閑話:勇者として出来ること
「包帯まとめたのどこですか!? これは不潔? 清潔!?」
「煮沸またやり直しておきます!!」
「そうしてください!!」
ヨウイチが現在身を寄せているのは第九位聖騎士団〈琴弦〉、そして現在合流してきた第十一位聖騎士団〈百舌〉の合同拠点である。
その中にいくつか並ぶ治療師の天幕は、高さは他の天幕と変わらない。しかし患者が入るということもあり、三十人ほどが肩身狭いながらも並べられて寝ることが出来る程度の大きさだった。
応急処置をされた傷痍兵たちが周囲の空き地で思い思いに休み、その腕や足に巻かれ血が滲む包帯を力なく見つめていた。
天幕の横で蒸気を上げながらぐつぐつと釜で煮られているのは、患者の応急処置に使う当て布や包帯。横でぱたぱたと風を受けて乾かされているのも、洗ってあるそういった布たち。洗っても落ちない血が染みた。
中から聞こえてくるのは、急ぎ足のバタバタとした音。それに治療師たちの怒号にも等しい意思疎通の声。傷痍兵たちの呻き声。
垂れた布を持ち上げて中を覗いたヨウイチは、物々しさに怯えるようにそっと肩を震わせた。
「三番から十二番に移動させろ!」
「そっち持て! いいか? 一、二、三!!」
中にいる治療師たちが、傷痍兵の処置をする。手足の単純な傷ならば応急処置をして後回し。深い傷ならば血止めと鎮痛の法術を施す。内臓をやられたような深い傷ならば、奥に運び高位の治療師により複雑な手技から治療を施す。
指示語に名前は入らない。陣幕の中にいる十名以上の治療師は、各々が近くの傷痍兵に対し自分の出来ることをし、誰かが指示を飛ばせば即応して手を貸す。
一つの完成されたからくりのように複雑に動き続ける治療師たち。その手当により傷痍兵たちは、軽い傷ならば動けるように、深い傷ならば命を留める。
それでも間に合わなかった者は、布を被せられて運び出される。
「どいてください!!」
治療師が、天幕の入り口にいる邪魔な何かに怒号を飛ばす。彼らの尊敬する勇者であるヨウイチに全く目を向けず、ただ赤黒い染みが広がり続ける人間大の物体を丁寧に運んでいった。
ここ第九位聖騎士団の拠点は、攻撃拠点というよりも防御拠点であり、位置的には最前線というわけでもない。
だが今は、そこは傷痍兵たちが集う治療師たちの最前線となっていた。
五英将イグアル・ローコの襲撃は大胆で、悪くいえばおおざっぱだ。百名を超える直属兵といくらかの正規兵を連れて、進軍経路上にある目につく拠点を手当たり次第に襲う。もちろんその目的は遭遇した騎士団の殲滅ではあり、逃亡兵は捕まえるものだが、逃げ出した者を殊更に追うことはない。
そして五英将に潰された聖騎士団二つは、それぞれも前線と後方を支える要だった。彼らの指揮下に入り近隣に拠点を作り上げていた騎士団は補給や戦線維持が覚束なくなり、森に大量に入り込んでいるムジカルの正規軍に圧倒されていった。
五英将イグアルの働きに、それに乗じた正規軍の攻勢。潰走した騎士団たちは一路西へと撤退し、多くは魔物の襲撃までも受け、運が良ければ命からがらこの拠点に辿り着ける、というわけである。
同様に第七位聖騎士団〈露花〉の拠点にもそれなりに傷痍兵が保護を求めていたが、団長テレーズは彼らを即座に後方へ送り出した。その彼らが辿り着くのも、ここだ。
(……野戦病院って、こんな感じなのかな……)
ヨウイチは傷だらけの兵たちと、彼らを治療する治療師たちを見つめてそう感じた。
まるで、同じだと思った。教科書やテレビで見た紛争地域。その中で、物資の不足する中で懸命に命を救おうとする誰かたち。爆撃や壊れた建物などはないが、外からの光を透かし薄橙色に発光して見える天幕の中の壁が、まさにと。
「俺……なんかに手伝えることはないみたいっすね」
ヨウイチは振り返り、ヨウイチに付き従う年長の治療師を見て苦笑した。むしろ役に立つとすれば、自分よりも彼だろう。よくは知らないが、相手は治療師の中でも上から数えた方が早いほどに偉いらしい。ならばこういう場所の行動も慣れており、そのほうが自分よりもずっと……。
自虐と、正しい判断を行おうとしたヨウイチに向けて、優しげな笑みを浮かべて高等治療師は首を横に振る。肩まである髪は、頭頂部と同じく密度が薄い。
「そんなことはありません。勇者様には……おおい、誰ぞ……」
「やめてください」
そして天幕の中の治療師に向けて声をかけようとした高等治療師をヨウイチは止める。その言葉の先が、なんとなくわかって。
声が聞こえた治療師が、殺気立った目を天幕の入り口に向け、その先にいるのが勇者だということを理解して唾を飲み込むように文句の言葉を飲み込んだ。
治療師たちは、忙しさを増している。そうヨウイチは聞いていた。
この戦争が始まった当初ならばいざ知らず、戦況は悪化の一途を辿っている。既に三つの聖騎士団が壊滅し、それはこれからも増えるかもしれない。それに伴い、負傷し、救護の必要のある騎士も増える。
当然治療師たちはそこで法術を用いて彼らを治療するが、法術を使うためには魔力が必要で、彼らの魔力は無尽蔵ではない。睡眠や休息で回復するとはいえ、戦場という非日常でじりじりと消耗していくことは避けられない。
そのため法術は節約されることとなり、軽い傷であれば法術を用いない処置のみで済ますことも増えた。
ただし、法術を用いない処置というのは手間が掛かるものだ。瘴気を避けるため触れるものを清潔にしなければならないし、傷に包帯などを巻くのはそれを癒やす法術を唱えるよりも時間がかかることが多い。
もちろん重傷者には高位の術者が惜しげもなく法術を用いているが、続々とくる重傷者に間に合わず、残念ながら命を救えないことも増えている。
そして治療師は、誰一人として諦めることなど考えていない。誰一人として死なせないために、諦めない。
故にその手は徐々に疲労し、鈍りつつあるとも。
ヨウイチは高等治療師に目を向ける。未だ裾もほぼ汚れておらず、外套に血や薬品の汚れ一つついていない彼に。
「俺に代わって手伝ってもらえませんか」
「……申し訳ありませんが、私には勇者様をお支えするという尊い仕事がございます」
「フィエスタさんも言ってたじゃないですか。俺もしばらくは戦場に出られないって」
治療師の天幕を訪れる前、ヨウイチは〈琴弦〉団長のフィエスタの下も訪れていた。指揮官であるクロードから届いた命令、〈百舌〉との連携のために、合流したその団長と情報の摺り合わせを行っていた彼女の下へ。
何か自分に出来ることはないか、とヨウイチはそこでも尋ねた。忙しく働く聖騎士団や騎士団、彼らの力に何かなれないかと。
それでも返ってきた言葉は『ない』の一言だった。
「防備を固めるのも前に立つのも騎士団や聖騎士団の人たち。……なんなんでしょうね、俺って」
「あのような不信心者たちの言葉を気に病むことはありますまい」
高等治療師は、したり、と思った。話題が変わった。自分が治療に携わらずに済んだ、と。
目の前の高等治療師の変わった顔色に違和感を覚えつつ、ヨウイチは治療師たちの天幕から遠ざかり離れていく。ここに自分の仕事はない、と確認を終えて。
当て所なく歩きつつ、『役立たずだな』とヨウイチは自虐する。
戦場に出れば活躍できると、いつの間にか根拠なく思っていた。エッセンの人たちを、ルル・ザブロックを守るためには人を殺さなければならない、という逡巡は消えていた。人を殺すことがいつの間にか簡単なことに思えていたし、事実簡単だった。
今までの人生を掛けて練り上げてきた剣術は、この世界でも通じるものだった。一振り一振りでほとんどの敵兵の首は簡単に飛ばせたし、死ぬかもしれないと思った攻撃は頑丈な武器のおかげもあって防ぐことが出来た。
しかし。
『黙っていろっ! 今戦士と話しているのだっ!!』
この戦場で出会った男。オッドというらしい男の言葉が脳裏に焼き付いている。
黙っていろと言われた。お呼びでないということなのだろう。自分は戦士と話しているから、お前と話す気はない、と。
勇者と呼ばれたくないように、ヨウイチは戦士と呼ばれたいわけでもない。しかしその言葉は、今でも耳に残っている。
自分は戦士ではないのだ。あの男にとって、一騎打ちをする価値もない人間。
戦場に出れば戦えると思った。活躍できると思った。華々しい戦果を上げて、勇者と胸を張って名乗れるようになると思った。そしてそうすれば、ルル・ザブロックも自分に振り向いてくれるかもしれないと思った。
カラスに、勝てるかもしれない、と思っていた。
なのに実際はどうだろう。
この戦場で活躍しているのはカラスのほうだ。
火を放ち、敵陣を焼いたと聞いた。
光の矢を放ち、敵城を吹き飛ばしたと聞いた。
フィエスタへの報告で聞いた話では、カラスの焼いた敵陣地は木々が一本も残らない平地になっていたという。
それに、吹き飛んだ敵の城はこの目で見た。残った端から推定するに、ヨウイチの通う高校と同じような大きさの建物が、その向こうの地面まで抉れるほどの何かの攻撃で綺麗になくなっていた。
握りしめた拳が硬く痛み、俯き食い縛った歯茎が軋む音がする。
汗がこめかみの辺りを伝っていく。
決闘をすれば勝てると思っていた。クロード・ベルレアンにも通じた自分の《遠当て》は、カラスにも通用すると思っていた。手強くとも、工夫をすれば当たると信じていた。
しかし戦場で、その魔法がほんの小さな力だということを知った。
自分は役立たずだ。ヨウイチは顔を上げ、改めて思う。
部隊を率いる聖騎士に協力は出来ず、人を治療する治療師の助けにもなれない。拠点を守るのは騎士たちの仕事で、斥候もそのための者たちが行う。
戦場に出たところでその力は小さく、戦士と認められるほどでもない。
自分は何をしに来たのだろう。
日本では、人を殺す術を磨いてきた。
異世界に来て、人を殺せるようになった。そうして戦場に出られるようになった。
勇者として自分は戦場に来た。
なら、自分は何をしなければならないのだろう。
何か自分にも出来ることがあるはずだ。自分にしか出来ない何かがあるはずだ。
だって、そうでなければ……。
「勇者様?」
立ち止まったヨウイチの後ろ姿に、高等治療師は問いかける。その後ろ姿に苛立ちのような何かを感じて、その顔を見るために前に回り込もうとする。
そんな高等治療師を無視して、ヨウイチは城にいたとき、《投射》に成功した後のヴァグネルの授業を思い出していた。
思い出の中で、細身の不健康に見える痩せた男が、溜息交じりに言葉を紡ぐ。
「魔法とはどのように発現するか、ですか?」
すり鉢状、階段状に並ぶ机の一番下。魔術の講義の際に講師が使う大きな机を挟み、王城魔術師長ヴァグネルとヨウイチは向かい合っていた。
午後の魔術の修練は終わった後である。瞑想を終え、英雄譚の読み合わせを終えた後の僅かな世間話の時間。もっとも、彼らが『世間』に関わる話をしたことなど一度もないのだが。
ヴァグネルは分厚い英雄譚の本を立てて、槌のように机に下ろす。ゴス、という重たい音が、そう作られている講義室の中に響き渡った。
それはヴァグネルの癖である。慣れていたヨウイチは、威嚇のようなその仕草を意に介さず続けた。
「はい、参考になればと思って」
魔力を扱う事は出来るようになった。エウリューケ・ライノラットに処方され、今はカラスに調合してもらっている『甘露』という薬を含み、目覚めた力。魔力を体外へ向けて拡散させる《投射》はなんとか。
しかし、それ以上のことが未だにヨウイチには出来ない。英雄譚を読み合わせ、呪文を唱えようとも指先に火も水も現れず、これから出来るようになるという確信すら持てない。
不安だった。
自分は魔法使いだという。事実、調子の良いときには魔力は身体を覆っているというヴァグネルの確認も得ている。
なのに、魔法が使えない。自分は未だに何一つ不思議なことは起こせていない。そう思い込んでいた。
だが、ヴァグネルからすれば、何を今更と思った。
その問いに対する答えは、今までも何度も口にしてきたはずだ。今までの授業で、言葉を違えて何度も何度も。
咳払いをして、ヴァグネルはまた本を机に叩きつける。
「魔術と異なり、魔法とは魔法使いならば呼吸をするように自然と扱えるようになるもの。これというものはありません」
ヨウイチも、その言葉にうんと頷く。
知っているし聞いている。その類いのことは、目の前のヴァグネルからも何度も。
しかしその言葉を信じようにも、本当にそうだろうか、と心中に迷いが浮かんだ。
ヨウイチの内心を気にすることもなく、まるで教科書を読み上げるように、抑揚なくヴァグネルはまた口を開く。
「魔法とは千差万別、人それぞれ。それぞれの魔法使いが独自に得る力で、簡単に真似できるものではない。生まれたばかりの子鹿が立ち上がるように、鳥が自然と舞い上がるように、誰にも教わらずにそれをこなす」
だから魔術師はそれを扱えず、英雄譚に残る記述から法則性を見つけ出し、抽出し、組み合わせて同様の現象を発現させるしかない。
ヴァグネルとしても無念ではあるが、今のところはそれで納得するしかない、と思っていた。今のところは。
「それって、たとえば俺の場合、瞑想だけでなんとかなるものなんですか?」
「何故?」
「他にも方法とかはないのかなって」
頬に赤みを覚えつつ、一瞬ヨウイチは、無礼だ、とも思った。
この魔術訓練はヨウイチの側から頼んでいるものだ。そして魔術や魔法などの基礎もない自分に向けて、目の前の魔術師ヴァグネル・ラルスナーは親切にも丁寧に講義を行ってくれているというのに。
しかし、ヨウイチの心の中にはある考えが浮かんでいた。
それは初学者によくあること。教師への信頼が身に染みておらず、その上で反骨心とわずかなりの増長が重なった場合によく起こること。
ヨウイチはふと思った。
『エウリューケは、ヴァグネルと別の考えで《投射》を成功させた』と。
ヨウイチの探るような目つきにヴァグネルは無言で応え、それからその意図を考える。
ヨウイチの言葉。他に方法があるのではないか、という言葉。
もっといえば、『お前は他に方法は浮かばないのか』という言葉。
なるほど。
納得できたヴァグネルの目元に、僅かに笑みが浮かんだ。
「……エウリューケ・ライノラットはやはり刺激が強かったらしいですな」
え、とヨウイチは身を固めた。エウリューケの名前がヴァグネルから出ることが意外にも思えて、更に自分の内心を読まれていたようで恥ずかしさと動揺が同時に走った。
「勇者様は私の能力をお疑いになっておられるご様子。あるいは彼女なら、何か正しい手法を確立できるのではないかと」
「そこまでは、って」
誤魔化すようにヨウイチは笑おうとしたが、笑えなかった。
何故だが目の前のヴァグネルの雰囲気が老境に入った女性と被った。他ならぬヨウイチの剣の師、祖母と。
ニコリと不器用にヴァグネルは微笑みを浮かべる。生徒に笑いかけることなどそうそうない彼が。
「もちろん、私が正しい手法をとっているとは言い切りません。魔術とは学問。学問とは常に試行錯誤の歴史で、どの時点においても間違いは必ずある、と考えるのがよろしいでしょう」
英雄譚の解釈すらも、千年練られてまだ足りない。
未だに毎年最新の学説が発表され、同じ節の解読について二転三転することもしばしばだ。
その上でもちろん、ヴァグネルは自分が正しいと言い切ることも出来た。
「私は魔術という学問において、最高位に当たる特等魔術師の位階を授かり王城魔術師長の職まで得ている。しかし、それでも、それは私が正しいことにはならない。他にも方法はあるかもしれません」
重ねて、ヨウイチの言葉を認め続ける。
もっと良い方法があるかもしれない。もっと良い方法があるならば教えてほしい。そう願い続けるのは、彼が最高位の特等魔術師にいるからこそ。
「しかし、彼女は間違っている」
そしてエウリューケを否定出来るのも、今までの研究と研鑽の日々があってこそ。
ヴァグネルは、自分の言葉を待つヨウイチをじっと見つめる。その目に少々混じる否定的な光は、仕方のないものだと思う。
「勇者様に行った秘薬の投与。その手法に間違いはなかったのでしょう。闘気の失活により魔力の減衰を抑え、《光体》の知覚を容易にさせる。私も聞けばなるほどと思いました。秘薬の存在を知らずとも、何故それを思いつかなかったのか、と悔しくも思った」
《投射》の成功にエウリューケが関わっているとミルラから聞いて、それからヨウイチに詳しい聞き取りをヴァグネルは行った。
そして悔しくも誇らしい気にすらなった。研究会で自分を言い負かそうとした彼女が、またもここで立ちはだかってきたのかと。
尊敬すべき行為だとも思った。彼女は『勇者』という希少な標本を前にして、理論を基に果敢に実験を行い、成功させた。あとは応用例や実証例を増やし、誰しもに読める論文に変える気があれば完璧なのだがとも。
彼女の手法は正しかった。
けれどやはり、彼女は正しくない。
「……彼女の発想は魅力的でしたか?」
「魅力……? え、ええと……」
ヴァグネルの目が鋭くなる。その目に心が読まれているのだろうかなどとヨウイチは思ったが、その質問に焦るように、すぐにそれを忘れてしまった。
ヨウイチの反応を待たずに、ヴァグネルは首を横に振った。
「ミルラ王女もおそらくそこに魅了されたのだと思います。彼女は……少し奇天烈な言動で、奇想天外な発想をし、予想外の成果を上げる。奇才とは彼女のようなもののことをいうのでしょう」
ヴァグネルの記憶の中の彼女もそうだった。
礼儀知らずで常識のない女性。ギルドの廊下で寝転がり、実験用の大鍋で作ったゆで卵をところ構わず貪り食うなどの奇行を平気で行う。それでいて、勉強会の場では講師に向かい鋭い質問を浴びせ、撞着のない独自の結論を主張する。
「しかし、彼女は個性的な存在ではない」
だがその本質はきっと。
「先ほども申し上げた。魔法とは人それぞれだと。今そこに付け加えてもよろしいでしょう。これは私の独自の考えです」
機会があれば論文で発表しようと思っていた。もっともこの魔法使いの少ないエッセンにいる間は、充分な標本も集まらず出来ないとも思っていたが。
「魔法を発現するのに必要なのは、『強固な個性』です」
「個性?」
「はい。故に、エウリューケ・ライノラットや私、多くの魔術師は魔法使いではなく、……そして勇者様も、魔法使いになり得ていない」
「…………?」
個性、と聞いてヨウイチは疑問符を浮かべる。
魔法を扱うのに個性が必要。個性など誰しもが持っていて当然のもの、であるならば、自分やヴァグネル、それにエウリューケが使えない理由がわからない。
「私が特等魔術師の位階を拝領した研究、それは大人数による合成魔術の指揮の手法でした」
ヴァグネルは懐かしく思う。五十年ほど前に行い、成し遂げたその研究。
「魔術というのは通常一人で行う。それを、二人、三人、と増やし、協力して強力な事象を発現させる。それが合成魔術」
「はあ」
ロールプレイングゲームなどでたまに見る、協力技のようなものだろうか。そう理解したヨウイチは、曖昧ながらも頷いた。
「しかしそれも、神器や複雑な魔法陣を介さなければ三人以上は難しい。五人ともなれば不可能といってもいいことでした。それを私は行わせた。百二十八人合同で」
ネルグの中にある岩山を、塵の山へと変えた。その地形変更の魔術の規模は、未だに魔術ギルド最大最高を誇る。
そんな自らの業績を誇ることもなく、ヴァグネルは淡々と口にする。
そういえば、魔法陣の研究もエウリューケは携わっていたな、と考えつつ。
「理論上はまだまだ増やせる……と失敬、そうではなく、そう、そのために必要なことが、『個性の調整』でした」
むしろ、合成魔術の理論の大半はそのための手法といってもいい。多人数の心を繋げるための、認識の手法。
ヴァグネルは指先を空に向け、顔の前に掲げる。
「火よ、我が手に」
短縮された詠唱。懐疑的ながらも、最近渋々と自分も修めたものだ。
指先に浮かぶ橙の炎は、指先ほどの火の玉というような雰囲気でヴァグネルの顔を照らした。これはヴァグネルが思い浮かべた目の前にある『太陽』。
「『天上より降り立った火は彼を照らす』。そう聞いて勇者様は、どのような『火』を思い浮かべるでしょうか?」
「天上より、っていうと……すごく大きな?」
「なるほど、そう思い浮かべてもよろしいでしょう」
ヴァグネルは軽く手を振り拳を握る。その動作で握り潰されたように火の玉は消えた。
「しかし、そう思わない者もいる。先の私のように」
「……あ」
ヨウイチはその言葉で僅かに納得する。自分が思い浮かべたのは、それこそ聖書に出てくるような街を焼く火の玉。けれど、ヴァグネルが思い浮かべたのは、先ほどのようなビー玉のような……。
「同じ文章から『火』というものを思い浮かべたところで、今のように差が出る。同じように、木や水などを思い描いたところで、枝振りや葉の形、温度に混合物など様々に違うもの。それが、『個性』です。私の合成魔術の基本は、その『個性』を消失させるための訓練」
「みんなで同じものを思い浮かべることが出来るようにということですか?」
「平たくいえばそう考えてよろしい。《概念描画》や《拍子》を用い……失礼、今は関係ないことです」
訓練の内容を口に出しかけて、ヴァグネルは咳払いをして修正する。
秘密ではないが、今はこの話ではないと自戒した。
「今のところ、行った全員にはその手法が成功した。訓練により『個性』を制限し、合成魔術を扱うことが出来た。ところが魔法使いでは成功例はない」
強固な意志がある、というわけではない。
反抗的な意思がある、というわけでもない。
しかしヴァグネルが行った実験上では、協力を仰ぐことが出来た魔法使い三人全てに失敗をしている。〈灼髪〉テトラ・へドロンもその一人だ。彼女が魔術で起こす火は、誰も合成することが出来なかった。
「よろしいか? 魔法使いになるためには、『強固な個性』が必要なのだと私は思います。どれだけ人に強制されようが、人とは馴染まない何かが」
故に、ヴァグネルはいつの日からそのような仮説を持ち始めた。誰にも、自分でも矯正できない何かが必要なのではないかと。
しかし、そこまで聞いてヨウイチは考える。
『強固な個性』。その定義まではわからないが、それに一度だけしか会っていないが、それでも彼女は。
「エウリューケさんは、すごく、その……個性的では」
「いいえ」
その言葉をヴァグネルは、最後まで聞かずに否定した。
本を机に打ち鳴らし、裁判官のようにヴァグネルは他に誰もいない講義室を睥睨する。
「個性とは、自然と出る他の者との差異。しかし彼女はそうではない」
それがヴァグネルが彼女を認めなかった理由。彼女の論文を一読し、時折感心しながらも一蹴し続けた理由。
「紙に手本通りの丸を描けと言われた者は、それぞれに丸を描くでしょう。そのとき、人により歪んでいるかもしれない、小さいかもしれない、大きいかもしれない、太い線かもしれない、端に描かれたかもしれない、しかしそのどれもが丸でしょう」
そのどれもが間違っているとはヴァグネルは思わない。その時によって描かれるべき丸が違っても、そのどれもが等しく丸だ。
「同じように描こうとして、それでもどうしても作られる差。それが『個性』というもの」
しかし、彼女は。
「けれども彼女はそこで三角を描く。人の顔を描く」
仮に、それが自然に出来たものならば構わない。それもそういう個性だろう。
しかし彼女は、意図してそれをやる。決まった考えが下らないという。皆が正しいものこそを間違っていると説く。
ならば、それは。
「それは個性的ではなく、ただの野放図という」
勇者の世界では、天邪鬼。
彼女の論文の考えは、そのほとんどがそれだ。
「魔法を扱いたければ、勇者様はあの者を参考にすべきではありません。それだけは確かだと私は考えます」
「…………」
「……失礼、無駄話が過ぎましたな。ともかくとして、魔法とは他の誰も扱えない自分だけのもの。私にも、そしてエウリューケ・ライノラットにも答えは出せない」
少なくとも自分はそう信じている。ヴァグネルはそう思う。
そしてエウリューケが魅力的に見える訳もわかる。
初学者、そして若者には魅力的に見えるものだろう。反権威、奇想天外、それでいて結果を出すあの姿は。
だがだからこそ、釘を刺すべきだ。後進を指導する教育者の端くれとしては。
「勇者様は、勇者様にしか出来ないことをお考え下さい。それが、魔法使いになる道でしょう」
「俺にしか出来ないこと、って」
自分にしか出来ないこと。それは何だろうか。
何だったのだろうか。そうヨウイチは考え込み、その日夕食の鐘が鳴るまで講義室から動けなかった。
ぬ、とヨウイチの前に高等治療師の顔が見える。
「…………!?」
「勇者様、どうされましたか?」
おずおずと尋ねてきた高等治療師に、ヨウイチは今自分が戦場、陣にいることを思い出した。
「いえ、その……いえ」
そして何も返せず、ただ首を横に振る。やけに背骨が立たず、視界が下に向いていると思った。
だが、こうしてはいられない。
ヨウイチは自分の頬を両側から張り飛ばす。ひりひりとした痛みが走ったが、それが心地よかった。
自分は役立たずだ。ヨウイチは顔を上げ、改めて思う。
部隊を率いる聖騎士に協力は出来ず、人を治療する治療師の助けにもなれない。拠点を守るのは騎士たちの仕事で、斥候もそのための者たちが行う。
戦場に出たところでその力は小さく、戦士と認められるほどでもない。
自分は何をしに来たのだろう。
日本では、人を殺す術を磨いてきた。
異世界に来て、人を殺せるようになった。そうして戦場に出られるようになった。
勇者として自分は戦場に来た。
なら、自分は何をしなければならないのだろう。
何か自分にも出来ることがあるはずだ。自分にしか出来ない何かがあるはずだ。
だって、そうでなければ。
そうでなければ、とても悲しい。
勇者の風呂敷はエピソードとしてはあと一つ




