妖精の橋
本編か閑話か悩みましたが、話進んでないので閑話で。
やっぱ本編で。三人称ですが。
(本当に渡れんのかよ)
樹液路。
ネルグの森の中にある河川の一種である。ネルグの中心にある幹や、そこから這う太い根を中心として染み出した樹液が水流となり、傾斜を抉り谷を作って流れていく。
雨や湧き水なども流入するため流れているのはほとんど水だが、それでも元はネルグの樹液だ。流れている水は栄養を大量に含み、ほんの僅かではあるものの、病を防ぎ怪我を癒やす薬効までも持つ。
オセロットの目の前には、川がある。
参道師の話によれば、そこは元は横幅十歩もなく、足首まで浸かることもほとんどないほどのごく小さな谷底の清流だという。
しかしその樹液路は、今や谷を埋め尽くす勢いで太くなり、今まさに降り続いている雨も混じり、豪快な音を立てて弾けるように飛沫を飛ばし続けていた。
オセロットの背後には部下や騎士団などの集まり総勢一千六百名。
聖騎士団を先頭にし、木々に阻まれ整然ともしておらず、まばらではあるがおおよそ四列から五列の隊列を組んで連なって佇んでいる。
彼らに表情を見せないよう、オセロットは唾を飲み川を見つめた。
なだらかな谷底だったはずの地面は水底遥か下に沈み、濁った水に透けては見えない。人の背丈の優に三倍は超す深さまであるであろう川は、向こう岸が雨の中で霞んでいた。
向こう岸まではおよそ百歩。水練など積んだこともない騎士たちには岩や流木なども時折流れ来るそこを泳ぎ渡ることなど出来るはずもなく、またその激流に船は出せない。
更に、今まさに目の前を飛んだ魚が、大きな鰐の口に飲み込まれた。その鰐の迫力も、オセロットには普通の鰐には見えなかった。
「…………」
本当に出来るのか、とオセロットは隣で佇む魔法使いに目を向ける。
そこにいた黒髪の魔法使いは、オセロットの視線を受け流すように自らの視線を漂わせ、涼しい顔でその行き先を対岸へと向かわせた。
(……やっぱわかんねえな)
オセロットはその仕草や表情を見て、黒い部分のない自らの頭を掻く。
何を考えているかわからない。何をしようとしているのかわからない。何を思っているのかわからない。魔法使いに顕著なその特徴に合致する目の前の青年が、自分とは違う不気味な存在にも思えた。
もはや隊ではなく軍ともいえる騎士の集団。目の前の魔法使いは、その軍勢に激流を渡らせてみせると言った。
本来は不可能に等しいことである。水の流れというものは、想像以上に陸上生物の行動を阻むものだ。流れがある場合、膝程度の深さの水であっても人間は容易にそこを歩けなくなる。ましてや今回は底に足がつかない激流。人など、それこそ同じ大きさの木っ端と変わらない。
だが、それを。
出来ると言った。道を作ると。
カラスは言ったのだ。隊列さえ作り守ってくれれば、必ずやその道を渡らせてみせると。
オセロットは、到底無理な話だ、と思う。
当然、この谷に道を作る程度であれば、資材と時間があれば出来よう。足場を繋ぎ橋を渡す。多大な犠牲を払う覚悟があれば、もちろん可能なことだ。
しかし今ここで。橋などを作るような資材もなければ、そのための人夫の用意もない。そんな中で、今まさに作られた激流の上を通らせることなど出来はしない。
いくら魔法使いでも無理だろう。
オセロットは、そう思った。
しかし、ともまた重ねて思う。
無理とは言えない。出来るというのならば出来るのかもしれない。
何せ、目の前の魔法使いは昨日あの《山徹し》を放った。一人の人間が起こせる規模には決して収まらぬ強大な破壊を見た。
それを行える〈山徹し〉デンアは伝説的な人物だ。狐に怯えた弱い自分を救った英雄として、オセロットも彼を覚えている。
だからこそ、規模こそ違えど同じ事象を起こした魔法使い、彼なら。
「……やってくれ」
「はい」
信じる、もしくは信じられる。そうではない。
信じたいのだ。自分は。
オセロットの言葉に応えて、黒髪の外套が一歩踏み出す。
そのまま軽い足取りで二歩、三歩と歩を進め……。
そしてオセロットはようやく気がついた。
(……雨が……?)
カラスが歩く。豪雨というほどではないがそれなりに強い雨が降っている。
しかし、目の前のカラスの身体は濡れておらず、その緑なす黒髪はまとまらずに風に揺れて靡いている。
雨粒が、彼の身体に当たらず弾ける。魔法使いカラスは、晴れの日の散歩のように軽い足取りで足を踏み出す。
その先は激流。ごうごうと音を立てて流れる川。
「…………!」
カラスの靴先が水面に触れる。実際にはそこは激流のままだったが、オセロットにはその足から広がる波紋が見えた気がした。
水面がまるで地面のように硬化する。白が混じる茶色に固まり、それでも流れずにその塊は水面に留まった。
構わずカラスは歩いて進む。まるで道なき道を自分だけが見ているように、危なげのない足取りで。
歩いた場所に道が作られる。一人だけが歩ける手すりもない細い道が作られ、その先をカラスは歩いていく。
そしてまたオセロットは気がついた。自分の足下、土が混じるネルグの根の地面。水分を含み僅かに泥濘んでいたはずの地面の踏み応えがおかしい。
いつの間にか、川岸が白く染まっている。それと同時に、足下から駆け上がってくるのは冷気。
オセロットは、ほう、と白く染まる息を吐いた。
(まじで凍らせやがった)
出来ると信じていた。しかし、実際を見るとまた評価が変わる。
渡ろうとしているのは樹液路だ。水は無尽蔵にそこにある。しかし無尽蔵にあるといっても、それは夏にもなろうというこの季節の温い水。事実、温かい日ならば既に水遊びも出来るだろう温度の水だ。
そしてそれが無尽蔵にやってくる。そこに氷の橋をかけるということは、常に温水をかけながら氷を作るということそのものだ。
会議の後、オセロットは遅れて現れた魔術師団にも相談した。代表である魔術師は『無理だ』と言った。ヴァグネルのような最高位の魔術師ならば可能かもしれないが、自分のような者にはとても、と。
ならば無理かもしれない、とオセロットは思った。聖教会ほどの厳密さはないが、魔術や魔法に関しての技術の隠匿は魔術ギルドにも存在する。魔法や魔術に関しては、聖騎士団長といえどもオセロットは素人だ。ならばその意見は、大抵魔術師の方が詳しいはずだ。
その上で、信じたかった。魔術師は無理だという。自分も無理だと思う。それでも。
そしてまだまだ、オセロットの目の前に広がる光景は信じたいものに至ってはいない。
しゃがみ込み、地面を叩く。そこは未だに霜のような塊で、殴れば拳の形に地面が窪んだ。
地面の窪みから視線を前に移し、川の上にあるカラスが渡った橋を見る。
それは今まだ細く頼りなく、一人しか渡れないほどの細さを除いても、兵を渡らせるほどの信頼はない。
オセロットの推察は事実だった。
今作られている氷の橋はまだ『そのため』のものではないあり合わせのもの。兵士が足を乗せて踏み込めば、容易くその者を激流に引きずり込むようなものだ。
(どうすんだ?)
しかしオセロットの目には落胆は宿らない。愉しむように唇の端を歪め、挑戦のような目つきでカラスを睨む。
その先では、カラスはようやく岸と岸のちょうど中間の辺りに辿り着いて、何かに気がついたように何かを呟いていた。
同時に、剣呑な気配をオセロットは察する。
空気が変わった気がする。先ほどまでとは一切変わらない光景。雨の中、激流を前にして飛ぶ水飛沫。何一つ変わらず、そして川の真ん中で静かに佇むカラスを含め、何も変わっていない気もした。
しかし、変わった。何かが。
「…………っ!!」
ピンと空気が張り詰めた感覚。一切変わっていないはずなのに、どこか粉塵が混じったような、咳き込むような空気の感触。
オセロットの勘が告げている。
「前二列槍を構えて備えろ!! 三列目からは下がれ!!」
背後の部下たちに指示を飛ばす。川を見つめて、またカラスを眺めていたはずの団長の剣幕に驚きつつも、その指示に従い部下たちは槍を構え、そして下がった。
オセロットは知っている。この感覚。この空気。これは殺気の塊だ。
しかもこの殺気はあからさまなものではない。野生動物が奇襲する際に帯びる、隠し研ぎ澄ませたもの。
カラスも気がついているはずだ、とオセロットはカラスを見る。
しかしその先にいたカラスは、警戒する様子もなく呆けたようにネルグの幹の方向を眺めていた。
「カラス殿!! 中止だ何かやべえぞ!!」
叫びオセロットはカラスに注意を促す。それでもカラスはほとんど動くことなく、小さく「大丈夫です」と告げて、胴体の前でひらひらと手を振った。
次の瞬間。
川の中腹で、大げさなほどに大きな水柱が上がる。
雨の音でもかき消されないほどの爆発するような音。それと共に、その水飛沫から現れたのは、大きな鰐。それも、先ほどオセロットが見たものよりも大分大きい。
オセロットは、その鰐がカラスに飛びかかる様を見た。
黒褐色のごつごつした肌。先が見えない尾を含め、体長は大人十人ほど。開いた口はカラスの身長よりも大きく、獲物を縦に潰し粉砕できるほどの大きさ。
血を纏ったその牙は、ついさっきどこかで哀れな犠牲者を噛み砕いた痕跡だろう。
危ない。
舌打ちをしながらオセロットはその手に持つ戟を振りかぶる。まだ鰐の登場に伴い起きた水飛沫が上昇をやめていない刹那。それでも聖騎士団長ともなれば反応できないほど短い時間ではない。
手裏剣のように小さな動きで投擲された戟が鰐を襲う。おそらく闘気を帯びた魔物。その鎧のような皮を貫通できるはずもないと冷静になればオセロットもわかるが、それを考えることもせず。
そしてその戟が鰐にぶつかるよりも先に、空中で静止した。
オセロットは瞬きをした。その瞬き前は鰐がカラスを襲い、自らの投げた戟が鰐を襲う、という光景があったはずだった。
しかし瞬きの後。その光景の色彩は一変する。
鰐が空中で静止する。自らの投げた戟も、空中で。
水飛沫や水柱は姿を残したまま白く煙り、屹立したまま動きを止めた。
鰐の身体が口先から白く変色してゆく。それと同時に、ピキン、ピキン、と何かが張り詰めたような音が辺りに響き始めた。
「……寒っ……!!」
オセロットの背後で、部下の聖騎士が思わず口にする。それに気がついたと同時に、オセロットの身体の表面を激痛が襲った。
張り詰めたように甲高い音が周囲から響き続ける。地面に青い水たまりが出来る。
川が押しとどめられたように水位を上げて、その水すらも凍り付いていく。茶色みを帯びていた水上の氷は厚さを増し、青みを帯びて純白に変わる。
凍りきらなかった水はざらざらと音を立てつつ、橋の上を弧を描いて飛ぶ。不自然なまでに落ちてはこないそれは、念動力によるもの。
「では、手早くお渡りください。私がここにいる限り橋が崩れる危険性はないと自負しておりますが」
いつの間にか、カラスがこちらへと歩み寄ってきている。渡る橋は幅も広がり、隊列が渡るのには申し分のない広さだった。
そして自らの周囲も含めた周りはいつしか純白に覆われ、木々も地面も全てが氷に変じ、降り注ぐ雨も氷の粒に変わっている。
露出した肌が冷たくもなくただただ痛い。瞬きをした視界の中で、凍り付いた睫がその存在を主張した。
オセロットも一歩踏み出しわざと足を滑らせて確かめるが、溶けもしない氷は滑りもしない。その代わりのように、具足の関節がバリバリと音を立てる。
全てが白く変じた光景の中、ただ一人黒さを保ち佇むカラスが、その様を見てにこりと笑みを浮かべる。
「早く。騎士団の方まで氷像に変えるわけにはいきませんので」
息を白くもせず、「動かないと凍傷になりますよ」と呟くカラス。振り返る視線の先には、自らが凍り付いたことも知らないであろう大きな鰐の氷像。その骸は虚空を見つめ。
オセロットは何故だか思い出す。英雄譚ではないが、勇者の冒険譚と民間でも伝わっている話。
勇者一行が聖領アウラを訪れた際、〈妖精〉アリエルと〈千尾皮〉ドゥミ・ソバージュが力を合わせ、陽光を撚って橋を作ったという逸話。それはアリエルの美しさと共に伝わるお伽噺。
その伝説と何を重ねたかも自分はわからず、その思い浮かべた事実もすぐに頭の端から消え去った。
けれども確かに。
カラスの僅かに浮かべた笑みは男色でもないオセロットも美しいと感じ、そして人間ではない何かを共に感じた。




