縄張り争い
木に布の端を括り付け、逆の端をハクの上を一部渡すようにして下げる。そうやって作った簡易的で細い屋根の下、治療師二人は眠りについた。
疲れていたのだろう、すんなりと。
今は寝息だけが聞こえてくる。ハクを枕にしているので、騎獣たちの寝相が悪くないことを祈るばかりだ。
スヴェンも既に太めの枝によじ登り、その枝の叉を器用に使って眠っている。僕ならば樹上にベッドでも作りたいところだが、彼は要らないのだろう。
焚き火の跡の燻りから少し離れた場所、僕とレシッドは別々の木の幹の根元に座る。幹を背に、半ば茂みに隠れるように、更に木綿の布で体の凹凸を覆って。
雲が多く月は出ていない。見通しも悪い林の中。林を抜ける風の音が温く響いていた。
「災難だな。一日目に野営なんてさ」
小さくレシッドが呟く。僕に向けて話しかけてきたのだろう。そう思い視線を向ければ、夜目が利く彼は治療師の方へ目を向けていた。
その話の主語がわかり、僕は溜息をつく。
「今日一日凌げばなんとかなるんです。明日には聖騎士団のいる開拓村で、安全に過ごしてもらいましょう」
「森歩きに慣れてないお嬢様は、開拓村でも文句言うんじゃねえの?」
けらけらとレシッドは声を潜ませ笑う。それがまあ、一番の問題なのだけれども。
治療師団としての移動ならば、もう少し彼女も文句は言わなかっただろう。
彼ら治療師団には、僧兵のような護衛もつくし、独自の輜重部隊すらある。こんな少人数の不便な旅ではなく、もっと快適で彼女らの仕事に集中して従事できる環境が整っていたはずだ。
質素だが貧相ではない食事を食べ、立派な天幕で安全に寝られたはずだ。
布の下でもぞもぞと体勢を変え、わずかにレシッドは俯き上目遣いに僕を見る。
「で、どうよ。あの村を襲った魔物は今日来ると思うか?」
「どうでしょう。半々というところでしょうか」
そもそもどんな魔物かもわからない。一応僕も現場を見たが、僕も何の魔物に襲われたのかまったくわからなかった。肉の食いちぎられ方や飛び散った跡から、なんとなく妖鳥とでもいうべき嘴を持った魔物だと思うが、それも確証はない。
どんな魔物かわからない以上、その縄張りの大きさを推定するのはなかなか難しい。
ここ以外の開拓村も襲われている可能性がある。今日はそちらの巡回をする、ということだってあるだろう。
しかしほぼ確実に、元々中層より奥にいる魔物だ。大破していた家屋から、そう思える。
「まあ、危ない魔物でしたらスヴェンさんも対応してくれますし、心配ないでしょう」
「頼むぜまじで」
レシッドは、木の上でくぅくぅと軽いいびきをかいて眠るスヴェンを見る。
もっとも対応してくれるのは、自然とスヴェンに立ち向かうような危険な魔物だけだろうけれども。
魔物が狙うとは思えない。眠りこけ、今もなお隙だらけのはずなのに、僕も攻撃できなさそうな明らかな強者の雰囲気を発している彼を。
そして、面倒なことに、魔物に遭遇したのは夜明け直前の明るくなりつつある空の頃。
ふと何かの気配を感じ、眠っていた僕は目を覚ます。鼻にわずかに届いた獣臭。新鮮な血の臭いはしないが、古くなった血と泥の混じった臭い。
目を開けてレシッドの方を見れば、一瞬遅れてレシッドも目を覚まし僕と目を合わせた。
とりあえず異変はないかと頷きあってから周囲を見れば、更に遅れて騎獣たちが目を覚ます。スヴェンはまだ寝ている。騎獣のわずかな身動きで、それを枕にしていたパタラは目を覚ました。
騎獣二頭は目が覚めているようだが動かない。ただし足には力が入っており、動こうと思えば一息に立ち上がりそのまま駆けていけるだろう。
かさ、と静かに茂みを掻き分ける音がする。音の出所を見れば、白い毛と狼のような精悍な犬の顔が闇の奥の方でぼんやりと見えた。
とりあえず見たことがない種だ。彼も中層から奥の方に本来住んでいた魔物だろう。
こちらへ来ている。そう認識して、問題はないかと周囲を見渡したがなにもない……わけでもなかった。
騎獣二匹は起きている。起きたまま、賢く注意深く動かずに周囲を確認している。
それに伴い一頭のパートナーたるパタラは起きた。起きて、僕の言いつけ通り木の幹に体をつけて動かずにじっと待っている。彼に関しては魔物の姿を確認してはいないのだろうが、それでもその動きは正解だ。
だが、もう一頭のパートナーたる彼女は。
よい夢を見ているのだろうか。なんとなくむにゃむにゃと寝言のようなものを発しながら、まだ眠っている。彼女の寝相の悪さのせいだろう、ハクとの間に隙間が作られ、ハクの動きが全くの無駄になっている。
近づいてくる魔物。犬にしてはやけに上下運動が少なく、ぬるりとした動き方。
林の奥に、大蛇のように長大な尾が見えた。
レシッドが、ソラリックを顎で示す。パタラも彼女を心配そうに見つめるも、彼自身は何も出来ないようで固まったまま幹に張り付いていた。
仕方ない。僕一人と、もう一人なら。
僕は一応透明化して姿を隠し、そのままソラリックに駆け寄る。
今一番の心配は、ソラリックがこの魔物を刺激してしまうことだ。
そのまま寝ていてくれればいいが、仮にこれで起きてしまえば。
先ほどの様子を見れば、また叫び声を上げてしまうかもしれない。刺激してしまえば攻撃的になりかねない相手の前で。
ソラリックを巻き込んで透明化し、音も遮断する。音も匂いもなく消えた彼女にハクは驚いたようだったが、その驚きは迫る狼のような蛇のような魔物に押しつぶされたようだ。
とうとう、ぬるりと彼が姿を現す。
僕たちが使っているわずかに開けた場所に、頭だけを突っ込むように。
そして、ぬるりという印象が正しかったことを僕は知る。
白い狼らしい見た目は顔だけだ。
体はまるで蛇のよう。だが一応体毛は狼のように存在し、おそらく腹ではない場所をやはり狼のようにびっしりと覆っている。
体をくねらせて動いていると最初思っていたが、そうではない。
彼は大犬の変種だろうか。そう思ってしまったのは、その足の数からだ。
まるでムカデのように、細い足が胴体に何十本もついている。その一本一本がぞわぞわと動き、凹凸のある地面の上をスムーズに滑るように移動していた。
顔の高さだけでも僕の身長より大きい。胴体と同じ顔の太さは僕が手を広げたくらい。全体的に大きなサイズ。とりわけ瞼を持つその目は大きく、僕の頭部大の眼球がやけに黄色く見えた。
生臭い息が開けた場所に満ちる。
その狼のような蛇が木の根を擦り、音を鳴らす。
瞬間、ソラリックが目を覚まし、魔物を見た。
魔物としても不思議に思っていたのだろう。先ほどまでは間違いなくここで寝ていた人間がいた。なのに、いつの間にか忽然と消えている。そんな魔物が見つめていたのは、ソラリックの寝ている場所。
必然的に、目が合う。人間の小さな目と、暫定的な名前だが狼蛇と。
「……ぎ…………っ」
ソラリックが目を剥き、口と喉を開きかけ、叫ぶ準備を始める。
向こうには元々聞こえないが、横にしゃがみ込んでいた僕は一応その口を手で塞いだ。
「静かに。幹に身を寄せて、声を出さないように」
口元を押さえているのも誰だかわからなかったのだろう。僕の顔を見る前に、一瞬手を振り払おうとする。
「僕がいます。もしもの時は、任せてください」
だが僕の顔を見て、それからまた魔物の顔を見て、震えながらコクコクと顔を頷かせた。
怪訝な目で狼蛇は僕たちのいる場所を見つめるが、彼には見えていない。
……大丈夫そうだ。
好奇心からこの辺りを探ろうと考えるかもしれない。それを防ぐため、彼の前で、僕はあえて透明化を解く。
それで何かが伝わったのだろうか。
僕とも目が合った狼蛇は納得したように目を強く閉じ、また動き出す。
そうして。
燻る焚き火を器用に避けながら、狼蛇は去って行った。開拓村跡を目指すように。
狼蛇が去っていったのを見送り、残心とばかりにしばらく僕たちは張り付いたように動かない。
だがそれでもやがて、日が出たのだろう、明るくなった頃、未だに寝ているスヴェン以外の全員の力が抜ける。
額に汗を垂らしつつも安堵の息を吐き、レシッドが天を見上げて大きな息を吐く。布の下で握りしめていたのだろう短剣を地面に放り投げるように置いて。
「……助かった……のですか?」
パタラが詰めていた息を解放するように息を荒くして、僕らへと問いかけてくる。まあおそらく、だが間違いないだろう。
「通っていっただけですね。申し訳ありません、僕の野営地の設定の失敗です」
あんな魔物がここを通るとは思わなかった。そもそもそんなムカデのような足跡はこの辺りにはなかった、というのは言い訳だろう。
竜に近い圧力を感じた魔物。あれは新手だろうけれど。
「ソラリック様も、お疲れ様でした。あと失礼しまし……」
僕は既に拘束を解いていたソラリックに話しかける。しかし彼女は反応せず、少し待てば、崩れ落ちるように地面に体を横たえた。
緊張が解けて、気が抜けたのだろうか。
パタラを見る。そちらは、慌てるように目を丸くしていた。
僕はなんとなく微笑ましくそれを見て、それから彼の背後の払暁の空を見た。
「救護をお願いします。ちょうどよい時間のようですし、彼女の目が覚め次第出発しましょう」
食事はそのあとで。僕はそこまで言って、準備に取りかかる。屋根代わりの布を木の幹からほどいて外し、畳みにかかった。
とりあえずここから離れて、朝食はそれからだ。今日は美味しい果物でも食べさせてあげていいかもしれない。
そんなことを考えつつ、火の始末や荷の整理など、全ての後片付けが完了した頃。パタラの法術によりソラリックが目を覚ます。
出発前、騎獣に乗るほんの直前に、僕へ向けて「ごめんなさい」と小声で放ったのも何故だか面白かった。
昇りつつある日の光を目指し、騎獣は走り、僕たちも併走する。
とりあえず少し離れた場所で朝食を。そんなことを考えつつ、僕は壊滅した開拓村の惨状を思い返す。
きちんと対策をしておけばよかった、などの村人や騎士団を責める言葉は言わないし思わない。
きちんと対策をしようとも、どうにもならないことがある。魔物は種族によって持つ力も違うし、その中には遭遇したことを不運としか言い様がないものもいるだろう。
聖領の中を人間が歩くなどということは、それこそ本来決死の覚悟で行うことだろう。
開拓村は戦闘員が混ざり抗えるからこそ存続できているだけであり、たとえば商人などはこの森を通過するときには参道師や探索者や傭兵などの護衛を雇わなければいけない。
参道師は魔物との争いを避けて通る術を身につけており、傭兵は魔物と争い打ち勝つ術を心得ている。探索者はその中間。
僕たちが今から参加するのは戦争だ。隣国との戦。人を殺し、殺されるかもしれない目に遭う。そういうところにいくはずだ。
人間と人間の縄張り争いに参加する。そう思えば、少しだけ気が楽になった気がする。
そして気が楽になると同時に、気を引き締めなければいけない気がする。今から行う縄張り争いの予見できる苛烈さに。
背後の森の中。もう遠くなってしまった開拓村跡の方から、声が聞こえた。
おそらく、断末魔の声。誰が上げたのかはわからないが。狼蛇か、それとも別の何かか。
わからないが、少なくとも背後の森の縄張り争いは決着がついたらしい。
なら次は僕たちだ。
追い返そう。この森から、ムジカル兵を。
僕は改めて、そう思った。




