不信心
「……一応、根拠を聞いといてやろうか」
オセロットが勇者に問いかける。既に場の視線が集まっていた勇者だったが、その言葉に強くなった視線の圧に負けないように唾を飲んでいた。
それから勇者は僕たちを視界から殊更に外すように地図を大仰に覗き込む。
見つめている四つの丸はそれぞれ行き来に一刻以上かかる程度には離れていた。
「この拠点全部に、囚われになっている方々がいるんですよね?」
「そうだっつってんだろ」
勢い余ってオセロットは同意する。
しかし、そうではないだろうと思う。それに関しては、おそらくいるだろう、程度で。
「だから早く行きたいんだけど、川は増水して渡れなくなるし、全部を一度に回るのは一日じゃ無理……って」
勇者は拠点を示す丸を指でなぞって繋げる。仮にその指の動きのままに軍が動くなら、地形を無視しているその経路を行軍するのは出来ないわけではないが難しいだろう。勇者も、そう言いたいわけではあるまい。
「でも、兵を四つに分けて一度に急襲すれば、充分一日で間に合うんじゃないでしょうか。川も、少人数なら増水前に渡り切れるってさっき参道師の方も言ってましたし」
「たしかに雨と増水はちょっとだけ時差がありますが……」
参道師は、出来なくはない、程度の反応を示す。
それに気をよくしたのか、勇者は、ね、とオセロットに視線で問いかけた。
だがオセロットは当然のように、重々しく首を横に振る。
「出来ねえな。拠点にいるだろう兵の数を見ても、分けりゃ必ず数で負ける。それに、軍を分けるとなったら聖騎士団を振り分けなきゃなんねえが……」
オセロットは言葉を止めた。
言えないのだろう。おそらくその言葉の続きはこの場にもいる騎士団への配慮で。
戦略的な戦闘においてはまた違うだろうが、戦術的で局地的な戦場では、主力はやはり聖騎士団だ。昨日の戦闘を見ても、他の人員は単なる賑やかしに過ぎない。
そしてオセロットの聖騎士団は現在二十六名。分けるとしたら、単純に割って一拠点六名か七名程度。それでは敵に魔法使いや強い闘気使いが混じっていた時に対応できなくなるかもしれない。
軍学とやらを囓ったこともない僕からしても、寡兵を割くのは愚策だろう、と思う。
もちろん僕が単なる勉強不足で知らないだけで、それが効果的なこともあるかもしれないけれども。
そしてオセロットや周囲の聖騎士や騎士の反応からすれば、僕の考えは全く違っているというわけでもあるまい。
オセロットの声が小さくなり、場が一瞬静かになる。
次の瞬間、ポンと手を叩く小さな音がまた視線を集めた。
「なるほど、素晴らしい案です。それがいい」
声を上げたのは勇者が副官のように連れていた男性治療師。深緑の外套は、戦場にいるにもかかわらずパタラたちにすら見える汚れがほとんど見えない。
顔も目も丸く、肩まである長髪は頭頂部が薄い。
「オセロット閣下。勇者様に指揮権をお譲りいただき作戦に従事ください。必ずや、作戦を成功に導いてくださるでしょう」
「……は?」
臆面なく発された言葉に、オセロットがぽかんと口を開ける。ただしその目には戸惑いのようなもの以上に、苛つきのようなものが混じっていた。
逆に治療師は勇者の横で、戸惑うように眉を顰めた。
「おや、しかし」
「……勝手なことを言ってんなよ。この隊の指揮官は俺だ」
「しかし、そうすると勇者様が貴方の作戦で動くと? 聖騎士ごときが勇者様を従えるなど恐れ多い」
丸い目をした治療師が放った言葉に、ざわざわとどよめきが広がる。
危険に聡い参道師は青い顔をして一歩机から離れると、僕の側に身を寄せた。
静まらぬ天幕内。
そのざわめきも、オセロットが静かに口を開くだけで止まる。
「よく聞こえなかったな……なんだって?」
治療師を見つめ、オセロットが口元を歪めてにやりと笑う。
だがその目は笑っておらず、額には青筋が浮かび、天幕の外では鳥たちが急いで追い立てられるようにどこかへ飛んでいった。
シン、と静まりかえった天幕内。空気にビリビリとした感触が混じる。
動けるのはオセロットだけ、という雰囲気すらあった。
「聖騎士ごときって聞こえたんだが気のせいか? なこと言うわけねえもんな、治療師様ごときがよ」
僕に向けられているわけではないが、それでも背筋が凍るように寒くなる感覚。それを感じることが出来ない者すらも、この場にいれば、これが殺気というもの、とおそらく誰しもがわかると思う。
発しているのはオセロットだけではない。この場にいる聖騎士全員が。
しかし治療師は、そんな彼らの視線を涼しく受け流す。
「言葉を慎みなさい。有象無象の治療師ならばいざ知らず、高等なる位階を持つ私を愚弄することは、神に対する反逆ともなりえます」
「随分と偉そーだな、治療師様ごときが」
目の下を痙攣させながらオセロットがまた言葉を繰り返す。治療師はその言葉も、哀れに思ったように目を細め、ため息をついて聞き流した。
「貴方は人に仕え、我らは神に仕える。仕えているものの大きさが違うのです」
言いつつも無意識にだろうか両手を組み、うっとりとした顔で治療師は虚空を見上げる。
神に仕えることに酔っているのだろうか。それとも、神に仕える自分に酔っているのだろうか。
オセロットは怒りを堪えるように、笑みを強めて机の上の拳を震わせた。
「ふ、ふーん……、……で?」
「勇者様に従いなさい。神は絶対です。神の使徒たる勇者様に付き従えば、万事上手くいく」
ぶち、と密着しているわけでもない僕のところまで、たしかに何かが切れる音が届いた。
大丈夫だろうか。怒りのあまり血管が切れるという表現があるが、本当に切れていないだろうか。場所によっては危ないと思う。
「は、はは……」
咳き込むようにオセロットは笑い、勇者の方を向いた。
「そういや、その勇者様は、なんでここにいるんだ? あんた……じゃねえ、勇者……勇者様さんはダルウッド公爵の指示で第九位騎士団の拠点で待機してるはずだよな」
「……それは……」
突然話題を向けられて、勇者は一瞬躊躇うように身を引く。
その際に、ちらりとこちらを見たのは勘違いではあるまい。
「貴方がたを救うために、と迷ってらっしゃる勇者様に私が進言いたしました」
得意げに治療師が言う。
オセロットは、それを無視した。
「神なんか知らねえ。だがよ、ベルレアンやダルウッド公爵の指示がこの軍じゃ絶対だ。そんで、勇者様殿下はそれを破ってここに来た。そりゃ、人の世界じゃ軍令違反ってんだよ。わかるか?」
言ってから、勇者の返答を待たずに「わーかーりーまーすーか」と間延びした言葉でオセロットは質問を繰り返す。
先ほどまではオセロットの言葉を軽く流していた治療師は、こちらには苛つくらしい。ようやく少しだけ顔を歪めた。
「閣下!」
「あー、あー、勇者様に治療師様よ、あんがとな。頭冷えたわ」
何かを咎めようとする治療師を無視して、オセロットは幕内を見回す。その視線に、二人を除く全員の姿勢が正された気がする。
「トム、雨が止み次第斥候を出すよう準備させろ。樹液路の様子の確認を兼ねてな」
「了解」
副団長が厚い唇を震わせて静かに言葉を返す。
「樹液路の安全が確保された後、順次拠点を落としていく。経路や行程は今から急ぎ詰めてくぞ。明日には絶対にかかるからな」
参道師に向け、それから軍議に参加している騎士団長たちに向けられた言葉に、頷いた気配が空気を揺らした。
「しかし、急がないと……」
空気がオセロット中心にまとまりつつあった。
そんな気配の中で、また一人声を上げる人間がいる。もちろん、軍を分けての急襲を進言した勇者その人だが。
「あん?」
だが、急襲に関しては同じようなことを提案していたはずのオセロットが勇者を睨む。
一瞬黙った勇者に向けて、オセロットはわざとらしくため息をついた。
「勇者様。増援は感謝する」
顔の向きを変え、言い聞かせるように流し目でオセロットは言う。先ほどのような激しい怒りではなく、冷たく。
「俺が我慢している間に出てけ。治療師様と一緒に」
「……この……なんたる不信心者!!」
治療師がいきり立つ。
「このことは教会に報告いたしますぞ!!」
「勝手にしろ」
机に両手をついて、静かに冷たくオセロットは言い切る。今度はまっすぐに、治療師を見ながら。
「呪われるがいい。おお神よ、許されざる者に天罰を」
まるで祈るかのように治療師は呪いの言葉を吐き踵を返す。
だがそれを黙って見送るオセロットをもう一度だけ見遣ってから苦々しい顔をして、今度は勇者の方を見る。
「勇者様! 参りましょう!! このような不心得者どもに手を貸す道理などございません!!」
「どこに……」
「…………」
連れられるように足を動かしながらも戸惑い行き先を尋ねる勇者に、治療師は答えない。
そして天幕を出ていった彼らを見送って、オセロットは「おい」と呟き、その言葉に応えるように一人の聖騎士が頷いて静かに退室した。
オセロットは仕切り直すように大きくため息をつき、参道師と相談を始める。副団長は、斥候の任を指揮するためにだろう、彼も天幕を去った。
めくった扉代わりの布の向こうで、強い雨の音がする。この分だと、樹液路の増水まで時間はあるまい。
しかし。
「どうした?」
「いえ」
地図を眺めた僕に、オセロットが問いかけてくる。だがその質問は曖昧に流し、僕は内心ため息をつく。
先ほどの会話を聞いていたからではないが、勇者の登場で少しばかり焦りが湧いてきた。
余裕がなくなった。そんな気がする。
そもそもこの戦争に僕が参加した理由の一つに、勇者に手柄を立てさせないためというものがある。勇者が前線に出てくるまでの間に、前線の敵をあらかた片付けてしまおうというもの。
勇者に手柄を挙げさせないために、その機会を奪おうと。
一応、可能だとも思っていた。勇者が前線に出てくるのはもう少し後だと思っていたからだ。
しかしそうでもなくなってしまった。
オセロットに嫌われながらも、それでも勇者は今前線にいる。
参道師とオセロットと、それに幾人かの騎士団長が参加して明日の軍の動きが決まっていく。拠点を囲む地形や植生によって二千人を一時的に二つに分けることはあるが、それでも順次奪還していくという方針に変わりはないようだ。
このままだと勇者もこの戦闘に参加するだろう。
そして戦闘に参加した時点で僕の目的の一つは叶わなくなる。レイトンの言葉通り、おそらく勇者は戦場に参加するだけで手柄を挙げたことになる。勇者は敵兵の首一つとらずとも、適当に手柄を挙げたことになるだろう。
させられない。
せめて勇者を後方に送り返してからでなければ。
もしくは。
「オセロット閣下」
話は尽きないが、それでも会話が途切れた最中。
戦略上の騎士団の動きの決定のため、参道師が地図の森の中に道なき道を描き入れているそのとき、僕はオセロットに呼びかける。今までほぼ黙っていた者が声を上げる。それは先ほどの勇者と変わらない気がするが。
「一つ、相談があるのですが」
しかし勇者が来た以上、五英将を待つだけ、というわけにはいかない。
それに先ほどの言葉の応酬。少し面白かった。親近感が湧いた、というのも間違いではない。
仕事が増えるが仕方ない。
いつもの僕らしい。力業だ。




