閑話:告解
地味な天丼
ネルグの奥、エッセンの騎士団により救出された捕虜たちの一時療養のために作られたごく簡易的な村。
その中で、特に重傷の捕虜たちが寝かされた天幕の中。
少女は患者を見下ろし座る。
「はぁ……」
もう何度目の溜息だろう。数えるのも飽きたほどに繰り返すそれを、またもう一度ソラリックは繰り返した。
目の前には、筵に並べられた五人の身体がある。
彼らは皆ソラリックの手により眠らされており、身体を動かすことは出来ない。
彼らはムジカル兵の捕虜だった者たちだ。
そのどれもが身体のどこかは欠損し、現在その機能を満たせずにいる。
身体にくまなく巻かれた包帯により、その肌を見ることは出来ない。しかし、その包帯を巻いたソラリックはその中をよく知っている。
元気だった者が辿々しくも証言してくれていた。
他の捕虜の抵抗意欲を削ぐために、彼らに対し皆の前で行われた折檻。固定した指を一本一本切り落とされた。耳や鼻を削ぎ落とされた。
逃走の意欲を削ぐために、彼らに対して行われた折檻。足の腱を切り、痛み止めもなく目を抉り取られた。
とある女性は、遊び半分に、歯を全て抜かれた。その方が『具合がいい』と。
話してくれた者も、正気を失いかけていた。だからだろう、半笑いで、その現場のことを話してくれたのは。
その聞き取りの最中、ソラリックは何度も耳を塞いで席を外したくなった。
話には聞いていた。戦争の最中、特にムジカルとの戦では凄惨なことがよく起こると。負けてしまえば強者は辱められ、弱者は蹂躙されるものと。
覚悟はしていたはずだった。戦争に参加する以上、嫌なものを見るのは当然だと。
だがその覚悟は、仮初めのものだったのだろう。そう自身でも理解した。
まだ雨の音が響く。昼も過ぎ、おそらくその頃にはそろそろ止むだろう、とカラスも言い残していった雨が。
椅子に座ったままソラリックは一人俯く。握りしめた手が震えていた。
話には聞いていたのだ。治療師の中でも共有され、たとえば二十余年前の戦場の様子はソラリックも知っていたはずだった。しかし、話に聞くだけなのと、実際目の当たりにするのはこうも違うのだろうか、という戸惑いも混じっていた。
だからだろう、とも自身でも思う。
錯乱も混じっていたのではないだろうか。探索者カラスに、彼らの《再生》を依頼するなどと。
《再生》は禁忌の所行だ。過去、数々の治療師がそれを思いつき、そしてその度に異端審問の対象となり、資料も破棄されてきた禁じられた法術。
その根拠としては、その法術が抹消された外典に存在するからだ、とソラリックは教えられてきた。
ソラリックも話に聞くだけでその外典を読んだことはない。それは聖教会の総本山にある、禁書庫に納められている秘伝の書物。
しかし、その中身は朧気に伝え聞いている。
千年前の勇者の起こした奇跡。
魔物に襲われ、顔半分を食い千切られて死亡した味方兵を、〈妖精〉アリエルと共に癒やしたとされる事象。
もはや死に至った身体をアリエルが《再生》させたが、そのときは目が覚めなかった。しかしその後、勇者の手によりその味方兵は息を吹き返したとされる。
そして、その味方兵は、知能も自我も崩壊し、それ以後ただの白痴として生きることを余儀なくされた、というもの。
聖教会は、故にそれを禁じてきた。
《蘇生》の奇跡は生ける屍を生み出すという人道に触れる禁忌。故にそれに連なる《再生》の法術も。
そしてソラリックはこのときになって思い至ることはなかったが、その記述は他の聖典の記述とも撞着してしまうのだ。
聖典では『失うものを恐れる者こそ全てを失う』『いずれ失われるものを取り戻す事なかれ』とされている。ならばこそ、歯や体毛など、失われた体の一部を取り戻す法術は発展していないのだから。
いずれ失われる命を取り戻すことなど、あってはいけない。
たとえそれが聖者と列せられ崇められる、千年前の勇者でも。
《再生》は禁忌の法術。それを、自分はカラスに強いた。
おぞましいことだ、とソラリックは自身でも思う。外法とされる《再生》。本来は、むしろ自分は止めるべき立場だ。
むしろカラスがそれを使おうとし、それを自分が止める。そのような光景こそ、自身としても望ましいものではなかったのだろうか。
禁忌に手を染めること。それは神に背くこと。
ソラリックはそう信じていたし、そして今も信じている。
けれども。
ソラリックは、見下ろすように五人の身体を眺める。
包帯に巻かれ見えないが、その下には今、僅かながら整った身体があった。
カラスは昨夜、自身の嘆願に応えて彼らの身体を癒やしたのだ。魔法使いらしく詠唱もなしに、祝詞も唱えず軽々と。
抉られた眼球を元通りにし、奥歯や指を生やした。
その様を見て、まず心に浮かんだのは喜びだった。
これで彼らは助かるかもしれない。
不自由な身体に悲嘆に暮れることもない。非道な目には遭ったが、それでも前と変わらない生活を取り戻せるのかもしれない。
そう感じた喜びは嘘ではない。
それが禁忌に触れた悍ましい所行だと知っていたはずなのに。
現在ソラリックは一等治療師。六等級のうち、上から四つ目。これは順調に経験を積んだ治療師が四十を過ぎて辿り着く目標のようなものであり、多くの治療師がそこで生涯を終える等級だ。
十六歳という若い身ながらもその等級に辿り着いている彼女は、同期の中でも羨望の的。いずれは高等、さらには特等までにも至れるかもしれない、との期待の星でもある。
自身もその境遇を理解している。
故に、意味がわからなかった。
七歳の日に才能を見出されて、コルネア=ミフリー・ソラリックは貴族令嬢としての道を捨てた。
それからは、自身の人生を神に捧げる覚悟をしてきたつもりだった。
なのに。
何故、神に背く行為を喜んだのだろうか。未だに、それを後悔せずにいるのだろうか。
自分の心がわからない。今までの自分を裏切るような行為を、平気で出来る自分が信じられない。
一晩中、神に祈ってもわからなかった。祝詞を唱え、その心に神の像を結んでも、その神は一言も啓示を与えてはくれなかった。
罰も祝福も与えてはくれなかった。今まさに、私は全知全能の貴方に導いてほしいのに。
もっとも、昨夜ソラリックの意向が完全に通ったわけではない。
その結果は中途半端なもの。包帯の下には、《再生》を受けてもなお障害が残った身体がある。
それはソラリックへの枷だと彼は言った。《再生》の使用を公にされたくない彼の意向だと。
昨夜の冷たい目は覚えている。自身を見下ろし、その命が奪われることを仄めかした言葉。
元々表情の見えなかった彼の目に浮かぶ感情が、殊更に冷淡になっていったのがわかった。
もしかして、それが私への罰なのだろうか。そう感じ、今思い出しても怯えてしまうほどの恐怖。殺されることよりも、その目が怖かったのが自分でも不思議だった。
もしかするとこれが禁忌に触れた代償で、結果として元捕虜たちの身体は不完全なままで、一人の男性に見放されることとなったのだろうか。
それが答えだ、と誰かが告げてくれたらいいのに。
雨に混じり、そっと天幕の入り口に垂らされた布が押しのけられる音がする。
それまでにも足音や鎧のこすれる音は近づいてきていたが、ソラリックはそこで初めて誰かが来たことに気がついた。
「……失礼します」
布と布の隙間から、顔を覗かせて誰かが見ている。誰かがいることは感じていたが、彼もそこに足を踏み入れていいものかを躊躇していた。
その男性はソラリックの顔を確認すると、緊張を隠すような笑みを浮かべる。
「どなたですか?」
ソラリックは、布を押しのけて現れた誰かにそう声をかける。
銀の鎧は治療師ではない。おそらく同年代であろう彼は、ここに何の用だろうか。
先ほど多くの兵たちは川の向こうに出発した。残っている彼は、何を。
ソラリックの警戒を読み取り、う、とヨウイチは怯む。
だがその後ろから響く声に、背中を押されたように感じた。
「コルネア・ソラリック。失礼のないよう。粗略な扱いは許さぬ」
男の背後からまた知らない誰かの声が響いた。だが、その誰かの服装を見て、ソラリックはまた一瞬戸惑う。
緑の法服は治療師、だが昨日は見なかった顔。そしてその肩に小さくつけられた印は、高等治療師の位階を示している。
「ヨウイ……」
「勇者様である。恐れ多くもありがたく、苦難に晒される彼らの慰問に訪れてくださったのだ」
高等治療師の言葉に、あ、とソラリックは椅子から腰を上げて、慌てて膝を折る。
王城でどこかで見たことがある。確かに、その顔は……。
「失礼いたしました、勇者様」
「あ、ええと、……」
頭を下げないでくれ、という言葉をヨウイチは飲み込む。そう言ってはならない、と背後の高等治療師に何度も諫められたことを思い返して。
勇者である。既に聖教会としては聖人に列することが決まっており、その地位は治療師たちとは既に一線を画している。故に、自分たちはそうするのが当たり前であり、そうしなければいけないのだ、と。
ヨウイチはその言葉を真に理解できないまでも、日本での先輩後輩の序列に当てはめてなんとか理解していた。
きっと彼らはそうしなければいけないのだ。彼らの面子のために。
「……彼らと、話は出来ますか?」
しかし慣れない。故に早く切り上げてしまおう、とヨウイチは先を急いだ。
とりあえず、勇者を雨の露天に置いてはおけない。そう判断したソラリックは二人を中へと招き入れたが、しかし勇者の要望には首を横に振るしかなかった。
「……申し訳ありませんが」
「ソラリック。勇者様がお話しくださるという名誉であるぞ」
「しかし、彼らの傷は……」
高等治療師に反論しようとして、ソラリックは口籠もる。
現在鎮静香で眠らされている五人は、まだ自分の身体が僅かながらも癒えていることを知らないのだ。目を覚まさせるわけにはいかない。せめて、事情を彼らに説明するまでは。
だがその理由を話すわけにもいかず、それ以外に上手い言い訳が思いつかない。
「……昨日は錯乱しておりました。勇者様にお見苦しいところをお見せしてしまうかも」
「そのようなことを」
そんなことは理由にはならない。高等治療師はそう叱ろうとした。確かに捕虜たちは虐待を受けていたという。しかし、それでも錯乱といっても、既に助け出された翌日だ。ならばその程度、既に気を取り直しているだろう、と。
だがヨウイチはソラリックの顔色と、その言葉に不思議に思う。錯乱、とは。
「錯乱というのは、……どういう?」
「…………」
ソラリックは唇を結ぶ。言ってから後悔した。このようなこと、勇者に知らせていいものだろうかと。
実際にはその程度構わない。
けれども、ソラリックは躊躇した。
高等治療師はその仕草にまた溜息をつく。
「答えなさい」
「…………まず、勇者様は彼らがどういった扱いを受けた方たちかご存じでしょうか」
「……? いえ?」
聞き返されて、ヨウイチはまた戸惑う。その深刻な表情は、ここまで回ってきた天幕にいた治療師とは違って見える。
ヨウイチは、高等治療師に慰安として元捕虜たちの天幕を回ることを勧められた。ここに来たのもその一環で、そして今まではただ挨拶をする程度で済んだというのに。
もちろん、酷い目に遭ったというのは聞いている。皆、勇者との邂逅に笑みを浮かべてはくれたが、その笑みの下に悲しみや苦しみの色が見えたというのはわかっている。
だが、彼らは?
「この天幕にいる方々は、ムジカル軍の折檻で身体のどこかを失った方々です」
「……え……」
ソラリックの言葉に、ヨウイチは言葉を失う。まっすぐな目は真剣で、もちろんこの類いのことは冗談で言えることではない。
無言でまた元捕虜たちの身体をヨウイチは見る。外よりも薄暗い中に寝かされ、更に包帯に巻かれてよく見えないが、もしかするとその手足は。
ソラリックは元捕虜の一人の傍らにしゃがみ込み、その手をそっと取る。
カラスの手により右手の指は戻ったが、その左手はまだだ。
「指や耳、目などを失って……その上で、また陵辱を受けたそうです。殺してくれ、と私たちに何度も仰ってました」
ソラリックは昨日のその様を鮮明に覚えている。傷を癒やし、僅かに状態がよくなったあとのことだ。一人の元捕虜が一瞬の隙を突き、警護を兼ねてその場にいた騎士の剣を抜き去り、自身の首に突き立てようとした。
それを阻まれて、泣き叫ぶ姿。まだその声が耳に残っている気がする。
口にしつつ、ソラリックは自分の言葉に違和感を覚えた。
何故か、言い訳に聞こえる。事実その言葉は彼らを覚醒させないための方便ではあったが、それ以外に、自分が何かに言い訳をしている気がした。勇者でも高等治療師でもない、誰かに。
だがそんな困惑も表に出さないようにして、立ち上がりヨウイチを見る。
「申し訳ありませんが、まだ起こさない方がいいと、……私は思います」
そして最後についた嘘に、ちくりと心が痛んだ。
「しかし」
「……わかりました」
ソラリックの言葉に反駁しようとした高等治療師の言葉を、今度はヨウイチが遮る。治療師に迷惑をかけるのも、元捕虜たちに負担をかけるのも本意ではない。
「いえ、俺まだきっとよくわかってないんですけど。でも、その方がいいんですよね」
「おそらく」
ソラリックはヨウイチから無力感を感じ取った。それを申し訳なく思いながらも、それでも自分にも守らなければならないものがある、と気を引き締める。
錯乱した彼らが、万が一にも自身の身体が癒えていることを他人にばらすようなことがあってはならない。それがカラスの課した枷。
じ、と一瞬黙り込んだソラリックの横をすり抜けるようにヨウイチが元捕虜に歩み寄る。
ソラリックが止めるまもなく一人の手を取ったヨウイチは、呟いた。
「でも……どうにかならないんですか?」
「え?」
「だって、この世界の魔法? 法術でしたっけ、なら傷だって」
ヨウイチが取った手は親指以外が欠けていたが、その軽く小さな手を包むようにしてヨウイチは手触りを確かめた。
「俺の世界では、……いや俺の世界でも指を生やしたりは出来ないんですけど、でも傷を目の前でみるみる治すなんてことも出来ないんですよ」
ヨウイチは不思議に思う。
この世界は不思議なことだらけだ。魔力が存在し、それを用いて人が指先に火や水を浮かべ、鳥と話し、遠くのものを切り、そして傷や病を癒やす。
ならばその程度、指や目など、取り戻すことは簡単なことではないのだろうか。
「傷がいけるんなら、どうにかならないんですか?」
ヨウイチは目の前の二人に重ねて問う。単純な疑問だった。
高等治療師は、その言葉に慌てて口を開く。
「そのようなことは出来ません。私たちは、それを取り戻すことは出来ない」
汗を拭くようなその仕草になんとなくヨウイチはまた不思議に思った。何かを隠すような、恐れるような仕草に。
高等治療師とて、《再生》の法術の存在は知っている。
しかし彼はそれ以上を知らない。知るべきではないと教えられてきた。それについて求めることも禁じられてきた。
ならばきっと、彼はそれ以上を知ることは今後もない。
ヨウイチは不審に思いながらもその言葉を信じた。相手は専門家だ。ならば。
「でも……じゃあ、……可哀想っすね」
握りしめた包帯の先に感じる体温。しかし、通常感じるような感触がなく、ヨウイチはその指が確かに欠損しているのだと改めて感じた。
どうにか出来るならよかったのに。どうにかしてそれを取り戻すことが出来るのならば。
ソラリックは勇者の仕草に唾を飲み込んだ。
勇者は残念に思っているらしい。目の前の患者が苦しんでいたことを聞いて、その様にたしかに心を痛めているのらしい。
《再生》が禁忌となった理由は、先代の勇者だったはずだ。
しかし、今目の前には今代の勇者がいる。聖人として列せられ、その行いが聖典に載るであろうことが既に決まっている彼が。
ならば、彼にならば全てを明かしてもいいのではないだろうか。
全てを明かし、カラスが《再生》を使えることまでも暴露し、そしてその使用の許可を取ればあるいは。
そうすれば、彼も大手を振って治すことが出来る。元捕虜たちはすぐに、聖教会の全面的な支援で快復することが出来るのではないだろうか。
勇者がそうあれかしと一言発すれば、全て上手くいくのではないだろうか。
捕虜たちは助かり、カラスは異端者と糾弾されることもなくなり、そして勇者はその聖典にもう一つ偉業を刻む。良いことづくめだ。そのはずだ。
そうすれば。
「あ、あの……」
ソラリックは勇者に向けて呼びかける。小さな声に、何を言うのかと目の前の青年が目を向けるのに、何故だか目を背けたくなった。
言えばいい、とまとめた言葉が脳内で渦を巻く。
彼らは治りかけている。昨夜、目の前で彼らに《再生》の法術を使ったものがいる。
勇者がそう命じてくれれば、きっとその魔法使いはそれを使って彼らを助けてくれる。
今現在《再生》の法術は禁忌指定されているが、そうすれば禁忌は解かれ他にも助かる者は大勢いるかもしれない。
全てを明かして楽になりたい。
そうすれば……。
……楽に?
「何ですか?」
口籠もったソラリックにヨウイチは尋ねる。だがソラリックはその声に、逆に喉を塞がれた気がした。
言ってしまえば楽になるのだ。全てを暴露すれば、きっと上手くいく。そう自覚した今となっては。
だがそうしてしまえば、一つの約束を破ることになる。
それは禁忌を犯してまで自分が取り付けた約束で、きっと大事な何かを代償にしたもの。
ソラリックは昨夜のカラスの視線を思い出す。
その冷たい目が、きっと怖かったのではない。怖かったのは、その冷たい目が示していた、自身の『失ったもの』。
「彼らの手足が治ってほしいと思いますか?」
言いつつ何故だか瞳に涙の膜が張る。もう少しでこぼれ落ちそうな感触がして、瞬きできずにソラリックは俯いた。
その仕草に、ヨウイチはソラリックが元捕虜の境遇に心を痛めている、と思った。
「もちろん。当たり前じゃないですか」
「そう、ですよね」
そうだ、きっとそれは誰でも思うことで、そして自身はそれをカラスに求めていた。
それを悪いとは未だに思えない。
でも本当は。
彼らを可哀想だと思ったのは私。彼らが治ってほしいと思ったのも私。
だから。
「私も、そう思います」
今私は、失うことを恐れている。失ったことを後悔している。
昨夜の間違いを繰り返すことは出来ない。
だから今の私の隣には、きっと神はいない。




