勇者、討伐
今章最初のところに、プロローグで一個増えてます。申し訳ないです。
「……茸牛って……」
胸の高鳴りが耳に響く。その音を声で隠すように、ヨウイチは呟く。
『それ』なのだろうか、とも考える。
実物を見てもわからなかった。明らかに日本には、そして地球にはいなかった生物。だが治療師がそう言うのならばそうなのだろう。
茸牛。魔王戦役以後、真名は恐れられ忌み名として失われてしまっているが、魔王に使役された聖獣の一頭。
聖典曰く『獣がいる。その者肥えた牛の姿、木の肌を持ち、緑濃い森深くへ棲む。森を従え道を開き、生と死を曖昧に結ぶ』と。
当然、ヨウイチはその話も聞いた。先代の勇者の逸話として、勇者が茸牛を真っ二つに裂き殺した話を。
茸牛が、空洞の目で人間と魔物たちを見据える。それだけで、魔物は震え身を低くし、人は無意識に後ろに一歩下がった。
茸牛が歩く度に木々が道を空けるように僅かに傾げる。先ほどまでは日の光が入らなかった森の中で、茸牛の巨体が照らされて輝いていた。
場に満ちる空気が重い。
その場にいる四十人以上の人間たちが、揃って唾を飲む。ぴりぴりと伝わる衝撃のない衝撃に肌が震え、いつの間にか警戒に、皆が茸牛を注視していた。
動けない。誰も。
皆が脳裏に浮かべるのは、今まさに皆の目の前で茸の苗床になった一人の兵士。既に人だったときの痕跡は衣服を除いて消失しており、人間大の大きさの干からびた丸太のような物体がそこに鎮座している。
丸太は大小様々色とりどりの茸がびっしりと覆っており、今まさに傘を開かんとするものまでもある。
そして近くの幾人かが気が付いた驚くべきこと。
それは、その『丸太』が動いていること。
両手足を動かすような動作ではない。ほんの微かな上下動だ。まるで呼吸をしているような、呼吸をさせられてしまっているような。
生きているかもしれない。
それを思えば、気付いてしまった者は更に恐怖を増した。
菌床となった彼。彼はまだ、生きているのだ。呼吸をして、きっと心臓を動かして。
なのに、動けずにいる。体中の茸が彼の命を吸うように傘を開かせ、胞子を飛ばそうとしている。
それが苦痛なのか、それとも既に意識を失っているのか。それすらも、伏せた顔からは読み取れず、背筋を駆け巡る冷たさが強度を上げた。
かろうじて動けたムジカル兵の幾人かが、ちらりと〈玉麒麟〉を見る。
突然現れた名も知らぬ魔物。その正体を彼らは知らない。しかしそれでも、自分たちでどうにもならないもの、だということは充分にわかった。
ムジカル兵にとってどうにもならず、どうにもできない事態。
だが、一つの希望は残っている。それは他ならない、自分たちをここへ指揮してきた魔物使い〈玉麒麟〉だった。
魔物使いはほぼ必ず、魔物と会話をすることが出来る。そして者によっては使役し、さらに隷属させることまでも出来る。
戦争前、ムジカルにいた魔物使いは二十人ほど。
その中には同じ聖獣、怪鳥ジズすらも使役する者がいた。
ならば同じように。
期待を込めた視線が老人に集まる。〈玉麒麟〉はそれを受けると、目を見開いて茸牛を見た。
皆の期待はわかっている。今目の前に現れた巨体は茸牛らしい。そして皆が、自分すらもが怯えている茸牛を撃退することなど敵わない。
だが、自分ならば穏便に済ませることが可能なのだろう。場合によっては隷属させ、今後の戦力としても使えるようになるだろう。
ならば応えよう。たしかにたしかに、と〈玉麒麟〉は思う。撃退が出来るか出来ないかは置いておいても、ここで聖獣に遭遇したのは幸運かもしれない。
次期五英将、という評価を受けている人間は何人もいる。
ならばここで、聖獣を一頭隷属させれば、他の人間から頭一つ抜け出せるだろう、と。
「止まれ」
頭上に右手を掲げ、〈玉麒麟〉が言う。もちろん言葉の先は茸牛に向け。
「……汝、繋がりの安息を知らんや」
ぞぞ、と〈玉麒麟〉から放射された魔力が熱を帯びる。
「汝、何を求める者ぞ」
「…………あぷ……」
「汝、何を通わせる者ぞ」
魔力波を浴び、それでも歩を進める茸牛に、〈玉麒麟〉は怯まず問いかける。
古今東西生物を問わず、『問い』に『答え』を返すというのは、つまりは会話をするということ。魔物に対して『何か』を問い、その問いに何かしらを応えた魔物を従わせる、それが彼の手法である。
何でも構わない。声でも、仕草でも、どのような形であっても。
『会話』が出来れば心が通う。そう、彼は信じている。
ぐねぐねと木の肌をうねらせながら、茸牛が〈玉麒麟〉の前で立ち止まる。
圧倒的な威容だった。見上げる大きさ。腹のような部分が邪魔して顔は見えず、角のような茸がくねり〈玉麒麟〉を見下ろしていた。
柔軟性を帯びた木という不思議な肌が、呼吸をする度に膨らんで萎む。蒸気を噴き出しているかのように全身の穴から息を吐き出し、また吸う。そのたびに巻き起こる風に、森の芳香が濃くなった。
「汝……」
伝わっているだろうか。言葉は、仕草は。
繰り返すのは通信。〈玉麒麟〉は通じていることを信じ、言葉を繰り返す。大丈夫、伝わっているはずだ。言葉は通じなくとも、きっと。
そうすればきっと心が通じ合う。きっと仲間になれる。
老いた〈玉麒麟〉は、そう信じて生きてきた。長年の戦場暮らしでも、そうでないことはなかった。
しかし、麒麟も老いては駄馬に劣る。
ぶん、という風切り音が皆に聞こえた。次いで聞こえたのは、小さな悲鳴。
「……ぎゃ……!」
茸牛の太く柔軟な腕が地面を強く叩き地鳴りを起こす。
そこにいた者たちがまるで跳ねるように地面から押し返された事実が、その衝撃の大きさを物語っていた。
叩かれた腕の下にはちらりと皺だらけの手がはみ出ており、じわじわと染み出してくる黒みがかった液体が、その下にいる生物の死を疑うことなく伝えていた。
「ひっ……」
魔物使いが潰された。
間近で見ていたムジカル兵は、振り下ろされた茸牛の腕の風圧に服と全身の肌を震わせた。そして漂う血の臭いに、もう正気ではいられない。
「ひいいいっ!!!」
思わず身体を反転、足に力を込めて全力で駆けだしてしまう。
それを見て、ヨウイチすらも『馬鹿な』と思った。日本にいたときにも何度も聞いたことがある。森で出会った野生動物から、背を向けて逃げるという愚行を。
茸牛が続けて振るった腕。元の長さよりもだいぶ長く細くなったその腕の先には、五本指の手が付いている。手の大きさは依然変わらず、人を叩き潰せるのに充分なもの。
ばちん、とまるで人が蚊を叩き潰すような動作で、ムジカル兵が潰される。もはや悲鳴すら上げられず、ただの羽虫のように。
「あ……あぷぁ……」
そして皆が見た。
茸牛が、わずかに肩を揺らすのを。
まるで幼児が楽しいことを見つけたように、肩を揺らして笑うのを。
戦場に慣れているムジカル兵たちでも、もはや耐えられなかった。
「うわあああああ!!!」
誰ともなく叫び声を上げて、皆が背を向けて駆けだしていく。
身を低くしていた魔物たちも、それを契機に行動を始める。近くの者は死中の活を求めて茸牛へと飛びかかり、少しでも遠くにいた者たちはムジカル兵と同様に逃げていく。
もはや魔物使いの首輪が外れ野生に戻っている魔物たちが、ムジカル兵も聖騎士たちも襲おうとしない。その光景の異様さに、高等治療師が息を詰まらせた。
そして、逃げていく者たちを逃がすわけがない。『楽しみ』を覚えた茸牛が。
茸牛の飛ばした胞子が、近くにいた生物たちへと付着する。
ほんの一粒、人の目では目を凝らさなければ視認できないほどの小さな粒が、ムジカル兵や魔物たちの肌に食い込む。それと同時に侵食が始まる。
悲鳴すら上げられないほどの速度での侵食は、瞬く間に彼らを茸の苗床に変えていく。
魔物が茸牛に接するより早く、ムジカル兵が茸牛の間合いから離れるよりも早く、茸牛の周囲が茸の楽園へと変わっていく。
少し離れた位置にいたフィエスタやヨウイチは、その姿を見て動けずにいた。
茸牛。もちろん人間からの呼称であるが、その名は通称だ。
古く魔王戦役より以前のこと。それは人間たちからはベヒーモスという名前で呼ばれていた。
見上げる巨体。周囲の生物をことごとく茸の苗床に変えてしまう権能とも呼べるほどの強大な力。帯びた魔力は元々永い彼らの寿命を更に延ばし、永遠とも呼べる時間を森で鎮座し過ごす。
尽きぬ茸の胞子たち。まだ彼らがネルグ深層へと消えていくまでは、近寄れないまでも近隣の住民にとっては重要な食料源でもあった。
人間たちに畏れられ、魔王戦役前は半ば崇拝すらもされていた聖獣。
しかしその出自は、もともとは強大な魔物というものではない。
西の果てにある小さな森。そこにはとある茸が群生している。
その名は肉霊芝。人の手の先に収まる、シメジや松茸と似た形の白い茸である。生食した生物の身体を侵食し、菌糸を伸ばしその身体を苗床にする。ただそれだけの、それだけしか出来ないほんの小さな弱々しい茸だ。
太古の昔、あるときに、ほんの僅かな風の気まぐれで、ネルグの中にその肉霊芝の胞子の一粒が舞い降りた。
水が合った、という言葉が人間にはある。
彼らの場合はまさしくそれだ。この場合は、水ではなく土ではあるが。
ネルグの肥沃な土。そこには彼らが繁殖するのに充分な湿度や栄養が蓄えられており、更にこのネルグの動物たちにとって彼らは見慣れぬ茸だった。
捕食されることなく、その必要もなく彼らは増え、更に新天地でのびのびと育っていった。
人の手の先に収まる大きさから、人の頭部大に。人の頭の大きさから、人と同じ大きさに。人と同じ大きさから、見上げる大樹のような大きさに。
通常、肉霊芝に魔力はない。魔力を帯びるのに必要なのは、思考力。また、思考力を備えるのに充分な神経やそれに類する複雑な構造だ。
そして複雑な構造を、ネルグで育った肉霊芝は獲得した。大樹のように育った肉霊芝の体内、それに複雑に絡んだ菌糸は、彼らに人間の幼児程度の思考力を宿らせた。それに伴い、周囲の植物を操る程度の魔力も。
本来、茸牛は聖獣と呼ぶのもはばかる者たち。
元は、ただただ育ちすぎた一個の茸だった。
「……あ、あ、あ……」
よたよたと茸牛が前へと手を伸ばしながら歩く。その度に、近くの木々が軋み避ける。
フィエスタやヨウイチは踏みとどまるが、それでも一歩近づいてくるごとに増していく恐怖に足が震えた。
近くにいたムジカル兵はほとんどが死んだ。木々に隠れ、残っている者が数人いる程度。それよりも僅かに遠くにいたフィエスタたちにはまだ死人がいないものの、時間の問題ということも明らかだった。
「…………っ」
(牛ってわけじゃねえのか)
フィエスタが手の先にある九環刀を数度振る。その度に、リンと鈴のような音が鳴るが、そのどれもが効果が見られず舌打ちをした。
彼女の持つ九環刀。それは王から下賜された魔剣である。本来九環刀というのは、振るった際に刃の背につけられた九つの金属の環が音を鳴らすことで馬を驚かす剣であるが、彼女のものはそうではない。
その効果は馬には留まらない。馬、牛、虎、鳥、その他任意のあらゆる動物にとって不快な音を鳴らし、怯ませる。
耳がある動物ならば、どのような魔物相手でも負けはしない。故に彼女は、〈鱗嫌い〉とも呼ばれていた。
どうする、とフィエスタの首筋に汗が垂れる。
勝てないならば逃げるしかない。しかし、逃げるとしても順番が重要だ。
茸牛はどうやら他の野生動物と同じ習性を持つらしい。即ち、逃げる者を追う。
……ならば。
溜息をついてから、やや斜め後方に、顔を向けずにフィエスタは静かに言う。
「勇者様、お逃げください。ここは私が食い止めます」
言うだけ言ってから唾を飲み、フィエスタは返事を待った。
勇者に逃走させて、自分はここで踏みとどまる。
そして僅かでも安全を確保し、聖騎士団と共に逃げる。それが最善だろう。そう確信したフィエスタは、『命令してもよかっただろうか』などとも考えつつ茸牛に向けた剣先を揺らした。
だが。
視界の中に、ヨウイチが現れる。フィエスタよりも前、ヨウイチは茸牛に向かって歩き出していた。
何を、とフィエスタが問うよりも先にヨウイチは半分笑いながら茸牛を見つめて口を開いた。
「俺が食い止めます。逃げるのはフィエスタさんです」
何を言っている、とフィエスタは思った。そんなことをさせられない。ここで勇者を逃がさなければ、いくつもの計画が狂ってしまう。
「出来るわけないでしょう!?」
「だって、俺が勇者だって皆さん言うじゃないですか。……だから……だったら、俺はここで戦わなきゃ」
いつになく必死なフィエスタに、ヨウイチの笑みは強まった。フィエスタの内心は露知らず、それでいて、なんとなくわかっていると錯覚しながら。
フィエスタは首を横に振る。
「勇者だというのはただの政治的な理由です! 貴方が戦う理由も……そもそも、なんで!!」
何故戦おうと思ったのだ。あんな怪物と。あんな化け物と。
ムジカルの兵とて弱いわけではなく、さらに先ほど自分たちを取り囲んでいたのは正規兵だ。その正規兵を軽々と殺した化け物の脅威は、どんな馬鹿でもわかるはずだ。
聖騎士だって勝てないだろう。自分だって勝てないだろう。
何故そんな化け物相手に、時間稼ぎが出来ると思っているのだろうか。
「馬鹿ですか貴方は……!!」
「いえ、その……」
馬鹿という罵りも気にせず、ヨウイチは頬を掻く。この行動に、何かしらの根拠があるわけではない。勇者が無意味だということもわかってはいた。
けれども、それでも。
「なんでかわかりませんけど」
だって、胸の高鳴りが止まないのだ。
茸牛は依然光り輝いて見える。後光が差しているように、視界の邪魔は一切しない不思議な光が彼を包んで見えていた。
勝てないだろうとはヨウイチも思う。
時間稼ぎだって怪しいだろう。
けれども、それでも。
何故か自分は、そうしたい。
「……! 馬鹿……っ!!」
フィエスタが止めるのも聞かず、ヨウイチは駆け出す。その先は、今まさにこちらへ向かい歩き続けていた茸牛。
すぐに互いに間合いに入る。ヨウイチの遠当ての、茸牛のその豪腕の。
そして先手をとったのは、茸牛の豪腕だった。
ヨウイチに向け、豪腕を叩きつける茸牛。剣を掲げて押さえようとするヨウイチ。
ゴズン、という音が響く。
明らかに離れているフィエスタの所まで届いた地響きは、その先の光景が先の魔物使いと同じであろうと予感させた。
反射的に目を瞑ったフィエスタが、恐る恐ると目を開ける。
その先には、大地を彩る赤い花となったヨウイチがあるはずだった。
しかし。
「っくっ……あっ……!!」
その豪腕を、ヨウイチは支えていた。両の手で剣を持ち、足を地面に埋めながらも。
苛立つような噴気音を上げて、茸牛は腕を引いた。
ヨウイチは知っている。
攻撃は、どんなに激しくても一撃では死なない。自分には傷一つ付かない。
それは、この戦場で学んだこと。
千人長オッドの攻撃を防御した経験。殺意を帯びた攻撃を。明らかに死ぬような攻撃を剣で防いだ経験。
その経験は今、ヨウイチの魔力に応じて再現されていた。
フィエスタは背筋を凍らせながら、その様を見ていた。
ヨウイチが茸牛の攻撃を防いだ。どのような手品を使ったのかわからないが、あの貧弱で薄弱な少年はあの怪物の攻撃を防いだらしい。
ならば、たしかに時間稼ぎは出来るかもしれない。茸牛とフィエスタたちとの距離では、茸を生やす攻撃を行わないらしい。それが出来ないのではなくただ単に行わないだけ、ともなれば危ないが、その程度の賭けは受け入れよう。
フィエスタは覚悟を決める。部下の聖騎士をゆっくりと下がらせ、茸牛の様子を確認する。
まだこちらを見ている。頭部に生えた角のような茸が、一つこちらを向いていた。おそらくあれが視覚なのだろう。
「……次、視線を外されたら動くぞ。準備しろ」
「了解しました。作戦は」
フィエスタの呟きに副団長が反応する。迅速かつ確実に。それが彼の方針だ。
どうやって戦うのか。また、どうやって勇者を救出するのか。その指示さえもらえれば、すぐにでも。
聖騎士たちが視線を交わさないまでも、動作だけで同意し合う。皆が覚悟を決める。命を賭して勇者を救出し、あの化け物に一矢報いようと。
しかし。
「陽動も兼ねて騎獣は空のまま走らせろ。気を引けたと確認したら、私たちは全力でこの場から離脱する」
「は?」
誰かから、戸惑いの声が上がる。戸惑いの声を上げていない団員たちも、同じような声を内心上げた。
今なんと言ったのだろうか。団長の言葉が、ただの逃走指示のように聞こえた。まさか、そんなわけがない。だって、今目の前では……。
「勇者様を見捨てるというのですか!!?」
当然のように高等治療師が声を上げる。
皆も内心そう思った。そんなわけがない、と団長が否定する声を聞きたかった。
「私たちは何も出来ない……何も」
しかしフィエスタは否定しない。
吐くのは同意の言葉。そして彼女はそれを恥じることもない。
最古参の聖騎士団長。
彼女は今まで、そうやって生き残ってきたのだから。
「ふっ!!」
ヨウイチが茸牛の豪腕を避けて、その肌に切り込む。
しかし、堅い。両手で大上段から切り下げたにもかかわらず、まるで鋼を打ったかのように傷もほとんど付かずに腕だけが痺れた。
豪腕を避けて、一撃、二撃とヨウイチはそれを繰り返すが、全く功を奏さない。
逆に、ヨウイチの手の甲に一本の指先よりも小さな茸が生えてくる。しかしそれは、ヨウイチの魔力で覆われた身体を侵食できずに朽ちて消えた。
茸牛の背中から、触手のような何かが数十本伸びて現れる。菌糸の絡まった白い綱のようなものは、ヨウイチの手でかろうじて握れるほどの太さ。それでいて茸牛の意思で自在に動き、同じ太さの筋繊維よりも強くしなやかだった。
突如増えた手数にヨウイチは対抗できない。
触手がそれぞれ独立しヨウイチを打つ。弾いた触手が木々を砕き、地面に大きな穴を開ける。
剣を使い捌くが、相手は数十本の触手。当然その全てを捌ききれるわけがない。幾重にも、何回も打ち据えられて、ヨウイチの骨が軋み、既に肋のいくつかと左の上腕が折れていた。
しかし、ヨウイチはその動きを鈍らせない。
痛みすら鈍い。その理由は高揚感。
今その背中に、守るべき人がいるということの。
ちらりと後ろを見れば、まだフィエスタたちがいた。
彼らは逃げる機会を窺っているらしい。だが、自分だっていつまで持つかはわからない。
「早く逃げてください!!」
ヨウイチは心からの叫びを放つ。彼らを助けるためにここにいる。自分は今、ここで、彼らを助けるために戦っているのだ。
だから、助かってほしい。心からの願いに、腕にまた力が入った。
フィエスタたちが、ヨウイチの声に一歩動く。
そろそろいいだろうか。いいや、まだだ。茸の目は、まだ自分たちを追って……。
スパン、と軽い音が響く。何が立てたかも誰にもわからないその音と共に、茸牛の目が根元から切り落とされる。
剣の届かない位置だった。茸牛も油断していた。だが、ヨウイチの遠当てはそこまでも届く。
「…………!」
フィエスタはその隙を逃さない。騎獣たちの背中を三度叩き、解放すれば彼らがまず走り出す。
頷き合い、聖騎士たちもまた。彼らとて納得がいっているわけではない。けれども、上官の命令は絶対だ。
せめて、と一人の聖騎士が高等治療師の腕をつかむ。
「……私はっ!!」
そして高等治療師がその手を振りほどくのは、止められなかった。
「行くぞ!!」
最後にヨウイチに視線を向けてから、フィエスタたちは走り出した。
その視線の先に、たしかにその姿は、と感服と謝罪を向けながら。
視線を向けないまでも、ヨウイチの耳には足音が届く。
逃げていってくれた。
これで……。
「っ!?」
安心した。気が抜けた。そう言い表せる心境の変化。それを自覚した瞬間、ヨウイチの身体の力が抜ける。
目の前に迫る触手の一撃。それを払うべく持ち上げる腕の動きが鈍い。
「がっ……!!」
ヨウイチの腹部を打ち据えた触手は、ヨウイチを貫けないまでも吹き飛ばした。
折れた肋骨が内臓に突き刺さる。肺に一部触れた骨の先が、ヨウイチの喉から血を吐き出させた。
転々と転がって、地面を這いずるようにヨウイチは堪えた。
身体が重たくなった。それを自覚し、その原因が何かわからず、そして半分わかって。
倒れ伏し、歪んだ視界。よろよろと立ち上がろうとし、一度膝を突く。もう無理かもしれない、と口からの出血に思う。
明らかな大怪我。全身が痛み、動けなくなりつつあることを自覚した。
ふと、その横を見る。そこにいたのは一人のムジカル兵。木陰に身を隠し、茸牛から見えないようにと身を固めている姿。
その目は今、ヨウイチを見つめていた。敵意もなく、怯えた様子で。
「……逃げてください」
それしか言えないな、とヨウイチは苦笑しつつ立ち上がる。先ほどは揺れていた身体が、やけに安定していると自分でも思った。
なるほど、と思った。胸の高鳴りが止まらない。
走り出したヨウイチは、ヴァグネルに習った英雄譚の一節を思い出す。
英雄譚というのもおこがましい。少年少女向けの勇者の物語。
茸牛に辿り着き、剣を振るう。
しかし結果は同じ。触手を切り落とせるようにはなったものの、乱打を凌げずに、最後には弾き飛ばされる。
けれども。
今度は時間をかけずにゆらりとヨウイチは立ち上がる。
力なくとも、剣を杖に、茸牛の前に立ちはだかる。
ああ、だからなのか、とヨウイチは納得した。
ヴァグネルに習った英雄譚の一節。少年少女向けの勇者の物語。
俯き呟くのは、その中の一言。
「『俺は、みんなを守るために死ぬわけにはいかない』」
守るべき人がいる限り、『勇者』は何度だって立ち上がる。
戸惑うような素振りを見せて、茸牛の攻撃が止まる。
茸牛としても不思議だった。何故目の前の生き物は、動くのをやめないのだろうか。これだけやれば、どんな生き物も動きが止まった。そのはずなのに。
勇者は口から唾混じりの鮮血を吐き出して、茸牛を睨む。
何故だか傷の痛みは感じない。骨の折れた痛みもない。
どこか痺れたように苦痛を感じず、ただ自分の心臓の音が耳に響く。
ゆっくりと剣を握る。それから不壊の宝剣、その柄にある紐を解き、改めて戦闘態勢をとった。
もはや自分は死に体だろう。なのに、目の前のこんなに怖い獣に立ち向かおうとしている。
それを考えて、ヨウイチは苦笑した。
だが、窮地。ならば信じるのは己の修めた剣術。高校で始めた剣道ではなく、今までの十八年間、その生涯をかけて学んできた剣術。
魔物や獣を相手にするべく修めたわけではないが、それ以上に頼りになるものをヨウイチは知らない。
茸牛が、応えるように攻撃を再開する。
まだ碌な手傷も負っていないが、彼の側にも焦りがあった。
何故この目の前の生き物は動きを止めないのか。何故この生き物は仲間が生えないのか。
わからず、それにより生じるのは恐怖。
わずかながらも、生まれて初めての恐怖に、腕と触手の動きが速まった。
激しくなる嵐の乱打。しかしその先にいるのは、もはや無力なオギノヨウイチではない。
『勇者』の類い希なる集中力が、聖獣の動きを捉える。
宙に浮かぶ胞子一粒一粒まで見えるような集中力。それに、生来の優れた動体視力。
もはや重みを感じない腕が、縦横無尽に剣を運び触手を防ぐ。
目が、耳が強化される。召喚時に身体に付与された闘気により、無意識に。
「あああぷぷぷ……!」
まだどこか惚けている語調で、それでいて叫びのように茸牛が声を上げる。
それは触手の先が、ヨウイチの手首を柔らかく使った突きと払いにより、切り裂かれ始めているため。
肩や肘をほぼ固定した上で、手首を柔らかく使い、連続的に突きや払いを繰り出す。それは、ヨウイチの家伝、佐原一刀流剣術特有のものだ。
佐原一刀流剣術は、戦国時代に武士だった開祖が戦場で開眼した介者剣術。
戦国時代、道場と数多の戦場で研磨されていた技術だったが、やがて磨いていた彼ら武芸者にも苦難の時が来る。戦国時代が終わり、江戸の太平の世が始まったのだ。
太平の世、もはや真剣の扱いなど忘れ去られてゆく世の中。その時代、多くの剣術は転換期を迎えた。剣を捨て去り、柔術として発展していった流派。袋竹刀などを用い、半ば競技として剣の形のみを残そうとした流派。その他様々に、生き残るために知恵を絞った時代。
佐原一刀流剣術はその中で、剣を捨て去った流派の一つだった。
そしてその代わり。その時代、彼らが携行していたのは剣ではなく、矢。打根と呼ばれる近接戦闘用の矢であった。
矢としては矢筒に入る大きさで、矢柄は金属などで補強される。凶器となるのはその先にある鏃であるが、その小さな刃物では当然傷つける程度は出来ても切ることは出来ない。
故に、佐原一刀流剣術は、『突き』を主体とした流派へと変化を遂げていった。それも体重を乗せて振るわけでもなく、手首の先を使った小さな突きで敵の急所を狙うような。
もしくは、本来は。
ヨウイチの《遠当て》が、再生した茸牛の角をまた切り裂く。
ヨウイチの胴よりも大きな茸が宙を舞う。
しかし、茸牛も狙ったもの。切り裂かれた茸が、霧のように胞子をまき散らしながら宙を舞う。飛ぶ先は生き残り隠れているムジカル兵であり、治療師であり、つまりそれはヨウイチが守ろうとしている者たち。
させない。
咄嗟にヨウイチは、持っていた宝剣を投げ打った。左手では柄尻から伸びる紐をしっかりと掴み、空中での剣の姿勢を補助する。
放たれた剣は千切れた茸の中心を捉え、空中で縫い止める。
ヨウイチは左手の紐を強く引き、茸ごと剣を引き寄せて、遠心力を使って誰もいない左手側に茸を抜いて捨てた。
投げ打ち、と呼ばれる技法。打根術では本来は矢を投げ、それを矢に付属した紐を使って回収するという技術であるが、佐原一刀流では剣を使ってそれを行うのが本来の技法である。
「ぷぁああああ!!」
癇癪を起こしたように茸牛が叫び、ヨウイチに向かって手を伸ばす。
巨体故に緩慢な動作にも見えるものの、その速度は音に匹敵する。その突き飛ばしをヨウイチは自身との間に剣を挟むことで踏みとどまった。踏ん張った右の足首は、その衝撃で砕けてしまったが。
足下で何かが砕かれる感触と共に、ヨウイチは確信した。
今まで培ってきた技術は、人を守れる技術だ。
報われた、と思った。きっと今まで自分はこのために修練を重ねてきたのだ。人を守るために。『勇者』となるために。
茸牛が今度は横向きに手を払う。
今度はまともに受けてしまい、ヨウイチは弾き飛ばされる。衝撃で左の耳の鼓膜が破け、聞こえる音が高い音のあとに無音になった。
だがそれでも痛みは感じない。木に叩きつけられて、全身が弾けるような感触がしたが、その痛みすらも、既に。
満身創痍。そのはずが、まるで無傷のようにヨウイチは立ち上がる。
視界の端、もしくはどこかで誰かが自分を見ている気がした。助けてくれときっと叫んでいる。
ならば自分は立てる。全身が砕かれようとも。
もはや地面を蹴っている感覚すらないままに、ヨウイチはまた茸牛に飛びかかる。
茸牛の反撃を反撃とも思わず、無我夢中に凌ぐ。触手に鎧が弾けて飛んでも、千切れた耳から血が噴き出しても、それでも、なお。
目が霞む。目の前の茸牛の姿すらも見失いながらも、自身の内側から響く声に集中すれば、身体が勝手に反応する。
身体を覆う魔力からの感覚。魔力が目の代わりに、耳の代わりに茸牛の姿を追う。十八年間の人生をかけた修練の結果が、理想的な形で出力される。
凌げている。
朧気な意識ながらもそう確信して、ヨウイチは涙が出そうになって笑った。
今まで培ってきた技術は、人を守れる技術なのだ。
殺人剣などではない。人を守れる活人剣。先祖が伝え、祖母が自分に教え込んだ技術は、誇れるものだった。
だからこそ振るえる。魔物相手でも、魔物相手だからこそ。
魔物から人を守るこの時だからこそ。
そしてならばもう一つ。ならばこの世界に来て開眼したこの技術は。
砕けた足に力を込めて、ヨウイチは高く跳ぶ。眼前に広がるのは森、地平線。
見上げていたはずの木々を追い越し、更に下方へと見下ろせる高さ。自身でも信じられないほど高く跳んだその跳躍は、元の世界で人間に成せるものではない。
同じく見上げていたはずの茸牛が、やけに小さく見えた。
ヨウイチは手の先に力を込める。込めたのは筋力ではなく魔力。そして込めるのは手ではなく握りしめた不壊の宝剣。
日本でヨウイチが習得した剣術は、人を守れる技術だった。そして、『勇者』としてこの世界で手に入れたこの技術は。
腱がほとんど千切れ、骨の砕けた腕を思い切り振る。
その先の剣が風切り音すらなく空を切る。
佐原一刀流剣術奥義《遠当て》。
刃の届かぬ距離へと、距離を無視して飛ばす斬撃。
この世界で『勇者』として手に入れたこの技術は、きっと魔物を殺す技術で。
ずあ、と音がして、視線の先の茸牛が縦に割れる。
苦痛の悲鳴もなく、断末魔の叫びもない。しかしその様はまるで先代勇者の茸牛討伐の様。
「…………おお……」
見つめていた高等治療師が感嘆の声と共に膝をつく。
先代勇者が茸牛を討伐した逸話。奇跡の一端。その様をこの目で見ることが出来た。
その喜び。唯一の目撃者となれた聖職者としての歓喜。命が救われたという安堵の溜息。その全てを吐き出すように、深く息を吐き出しながら手を組んで神に頭を下げた。
高等治療師が頭を下げた先。
茸牛が半分に分かれて乾いた音を鳴らし倒れると同時に、ヨウイチも地面に激突する。まるで絞っていない雑巾を床に叩きつけるように、受け身もとれずに無様な姿で。
強い衝撃に、全身の痛みが戻ってくる。
「……っ……ぅ……」
激戦の怪我、それに最後の地面との激突。全身の骨がくまなく折られ、または砕かれ、無事な場所など一つもない。
だが、倒したのだ。
高揚感に、痛みを感じながらも笑みがこぼれる。
その耳に、茸牛がまだぷつぷつと鳴き声を上げているのを聞いてもなお。
ヨウイチの視界の先で、真っ二つになった茸牛が見える。内臓器官などのない、裂けた茸のような……まさしくその通りなのだが……繊維質の断面を晒し、そこに触手を蠢かせる。
それを見て、ヨウイチは力を振り絞り身体を起こした。
自身の落下と共に地面に突き刺さっていた剣に縋るようにして、よろよろと立ち上がり、剣を引き抜いて大上段に構えた。
まるで決闘に対峙するようにヨウイチは先を見据える。そこにいたのは、真っ二つになりながらもまだ菌糸を伸ばして結合しようとする聖獣の姿。
だがそれは完遂させられない。人の世で暮らす人として。そして『勇者』として。
そうだ、これが、『勇者』で、そして自分は『勇者』なのだ。
ふと微笑みを強め、勢いよく剣を振り下ろす。その剣の先、剣など絶対に届かない視線の先で、茸牛の首が削ぎ落とされるように飛んだ。
残心を怠らず、茸牛の死体を見てヨウイチは動きを止める。
呼吸をする度に痛む全身。唾のように、もしくは嘔吐するように止めどなく喉の奥から溢れてくる血は、もはや呼吸器からか消化器からかも自身にはわからなかった。
それでもなお、痛みなどヨウイチは無視した。
林を駆け抜ける風の音と自分の呼吸。それに、胸の高鳴りだけが残った右耳に届く。
数分の後、やがて茸牛が完全に動きを止めると同時に、ヨウイチはふらりと倒れそうになった。
剣を地面に突き刺し、杖の代わりに身体を支える。握った指が強い痛みを発したが、それはもうどうでもよかった。
代わりに胸中に溢れた喜びに、視界が広がる感覚があった。
『勇者とは何だ?』と幾度となく考えてきた。城でも戦場でも、ヨウイチはずっと。
そしてその答えは今、ヨウイチの中で確信した。聖獣を討ち果たした喜びではない。それよりももっと大きく、もっと尊いと思えるもの。
今ヨウイチの後ろには人間がいる。
それはムジカル兵、もしくは高等治療師と呼ばれる者たち。しかしそんな呼び名など、もはやヨウイチにとってはどうでもよかった。
唯一たしかなのは。
確信できた唯一のことは。
『勇者』とは、人を守るため、魔物を討ち果たす者。
ならば今の自分は紛れもないそれで。
「……俺は!」
遠からん者は音に聞け。近くば寄って目にも見よ。
「俺はっ!! 日本からきた勇者!! 荻野陽一だあああ!!!」
誰に聞かせるわけでもなく、血の絡んだ叫びを発する。
今ならば言える。自分が勇者だと。
もはや勇者と呼ばれるのに苦痛はない。
自分は勇者。胸を張ってそう言える。ヨウイチはそう、人生の絶頂を感じていた。
ぞぷ、とヨウイチの胸から何かが突き出し現れる。
現れたのは漆黒の剣先。
剣を握っているのはヨウイチの背後、その地面に落とした影。その影から男が上半身をずるりと出し、ヨウイチの胸を背後から貫いていた。
それは、緋緋色金の鎖帷子を切り裂く一撃。
ごぼ、とヨウイチの口から血が溢れる。
「隙を見せるなんて、やはり子供ですね」
ぼそりと影から半身を出した男が呟く。その手に力を込めると、漆黒の剣はずるりとヨウイチの身体を切り開く。
ヨウイチは、何が起きたのかわからなかった。いつの間にか自分の胸から剣が生えていて、そして刺さった部分に熱さと冷たさが同時に広がる。
「……な……」
何を。そうヨウイチに言わせる間もなく、剣が心臓を引き裂き脇腹までをも割る。
力が抜け、ヨウイチの身体がずるりと地面へと落ちる。その命が尽きたのは、誰の目から見ても明らかだった。
ヨウイチの影から、残った下半身を引きはがすようにして男が立ち上がる。
聖獣が死に、命が助かり、ヨウイチへの感謝と喜びに包まれていたムジカル兵は、ヨウイチの影から姿を見せた男を見せて愕然として口を開いた。
白い外套、貝の釦。白い髪の毛先が緑に染まる。
「カ、カンパネラ様……」
そこにいたのは五英将〈成功者〉ラルゴ・グリッサンドの腹心、カンパネラ。直属兵の中でも名高い、次期五英将とも噂される者の一人。
名前が呼ばれたことを意にも介さず、カンパネラは影の剣をもう一度振るう。
二つに分かれて倒れ伏したヨウイチの身体。その首を一息に切り払った。
「……しかしまさか、聖獣を討ち果たすとは。さすが勇者、というべきでしょうか」
魔法使いとは頑丈だ。それぞれの資質にもよるが、心臓を破壊しようとも、半身を失おうとも死なない者たちすらいる。
しかし勇者はそうではないらしい。カンパネラは、復活の気配もなく完全に死に至ったヨウイチの死体を見て、感嘆の言葉を呟いた。
予定外の連続だった。カンパネラの仕事は、護衛の聖騎士たちから離れ、孤立した勇者を抹殺すること。しかしカンパネラの侵入以後、フィエスタ率いる第九位聖騎士団は臆病なまでにヨウイチの側にいた。それはヨウイチが一度前線に勝手に出てしまった事件に端を発していたが、ともかくとしてそのせいでカンパネラの予定はまず大幅に狂った。
聖獣が現れ、そして勇者が逃げなかったことで、自分の仕事はなくなったのだと思った。
勇者が聖獣に勝てるとは思えない。もはや孤立し、逃げようとも逃げ切れず、無様な屍を森に晒すのだろうとカンパネラは予想した。
この勇者はそれを討ち果たして見せた。
それがまた、予定外の一つだ。
予定外に次ぐ予定外。
カンパネラの仕事を邪魔し、もしくは横取りする予定外たち。
だが最後に手を下したのはやはり自分だった。その事実に、カンパネラは改めて感服する思いだった。やはりラルゴの采配は間違っていなかったのだろう。自分がここに来た、だから勇者は死んだ。そうでなければ死ななかった、というその事実。
しかし、とカンパネラは黙考する。
ならば聖獣は誰の差し金だろうか。ラルゴではないだろう。茸牛は勇者を殺害しかけたが、成功はしなかった。ラルゴの用意したものであれば、確実に死んでいるはずだ。
そして自分でもない。
ならば自然に現れたのだろうか。いいや、森が荒れているとはいえ、ネルグ中層にまで聖獣などそうそう現れるものではない。
……まあ、それはいい。カンパネラはその先が思い浮かばず、思考を打ち切った。
これで勇者は討った。聖教会は旗印を失い、そして引っ込みが付かなくなる。これでムジカルは、永遠に聖教会と敵対するだろう。
あとは。
そこまで考えて、カンパネラは思考を現実世界へと戻す。
足下にあるのはヨウイチの死体。それに、近くにはヨウイチの死に呆然としている高等治療師。そしてムジカル兵、まるで戦意を失った。
腑抜けたムジカル兵たちを見咎めて、カンパネラは細い眉を不機嫌に顰めた。
「何をしている」
普段の柔和な声音は形を潜め、その声には怒りが宿る。武器すらも手放し、どこか愕然としているムジカル兵たちを見て。
「動く手足があるならば、速やかに戦線へと戻れ」
作戦行動を共にしているわけでもなければ、直属兵と正規兵の間に上下関係は生まれない。
だが、カンパネラは苛ついていた。
兵士たちが勇者の死体を見る。更に自身に向けて、咎めるような視線を向ける。
カンパネラは察する。彼らは『ほだされ』てしまったのだ。敵国の一兵士に命を救われて。
『勇者を殺したこと』へ反感を持つ。それは、『勇者を殺せ』と命令したラルゴへの反抗に他ならないのに。
「ですが、その……」
ムジカル兵は、一瞬口答えをしようとする。しかし、目が合ったカンパネラから感じた死の危険に、それ以上の言葉を発せなかった。
代わりに発するのは、ただ肯定の返事のみ。
「か、かしこまりました!!」
「あの治療師も、生かして返さないように」
身を正した兵士に向かい、視線でその対象を指し示す。高等治療師は、ヨウイチに駆け寄るべきか、逃げるべきか、躊躇いその場に残っていた。
追い立てられるようにして、ムジカル兵が治療師を襲う。
響く悲鳴。血の臭い。
それを感じつつ、カンパネラは溜息をつく。
考えるのはこの後の予定についてだ。
ラルゴの指示は承っている。
ならば従うべきだ。けれど。
"勇者討伐の後、お前は速やかに帰還しろ"
勇者は討伐した。ならば、自分は速やかに帰還するべきだ。しかし。
血にまみれたムジカル兵たちから背を向け、カンパネラは唇を結ぶ。
仕事を終えた。だが一つ、自身の不始末が残っている。〈成功者〉ラルゴを悩ませ、作戦の変更を重ねさせている一つの要因が、戦場に残ってしまっている。
どうにかしなければいけない。
ラルゴはそれも良いと言った。けれど、放置してしまえばカンパネラは自分で自分を許せない。
カンパネラは足を踏み出し、影の中に溶けるように消えていく。
中天から、日は傾き始めた。急いで、日が沈むまでに。眩しい夜がやってくる前に。
もう一つ、帰る前に。私の不始末を、私の手でつけなければ。




