閑話:鏡よ鏡
前話と同じくフラムの紹介なので読み飛ばしても大丈夫です。
聖領ネルグの中にも、湖沼はある。雨を伝う河と樹液路が交わり窪みに流れ込み形成された湖は、良質の栄養を含み魚や貝などが豊富に採れる
近くに開拓村や街があればそこは良質な漁場になるし、そうでなければ野生動物の憩いの場になることもよくあることだ。
そんな名もない湖の畔で、一人の女性が髪を靡かせ佇む。女性は三十代後半。その傍らには手足を縛られ猿轡を噛まされた齢十代後半の女性が転がる。
恐怖に喘ぐ若い女性をあえて無視し、佇む女性だけを見れば仕事の合間の一時の休息に見えるかもしれない。しかしそんなのどかな仕草ではあるが、その服装はネルグの森の中で行動するには適しているとは言い難い。
臙脂色の滑らかな生地に長袖、長い裾。エッセンでは貴族の者が着るような豪華な装い。
ただし、その胸元は大きく開かれ、彼女の胸の上半分を曝け出している。ムジカルの砂漠にも適さないその無防備ともいえる露出は、彼女の無意識に残る最後の抵抗だ。
水面を覗き込めば、やや揺れているそこに女性の姿が映る。
鏡のように我が身を映す水面を振り払うように手を横に振れば、風が巻き起こり水面は紫色に変色した。
不快なものを見た。そう感じ、顔を上げればそこはネルグの深い森。
湖の湖面からは数本の枯れ木のような植物が顔を出し、昼の光を受けて輝いていた。
「綺麗ね」
ぽつりと女性が呟く。
ムジカル人の中には、ネルグの緑を嫌う者がそれなりに多い。若々しい植物の青臭い匂いに湿気などが満ちるこの場所は、不快だと。
けれど、彼女、フラム・ビスクローマは、それはあまり気にならなかった。
木漏れ日は暗い森の中に光の柱を生み出し、木々の緑を青く瑞々しく映す。苔生した岩は朝にはしっとりと濡れて輝き、苔に粒となり残った水滴は宝石のように艶やかだ。
ただ一つ嫌なものがある。ネルグのそこかしこに。
それは、花。
足下に生えていた黄色い水仙の花。もう季節としては終わっているはずが、このネルグの中では名残のようにまだ咲いていた。
その一本を花の下で折り取ると、フラムは傍で転がっている少女の目の前に突き出す。
「すごく綺麗よね、貴方と同じく」
その仕草にまた恐怖を覚えてびくりと身体を震わせるが、縛られた若い女性の身体はままならない。ただこれから何をされるのかと、不安に耳の後ろが引きつった。
転がされている彼女は騎士。幼い日からお転婆と呼ばれ、周囲にいた同年代の男性よりも腕が立つということを見込まれて、エッセン西部のとある男爵領で任官された女傑である。
まだ二十歳足らずという若さに、闘気を帯びた健康的な身体。若作りというわけではないが、その若々しさに十代前半に見られることもしばしばだ。
ムジカル軍に捕らえられた者は惨いことになる。そう先輩である騎士から彼女は注意を受けていたが、今このときになって訳がわからなかった。
むしろ、軽く考えていた。性的な折檻などであれば、少なくとも命は奪われない。友軍の救出を待てるかもしれないし、仮にムジカル内地まで移送されようとも命が残れば帰ることは出来るかもしれない。
襲撃を受けて捕まったときもそうだった。
フラム率いる直属兵は、当然魔法使いや闘気使いで構成されており、常人に抗える者ではない。それは団員が多少闘気を扱える程度の弱小騎士団であっても同様で、彼女の所属していた五十に満たない騎士団は瞬時に壊滅した。
彼女の把握している中でも半数以上が死に、残る十数名も傷を受けつつ囚われの身になった。
彼女の同僚であった騎士たちは、男女関係なくどこかへ連れていかれた。重傷の者も、そうでない者も。その先でどのような扱いを受けるのかは、きっと聞いていた通りなのだと思った。
しかし何故か自分だけは。
フラムの目にとまった自分だけは、ただ縛り上げられるだけに留まった。どこかから叫び声すらも聞こえてきている最中、自分だけは。
フラムは部下に『手を出すな』と命じた。それを聞いた彼女は、戸惑いと不安を覚えた。
何故、と思う。
この身にもはや純潔などはないが、それでもそのような扱いで済むのであれば上々、程度に考えていたのに。
もしや、とも思った。
聖教会の戒律の影響で、エッセンでは同性の性的交わりは一般に忌避される。だがムジカルではそれは一般的な欲望だという。現に同僚の男たちも今、骨折や打ち身の痛みに耐えつつ、喘ぎ苦しむ目に遭っていることだろう。
ならば、私は。
フラムの目に適ったのだろうか。郷里では嫁にしたいと男たちが大勢押しかけてきたこの美しさが。
そう驕りに似た思考に、何かしらの腑に落ちたが、不可思議さや不安は消えない。
ならば何故まだ拘束したままなのだろうか。鎧を脱がせ、ただそれだけで猿轡も外さず。
それを考えれば、恐怖が頭に満ちていく。湖まで引きずって移動させられている最中にも、その怯えは増していく。
そして今。
目の前に花をかざすフラムの笑みが、何故だか恐ろしい。
自分の反応を待つように静止した顔が。
「……でもね、花っていつかは枯れるのよ」
そしてぽつりと呟かれた言葉の意味がわからず、女性騎士は反応を返せない。
次の瞬間、水仙の捻れた花弁が萎れていく。まるで干涸らびたように白みを帯びた茶色に変色し、花がぽとりと地面に落ちた。
「悲しいことだと思わない? 私はすごく思うわ。いつまでも綺麗でいたらいいのに、って」
「…………?」
フラムの手の中で、花の茎も崩れていく。灰や黴のような細かな砂のように変じて。
つまらなそうに吐息をかけて、フラムが指先の粉を吹き飛ばす。それから空になった手が、女性の頬に触れる。
「ねえ、貴方の目ってすごく綺麗ね」
ぞく、と女性の背筋に寒気が走った。
反射的に身をよじるが、折れた腕の痛みが彼女の動きを止める。
それから頬、それに顔の左半分に感じた冷たさに似た激痛に彼女は叫んだ。
「ぃぃいいいいいい!?」
「アハハハハハハッ!」
楽しげにフラムが笑う。
彼女の顔の感覚がなくなるのは一瞬のことだった。激痛が消えて、不快感だけが残る。その上で、感じたのはやはり恐怖。
視界の左半分が白濁し、その意味を消失する。左耳が聞いていた風の音もどこか遠くなる。
更に激痛の代わりに、じわじわとした鈍い痛みが肌の下に根を伸ばすように広がっていった。
フラムの手で首根っこが掴まれる。魔法使いらしい女性とも思えないその力で湖の水面を覗き込まされた女性は、そこに映った自分の顔が、自分の顔だとも思えなかった。
「え……?」
「綺麗な顔だったのに、残念ね」
ふふ、とフラムは続けて笑う。
嘲る先は、女性の顔。
童顔で、里の男からは常々可愛いと褒め称えられていた彼女の顔。その左半分は焼け焦げたような黒い固まりに変じ、そのごつごつとした割れ目の中に、真っ白な目がかろうじて見える。
形の良かった頬は所々剥がれ落ち、中の肉が露出する。唇は血色を失い青くなり、乾いた皮が干上がった川の底のようにひび割れていた。
亡者のような己の姿。
それを直視した女性は、改めて全身を襲い始めた痛みに叫んだ。
「……ふ、ぎゃ、ああああああああ!!」
フラムが手を当てた首筋から、じわじわと壊疽が広がっていく。彼女が叫んだのは、まずその痛み。
そしてそれにも増して、水面に映る自分の姿に。
儚く、可憐だったはずの自分の姿に。
醜く、枯れ木のような姿に変じていく、自分の姿に。
やがて、叫び声も止まり、フラムの手の先で衣服を纏った枯れ枝のようになった女性。
興味をなくしたかのように、フラムはそのまま手を離す。湖に飛び込んだ彼女だったものは、水の中で泥のように崩れ去った。
「ああ、そうよね。花っていつかは枯れるのよ」
水面に布の服だけが浮かび上がる。それを見つつ、フラムは呟いた。まるで自分に言い聞かせるように。
「みんな、枯れていくの」
フラムの家の調度品は、人の革を使った珍しいものが多い。
戦場を練り歩き、美しい少年少女の皮を剥ぎ、灯火傘や座布団にする。それは彼女の唯一の趣味。
だが、勘違いしているのだ。直属兵も、ムジカルの民も。
彼女が好きなのは、美しい奴隷でも、美しい宝飾品でもない。
彼女が好きなのは、美しいものではない。美しいものが、自分よりも早く壊れていくのが好きなのだ。
美しかった少女も美しかった少年も、いつかは枯木のように枯れていく。宝石も、砕けば散る。
それを目の当たりにするのが好きなのだ。
人革は擦り切れ、かつての美しさはすぐに失われる。
だからこそ好ましい。だからこそ傍に置く。
砂漠で枯れぬ一輪の薔薇。〈貴婦人〉の傍に相応しい。
浮かんでいた布の服が沈んでいく。
それを見送るように、ふとフラムは水面を覗き込む。そしてそこに写る自分の姿を見て、像をかき消すように瞼を閉じる。
彼女の容姿は凡庸だ。好みにもよるが、決して、美しいと手放しに褒められる見た目ではない。目尻には烏の足跡が入り、化粧の乗りも良いわけではない。水滴は肌で玉を作らずべちゃりと弾ける。
しかしそれを彼女は認められない。
自分が一番美しい。そうでなければならないのだ。
フラム様、とシュウシュウという喘鳴音に似た声が響く。
目を開けてみれば、水面に浮かび、人の背丈を超える長さの毒蛇がフラムに呼びかけていた。
「出来た?」
頷きもせず、お待たせしまして、とフラムの言葉に蛇は応える。返答になっているわけではないが、その意味を読み取ってフラムは笑った。
「じゃあ、他のみんなにも伝えて頂戴」
かしこまりました、と一声鳴いて、蛇は水に潜っていく。向かう先はフラムの直属兵たち。『出撃準備』という言葉を添えて。
「楽しみだわぁ、すごく楽しみ」
このすぐ先の街を襲撃し、ネルグ南側中央に大きなムジカル軍の拠点を築く。それがラルゴの指示。
その街はエッセンの騎士団の拠点にもなっており、先ほど包囲を命じた毒蛇たちの話では、まだ避難前の民も残っているという。そして民がいるともなれば、それを警護するために騎士団は他の拠点よりも多くなる。
そして大きな拠点ともなれば、彼らも必ずいるだろう。
聖教会の手先。民を導き戦うものを癒やす、憎い存在、治療師団。
治療師というのは必ず魔力使いだ。
そして彼らの修行により、その多くは長い寿命を持ち、更に若さを長く保つ。
憎い相手だ。枯れぬ花は一輪だけでいい。
砂漠に咲くただ一輪。私だけで。
フラムの足下が黒く染まる。その色は徐々に広がり、水面までも黒く染め上げていく。
ぷかりぷかりと魚が浮かぶ。フラムの周囲の木々が枯れて朽ちていく。
さあ、いこう。
治療師や騎士、美しい者たちはこの世にいらない。若く美しいとはなんと悍ましいことか。
歩き出せば、一歩一歩と根が絡まる地面が枯れていく。腐り枯れていった足跡は、そこを通った小さな蟻の息の根を止める。
フラムの背後に、ぞろぞろと毒虫たちが集う。
蠍に毒蛇、尾に毒を持つ毒鳥欽原。百足たちまでもぞろぞろと。
フラムはラルゴを信じているわけではない。
『失敗をしない』など、与太話だろうと思う。
けれど、あの男の指示に従えば、不思議と全てが上手くいく。ぶつかった敵は統制が取れておらず、手強い敵は知らぬ間に窮地に陥る。その印象は、フラムも否定出来ないものだ。
ならば、今は従おう。いずれあの男の顔も焼いてやるが、それは今ではない。
今は、そう、目と鼻の先にある街。エッセン騎士団の拠点を落とす。
フラムは目標の街の名前を思い出そうとする。ラルゴの伝令から聞いた言葉。特段覚える必要もないとほとんど聞き流していた単語。
それを何の気なしに。
そうだ、たしかあの街の名は。
あの街の名は、クラリセンといった。
 




