閑話:夢うつつ
長くなったのでレシッド活躍回を更に次話に回しました
あの、次で本当退場しますので、本当
昼を過ぎて、騎獣車の列が一時止まる。
それと同時に聞こえてきた騒乱の音。そして風に乗ってやってきた微かな鉄の臭いに、荷台の中で警戒中だったレシッドは僅かに顔を顰めた。
「どうしたんですか?」
不快感を隠そうともしないレシッドと、騎獣を止めた騎士。その双方にソラリックは問いかけてその顔を交互に見る。
問われた騎士は、前をゆく騎獣車が止まったことだけを認識し車を止めただけである。まだ何も知らず、前の騎獣車越しに前が覗けないかと騎獣の上で身体を大きく揺らした。そして、まだわからないまでも、ソラリックを安心させようと振り返る。
「何かあったようです」
「何か?」
それでは何もわからないのも同然だ。そう普段の彼女ならば思うところだが、今のところはその余裕はない。
一方、既に察しがついているレシッドは静かに立ち上がり、後ろの開口部から幌の上にひらりと飛び乗った。
柱もなく、重みがかかれば不安定に揺れる幌。その上で這いつくばるようにし、レシッドは前方を窺う。
いくつかの騎獣車の更に前、そこではやはり、血が流れていた。
騒乱自体は既に終わっているらしい。
鼠の皮を持つ鶏のような小さな魔物が三羽ほど道の端で転がっており、そこには食い千切られた腕や腿の痛みに呻く騎士が二人、仲間に助け起こされていた。
見れば、そこにいる騎獣、ハクが何かを咀嚼している。血に塗れたその角といい、よい戦力になったのだろうとレシッドは推測した。
ついでとばかりに周囲を確認しても、周囲に他の魔物はいない。
よかった。自分の警戒網を抜けてきた魔物はいないらしい。
そうレシッドは安堵し、幌の橋にぶら下がりつつ、荷台の中にまた静かに着地した。
「䖪鼠が出たらしい。鳴く前でよかったな」
「はあぁぁ……」
安堵したように騎士が呻く。なるほど、そんな魔物が、と。
䖪鼠。その見た目から、ネズミ鶏とも呼ばれている魔物である。
羽毛ではなく鼠の皮を持つ鶏で、群れをなす。魔力を持つ魔物であり、その脅威は鳴き声にある。
彼らの鳴き声と共に放たれるのは炎、そして熱波だ。一つ一つが火炎放射とも言うべき火力を備え、もしも受ければ大の大人であっても数秒で全身が焼け爛れ絶命してしまう。
その上、群れを作る彼らは一羽でも鳴けば共鳴するように共に鳴き、重ねてさらなる惨事を呼ぶ。
自然消火されるネルグのような森でない限り、彼らが住む森は年を跨がず焼け野原に変わる。近くの村やことによっては街を焼き、農作物を全滅させる。ごく希ではあるが、鶏と変わらないその身の小ささ故に人里に紛れ込むことがある。人里に現れた場合、一羽でも駆除が欠かせない鶏だった。
「危ないんですか?」
「隠れるような知恵はないだろうし、近くにもいねえから問題ねえよ」
「そうですか」
慌てるようでもなく、淡々と『大丈夫』と告げるレシッドに、ソラリックはまた安堵する。
ならば大丈夫だろう。だって彼が……。
何かを思い出しかけて、ソラリックは内心口籠もり、誤魔化すように首を横に振る。
大丈夫だ。レシッドが慌てずここにいる。指示も出していない以上、このまま動かずにいればいいのだろう、と自身を宥めた。
「探索者っていうのはすげえな。䖪鼠が出たのにケロッとしてら」
「まあ、慣れてっからよ」
軽口を叩く騎士に、レシッドも得意げに応える。だがその自信の元を思い浮かべると、笑ってもいられない思いだった。
(……あんなもん見ちまったらな)
笑いつつ、また先ほどまでいた位置に座り直したレシッドは、長い瞬きを兼ねて目を瞑る。その瞼の裏には、そのときの光景がありありと思い浮かべられる。
慣れているわけではない。麻痺しているのだ。
思い出すのは二日前、行軍中に敵の魔法使いと小隊に遭遇したあのとき。
こちらの隊長であるカラスが放った魔法のことを。
高熱を放ち、空気を焼き、木々と敵兵を見分けのつかない灰に変える。
何の苦も見えず、溜めもなく、惜しみなく使われた熱の魔法。
その文字通りの火力も凄まじかった。しかしそれ以上に、共に遠巻きに見ていたスヴェンが『焦熱鬼の死に際のあれか。上手いな』と呟くように口にしたのが、レシッドの肝を更に冷やした。
焦熱鬼。神話の時代の怪物である。
勇者の英雄譚にも登場する魔王に仕えた一つ目の巨大な鬼。けっして焼けぬ肌を持ち、吠えれば雨雲を跡形もなく散らし、同じく火に焼けぬはずの竜すらも手を触れずして灰に変えたという。
『死に際?』と恐る恐るスヴェンに尋ねれば、ケラケラと笑いながら簡単に楽しげに話してくれた。〈狐砕き〉カラスと〈鉄食み〉スヴェンは、数ヶ月前に共に聖領エーリフの中心部で焦熱鬼を狩ったのだという。
思い出しつつ、レシッドは天井を仰ぐ。後頭部が木の壁にぶつかり大きな音を立てた。
焦熱鬼。炎の化身。魔王に指さし命じられれば、瞬く間にその都市を溶岩の海に変えたといわれる聖獣。それと比べれば、炎を放ち家を焼く程度が精々の小鳥など、ほんの僅かなちっぽけな火種に過ぎない。
何を怖がることがあろうか。隣にいた魔法使いは、姿見に映った焦熱鬼だ。それと比べれば。
(……あったく、魔法使いどもはこれだからよぉ……)
そして考えながら、涙が出そうな思いもある。
スヴェンの話によれば、スヴェンは、焦熱鬼程度ならばもはや軽く片付けられるという。そしてカラスにもその程度可能だろうと保証していた。
聖獣、それは魔王に仕えていた強大な魔物たち。彼らは恐れられ種族の真名は失われ、通称しか伝わっていない。
焦熱鬼をはじめ、海蛇、怪鳥、茸牛と伝わる彼ら。それぞれが一頭で世界を滅ぼせるだけの力があるといわれているはずなのに。
それを討ち滅ぼせる魔法使いが二人。それで何を恐れることがあるというのだろうか。
五英将と遭遇したこともないレシッドは、その強さを知らない。同じく遭遇したこともない聖獣が実際にそれほど強いのか、ということもレシッドは知らない。
ムジカルには聖獣を従える魔物使いもいると聞く。ならば、そこまでではないと思いつつも。
それでもカラスが一人では無理と仲間を集めたということは、おそらく相手は聖獣と同じようなものなのだろう。
(俺は人間だぞ。そんなもんに巻き込むなよ、まじでよぉ……)
仕事の説明で、相手は五英将、と聞いてレシッドは震え上がった。
そして改めて味方の戦力を聞いて、本来は心強いと喜ぶべき強さを聞いて、なおその震えは増していく。
「あー……」
両手で目を隠し、滲み出そうな涙を食い止める。
忘れたい、忘れよう、せめて今関係ないこの一時だけは。警戒をおろそかにしないように。今の仕事はこの目の前の治療師を守ることだ。それだけすればよいのだ。それだけで、今は聖獣とも五英将とも戦わずともよいのだから。
現実逃避のような仕事の意気。それを込め直し、目をぐしぐしと擦ってから、二重になった目を開いてレシッドは歯を食いしばるようにして溜息をつく。
ソラリックはその様を眺め、疲れてるのかな、と首を傾げた。
やがて大休止に入り、騎獣車は一時皆止まる。
街道の結節点、道の中でもやや開けた場所で騎獣車は渋滞するように固まった。
騎獣車に揺られているだけの旅は鬱屈する。それは景色などに興味も示さぬほど心労を重ねた元捕虜たちでも変わらない。
豪華な食事ももてなしもないが、それでも青空の下で伸びを出来る程度の空気の入れ換えが、充分なほど彼らの胸に沁みた。
「申し訳ありませんが」
「おう。俺は適当にこの辺りうろついて木の実でも採ってくるわ」
騎獣車の荷台、幌の開口部、目隠しの布を扉代わりに閉めながらソラリックがレシッドに頭を下げる。レシッドとしてもソラリックの要請に否はなかった。
ソラリックの受け持つ患者たち、彼らの世話はソラリックに一任されている。
法術と鎮静香で眠らされている彼らだったが、人間生きている以上腹は空く。それに加えて、出すものもある。夜のうちにかけた法術で代謝を止めているためにその頻度は少ないが、せめて膀胱内の小水を処理するのも必要で、それは全てソラリックがやらなければいけない。
一日に三度程度。栄養ある水を口に含ませ、そして溲瓶に排泄を行わせる。そのときには、人払いを必ず行う。
包帯を全て解く清拭ほどではなくとも、一部を解き陰部を露出しなければいけないその行為は、騎士やレシッドの前では憚られる行為だ。意識のない彼らの下腹部を特定の角度で押し、膀胱付近を刺激し排尿を促す手法については、聖教会の秘伝故にだが。
ソラリックは包帯を解きつつ、後方拠点に着くまでの辛抱だから、目を覚ますまでだから、と内心誰かにもわからぬ釈明を繰り返していた。
大休止の予定時間も半分ほど。
五人分の世話を終え、ソラリックは一息つく。目隠しの布を取り払い、レシッドが帰ってこられるようにと外から見えるように示し、それから自分も外の空気を吸おうかと考えた。
捕虜たちと同じく、気が重いのはソラリックも変わらない。
荷台から足だけを下ろしぶらぶらと揺すりながら息を吸えば、緑に薫るネルグの匂いが身体と混じり合う気がする。
「……てっ!」
騎獣車から見えない位置から、小さく人の声がする。
ソラリックの視界の中でもちらほらと、その声に振り返った人がいた。
何だろう、とソラリックは荷台から勢いをつけて降りる。痛い、と聞こえた。ならば何か痛い思いをした人がいるはずであり、そしてその人は怪我をしているかもしれない。
ならば治療師たる自分は、そこにすぐさま駆けつけなければならない。神は仰った。全ての苦しみを悲しみ、人に慈しみを与えるべし、と。ならば。
既に染みついた習慣。何も考えずにソラリックはその声の方を見る。
そこにはやはり思ったとおり、粗末な鎧を纏った騎士がいた。その手の先を勢いよく何度も振り、痛みを紛らわせるようにしながら。
「どうしたんですか?」
ソラリックが尋ねると、その茶髪の騎士は凄むように振り返り、それからソラリックの服を見て態度を改めた。
「い、いえ。茨が刺さったみたいで。お騒がせして」
すみません、まで言い切らずに、曖昧に言葉を発しつつ騎士は頭を下げる。見れば手袋もないその手の先からは、一筋の血が滴っていた。
「見せてください」
「そこまででは」
ろくな装備もなく参加したツケがきただけだ。そう僅かに恥じていた騎士は固持しようとするが、強引にソラリックはその手を取って縋り付くように抱き寄せた。
肌着に近い薄さの袖を破り、腕に走る傷は数本の浅いもの。
原因となった茨は食虫植物に近く、触れた獲物に瞬時に絡みつくという特有の習性を持っていた。もしも参道師やカラス、それにレシッドが側にいれば、護衛対象には決して近づかせない類いのもの。仮にその棘を持つ一本の蔦に絡め取られ、反射的に振り払ってしまえば人の肉など簡単に裂ける。
それを知らない二人は、その数本の傷が不運などではなく、幸運によるものだとは思いもよらなかった。
ソラリックは傷に手を触れ魔力を込めようとする。
唱える祝詞は治療師がごく初期に学ぶ初歩的な法術、《治癒》。擦り傷や切り傷など、到底人命になど関わることのない程度の小さな傷を修復する法術である。
「我が名コルネア=ミフリーが神の名において命ずる……」
当然、ソラリックが失敗することなどあり得ない。幼い日から才女、神童と呼ばれてきた彼女には。
一等治療師という一人前の称号を得て既に長い彼女ならば、初歩的な法術など瞬きをするほどに当たり前に、何の障害もなく発現できる。
そのはずだ。
そのはずが。
「彼の者の苦しみを除き……」
ソラリックは手の先に、不思議な違和感を覚えた。
いつもならば、祝詞を唱え始めたそのときには温かな光が自らを覆う感覚がある。その光を手に込めて、祝福のような風を感じながらそっと患者を撫でれば効果は発現するのに。
なのに、……。
「彼の者の、苦しみを除き傷を塞がん」
手の先に感じる力はちっぽけなもの。魔力を込めてもその魔力は形を成さずに霧のように消えていき、身体に感じるのは寒々とした冷たい風。
明らかに傷が治らない。
ソラリックは戸惑う。後はただ一言、奇跡の現象を宣言し、神にそれを願えば完遂するというのに。
なのに。
「《治癒》……」
傷は確かに消えていく。しかしその修復は遅々として進まず、逆に自分の力が萎えていく。
何故、どうして。
愕然としながらも、その顔は騎士には見せない。平然と、どうにかして平静を取り繕おうと必死で表情を固める。
しかし既に傷の治癒は不完全で止まり、僅かにまだ赤い傷を点々と残している。
あまり長い時間をかけても不自然で、そして患者が不安になる。そう思ったソラリックは、泣きそうな顔を歪めて隠しながら手を離した。
「…………ごめんなさい、私にはこの程度しか」
「いえ、いいえ、ありがとうございます!」
残った傷を不審には思わず、また騎士は頭を下げる。まだ痛みは残っているが、戦時下の戦場だ。きっと目の前の治療師は、力を加減しているのだろう、と好意的に受け取りながら。
ありがとう、とまた頭を下げて騎士は立ち去る。その様を見送って、ソラリックは肩を落とす。
「…………」
神の授ける奇跡の残滓。それをこの世に発現させるというのが治療師の業。そのはずだった。
けれども今自分が出来るのは不完全な治癒のみ。それを理解した今、先ほどまで揺られながら考えていたことがまた頭をもたげてくる。
今の私の隣には、神はいない。
つまり、それはそういうことで。
ソラリックは、森がまるで夜になったように暗く感じた。
足取りが重く、ふらふらと視界が揺れる。
皆が騒いでいない。ならば、実際には暗くもなっていないのだろう。そう冷静に判断しながら、肩を落として騎獣車に戻った。
神に見放された。それを目の当たりにした。
これが答えなのだろう、とソラリックは思った。神は言葉を下さらない。その代わりに、事実を示して下さった。
怪我人を目の前に遣わし、そして実感させた。
もうお前は我が使徒たる資格はないのだ、と。
もはや隣に神はおらず、風景は色褪せてしまった。
「…………」
騎獣車に乗り込んだソラリックは壁際で蹲る。顔を膝に埋め、耳を塞いで目を閉じる。
ごめんなさい、と何度も何度も呟いたが、それを誰に対して告げているのか一向に自分でもわからなかった。神に告げている気もする。しかし、別の誰かに告げている気もする。
それは目の前に今もなお倒れている患者たちだろうか、とも思ったが、それも違う気がした。
「悩んでいるときは、まず自分が何に悩んでいるのか正しく認識すること。それだけ出来れば、もう悩みなんかないも同然だからね」
耳を塞いでいるはずなのに、明瞭な声が聞こえた。
まるで自分の内側から湧いてきたような声。だが、その柔らかく響く優しげな声は、決して自分のものではない。
ソラリックは目を開く。
視線の先は、座っている真正面。移動中、そこにはレシッドが座っていて、周囲に耳を澄ませていた場所。だが今は違う。
いつの間に、とソラリックは思った。そこには頭巾のついた白い外套を身に纏い、金の髪をちらりと見せている女性がいる。
柔らかく優しく笑う彼女は横座りで優雅に腰を落ち着かせ、ソラリックに今ここが戦場だということも忘れさせた。
「…………どなたですか?」
「占い師」
端的に答えて、笑みを強め、金髪の女性はまたにこりと笑う。
「……?」
その言葉の意味はわかる。しかし、答えの意味がわからずソラリックは眉を顰める。
「占い師って……こんなところに?」
占いというのは街角で行われるのが常であり、それも平和な時期に遊戯として行われるのではないだろうか。
しかしここは戦場。商売として行うには些か納得は出来ない。
占い師は頷く。否定の意味を持って。
「こんなところだから、さ。ここには苦しんでいる人が大勢いる。迷い苦しんでいる人を助けることが、占い師の仕事だからね」
「聞いたことないです」
「そうかい?」
おや、と殊更に占い師は目を丸くして首を傾げる。
「戦場には占い師というのもわりといるものだよ。何せ私たちは星を読むことに関しては学者に匹敵する経験がある。軍を迷子にさせないよう、方角を割り出すのは得意だから」
知らない方がおかしい、とまでは言わないが……と言外に滲ませ占い師は続けた。
「その日の天気を当てたり、敵兵がどこにいるのか、どこから攻めれば勝てるのか、なんてことも占ったりすることもある」
「……じゃあ、お姉さんも?」
「私は騎士団に所属しているわけではないけどね」
ヒヒヒ、と占い師は笑う。自分がそのような業務に従事している、というソラリックの勘違いをあえて否定はしなかった。
ソラリックはその言葉に、彼女が今回だけ雇われている臨時の占い師なのだろうか、と思った。自分が不勉強なだけで、そういう職能もあるのかと半ば感心しながら。
「そして、困っている人を助けてあげたいのも本当さ。君のような」
「私は、困ってなんて……」
いない、とソラリックは否定できなかった。
助けてほしい、と思わないわけはなかった。それを見透かされている気がして。
「なら、いくつか聞いてもいいかな?」
「……?」
占い師は自分の腿を軽く叩く。幼児を落ち着かせるために、その背中を叩く母親のように。
「きみは、何を謝っていたの?」
「っ……!」
ソラリックが明らかに動揺を見せる。その揺れ動く目を嗤い、占い師はにこりと笑みを強めた。
「言いたくないなら別に私に言わなくてもいいんだ。でも、きみ自身はそれが誰に、何を謝っていたかわかっているかな」
「それは……」
ソラリックは言い淀む。その答えを持っておらず、その上で答えは口に出してはいけないものと朧気に感じて。
「……わかりません」
「わからない? 本当に?」
責めるようでもなく、占い師は淡々と尋ねる。その仕草に、もはやソラリックは、困ってなどいない、と否定できなくなったことを理解した。
占い師は優しく言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「掛け違えてしまった釦は、一旦全部外さなければいけない。話してみてよ。私は秘密は守るから」
「…………」
ね? と占い師は重ねて笑いかける。もとよりここで聞いた話を誰かに話す気はない。それは自分だけが知っていればいいことで、そしてそれよりもこの後彼女がどうするか、何を選択するかだけが重要なことだ。
ソラリックは渋々と口を開く。内心とは真逆の様子で。
「私はきっと悪いことをしたんです。でも、……何が悪かったのかわからないんです」
「…………」
本当に? と重ねて問うこともせず占い師は無言で先を促す。
「私には、……尊敬する人がいます」
「うん」
人、とソラリックは形容する。それが神だとは言わず。そして占い師も、わかっていても追及はせず。
「尊敬する人は言ったんです。人を助けなさいって。でも、助けたらその人は怒るんです。それは何故か誰も教えてはくれなくて」
ソラリックはそれだけ言って、また膝に顔を埋める。その仕草が可笑しくて、見えないように占い師は目を細めた。
「私は今、きっと怒られているんです」
「……なら、その人に謝るべきだよね?」
「…………」
そうだ、こんな簡単なことを、とソラリックは内心思う。
しかし同意は出来なかった。何か違う気がした。
占い師は無言の否定に同意するように頷く。
「今ここで、うん、と言えないならそれは違うんだよ。少なくとも、きみが思っている正解じゃない」
「……そう、なんでしょうか」
「私は占い師だからね、そういう悩み事はよく聞いてきた。そして、皆そうなんだ。右か左か悩んでいても、こちらが右と言っても頷かない。最初から自分で答えは出ているんだよね」
占い師は遠い目をして思い出す。
今の仕事を辞めるべきか続けるべきか。今仲の良い彼と結婚するべきかしないべきか。次はどんな種を植えるべきか。選択肢のある悩み事は、大抵の場合本人の中で決着が既についている。
占い師にそれを占わせるのは、ただ背中を押してもらいたいだけ。それだけなのだ。
「だから断言する。今きみが『悪い』と思っていることはそれじゃないよ」
「じゃあ、何を……」
「その答えは、きみが考えたくないところにあるんだ。……これは一般論だね」
ソラリックは占い師を見ない。ただ自分の膝小僧を見つめ、考えることを拒否するように。
なら仕方ない、と占い師は口を開く。
「逆に考えてよ。その尊敬する人は『助けろ』と言った。なら、助けなかったらその人は褒めてくれたかな?」
「……そんなはずはありません」
「ならその結果は正しいはずさ。そうだろう?」
ソラリックは素直にうんと頷く。そうかもしれないと思えた。本当にそうなのかは未だにわからないが、きっと彼らの手足が治るのは良いことなのだろうとも思えてきた気がした。
正しくは、『自分は』そう思っているだけなのだが。
「そうしたら、間違えているのはそこじゃない。もっと別の場所、もしくは結果が正しいのであれば『手段』のほう」
「手段……?」
「そう。きみがしたこと」
占い師の言葉にソラリックは考える。
手段。したこと。そんなことであればいくつも考えられる。考えてしまえば、そのどれもが正しく、もしくは間違っているようにも思う。
「だって私は」
「一つも間違えていない?」
嘲るように占い師は言う。その言葉に僅かに苛立ちが湧き、ソラリックは占い師を睨み付けそうになった。
「でもね、謝りたいと感じているのなら、それはどこかで自分が間違っていると感じているんだよ。そこを誤魔化すのはよくない。自分を見失う一番の近道は、自分自身に嘘をつくこと。そしてその嘘を嘘で塗り固めることだからね」
もう一押し、と占い師は床を指で叩く。
「誰かに迷惑をかけた。そう思わない?」
迷惑。
ソラリックの頭の中で、その言葉が何度も反響する。
その言葉にやけに腹が立った。迷惑など、誰にもかけてなど……。
「もしくは無理を言った、かな」
「だってあの人は……!!」
探るような占い師の言葉。
その言葉に、思わずソラリックはいきり立つように大きな声を上げる。その名前までは口にしなかったのは偶然だった。
「あの人は?」
「あ、あの人は…………」
そして占い師がその言葉に注目したことを悟り、声を小さくする。どう誤魔化そうか、と内心頭を全力で回転させながら。
しかし、神童と呼ばれた聡明な頭脳が、それを止める。そうだ、それこそが。
「……あの人は、出来るのに……」
「出来るのに、やらない。この場合は『助けない』かな?」
結論が出た。そう占い師がまとめるのを、ソラリックは頷いて同意する。
占い師が何を言おうとしているのか、そして自分が何を言おうとしているのか、全ての答えがわかってしまい、ソラリックは何故だか悔しさを感じた。
「出来るのにやらない。そういうときには大抵理由があるものだね。もちろん私はその人の理由を知らないけれども。怠惰かもしれないし、気付かないだけかもしれない。それか、のっぴきならない事情があるのかも。そしてきみは、その『あの人』に強引にそれをやらせた」
「………………」
「その手段は、正しいと言える?」
「……言えないかも、しれません」
ソラリックに聞こえないよう、占い師はクスと笑う。よく出来ました、と褒めるように。
「まあ、私はその人にどうやって言うことを聞かせたかはわからない。でもその顔じゃ、それはきっと良くないことだろう?」
「……かもしれません」
思い返し、ソラリックは思う。
請願。嘆願。内心そう言い表してきたが、そうではない。
《再生》を使わなければ異端者と告発する。それは脅迫で、そして《再生》を使えばそれは異端者だ。
やはり、と思う。
それは彼を、ただただ暗闇に突き落とす行為。自分のために。
だから彼は、私を見つめた。あの暗い冷たい目で。
「なら、謝るべき相手はわかったよね」
「…………」
占い師の問いに、ソラリックは無言で通した。頷きもせず、瞬きもせず。
珍しいことだ、と占い師はその仕草に思う。人の仕草から回答がわからないことなど、久しくないのに、と。
だがならば。
だったら、これから面白い。
「…………近く、本当に近く、きみは自分を見つめ直すだろう。答えはそのときに出すと良い」
「……どういうことですか?」
「この問答を覚えていたらいいねってことさ」
ひひひ、と占い師は笑う。
何故だかソラリックは、自分の視界が張り詰めたように歪んでいくように感じた。
「言い忘れていたけど、私の名前はプリシラ。君の夢で会った知らない誰かさ」
「……?」
そして声が遠くなっていく。一瞬涙を流したようにぼやけ、瞬きをすれば晴れる。
歪んだ像の向こうにあった金髪の淑女は消え、目の前にいたのは同じく金髪の男性。
「あん? 悪いな、起こしちまったか」
謝るレシッドに疑問符を浮かべた表情を見せれば、それを察したレシッドは外を指さす。
「もう休憩終わってんだよ。あと一刻もすりゃ目的地だってよ」
「……へ?」
無意識に目を擦れば、眠気がまたぶり返してきた気がする。
あくびが喉の奥から這い上がってくるのをはしたないと止めた。
「さっき採ってきた苹果でも食うか?」
「…………いただきます」
レシッドが差し出した赤い果実にもそもそと齧り付き、騎獣車に揺られつつ、ソラリックは外を見る。
妙な夢を見た、と納得するように飲み込んだ果実は甘く感じた。
エッセンの後方拠点がムジカル軍の奇襲に遭ったのは、この日の夜のことだった。




