閑話:豊かな国
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人間は社会性動物だ。多くの人間は人間同士の関わりを楽しみ必要とする。
だが中にはその性向から人間と関わることを避けられたり、もしくは容姿や社交性の偏りにより他の人間と関わることに躊躇する者がいる。
たとえば多くの男性は、中年期以降には若い女性などに煙たがられるものだ。その他、相手に対し卑屈になり、会話を求めながらも出来ない男性もいる。
そんな男性などが……稀に女性も含まれるが……金を払い若い女性との会話を楽しみ社会性の喪失を埋めるため、娼館の中には、ただ会話と酒を楽しむための部屋もあった。
「エッセンの様子は報告書で確認したが、一応お前の口からも聞かせてもらおうか」
「はい」
香の焚かれた部屋の中、ラルゴとムジカル王グラーヴェは、少しだけ離れた椅子でそれぞれ娼婦を左右に二人侍らせて饗応を受ける。
目の前の机に積まれた果物類はどれも瑞々しく、酒は最上級品。全てがグラーヴェのつれた魔法使いによる毒味済みである。
瓢箪を小さくしたような果実を娼婦が割り、薄い皮を裏返すようにして引き剥がす。それを黙って受け取ったラルゴは、二人の前に後ろ手に手を組んで立つカンパネラが口を開くより先にその果肉を囓った。
「まずは事実から」
カンパネラは話し出す。まずは、エッセン王城で得た客観的な情報を。
兵の数。その内訳。兵糧の量の他、国内でエッセン王家の持つ備蓄の量など。数字で表されるものを、端数を省略しながらもほぼ正確に。
酒を手に、片手を隣の娼婦の腰に回し、引き寄せながらグラーヴェは黙ってそれを聞いていた。
話を聞き終えたラルゴは頷く。報告書に上げられた情報とその情報はほぼ変わりない。ならば報告書の情報は正確で、信頼できる目の前の部下と同じく信頼してもいいものだろう、と。
そして、次いで聞きたいのは、その印象。先にその情報から得た自身の印象を話そうとしたラルゴの太い眉がひそめられる。
「……随分と、過不足のない」
前回の戦とは異なる印象がある。兵力の方ではなく、兵站の用意やその配備が迅速かつ的確になっているように思える。
エッセンの軍備というのはおおざっぱで、もう少し悪くいえば、おざなりであるものなのに、とも。
「エーミール・マグナが指示でも出したか?」
「いいえ、恐らくですが、彼は未だにミールマンに封じ込められているでしょう。自らの意思でそこに留まっているということもありそうですが、子細な指示を出せる状況ではなかったと思います」
第三位聖騎士団団長エーミール・マグナからの近況報告書はカンパネラも目を通した。そして彼個人の周辺を洗ったわけでもないが、彼の息のかかった人物が王城内で指示を通したということもないだろう、とカンパネラは思っている。
ここからは憶測混じりの時間。ラルゴもカンパネラも、それは視線だけで同意した。
「恐らく、……王城内にいた鼠の仕業かと」
「報告書にあった、ドルグワントというやつか」
ラルゴは笑う。
王家に与していない第三勢力。勢力というのもおこがましい、ただ一人の人物。普段は無感情で精密なカンパネラの報告書から、珍しく微かな敵愾心が読み取れたのでラルゴも覚えていた。
「時系列を追っていた者しかわからないように、ですが、指示書などが奴に書き換えられていた形跡があります。奴がいなければ、軍備もいつもと同様だったのではないかと」
「……欲しいな、我が軍に」
「やめておいたほうがいいと具申します。飼い慣らせる獣ではありません」
「手厳しいな。その傷も、そいつのものか?」
ラルゴは自らの頬を指さし、カンパネラに尋ねる。カンパネラの頬には、浅い一条の傷がある。それも、真新しく見えるような。
レイトン・ドルグワントとカンパネラが交戦したのは報告書で聞いた。もちろん、二月前に付けられた傷が残っているとも思っていない。
内傷にしても長すぎる。まさか、という可能性も捨ててはいないが、ほとんどは単なる諧謔だ。
そしてカンパネラは、思った通り首を横に振った。
「いえ、こちらは聖騎士に付けられたものです。内傷になってしまっておりますが」
「それほどまでか、今の聖騎士の練度は」
「はい。個人としてはそこまで侮れるようなものではないと感じました」
努力は人を裏切らない、という言葉がある。確かに努力は人を裏切らない。求めているものとは限らず、形になる保証もないが、努力というものは確かにその人間に『何か』を積み重ねていくものだ。
そして同じく、怠惰も人を裏切らない。鍛錬を怠れば腕は必ず錆び付いていく。一日休めばその錆び付きを落とすには三日かかり、その間努力をしていた誰かには追い抜かれ、置いていかれてしまう。怠惰とはそういうものだ。
ほとんど全員、聖騎士は寿命も長く、鍛錬に使える時間も長い。
もちろん年齢による衰えもあるが、二十年という年月は彼らをしなびさせるのには十分なものではない。
そして現在の団長たちに、訓練を怠る不心得者はいない。
故に、前回の戦よりも確実に個人の練度は上がっている。それは純然たる事実だ。
だがそれは、個人として、だけだ。
「しかし、その男の支援を除けば、やはり軍略としては以前と同じではないでしょうか」
「だな。私もそれはそう思う。大軍の軍略いらず、というだけではない。全体的にお粗末だ」
また一つラルゴは果物を口にする。ただし今度は隣にいる娼婦の手から、直接。
「クロード・ベルレアンも軍として強いが、奴に奇策は出来ない。清濁併せのめるエーミール・マグナに指揮を執らせた方がよほど手強いというのに」
故にラルゴも、魔法使いの分隊をいくつか捨て駒にして第三位聖騎士団をミールマンに釘付けにした、ということもある。
クロードも水天流掌門という地位や、それこそ第二位聖騎士団という位置付けにより高い求心力を持つ。状況判断能力や戦力計算も出来る。故に手強くはあるが、エーミールよりは一等劣る、というのがラルゴの判断だ。
「探索ギルド、魔術ギルド、聖教会の様子は」
硝子の杯の中で紅色に透き通る酒を揺らしながら、グラーヴェが口を開く。静かな声は、雄々しいと表現されるラルゴの声よりもむしろ優雅にその場に響いた。
カンパネラは、ラルゴに接するように恭しい笑みをグラーヴェにも向ける。
「そちらも、いつも通り、というところでしょうか。魔術師団、治療師団もエッセンの要請で先ほどの報告通り結成され、いつも通りに派遣されるようです」
「……探索ギルドの力は削げると思うか?」
「幾人かの高名な探索者も出陣する予定のようです。たとえば」
次いでカンパネラに口にされた探索者の名前をグラーヴェは知らなかったが、一安心、という雰囲気で溜息をつく。
「そうか」
ならばいい。魔術師団、治療師団はいつものように撃退すればいい。そしてそれと同時に、少しでも探索者、それも色付きを減らすことが出来るのであれば。
この戦で最も憂慮すべきは、第三者の一人勝ち。そして警戒すべきは聖教会だ。
現在この国には、魔術ギルドも聖教会も存在しない。それは建国以来保ってきたこのムジカルの独立性維持のためで、代々の王たちが頑なに守ってきた掟である。
探索ギルドの権勢を可能な限り抑えているのもそのためだ。
グラーヴェは思う。
誰が、その国の王以外を頂く勢力を国内に招き入れるだろうか、と。
聖教会などその一番の悩みの種になる。聖教会は法王、もしくは教主という国主を持ち、治療師や信者という国民を持ち、治療院という国土を持ち、更に神器まで所有する。
それは国家だ。国家という形態を持っておらずとも。
「勇者の様子はどうだ?」
重ねてグラーヴェは尋ねる。様々な意図が絡む今回の戦で、最重要に近い話だ。
彼はエッセンの尖兵であると同時に、忌々しい聖教会の尖兵でもあるのだから。
「未だ素人に毛が生えたようなものでしょうか。報告書の通り、魔法は使えるようになったようですが、単純に剣士と考えてもよろしいかと」
「ならば」
「王、安心なされよ。確実に殺すべく策を用意しております」
カンパネラに変わり、ラルゴが答える。
ならばいい、とグラーヴェは思う。勇者の危険性も、ラルゴは理解しているはずだ。
「勇者……」
壁際に控えていたランメルトが、胸元をかき寄せるようにしながらその単語を口の中で繰り返す。思いの外その声は大きく周囲に響いたが、ラルゴもカンパネラも、ガランテもそれを無視した。
だがただ一人、そこに振り向く男がいた。大げさな仕草で、隣の娼婦の肩に回した腕を胸を掴みつつ引き寄せながら。
「お前は勇者の信奉者か?」
そのランメルトの声音が否定的なものではないことを感じ取り、グラーヴェが問いかける。王からの視線にランメルトはビクリと肩をふるわせた。
「…………」
どうしたらいいかとわからず、ランメルトは自身の胸元を掴んだまま目を逸らす。だがそれでも、グラーヴェの視線が外れていないことは雰囲気からわかっていた。
「どうした? 直答を許す。遠慮はせずに話すがいい」
「王陛下、申し訳ありません。その下男はまだ教育が行き届いておらず……」
「構わぬ」
ガランテが代わり取りなそうとするが、グラーヴェはそれを軽い口調であしらった。グラーヴェとしても、特に悪意もなく怒りをもつわけでもなく、このような場所で過剰な礼儀を求める気もない。
ランメルトは逸らしていた目をちらりとグラーヴェに戻し、また逸らす。
本人としても戸惑っていた。その言葉は、特に意味を持たせるべく発したわけではない。
だが何故口に出したのか、それはなんとなくわかっていた。
「その髪、その目の色、お前はストラリムの出身だな。聖教会の信者か?」
ストラリムはエッセンと同じく聖教を国教として掲げていた国家の一つだ。人々の多くは休日に聖教会を訪れ、祈りを捧げて過ごしていた。当然そこには多くの宗教施設が建てられており、そして今回の侵略で、ほぼ全てを破壊された。
ランメルトは息が詰まるような感覚を覚えた。息が出来ない。懸命にその息を吐き出すように、言葉を紡いだ。
「……神を、信じています」
「なるほど。ならば神の奇跡の体現者として、勇者も信じているのだな」
勇者を信じているか。そう問われて、ランメルトは内心その答えが浮かばなかった。
信じている、というのはどういうことだろうか。今の話を聞いていれば、勇者がエッセンに召還されたことは知っている。ならば、その存在は疑いようもなく、実在を信じている、というのも間違いはないだろう。
しかし違う気がする。問われているものが。
「…………」
「遠慮せずに思ったことを口にせよ」
同意も否定もせずに黙り込んだランメルトに、グラーヴェは溜息をつく。苛つくわけではないが、仕方のない奴だ、と。
「……わかりません。勇者は、いるのでしょう?」
「お前は神の何を信じている?」
「…………その、実在を」
「それは何を以て?」
ガランテが、「およし」とランメルトを小声で咎めるが、王はそれを無視する。そもそもに、グラーヴェの問いに答えない方が礼に悖るのだが、ガランテには今そこまでを考える余裕がなかった。
「…………」
考え込み、黙り込んだランメルトをグラーヴェは見つめる。
そして、笑うように咳き込みながら口を開いた。
「余はここにいる。お前もまたそこにいる。ラルゴもカンパネラも、ガランテもいまここにいる。ならば実在をしているはずだ。神を信じるのとまた同様に、我らのことも信じている、とでもいうのか?」
ケタケタと笑うように、楽しげにグラーヴェはそこまで言い切り、また自身の言葉に笑った。
「いい、すまんな、許せ。お前と神学論争をする気も言葉の定義を論ずる気もない。だから余が代弁してやろう」
そして浮かべていた嘲笑を消し、困ったようにまた笑う。
「助けを求めれば、神がお前を助けてくれる。同じように勇者もお前を助けてくれる。お前はそれを信じているのだろう?」
ランメルトは問われ、なんとなく腑に落ちる。
そうかもしれない。確かに自分は、そういう風に信じているのかもしれない、と納得できた気がした。
同意を感じ、王は続ける。
「だがな、それは信じることではない。縋っているのだ。神の力に」
グラーヴェはそう言い切った。
「お前の名は?」
「…………ランメルトと、……申します……」
「神などいないよ、ランメルト」
そんなことはない、とランメルトは口にしたくて口に出せなかった。
幼い日から、治療師の説法は何度も聞いた。礼拝にも数え切れないほど出席した。神の実在を疑ったことなどない。神は存在するのだとランメルトは信じている。……何の根拠もなしに。
そしてランメルトは、目の前の王に対して怒りが湧く。
何故だかランメルトには言語化できなかった。それは、自身の価値観を、真っ向から否定された怒り。苛つき。
グラーヴェにも、それは伝わった。
「言いたいことがあるならば言ってみろ。遠慮はいらぬ。今日この場限りで、余は全てを許そう」
楽しげに、グラーヴェはランメルトを促す。
そして、許された、という言葉にランメルトの口が軽くなる。
吐かれる言葉は皮肉めいた讒言。大抵の人間が、許されようとも口に出来ないもの。
「……だから、戦争なんて出来るんですね。神の罰を恐れないから、人殺しが出来るんだ」
「ランメルト、よしな」
「ガランテ、構わぬ。余がよいと言っているのだ」
ガランテの言葉を遮り、グラーヴェは先を促す。まだやはり、楽しげに。
だがやはりガランテの顔色も蒼白になった。王への諌言、ならばまだよいかもしれない。しかしこれは、罵倒に近い。
許す、と言ったがその保証はない。警護の者たちの殺気が場に静かに満ちている。それを感じ取ったガランテが、卒倒しそうなほどの。
罰されるとしても、せめてランメルトだけで終わってほしい。連座で自分がもしも処刑されでもしたら、この娼館に残った店子たちの身はどうなる。そんな心配に、汗が垂れた。
ガランテの内心など知らず、ランメルトは王と五英将の前に供された酒や果物を見る。疑問に思っていたこと、何故だか不思議で堪らなかったこと。
「もう、……充分じゃないですか。……なんで人を殺してまで奪うんですか……? そんなに戦争は楽しいんですか……?」
「快不快で行うものではない。そういう者もいるがな」
グラーヴェは内心、『そういう者』を大勢思い浮かべる。今まさに隣にいる男も、知恵比べを楽しみに戦争に従事する一人だ。
「もう……この国は……、充分豊かじゃないですか……」
今目の前に置かれた豪華な果物。もちろんそれは王族などの貴い人間に供される最高級品だが、そうでないものであればこの国にはありふれている。
恩給のおかげで飢える者もいない。労働は今いる奴隷のみで完結できる。ストラリムでは望めないほどの、十分すぎる生活だ。
奴隷たちの仕事すらも、見方を変えればストラリムの庶民より負担は少ない。今働いている姉も、おそらくはこの豊かさに毒されてしまっているのだろう、とすらランメルトは思っていた。
グラーヴェはランメルトの言葉にふむ、と悩む。まるで庶民の考え方だ。
なんとなく新鮮だった。久しくそのような者とはこういう会話をしていなかった、と。
「豊かだからだ。故に、戦わねばならぬ」
「これ以上国を大きくして……強欲が過ぎます」
そしてランメルトの言葉に酒で唇を湿らせる。
「……国を持ったことのない者にはわかるまい。強欲からではないよ」
「しかし」
「国というものは、あるところまでは大きくするのに苦労する。しかしあるところを過ぎれば、今度は大きくしないことに悩むことになる」
強欲などではない。むしろこれは爆発を恐れるが故の浪費ともいっていい。
大国を肩に乗せる施政者の悩み。それは、同じく大国エッセンをその双肩に背負うエッセン王とも本質的には同じ。ただ、対策としての代謝と停滞。その方向は反対だが。
グラーヴェは、困惑を浮かべたランメルトが愛おしくも思えた。この苦労は、自分が背負えばいいだけのもの。
「お前は余が、何の苦労もなくこの地位にいると思うか?」
「…………」
「周囲を囲む国々はおよそ友好的ではない。このエッセンとの戦争が始まろうという今ですらも、どこかの国は今も刃を研いでいることだろう。余の首を掻ききるために」
弱音に近い言葉。
だがそれに、ランメルトは反意を覚えた。それが、と。
「お前たちが始めたからだ。この国が、侵略なんてしなければ」
所詮この国は山賊のような国だ、とランメルトは思っていた。
周囲に対し略奪を繰り返し、私腹を肥やし誰かに裏切られて造反される。
それを繰り返す愚か者。自分一人のことしか考えない者に、真の仲間など出来ない。まるで山賊だ。聖教会の聖典にも記されているような。
その憎悪に似た感情を、グラーヴェはクスと笑って受け流す。
「返す言葉もないな」
たしかに、その外国の憎悪もわかる。こちらが仕掛けなければ、こちらが仕掛けて勝たなければなかったはずの悪感情。
「しかしそれは仕方あるまい。隣り合えば人と人とは争うものだ。どんなに恵まれ豊かな者でさえも、隣人の持つものは羨ましい。それを奪い争うことは、自然の摂理だ」
だから隣国は、ムジカルが羨ましい。だからムジカルを襲い、その豊かさを奪おうとしている。それも紛れもない、純然たる事実だ。
「そんなものは、獣の理屈だ」
ランメルトは認めない。
隣人のために祈る。そんな神の教えに逆らって、弱い者から強い者が奪っていく。
「それでも我らは人間だよ。ランメルト」
グラーヴェは、諭すように言った。
「我らが獣と違うのはそこだ。獣は必要以上を求めない。だが人間には欲望というものがある。先ほどお前はこの国が豊かだと言ったが、まだ足りない。この国は実質、豊かではない。いいや、この地上に、真に全てが満ち足りた豊かな国などありはしない」
「どういう……」
「豊かさとは相対的なものだ。絶対的なものではなく、満ち足りたと感じても、人はすぐに慣れていく。豊かさは一時的なもので、すぐにそれを満足出来なくなる」
豊かさとは麻薬のようなものだ。
一時は快楽を感じ満足するが、すぐにそれに慣れ、更に強い快楽がなければ満足できなくなる。
グラーヴェは思う。永遠に続く満ち足りない日々。それこそが、生活の本質だ。
言い切ったグラーヴェを冷笑するように、ランメルトは目を細める。
「……なら……、諦めればいいじゃないですか。神は『足らぬを知れば足る』と」
「だが余は諦めぬ。人間である故に。聖者たちは私欲を捨てて民のためになどと嘯いているようだが」
「…………」
グラーヴェはランメルトからも視線を外し、胸を反らして天井を見る。酒に酔いつつある紅潮した肌に、傍で係の者が扇ぐ風が心地よい。
「余は、このムジカルの国民全員に豊かさを授けてやりたい。足りぬならば与えればよい。永遠に、永劫に」
そして足るを知らせればいい、と内心付け加えた。
戦争で失うことを知れば、得ることの喜びも潰えないだろう、と。
「……そのために……」
ランメルトは更に怒りが増す。涼しい顔で言い切ったその言葉は、言い換えれば。
「そのために、他の国が犠牲になってもいいというんですか……!」
その声の怒りの調子が何故だか可笑しくて、グラーヴェは笑いを堪えた。
ランメルトを見れば、なるほど、先ほどまでの弱気さはほとんど消えている。なかなかに弱気も強気なようで、まだどこかに残っているとも感じたが。
「余はこのムジカルの王。隣国は隣国。余の治める国ではない」
「だから、奴隷みたいに扱ってもいいというんですか」
「奴隷となりたくなければ、頭を垂れて服従を誓えばよいのだ。我が国は誰も拒まぬ。迎え入れたからには全てが同胞。同じように扱おうとも」
戦争が起きれば襲撃も略奪も許す。しかし、正式に国権が移譲されたその日その瞬間からは、それは違法となる。それはムジカル王家が連綿と引き継ぎ続け、堅く守られている法だ。
二月ほど前……カラスがエッセンに入ったしばらく後。ストラリムも正式にムジカルの一員となり、今となっては略奪は違法化された。
「でも、姉さんたちは奴隷になった!」
「それは気の毒だ。早く降伏すれば、そのようなことにはならなかったろうにな」
「どの口が……!!」
「奴隷身分が嫌ならば、抗えばよい。自身の価値を示し、自身の所有権を取り戻せばいい。誰もそれを邪魔はせぬ。させぬ。誰しもに未来がある」
「お前に、奴隷の気持ちなんてわかるもんか……!」
グラーヴェの言葉を遮り静かに吐き出されたランメルトの言葉。
その言葉に、護衛の者たちのなかにざわめきが走る。
この問答の中で、お前、とランメルトは王を呼んできた。その失礼は王が許しているからと堪えてきた護衛たちでも、限界が来ていた。
警護のざわめきを聞いて、娼婦すらも身を固めた緊張の空気をほぐすように、グラーヴェは周囲を見渡した。
「そのように猛るな。女が怯える」
目を向けた警備兵の長は、黙ったまま唇を強く結び不満を示す。自身の仕える王。敬愛する王に向ける態度として、ランメルトの態度は我慢に堪えない。
その尊敬の念を嬉しく思いながらも、まあまあ、とグラーヴェは軽く手を振って抑えた。
そしてランメルトに改めて顔を向けて、闊達な笑みを浮かべた。
「たしかに余には奴隷の気持ちなどわからぬ。ならば余は、お前に王の気持ちなどわかるのか、と問えばいいのか?」
言いながら、噴き出すように自分で笑う。
「実際、この国の奴隷制度は優しさそのものだ。何の保証もなく強制労働に従事させられるエッセンとは違い、使用者には衣食住全てを保証し、更に給金を払う義務がある。余の名で発布されている法でな。それは、お前たちすらも余の愛すべき国民と思っているからこそだ」
「…………!」
今日何度目かの、どの口が、という言葉をランメルトは飲み込んだ。変化した空気は、ランメルトも感じ取っていた。自身の身が危ない、ということも。
今度はランメルトを宥めるように、グラーヴェは優しい声音を使う。
「たしかに、余は奴隷として生きたことなど一度もない。人に使われるなどということも久しくない。余は王で、そしてグラーヴェ・アッラ・マルチャ・ムジカルでしかない。お前のことなど理解は出来ない」
一息にグラーヴェは言い切り、だが、とまた続けた。
「余は奴隷ではないからこそ、王だからこそこの国を導ける。お前たちが抗えるように」
女たちからも手をどけ、酒も置き、ランメルトからまた視線を外す。
それから向けた視線は何も捉えず宙を漂ったが、その場にいる誰しもが、グラーヴェは何か大きな、バカでかいものを見ていると感じた。
「余は王権を用い法を敷いた。誰もが自由に自分の人生を生き、誰もが誰にも媚びず諂わず、自分自身を生きられる国にするために」
もちろん現行法の多くは先人たちから引き継がれてきたものだ。しかし今グラーヴェは王である。その名で発布されている以上、自分が発布したのだと胸を張ることが王の責務と心得ていた。
「国といっても、所詮は真にわかり合うことなど出来ない人間の集まりだ。誰しもがそれぞれに思想を持ち、欲望を持ち、それぞれ違った能力をもつ人間たちの。それぞれが自由を求めて生きれば、必ずどこかで衝突し、争うだろう」
「そんなことはないでしょう。人間とは、慈しみ合うもので……」
「そう聖典に書いてあったか?」
力の抜けた、と形容されるような優しげな顔でグラーヴェは笑う。
隣にいた娼婦は、それに見惚れた気持ちだった。
「お前は戦争が嫌いだ。おそらく街角の武勇伝など不愉快極まりないだろう」
ランメルトは言い当てられたことに驚きながらも、無言で通した。
「だが、その武勇伝を求める少年少女たちがいる。武勇伝で済まず、戦場に出て、戦地で敵から全てを奪い、蹂躙することが喜ばしい者もいる」
「そんなもの……」
「そしてお前には、抗う自由も嫌う自由もある」
もはや果物を供することも忘れ、娼婦が話に聞き入るようにグラーヴェの顔を見つめる。
その熱の籠もった視線は、まるで恋をしているかのよう。
「諍いは必ず起こるのだ。自由が自由に衝突すれば、諍いが頻発する。騒乱は騒乱を呼び、国はすぐに無秩序になるだろう。それは余も望むところではない。だから余は、ムジカル王家は法を敷いた」
「守られなければ意味がないでしょう」
ランメルトは、グラーヴェの言葉に反論する。しかし何故だかそれは負け惜しみに近い心境で、その声音が弱っているのを自身でも感じていた。
グラーヴェはランメルトの言葉を無視した。
「戦地以外での略奪は許さぬ。人を殺してはならぬ。人から盗んではならぬ。人を騙し私腹を肥やしてはならぬ。その他様々な法は、我らを獣から遠ざけ、人の自由を守りつつ最低限の尊厳を守るための法だ。それを守らぬならば、そうだ。お前のいうとおり、獣と呼ばれてもやむなしだろう」
この国の法は他国と比べて緩い。殺人が条件付で許可されていることなどがその代表だろう。
だが複雑ではなく、そして単純故に、取り締まることも容易だ。
「余は獣には容赦せぬ。そして今それが守られているからこそ、この国は人間の国なのだ」
強い視線。外にも内にもそれを向け、腐敗を許さぬ強い王。王位継承権第二十五位という玉座からは遠い位置にいながらも、十五年前ついには玉座に上り詰めた強さがそこにはあった。
そして同時に優しさも。グラーヴェは、壁際で立ち尽くす少年に目を向ける。この国を遍く照らす光のような目で。そして「ランメルト」、とその名を呼んだ。
「余はお前ではない。お前の代わりになってやることも出来ない。お前がどれだけ辛い思いをし、窮地に立たされようとも。……だが、共に戦うことは出来る」
そっと手を伸ばす。遠く離れたランメルトの頬を撫でるように。
「今の身が不満なら、法に反さず戦い勝ち取れ。この国はそれを認めている。国家の法が不満なら、法に反さず戦い勝ち取れ。それも、この国は認めている。それが出来ない国にした覚えはない」
実際、現在発布されている百ほどの法の条文の半分ほどは、グラーヴェの代になって修正されている。しかるべき手続きを踏んだ国民の声に応え、必要だと頷いたグラーヴェの手で。
そしてその法を守ることも、王家としての責任だ。自身は決して破らず、そして誰にも破らせない。
「もしも誰かが我が法に反しお前を止めるなら、お前には必ず仲間がいる。奴隷の法には監督署がある。ガランテでも誰でもお前やお前の大切な者を不当に扱うのなら、すぐに駆け込み助けを求めるがいい。そしてその処置が不満なら、不正を許さぬ監察の署もある。そしてそこが不満でも、更に別の場所が」
助けを求めるものにはしかるべき助けを。その考えは、一生変えるつもりはない。
「上へ上へと登り続け、戦い続ければ、いつかは必ず余の耳へ届こう。そしてお前の敵が我が法に反する獣ならば、余は必ずお前の味方だ。たとえこの世界の誰もが敵になろうとも、たとえ一人になろうとも、余だけは、必ず立ち上がり、その剣となろう」
ランメルトは力なく手を落とす。
そして、何故だか瞳に涙の膜が張った。きっとその言葉は本当なのだろう、と何故だか信用できる気がした。
知らずによろけるように、差し出されたその手に一歩近づいてしまう。そちらに向けて地面が傾いているかのように。
最初からついていた勝敗は、今決した。そう撞着する言葉を思い浮かべながらラルゴは溜息をついた。
隣に侍る娼婦の視線が熱を持って王を見つめている。一連の言葉で、隣にいる自分すらも見えなくなってしまったかのように。
見目麗しくないわけではない。王も華奢ではあるが、王家に連綿と受け継がれてきた美しい顔貌を持つ。しかし、娼婦たちが注目しているのはそれではないだろう。
今の言葉からでもない。惹いたのは、その言葉の根源にあるもの。
敵愾心を燃やしていたはずのランメルトが、いつしかその言葉に聞き入っていた。
それを実現するほどの求心力。
ラルゴは改めて溜息をつく。仕方ない。今日の主役は王に譲ろう。
〈太陽王〉の名声。自身がいつか奪い取るもの。
横にいる女たちのしなだれる手をするりと抜け、グラーヴェは立ち上がる。少しだけ酔ったために足下はふらついた。
それを支えた娼婦の一人が喜ばしく頬を緩めたのを見て「すまぬ」と一言口にすれば、羨ましげな視線が彼女に集まった。
グラーヴェはランメルトに歩み寄り、笑いかける。
「そうだな、一つ助言をしよう。古の娼婦の聖女、アマーリエの逸話からだ」
「……アマーリエ……」
ランメルトはその名を繰り返す。その謂われはこの娼館の用心棒であるハモルから聞いたことがある。だが、それは、まさか。
グラーヴェの手が、ランメルトの顎に添えられる。その手をぐいと引き寄せれば、まだ成長期まっただ中のランメルトは、また一歩歩み寄ったグラーヴェを見上げる形になった。
まるで接吻をするかのような仕草にランメルトは慌てて戸惑う。ガランテにも緊張が走った。
そんな二人の内心を気にせず、グラーヴェはランメルトの瞳を至近距離から見つめる。
「彼女は奴隷娼婦の身分から、王の正室とまで成り上がった。その美貌とその身により」
まさか、とランメルトとガランテは悟る。この流れは、まさか。
「興が乗った。ガランテ、余はランメルトを指名する。部屋を用意しろ」
ガランテはその言葉に慌てて「え」と声を上げる。
冗談ではない。ここは娼婦の集まる娼館。彼は、男娼ではない。
「いえ、その者にはそのような教育など施しておらず……」
「なに、歯を立てるような不作法なければ問題はない。美しければ問題はない」
男も女も関係ない。自由に求め、自由に別れる。それがこの自由の国の掟。
グラーヴェはじ、とランメルトを見つめる。おそらく姉も相当な美人なのだろう、と思える顔貌。まだ幼さも残り、男性の美しさと女性の美しさが混じり合っているような美。
自分の相手をするのには十分だ、と思った。
静かに、口説くようにランメルトに話しかける。吐息が甘く香った。
「ガランテは命じずともよい。ランメルト、お前が選ぶのだ。余はその答えを受け入れよう」
「…………!!」
ランメルトは怯えて目を見開く。
その言葉。グラーヴェはこの後自分に相手をしろと言っているのだ。
まさか、なんで、そう戸惑うも、この手を払いのけるのは罪だと思っていた。
もちろんそうしたところでグラーヴェは許すし、笑って済ませるだろう。
しかしランメルトの側に、ムジカルの最高権力を押し退ける腕力が、ない。
「……あの、僕は……!」
「その美しさを使い、成り上がれ。それがこの国ムジカルだ」
答えを聞く前に、グラーヴェはもう一度ランメルトに笑いかける。その太陽のとろける笑みに、ランメルトは吐息のような答えを返した。




