖騎士が地面を蹴る。ネルグの根がめくれ上がり、腐葉土と化した土が勢いよく飛んだ。
「何か?」
だが、何を苛ついているのか僕には皆目見当が付かず、聖騎士に重ねて尋ねる。聖騎士は辛そうに眉を顰め、周囲を一度窺った。
「第七位聖騎士団については、イグアル・ローコと遭遇したらしい。タレーラン閣下を残し全滅、そしてタレーラン閣下は」
「生きているんですね?」
凶報のような知らせと、吉報のような知らせ。
それをほぼ同時に聞かされ、僕は反応に困る。だが、一番はまず吉報を喜ぶべきだろう。
テレーズの生存が確認されている。ならば、……いや、喜べない。イグアルの手に落ちたということは。
「生きている。生きているから、……団長が、単身救出に向かわれた」
「……なるほど」
もちろん直接見たことはないが、イグアルの捕虜の扱いは苛烈を極まるという。
もはやテレーズは五体満足ではあるまいし、既に死んでいてもおかしくはない。
それを。
「他言はしないでもらいたい。団長が命令違反の末、単身突撃した。出奔と変わらない不祥事だ。私たちの間にも、混乱が広がっている」
混乱が広がり、動けていない。そういうことだろう、と僕は推測して周囲を見渡す。
準備を終えた騎士団は既に出立したのだろう、この拠点にいる兵の数は減っている。今準備をしている騎士団もすぐに出立するだろう。武器や食料など、露天に積まれて置かれていた物資が、明らかに減っている。
しかし、命令違反。命令違反か。あのいつもふざけた言動をとっていても、仕事にはまじめに見えたあの男が。
命令というのはおそらくダルウッド公爵が出した退却命令。その指揮を執らずに、単身で彼は駆けていった。
「……どれくらい前の話ですか?」
「もう二刻以上経っている。カラス殿がここを出たあと、しばらくしてここに両団壊滅の知らせが届いたらしい」
「じゃあ、既にイグアルと遭遇はしている」
「そのはず」
なるほど。
クロードはイグアルを追い、その軍とは既に接触しているだろう時間が経っている。
ならばその結果はどうなっているだろうか。クロードはイグアルに対し、勝っているのだろうか。それとも。
僕が悩むために一瞬黙ると、何かに気が付いたように聖騎士は顔を上げた。
「……と、申し訳ない!」
僕が頭を下げた彼の姿に面食らうと、彼は恥ずかしげに地面を見つめつま先で地面を抉った。
「五英将フラムを討ち果たしたのだったな。そのような大手柄を持ってきたカラス殿を喜ばずに、……」
重ねて、小声で「愚痴など」と彼は付け足す。彼に喜ばれるために殺したわけでもないので、気にしないでも結構だけれども。
それに、知りたいこともだいたい知れた。
「お気になさらず」
「カラス殿帰還とフラム討伐の報告は私の名と名誉にかけて、ライン閣下に報告しておく。だから……」
「では、私はベルレアン閣下の増援に向かえばよろしいでしょうか」
「私が命令できる立場でもない。だが……頼めるか」
朗報のような悲報のような気分だ。
イグアルはまだ生きている。けれども、テレーズが捕縛され、クロードがその救出に向かった。
そして勇者擁する防衛隊は現在退却中なのだろう。つまり、イグアルに立ち向かっていくことはない。
どうだろう。
現在もっとも望ましいのは、クロードがイグアルを討伐していることだ。これで予定通り、森から五英将三人がいなくなる。ムジカルの侵攻速度は大幅に遅れ、膠着状態が作られる。
次点で、クロードは敗北しているが、イグアルが侵攻を止めざるを得ないほど損耗していること。ムジカルには聖教会の治療師はほぼおらず、いても野良の治療師だろう。神の像を失った。ならば怪我を負えば、魔法使いでない以上五英将といえどもすぐに傷は癒えまい。
これから急ぎクロードと合流を目指したところで、既に事態に決着は付いているだろう。
クロードの移動速度がどれほどかはわからないが、地上を走る僕と同等と思えば既に。
もちろん、僕は目の前の聖騎士の要請に応える義務はない。
彼らは貴族で僕は平民。しかし、僕は今ミルラ王女に仕えている。王族へと仕える彼らと立場は同等で、聖騎士団長くらいの地位でなければ僕への要請は効力を持たないと考えていいだろう。
その上で。
「ベルレアン閣下が、敗れると思いますか?」
「思わない」
僕が尋ねると、目の前の聖騎士は即答する。
だろう、第二位聖騎士団はクロードの武勇が中心となっている団。目の前の聖騎士の流儀が水天流でないとしても、クロードへの信頼は揺るぐまい。
だがその上で、彼も僕に救援に出てほしいと言っているのだ。その機微は僕にはわからないが。
そして、僕が何故それを尋ねたか、自分でもわからない。何かが嫌だったのか、何か彼に対して思うところでもあったのか。
しかしまあ構わない。もともと、イグアルは討つ気でいた。
「なら、行きましょう。楽に手柄が拾えると思えば安いものですね」
イグアルが死んでいなければ、討ちに出る。それも先ほど決めていたことだ。
「では報告をよろしくお願いします。麾下の者へ連絡した後、私はベルレアン閣下の所へ」
「あ、ああ」
聖騎士に礼をとり、僕は歩き出す。
一応は彼らにも連絡しておかなければなるまい。
目指すは治療師の天幕。その辺りにいるであろう、パタラとソラリックへ。
治療師の天幕に近づくと、先ほどと同様、中からいくらか気配がする。
ここ第二位聖騎士団の拠点には重傷患者が来ることはあまりなかった。だからだろう、天幕の横には、おそらく使われなかった大釜と綺麗な薪がまだ並んでいた。
周囲を見回しても、手当を待つような怪我人はいない。血の臭いもほとんどしない。
中からはのどかな話し声。男性の声に、女性の声が数人。パタラとソラリックの声も混じっている。
「失礼します」
声をかけてから、僕は天幕の入り口の布を微かに捲る。
中では、やはりと言っていいだろう。先ほど僕らを厳しい目で迎えた女性兵士と、三人ほどの治療師、それにパタラたちが野外用の粗末な絨毯の上で座って話していた。
「カラスさん」
まず声を上げたのはソラリック。僕の顔を見るなり、うん、と何故か自慢げに頷いた。そしてパタラが目を見張りつつそれに続く。
「カラス殿、それでは」
「フラム・ビスクローマの討伐から帰還しました。こちらの状況は?」
レシッドたちはどうなっているのだろうか。
僕はそれを尋ねるべくパタラたちに問いかけるが、二人は視線を合わせてから僕の方へと向き直った。
「変わりありません。退却命令が出たことはご存じですか?」
「先ほど見張りのところにいた聖騎士から聞いています」
なるほど。では、やはりまだ、少なくともスヴェンたちは帰ってきていないと。
……よく考えたら、彼らをどうしよう。
退却命令が出ている以上、じきにこの拠点は撤収するだろう。しかし、彼らを共に移動させていいものだろうか。クロードのいない第二位聖騎士団に随行させるとしても、おそらくあの様子では第二位聖騎士団は他の騎士団の退却を待ち、それから殿を務めるのだろう。
おずおずと、パタラが口を開く。
「その、カラス殿……」
「何でしょうか」
僕は何かを口に出しづらそうなパタラの言葉を待つ。なんかさっきからこういうことばかりしている気がする。
それでも、座った状態でなんとなくパタラが身を正すのを待つ。正座をするようにしてから、ようやくパタラはまた口を開いた。
「フラム・ビスクローマを討伐した、ということは……殺害したのですか?」
「そうなります。報告は聖騎士の方にお任せしました」
それもよく考えれば、詳しい状況など聞かれそうなものだが。まずい、戦場に不慣れなことが今、明らかに僕の行動を拙くしている。
最悪僕の手柄にならなくてもいいとはいえ、もう少しこだわるべきだったか。
「なんとあの、五英将を……」
「詳しいことは後ほど。スヴェンさんたちが揃ってから報告しましょう。僕はこれからクロード・ベルレアン閣下を援護しにイグアルの下へと向かいます」
「え?」
ソラリックが驚きの声を上げる。
「今帰ってきたばかりなのに?」
「時は寸刻を惜しみます。なのでお二人は、……治療師の方々に随行していただき、撤退することは出来ますか?」
後半は、傍にいる治療師に向けても問いかける。誰に聞いていいかはわからないが、とりあえずは。
「でもまだ、ベルレアン様が……」
反論のような言葉をソラリックが言いかける。だが、途中で何かに気が付いたかのように口を閉じて唾を飲んだ。
「わかりました」
代わりに神妙な顔で頷いたのは、パタラ。
「では、お願いします。僕もすぐに出ます」
そのとき、「わ」とどこかで声がした。
僕の近くではない。拠点の端、東側。僕が入ってきた南側から、少し離れたところで、見張りの兵が声を上げたらしい。
小さな村程度の大きさはある拠点。だがその声のあと、誰かが驚くような息遣いが何度も上がり、その発生場所が凄まじい速度で近づいてくる。
僕は振り返る。治療師たちや女兵士は気が付いていないようで、僕がただ天幕から出ていこうとしていると思ったらしい。しかし、天幕の入り口の布を捲ったまま動きを止めた僕に、ようやく違和感を覚えたようだった。
……目的地はここらしい。
僕は目を凝らす。
折りたたまれつつあり、萎みつつある天幕の林の奥、軽功で走り抜けてくる影。
「……行く必要はなくなったようです」
呟けば、背後から「え」と声がする。
まだ遠目だが、そこを駆けていたのは、たしかに僕らが今話題に上げていた男性。青い髪を靡かせて、空を飛ぶ鳥のような速さで駆けてきていたのは、第二位聖騎士団長クロード・ベルレアン。横抱きにして、白い布に巻かれて抱えられているのは……テレーズだろうか?
とりあえずは上々の成果だ。
僕は安堵の息を吐き、その様を見守る。
テレーズを抱えているということは彼女の身柄を取り戻すことが出来たということ。そしてクロードが生きているということは、敗北以下の結果にはなっていないということ。
イグアルの生死や軍の動向まではわからないまでも、吉報だ。
あとはクロードにイグアルの様子について確認し、今後の方針を決定すればいい。
急いでいたのだろう、クロードが、天幕の前に降りたってようやく僕の姿に気が付いたようで驚いた様子で目を開く。
「カラス、殿か……」
「心配しておりましたが、ご健勝のようで何よりです」
クロードを見れば、さすがに無傷ではないらしい。腋窩の圧迫により止血されているが、おそらく左腕には大きな裂傷が二つ。金属鎧の隙間にも裂傷はいくつか。頬や耳、鼻などには高温に晒されたような第一度程度の軽い火傷、あるいは凍傷か。
金属の鎧も所々打撃痕で歪み、位置的におそらく肋骨に罅が入っている。
しかしまあ、軽くはないが命に別状はない程度、という感じだろうか。肋骨とかは息すると痛いと思うし、左腕には力があまり入らないだろうが。
息を切らしているのは、急いでいた上でその怪我のせいでもあるだろう。額に浮かぶ汗は、おそらく身体を冷やすためのものではなく脂汗だ。
そして、彼はその程度として……。
「……テレーズ殿は、ご無事でしょうか」
「無事、ではないな」
クロードは苦笑し、腕の中の塊を見る。頭部以外は全て白い布で覆われている彼女は、顔を顰めて眠っていた。
それから、何かを決意したように険しい顔をして、クロードは顔を上げる。
「ソラリック殿はいるか」
「中に」
僕は入り口の布を大きく捲る。中から様子を窺っていた治療師たちが、クロードの姿を見て何事かとざわめいた。
ソラリックは、言われる前に立ち上がって、僕の後ろへと来ていたが。
そしてクロードも、ソラリックの姿を見つけてゴクリと唾を飲んだ。
「次に俺は、何をすればいい。何をすれば、テレーズの腕は……」
「クロード・ベルレアン=ラザフォード閣下」
僕の背後から、焦るような声が響いた。迫力も何もない、少女の声。
しかし、何故だか僕は初めて聞いた気がする。明らかにソラリックの声。だが、何かが違う声。……焦り? 何故?
クロードもそれを感じたのだろうか。言葉とともに動きまでも止めて僕の背後を見つめる。
僕が振り返ると、そこには先ほどまでと変わらないソラリックがいた。先ほどと、何一つ変わらず。
ソラリックが僕の横をするりと抜けて天幕を出る。
「あとは私が手当てをします。閣下は何もご心配なさらず、こちらへ」
馬鹿に丁寧な言葉遣いで、ソラリックは隣の天幕を指さした。
「ソラリック、聖騎士団長の手当ならば、私が……」
「いいえ。パタラさん。ベルレアン閣下には約束しているんです。私が、と」
パタラの申し出をソラリックは笑みを浮かべて固持した。
そして、その代わりに、と僕を見る。
「カラスさんには薬師としてのお力をお借りしたいのですけれど」
ソラリックは僕の返答を待たずに歩き出す。そしてクロードを天幕へ案内してからもう一度僕に向け、懇願のような目を向けた。




