千の顔を持つ
この話は三人称本編のはずでしたが、前回の見てないと何がなんだかよくわかんないので前話のタイトルから閑話消しました
オセロット隊は氷河を渡る。
遠くの景色は未だに雨中に没しているが、彼らがいるのは純白の光景の中。
雨雲を通り抜けて降り注ぐ日光はそれでも氷の橋に反射し照り返しを作り、彼らを下から明るく照らす。その光は先ほどまでよりも眩しく、幾人かはまるで自分たちが何も描かれていない画布の中を歩いているような妙な気分を感じた。
四列、もしくは五列に組まれた隊列が、易々と氷の橋を通る。
数百人が乗り、歩こうとも微動だにしない橋。本来氷の橋といういかにも頼りないものを使うということは警戒して当然のことだったが、このときは誰もそんなことは考えられなかった。
ぱらぱらと、皆の頭上から雨粒代わりの霰が降り注ぐ。
水蒸気が凍り付き、微細な氷の粒となって空中を漂う。
痛みが全身の肌を襲う。絶対零度まで冷やされた空気は、橋を通る人間のうち、闘気を纏えない者の肌を直接炙るように襲う。
吐いた息が凍り付き、キラキラと光る。吸い込む息が細かな針となって喉の奥を刺していく錯覚すら覚える。歯の根が合う者はこの惨状を作り上げた本人を除き誰一人としておらず、聖騎士団で最も寒さに強いオセロットすらも、部下たちの前で平静を保つだけで精一杯だった。
エッセンは季節によっては雪の降る国ではあるが、さすがに南方ではほとんど降らない。騎士の中には、普段エッセン南方で生活しているために雪すら見たことがない者もいた。
一人の騎士が、手甲にたまたま転がり落ちてきた大きな氷の粒を、震えながらもしげしげと眺める。
ごく小さな半透明の粒は、既に冷え切った鉄の鎧の上では全く溶けもせず形を変えなかった。そのためもあって、そして半ば朦朧とした意識の中で、騎士にはそれが氷の粒だとは思えなかった。
夢現のうちに、隊列から外れて立ち尽くす。周囲の騎士はそれを止める余裕もなく、ただただこの寒氷地獄を逃れるべく足を動かして離れていった。
立ち尽くした女性騎士は、何も考えられずに虚ろな目でその雹を見つめた。
雹とも呼べる白い塊。何かに似ている、と女性騎士は一瞬考えて、すぐにそれを思い出す。
それはいつか食べた菓子だ。米粒を圧力をかけた釜の中に放り込み膨らませた菓子。もしくは、粘りけのある米を炊いて潰してから揚げた菓子。
何の気なしに、その塊にゆっくりと顔を近づける。匂いはない。ただ、食べてみたらどんな心地だろう。固いのだろうか、柔らかいのだろうか。味はするのだろうか、しないのだろうか。噛み砕けるものだろうか、舐め溶かさなければならないのだろうか。
よくわからないが、その味を確かめてみたい。
本当に何の気なしに、女性騎士はその塊を口に含む。吸い込むようにすれば簡単に上下の唇の間に飛び込んできた飴玉のような白い塊を味わおうとし、……そしてそのまま、悶絶した。
「痛! いひゃひゃひゃひゃ!!?」
先頭のオセロットは既に渡河を終えていた。橋から少しだけ離れれば冷気もほとんど消え失せて、降り注ぐ霰も雨粒に変わる。
緩衝材のない頭部に当たる、冷たいはずの雨粒が温水に感じる。まるで冬の寒い日に風呂場で温かい湯を浴びたような心地よさを仲間たちと共に楽しんでいたオセロットだったが、その叫び声に似た呻き声に振り返った。
皆、隊列を崩さぬようには歩き続けていた。
当然だろう。皆、その冷たい橋を早く渡りたくて必死なのだ。誰しもが前を急かすように早足になり、そして前のいない者はこれ幸いと走るように足を懸命に動かす。
そんな中、橋の中腹で立ち止まって様子をおかしくしている女性騎士が一人いた。
誰もそれを助けようとはしない。誰も彼も必死だった。誰しもが、声を聞いて何事かと思いそれを見たが、それよりも自身を助けるためで精一杯だ。
皆の対応を咎める気はオセロットにはない。
助け合いの精神というのはもちろん大事だが、それは時と場合による。今この場で立ち止まることは愚の骨頂だと皆が知っており、そしてそれはもしかすると自分を殺すことになりかねない行為だ。
つまり今現在、彼女を見捨てて急ぐ行為は、もしかすると自分の命を助けるという行為に等しいのかもしれない。
そう思えるほどには過酷な環境なのだ。たかが百歩ほどで渡れるはずの橋が。
……それでも。
オセロットは部下たちに目配せをしようとし、それをやめる。
何があったか聞いてこい、という言葉も、助けてこい、という言葉も吐けなかった。橋の中央、そこはこの暖かな楽園から最も遠い場所である。そこにわざわざ戻れとは、温かな雨を楽しんでいる部下たちに言えなかった。もちろん彼はそれをする権限があるし、自分の命は部下たちよりも優先される立場だ、ということも自覚はしていたが。
仕方ない。自分が行こう。
一歩踏み出しただけで、いいや自分が、と声に出さず部下たちも数人足を踏み出す。それをオセロットは無言のまま手で制する。今この場で、あの過酷な環境に最も耐えられるのは自分なのだから。
しかしその視線の先では。
「申し訳ありません、注意を怠っていました」
川の中腹、上流側で橋を守護するように立っていたカラスが一度跳び、女性騎士の前に降り立つ。ふわりと着地したその姿が、やはりオセロットには人間らしく見えない。
「ふぇ」
「少し痛いかもしれませんが、口は少し開けられますか?」
歩み寄られた女性騎士が、一歩後退るようにしてから声をかけてきたのが誰だと確認する。そして口の中の激痛に耐えながらも、霜がまとわりつき開けづらい瞼の先にいた誰かを見て、魔法を使われたように硬直した。
暗みつつある視界の向こうに立つ誰か。この世の者とは思えぬ美貌に、もしかするとこれが話に聞く『お迎え』というやつだろうか、などと一瞬勘違いしてしまったが、そうではないとも残った理性ですぐに気がつく。
彼は、この状況を作り出した魔法使い。先ほど襲いかかる魔物ごと川を凍らせた張本人だ。
薄い表情の中に、申し訳なさがほんの僅かに滲む。
その彼が、なにやら自分を助けようとしてくれているらしい。
本来は彼女もカラスに対し怒りを向けてもおかしくない事態である。この状況を作り出し、何故だか知らないが今口の中に激痛を走らせている原因を作った張本人。
それを一応はカラスは理解している。故に、その口の中にごく低温の氷を自ら含むという愚行を責め立てることはしない。
そのカラスの態度に何故だか怒る気がせず、女性騎士はただ自身に手を差し伸べてくれたという事実に涙が出そうになった。その涙すらも、体表に出たところで氷の粒となり肌にへばりついた。
しかし、その言葉には応えられない。
開かない。口の中の肉が、それも舌と上顎の肉が氷の粒にへばりついたように固まり、火傷のような痛みを発し、上手く動かすことすら出来ない。剥がそうと思えばまた痛む。血の味がかすかに感じられる。肉が破けたのか、それとも舌を噛んだのか、それも自身にはもはやわからなかった。
雀斑の下に膨らむ頬を何度も動かして、『無理』という意味の音声を発する。
その言葉が伝わったわけでもないが、無理だということは伝わりカラスはふうと息を吐いた。
「失礼します」
責めずにカラスはただ手を出す。その手はそっと女性騎士の頬に添えられた。
頬に触れる温かい手を女性騎士は心地よく思う。まるでそこだけに血の気が戻ってきたように……実際戻っているのだが……ぴりぴりとした感覚。そして実際に、温かい。
自分を見つめる真摯な目が頼もしく思える。この温もりを全身に感じられるならば、目の前にいる男性に抱きついてもいいかもしれない。それは、錯乱混じりの自身も初体験の情欲。
そんな夢現もすぐに覚める。口の中にぬるりとした感触があった。それと同時に、血の味も鮮明に感じた。
「吐き出してください」
「……うぇ……」
カラスの言葉に応えて純白の氷の上に吐き出されたのは、それも氷の粒。同時にいくらかの血と唾液も飛び、その赤い斑点も氷に色をつけた。
すぐに表面が凍り付き、白みを帯びる吐き出された氷を見つつ、カラスはまた呟くように言う。
「極低温の氷は中々口の中では溶けません。逆に、口の中を火傷のような状態にします。もう少し温度が高いものならば美味しいときもあるんですけど」
極低温の氷。それは、それだけで凶器となることもある。
氷というのは、自身が溶ける時に周囲から熱を奪う。極低温のそれはその性質が顕著で、周囲を冷やすというよりも凍結させることすらある。
もちろんそんなものを口に含むなど以ての外だ。
唾液は凍り付き、肉は凍傷となり、その結合を崩壊させる。
勇者の世界でも、いくらかその事例はある。凍結した固定空気で口や食道が凍傷に至り壊死してしまう事故。家庭用冷凍庫の氷ではなく、微生物などを保存するための極低温冷凍庫で凍らせた氷菓子を口に含み、口の中の肉をごっそりと剥がすという事故。
ましてや今回のものは、絶対零度近くまで冷却された氷。
さすがにやりすぎたかもしれない、とカラスも内心首を横に振った。
「温めれば取れますし、口の中の傷なのでそう心配することはないと思いますが……まだ痛みますか?」
「い、いや……」
心配そうに自身を見つめるその目に、女性騎士は慌てて首を横に振る。事実、口の中の痛みは消え失せて、もはや自由に動かせる。目の前の魔法使いはその魔法を緩めているのか今は寒くもない。
実際は口の中の凍傷も剥がれた肉も目の前の魔法使いが治療しているのだが、カラスが黙っている限りそれを知る由は感覚のなかった彼女にはない。
「よかった」
彼女にとってそれよりも重要なのは、今まさに自分に向けられている温かい笑顔。
「ありがとう、私は戻ります!!」
きっとその笑みが何かの魔法なのだろう。そう自身を誤魔化し、全身が火照るように熱くなったと感じた彼女は、逃げるように走り出し隊列の中に紛れて戻っていった。
それを見送ったカラスは、騎士団の隊列を見る。
橋を作る前には予感していた。
もう最後尾が目の前に居る隊列を見て、そして自身を畏れるように怖がるように見つめる騎士たちの姿を見て、「やっぱり人間には辛かったか」と改めて小さく呟いた。
樹液路を凍結させて川を渡る。その過酷な奇手により、奇襲は成功をみる。
およそ六百が詰める小規模のムジカルの拠点。一部開拓村を利用しているが、防備も柵程度とおざなりで、軍事施設というには心細い。
そこは拠点というよりも、ただの詰め所。
開拓村に元々あった監視塔には見張りがいるものの、その監視塔自体が軍事利用を想定したものではない。低く、位置も悪い。
故にオセロットたちは、雨の中という隠密行動に適した気候もあり、事前の情報を元に易々と包囲を完成させることができた。
笛による突撃合図と共に、四方から千五百ほどの兵が拠点を襲う。
正規兵も勤める拠点である。兵の防衛体制への移行はそう遅いものではなかったが、数も違い、準備万端の奇襲を防ぐことは難しい。
事実、一気呵成に責め立てる騎士団の動きに対応は出来ず、弓の援護もほとんどされず、ムジカル兵の前衛たちはばたばたと斬り捨てられていく。
雨が止むまでは敵も来ない。そう、ムジカル兵たちも考えているという油断だと、カラスの言葉が納得できた。
もちろん、それでも戦闘は起こる。弓を使う前に押し込めたため、ほぼ白兵戦のみの乱戦であり、それについてはオセロットたちに憂いはない。
だが一つ。
怪物だ。
オセロットは、目の前の光景に目を疑い、内心そう呟いた。
「うおおお…………!」
「…………」
棍棒にも見紛う太い槍を手に突撃してきたムジカル兵を、カラスがすれ違いざまに殴りつける。それだけで、鎧ごと抉られたように胴体の左半分に大きな穴が開き敵兵が崩れ落ちる。
隣の敵兵の首が、手刀で飛ぶ。その勢いのままに身体を回転させて、着地し身を屈めた次の瞬間には、その横から飛びかかろうとしていた敵兵の頭を蹴りが砕いていた。
武器を持たないのか、と突撃前にオセロットはカラスに尋ねた。
それに答えた言葉は『邪魔です』というもの。
その答えが、これか。
考えてみれば、それもそうだ。敵の千人長、オッド・ピルエを殺したときも素手。あの時は魔法で戦うつもりだったからと思っていたが、考えてみればその後一撃で心臓を砕いて殺している。
魔法使いだから武器を持たないというのではない。
ただ単に、彼の流儀が無手のものだから、というだけの。
「豊穣! 破壊! 大地の……」
「その呪文、どこかで聞いた気がする」
乱戦の最中、兵たちの塊の向こうで誰かが叫んでいる。その言葉に反応し、カラスはちらりとそちらを見て呟いた。
目の前にいた敵兵を戟の先で引っかけて放り投げ、オセロットも身構える。明らかに、その敵兵は魔術師だろう。その魔術の効果もわからないまでも、その後何かしらの攻撃が来る。
しかしその身構えも無駄になる。
魔術師の身体が奇妙に歪む。まるで大きな手で握り潰されたように、窮屈そうに身体が細く丸められる、そして骨が砕けるような音もした。
耳や目から血を吹き出しながら、魔術師が倒れ伏す。その自慢の障壁ごと押し潰され。
その様を間近で見ていたムジカル兵は、驚き、「ひっ」と声を漏らす。
頼りにしていた百人長、〈風塵〉の魔法使いの凄惨な死に様に。
何があった、とオセロットは一瞬だけ悩み、それも愚問だと思い直す。
答えは知れている。あの魔術師の行動も死も意に介さず、目の前の敵の首を引きちぎっている目の前の魔法使いの行動がその答えだ。
心強いと思えばいいのだろうか。
「で、どうします?」
カラスが転んだ敵兵の頭を踏み砕く。その血が頬に飛ぶ。汚れを拭き取ることも顔を顰めることもなく、オセロットに向けた瞳は曇りない。
「え?」
「まだ戦闘中のところもあります。加勢に向かいますか? それとも急ぎ捕虜の救出に?」
「あ、ああ」
気付けば周囲に敵兵はいなくなっていた。拠点南側、ここはもっとも防備が厚く、だからこそ聖騎士団の中核十人もここに投入したというのに。
なんとなくやるせない気持ちになりながらも、オセロットは喉に力を入れる。一度目は何故だか唇を噛みしめてしまい、二度目でようやく声を出せた。
「聖騎士団はついてこい! 騎士団は戦闘中の味方の加勢に向かえ!!」
カラス殿も、とオセロットは自身についてこいと指示を出す。了解、と応えてから、目の前の魔法使いは手を軽く振ってその手に塗れた血を振り払った。
心強いと思えばいいのだろうか。
攻城戦にも白兵戦にも対応出来る、頼れる男だと評価すればいいのだろうか。
先ほど兵士に向けて手を差し伸べた姿のままに、純朴で優しい青年だと思えばいいのだろうか。
天候を変え、河を凍結させ、味方兵すら低体温症で苦しめる災厄のような男だと思えばいいのだろうか。
今ようやく頬についた血に気付き、無表情のままに手で拭い去ったその様のように、冷徹で恐ろしい男だと思えばいいのだろうか。
未だに評価は定まらない。
心強いのか、恐ろしいのか。優しいのか、冷徹なのか。
見るときによって評価は変わり、それもそのときは真実に見える。
まるで夢のような存在。
オセロットは思う。
先ほどの氷の景色の中、自身が思い浮かべたものの正体にようやく思い至り。
過去に化け狐を討伐したという噂から〈狐砕き〉と渾名される彼。ムジカルでは〈赭顔〉とも呼ばれているらしい。二つ名が複数あるというのも珍しいものではない。本人が自称していない限り、余人は好きに呼び、そして定着すればそれも当てはまるものだ。
そして、オセロットは朧気ながらも聞いたことがある。興味もなかったために、全てを覚えているわけではないが、それでもカラスにも定着しなかった二つ名は無数にある。
その中の一つが、どうにも当てはまる気がする。それはまだ彼が、イラインでも受け入れられていた頃の話。
エッセンよりはるか北方。北の国のリドニックの更に北には、消えぬ吹雪があるという。
近づくものを凍らせ、人の世の終わりを告げる白幕。壁。
そしてその向こうには、人ならざる者が住む国があるというお伽噺。
妖精の国。そこはきっと、氷に包まれた寒い国なのだろう。
子供と遊び無邪気に笑い合い、時たま恐ろしい顔をして襲いかかる。
まだ言葉もない赤子を笑わせて、時に連れ去り自身の子供と入れ替える。
家人が寝ている隙に家事を行い、報酬に台所の隅の牛乳を舐めていく。
人知の及ばぬ不可思議な存在。かつて一人だけ存在し、そして消えていった儚い存在。
夢のように気まぐれで、豪傑も敵わぬ強かさを持ち、理解の出来ない楽しみに没頭する。
千の顔を持つ彼は、きっとその類いで。
〈妖精〉カラスは、きっと今は頼れる存在なのだ。人々が畏まり、その意に背かぬ限り。
「では、急がなければ」
「……おう」
急かすようなカラスの声にハッと気付き、オセロットは何事もなかった顔をなんとか作る。
何を馬鹿なことを考えているのだろうか。目の前に居るのは妖精ではない。人間だ。魔法使いといえども、人から生まれたはずだ。父も母も、人間のはずだ。
ならばこれ以上に頼れる存在がどこにいよう。
根拠はない。だがここ数日見てきた彼の姿を思いだし、オセロットは決めた。
人を見る目は確かなはずだ、とオセロットは自分を信じている。副都ロズオンの悪童は、信じる者を間違ったことはない。
彼は味方だ。どんな顔を持っていようとも。




