静かな湖畔
あけましておめでとうございます。
他人視点本編三人称から今年はスタートです。
そういえば静かな日だった、とムジカル軍千人長の一人トランキロは述懐する。
穏やかに晴れた朝。
戦場に作られた天幕の中で目を覚ました彼は、無精髭を擦って垢をぽろぽろと落とした。
ムジカル軍の作る天幕は、エッセンのそれと比べて非常に豪華だ。
その軍の活動範囲は大抵過酷な砂漠の中。それ故に、砂漠の熱さや毒虫を防ぐために敷き詰められた布は厚い。
その陰影を構成する円蓋の中央は落下物を防ぐために一枚だけ布を噛ませた上で穴が開けられており、その下は焚き火用地。中で煮炊きをすることまで出来る。
調度品は生活が出来るほどではないものの不必要とされるようなものも多く、現地で調達した棚や花瓶などが置かれていることすらある。
天幕の隅に置かれた衣装掛けから一枚広げるのは外套で、襤褸切れを繕ったそれはムジカルの砂漠で行動するためのもの。
日よけ代わりのそれを習慣のままに羽織り、トランキロが天幕を出て見た風景は、ムジカルの砂とは違う一面の緑。
ムジカルが敵国エッセンに侵攻を始めて十日はたつ。不慣れな森の中故に歩みは遅いが、それ故にその緑にも慣れたものだった。
拠点は森の開けた場所を使ったもので、急拵えという不備が目立つ。しかし関係ないだろう。今日にはここを発つのだから。
ざあ、と葉擦れの音が響く。
誰かのいびきが、天幕から漏れ出て聞こえてきていた。
「さて」
伸びをしながらトランキロは自身の意識の中、目を閉じた暗闇の中に集中する。
トランキロは〈万鐘〉と渾名される魔法使いだ。その魔法は目を閉じれば目の前に不思議な光景を見せる。
揺れて濃淡を見せる青。青白くなり、黒くなり、と揺れるその光景が何なのかを理解するのは余人には難しい。しかしそれはたしかな伝言となり、彼だけにはその意味を確実に伝える。
これは、きっと『水』。
彼だけが持つ特有の魔法《万鐘》には他者に影響を及ぼす効果はなく、その性質は『導き』に近い。
彼が目を閉じ思い浮かべたもの。それは近く彼にとって重要となるものである。
生き延びたければ東の方角へ。準備するならば金属製の盾が良い。赤いものに注意しろ。
その指示はどれも抽象的で、避けるべきか準備すべきかも、理由すらも本人にさえわからない曖昧なもの。
『必要』というのもまた曖昧で、それが満足な昼食を取るための道しるべだったり、安眠のために必要な枕の形、という命に関わらないほのぼのとしたものということもよくある。
しかしそんな数々の直感ともいうべき感覚に従い、彼は今まで戦場で生き延びてきた。
今回は『水』。
雨はしばらく来ない天気で、水害などではない。ならば水筒でも用意しておけばいいだろうか。喉が渇く事態が起きるか、それとも身体が汚れるのか。
そう彼は考え、すぐさま天幕に戻り、水の入っているはずの革袋を手に取り中身を確かめる。
入っているが、少ない。きっとこれのことだろう。
そう彼は納得した。
「……?」
鳥舎をのぞき込み、トランキロは首を傾げる。
ムジカル軍の百人長、もしくはそれ以上の階級のいる陣には必ず鳥舎が設置されている。
毎朝、そのために飼育されている遣いの鳥をそこから放ち、または受け取り、他の隊がどのような動きをしているか、もしくはするか、そしてどのような状況にあるかを知らしめ合う。
それは戦略などほとんどなく、各々が自分の率いる隊を使って思い思いに進軍し敵地を蹂躙するムジカル軍にとって、他の隊の動向を知れる数少ない手段だ。
鳥舎には鳥たちを確保する檻の他、他の拠点から訪れた鳥が一時羽を休める止まり木がある。本来ならば毎朝そこには多くの鳥が止まっており、そこから文書を入手出来るというのに。
「回収したのか?」
いつもは怠けがちなお前にしては仕事が早いな。そう言外に告げながら、トランキロは担当兵に尋ねる。指揮官であるトランキロがここに来た場合には、彼がトランキロに手紙を渡すはずだった。
しかし担当兵は首を横に振る。
「いえ? まだですけど、朝から一羽も来ないんですよ」
「妙だな。……近くの拠点が昨日のうちに全部やられたか?」
「それはないと思いますけどねぇ……」
「だよなぁ」
エッセンの軍にはそんな機敏な動きは出来まい。そう内心エッセン軍を侮りながら、トランキロは檻の扉を開ける。手紙が来ずとも、こちらから飛ばさないわけにはいかない。
仮に味方拠点が全滅しているなどという考えにくい不可思議な事態だとしても、それならそれで鳥たちがここへと戻ってくるため偵察としては充分だ。
しかし。
「わっ!」
檻の扉を開けた途端、まるでそれを待っていたかのように、中にいる鳥たち十数羽が一斉に飛び出していく。
懐いているというほどでもないが、馴れているはずの担当兵にすら目もくれず、一目散に飛び立っていく。担当兵は一羽の足をなんとか掴んだが、その鳥にその手を囓るようにつつかれ、怯んだ隙に拘束を脱されてしまった。
「申し訳ありません!!」
一時呆然とした担当兵が、すぐにトランキロに頭を下げる。
実際に逃がしたのはトランキロとはいえ、鳥の管理担当は自分だ、とすぐに。
だがそれはトランキロもわかっている。無精髭を擦りながら、「いや」とだけ答えた。
「斥候兵に伝令させる。お前は伝令の兵を集めてくるのと、鳥の手配もまた頼む」
「はい!」
ムジカルの兵たちにとって、ほとんどの失敗はお互い様だ。そしてそれよりも、失敗したときにその者がどう補うか、それが問われる。
「気にするな。俺が不用意に扉を開けたせいだろう。この髭面ではな」
トランキロはガハハと笑い、それを以て償いとした。
干し肉を鍋でふやかし、小さく粒状に丸めた小麦の粒を煮込む。汁がなくなるまで煮た鍋を大皿にあけるまでもなく、皆が手を突き込み素手で取る。
朝昼晩と続くムジカル軍での代表的な食事ではあるが、それに文句を言う者はこの場にはいない。文句を言う者は前線には出ないのだから。
天幕の中、円卓を囲うように焚き火台を囲み、椅子もなく四人が顔を突き合わせてあぐらをかいていた。
一人はこの拠点の責任者、千人長トランキロ。それに、配下の百人長が三人いる。男三人に女一人。総勢五百人のこの拠点で、幹部ともいえる者たちである。
「最後の情報と斥候からの報告だと、北西方面に第八位聖騎士団が来てる。南は第七位だ」
「どうする? 抜けてくか? それとも潰してくか?」
食事の最中ではあるが、話題は今日からの予定の話だ。
このまま西進すれば、上手くすれば抜けていけるかもしれない。途中騎士団や傭兵団などと遭遇するかもしれないが、その程度であればものの数ではない。その場合は、警戒すべきは国家無所属の強者たちのみ。それも聖騎士団長に匹敵する脅威を持つとされる千人長たちにとっては、取るに足らない相手だ。
もしも武功を得たいならば、聖騎士団に当たるべきだ。第八位聖騎士団〈孤峰〉や第七位聖騎士団〈露花〉を壊滅させたとあれば、実績を持って取り立てられることになる。
選択するのはこの拠点の指揮官であるトランキロ。彼は部下たちの報告混じりの質問に黄ばんだ歯を唇の中にしまい込み手を顎に当てて肘を膝についた。
目を閉じた先に見える《万鐘》の風景は、未だ変わらず『水』のただ一言。ならば今回の決断には、きっと関わらないのだろう。
「…………」
もっちゃもっちゃと口の中で麺を咀嚼しながら皆がトランキロの言葉を待つ。
「……潤いが、ねえよな」
そして、トランキロの言葉に、皆の顔が明るくなった。
潤い。端的に放たれた言葉だが、その意味として皆同じ事を思い浮かべていた。
「この辺りは開拓村なんかもないだろうし、近えほうがいいんじゃねえの?」
「よっしゃ!」
一人の百人長が喜びの声を上げる。開拓村ではなく、『潤い』がほしい。ならば答えは一つだろう。
西進していけば、開拓村や小さな街はどこかにあるだろう。そこから略奪してもいい。けれども十日もたてばさすがに鈍いエッセンの民であろうとも避難はしてしまうだろうし、そう大きな実りはない。
だが、確実に『人間』がいる場所がある。
「どっちにするか?」
「どっちでもいいんだが……、南にいる聖騎士団長は女だったな?」
「そうだな」
「じゃあ、そっちだ」
トランキロの頭に『敗北』の文字は浮かばない。今まで敗北していないからこそ、ここで千人長としていられるのだから。
「昼前には移動する。全員、準備させておけ」
掌で丸めた料理を、指先で口の中に運ぶ。そうして喋ることが出来なくなったトランキロの代わりに、他の三人が「了解」と声を上げた。
食事も終わり用も足し、トランキロは森の中でこれからの行く先を眺めた。
何故だか喉が渇く気がする。水が必要なのはこれのことだろうか、などと考えつつ、そうでもないと内心反論しながら。
木々の隙間から見える森の向こうは、どこもかしこも鬱蒼と茂る木々の中で、暗闇に覆われるようにして何も見えない。
代わりに響くのは風に靡く葉擦れの音だけ。獣の声も鳥の声もなく、まるで闇夜の中のようで。
その森の向こう遠くには、エッセン軍の拠点がある。
そしてそこには、聖騎士団率いる騎士団や傭兵たちがひしめいている。
トランキロは舌舐めずりをした。そこにいる人間たちを『収穫』する様を想像して。
まずは聖騎士団だ。その団長、テレーズ・タレーランは剛の者としても知られている。前回の戦でも活躍し、ムジカルの千人長も多数屠っている。
だが所詮、女だ、とトランキロは思う。今まで戦った者は皆彼女を侮ったのだろう。侮ってしまった結果、実力を出せずに負けたのだろう。そう、その負けた者たちと同じように。
そして聖騎士団といえば、エッセンの貴族たちの一員でもある。鍛え抜かれた身体は程度の差こそあれ皆磨かれ、綺麗に着飾っている。
見目麗しい珠のような者たち。そんな者たちを蹂躙するという歓びは、何物にも代えがたい。
騎士団たちはそれには劣るが、しかし基本的には負けん気の強い者たちだろう。そんな者たちの鼻柱をへし折るのも楽しみだ。
この戦争ではまだ、大勢の捕虜を取るほどの戦闘は行っていない。
ここまでの進軍で小規模な争いはあったし、数の違いで圧倒も出来たが、得られた者は少ない。それも部下たちが雑兵たちが現場で少々楽しむ程度の少人数のものだ。
戦争のお楽しみはここからだ。
森の奥、闇夜の奥を見つめ、トランキロは乱杭歯を剥き出しにして笑い、拳を握りしめた。
ふと、トランキロの顔に一瞬だけ影が差す。
一瞬鳥が飛んでいるのかと思い空を見上げれば、眩しい日の光があるだけでそこには何も見えなかった。
伝令の鳥が今頃来たのかと思ったがそうではないらしい。
鳥の羽音もしない。
そう考えた瞬間、近くの森で鳥の鳴き声が一声だけ響く。その声に応えるように、一羽だけがどこかの枝から飛び出して、木々の隙間を縫ってどこかへ飛んでいった。
さて、戻ろう。そろそろ準備も終わるはずだ。
踵を返し拠点の様子を見れば、そこは『跡地』へと変わりつつあり、まだ畳まれていない天幕も骨組みを外されて萎んでいた。
力仕事のために息を合わせる声が響く。豪華な天幕といっても、すぐに移動できるのも戦慣れしたムジカル軍の特徴だ。
魔力により増幅されたトランキロの耳に、多くの声が届く。配下の兵たち五百人以上のそれぞれの音。騎爬たちがむしゃむしゃと練った餌を食む音。美味いものをもっていればいいな、という戦場ではあまり望むべくもない話。こんな風に犯してやろう、と捕虜への楽しみの計画を立てる話。どんな手柄が得られるのか、と楽しみに話す声。
響く足音。皆思い思いに動き、ネルグの根を叩く低い音を響かせ続けている。革の鎧の擦れる音。束ねた矢の鏃同士がぶつかる金属音。
風の音。森の木々が揺れて、ざあざあと音を立てる。
瞬きの中で、『水』と自らの魔力が主張する。
腹が膨れるほど飲んだはずだ。まだ手元の革袋にはたっぷりと水があるはずだ。
そこでようやくトランキロは不思議に思う。これは、まさか、飲むためのものではないのだろうか。やはり泥でもかぶるのだろうか、それとも。
何かが飛んできた気がして、トランキロは頭の後ろに飛んできたそれを摘まんだ。見てみればそれは木の葉で、たまたま何かの拍子で散ったものだろう、と思った。
風の音がする。木々の中を吹き抜けて、ヒュウヒュウと笛のように鳴っている。
前方からは配下の者たちが立てる音が聞こえてくる。
人の営み、仕事の音。それが今日はやけに大きい。
『水』とまた視界で大きく何かが主張する。それが必要だと、一刻も早く用意しろと。
トランキロはそこでようやく違和感の正体に気がついた。
音が大きく聞こえるのではない。聞こえやすいのだ。
振り返れば日陰の闇が広がる森。まるで闇夜のような。
いつからだ、とトランキロは考える。その脳裏に朝鳥たちが逃げていったことが現れて、まさかと息を飲み耳を澄ませる。
けれどその耳には期待していた音は届かない。
聞こえないのだ。
虫の声も、鳥の声も。
まずい。
また振り返り、トランキロは駆け出す。未だ何も気付いておらず、仕事をしながらも語らい談笑する部下たちに向けて。
辿り着いたときには彼らに怪訝な目で見られたが、それはどうでもよかった。
慌てた様子の指揮官に、一人が怯まずに笑いかける。
「トランキロ様、どうか……」
「全員! 今すぐ水を用意して被れ!! 樽の中に入ってもいい!! 早く!!」
早く! とトランキロは自らも革袋をひっくり返して水を被りながら促す。
瞬きの中の《万鐘》が示す意味が増えた。それは『水』、それに『火』。
ならばそれを示すのは、火による災害。
「なければ布を被れ!! 早く!!」
唾を飛ばして懸命にトランキロは叫ぶ。その剣幕にようやく事の重大さを察した部下たちが、伝達のために声を上げながらも自らの分の水を探しに走り出す。
これで助かればいいが。
無精髭から汗のように水を垂らしつつ、トランキロはどこか安堵する。
『火』を防ぐために『水』を使う。きっとそれが伝言の正体だろう。そうに違いない。ならば自分はこれで助かるはずで、水浴び遊びのように水を浴び始めた部下たちも……。
もう一度、静かな闇夜と化した森を振り返る。
青空の下で眩んだ目の中では、そこは現実以上に暗く見える。
鳥の声も獣の声もなく、ただ静かに立ち尽くしている木々の隙間。
その暗闇の中に、誰かが立っていた。
後にムジカルの斥候が拠点跡を訪れた際には、そこは開けた灰の平原と化しており。
探索者カラス。
彼の名に〈静寂〉という枕詞が付け加えられ始めたのは、この頃からのことである。




