親と友
タン、と出来るだけ屋根に負担をかけないように僕は跳ねる。
五番街の『麗人の家』からそう遠くない十二番街の路地。その中で、ニクスキーさんはウェイトの襲撃に遭っているらしい。
建物の上を跳んで移動する。横抱きにして抱えているホウキが、上下運動のたびに体を震わせていた。リコと同じく、高いところが苦手なタイプだろうか。
「どの辺りに?」
「……そ、そっち……」
怯えながらも震える指はきちんとした方向を指し示している。この辺りの路地も僕は知らないわけではないが、道案内は必要だろうと思える程度には入り組んでいた。
正直、ウェイトの襲撃だけならば問題ないと思う。
ホウキの話ではウェイトはニクスキーさんを包囲した上で、ホウキを貧民街で捕らえ、それを人質に取ったらしい。そしてそのホウキを助けようとウェイトの用意した罠に突っ込み、足に怪我を負った、と。
先ほど「仲間が死んだ」と雀が周囲に連絡していた。体が細かくなったとも説明していたので、何らかの切断するようなものがあったのだろう。おそらくその罠によるものだろうと思う。
そこまで聞いても、やはり、とも思う。ニクスキーさんだって無敵の超人ではない。足に怪我を負う程度することもあるかもしれない。その上でも、ウェイトに負けるとは思えないのだ。僕の印象上は。
しかしそんな考えも、わずかに開けた裏路地の広場に辿り着いたときには、姿を消した。
最後の一歩は宙を踏む。着地した動作なのに浮いていることを不審に思ったのだろうホウキは「え」と一声漏らしたが、僕はその足下の光景に目が釘付けになった。
眼下、遠目に見えているのは膝をつき項垂れるニクスキーさん。およそ優勢とは思えない仕草。剣は手放しており、力なく地面に落ちていた。
周囲に倒れている人間たちは五人。その中にウェイトもいるようなので、ニクスキーさんは問題なく撃退できたのだろうとも思う。
だがもう一人いる。今まさに、ニクスキーさんとぼそぼそと何かしらの会話をしている女性が。
ホウキが呟く。
「さっき、……あんな女いなかった……」
「……そうですか」
非常にまずい事態になったと思う。ニクスキーさんの目の前にいる女性。鞘に包まれている剣を手に持ち、今まさにニクスキーさんを気絶でもさせようとしているのか、その手に力を込めている人間は、僕も知っている。
白い袖付きの外套はその所属、聖騎士団員であることを示している。緑がかった金色というか、金色がかった緑色の長い髪。
そこにいたのはテレーズ・タレーラン。第七位聖騎士団〈露花〉団長。
見知った顔だと安堵するべきだろうか。それとも、聖騎士団と揉めている、と憂慮すべきだろうか。
どちらにせよまずいことだ。
王都にいくまでならば、躊躇はなかった。けれど彼女らとも知り合い、今まさに戦場に出ようとしているこのとき、聖騎士団と事を構えたくはない。
面倒な。
ウェイトを撃退すれば済むと思っていた。もしくはニクスキーさんが既にウェイトを返り討ちにしていると思っていた。
一瞬黙った僕を不審に思ったのだろう、ホウキが僕の顔を窺う。
僕はそれを無視して考える。
しかし、どうする。ニクスキーさんを急ぎ連れ出し、逃がすか。透明化させればどうにかなるだろうか。そのためには接近しなければいけないが、まずは……。
悩んでいる間に、テレーズが動く。
詳細はわからないが、おそらく点穴のため、剣が二回、胴体へ。そしてもう一つ、こめかみへ。
「ニクスキーさん!!」
命に別状はない、と僕は思っていたが、その様が衝撃的だったのだろう。ホウキが叫び僕の腕の上で暴れる。
そしてその声で、テレーズがこちらを向いた。
「……ばれましたね」
遠いからと油断していたが、音を遮断しておくか、姿を隠しておけばよかった。さすがに叫び声は遠くから聞こえるし、かすかな叫び声でもテレーズは聞き逃さないだろう。
テレーズが何事かを呟く。ニクスキーさんは微動だにしなかったが。
「うるせえよ! はやく! 何してんだよニクスキーさんを助けな……!!」
ホウキが暴れて僕の腕から飛び降りる。緊急で作り上げた不可視の足場に乗り、そこから一歩踏み出そうとして、落ちた。
息を飲む音が聞こえたが、その首の後ろを掴んで引き戻す。未だ支えは僕の腕しかないホウキが、僕の手の先で頼りなさげに揺れていた。
しょうがない。
僕はホウキを手に持ったまま足に力を溜めて跳躍する。手の先でホウキが叫び声を上げているが、それを無視してニクスキーさんたちの下へと着地した。
間違えようもないが、やはり目の前にいるのはテレーズ。
「……カラス殿。こんなところで奇遇だな」
テレーズが剣を肩に担ぐようにし、僕へと微笑みを向ける。まるでたった今まで戦闘を行っていたなど思えぬのどかな仕草で。
実際そうだったのかと一瞬思ってしまったが、違うだろう。
ニクスキーさんの後ろの壁。そこに作られたクレーターは、今まさに二人が作り上げたものだろうと思う。
「大立ち回りがあったようで」
「さっきな。私が来たときには、もう終盤のようだったが」
テレーズがウェイトにちらりと目を向ける。ウェイトが聖騎士団員と気がついていないのだろうか。
それから、「で」、とテレーズは呟いて剣を下ろす。ザス、とテレーズの剣の先が石畳に突き刺さる。鞘の先は補強されているとはいえ、鋭くはないのに。
ニクスキーさんは膝をついたまま意識もなく身動き一つしない。僕らがここにきてもなお。
テレーズがニクスキーさんを視線で示す。
「この男の名はニクスキーというのか?」
「……はい。私の知己です」
「なるほどな。驚嘆に値する腕と思ったが、カラス殿の知り合いか。なんとなく腑に落ちた」
笑みを浮かべた顔は、いつもと同じ精悍なもの。そして今日はその上で、警戒が見て取れる。
僕と、ホウキに向けて。
ホウキはその視線に警戒以上のものをきちんと受け取ったのか、唇を噛みしめるようにして閉じた。
またテレーズは、「で」と繰り返す。
「何をしにここへ?」
「……それを説明するには、少々お時間をいただきたいのですが」
「構わんよ。私もわからないことばかりだ。副官と別れて歩いていたらたまたまここへと行き着いた。そうしたらこの……ニクスキー? という男とそこに倒れてる男が喧嘩の真っ最中だったわけだ。周りに倒れている男たちの素性もわからんし、ニクスキーとやらはよくわからんことだけ言って黙ってるし、どうなってるんだ? これは」
「…………」
テレーズのため息を見て、僕は一瞬黙って考える。
どう説明したものだろう。どう説明すれば角が立たず、ニクスキーさんを逃がせるだろうか。
ホウキをちらりと確認すると、睨むのと同時に、僕へと縋り付くような視線を向けている。助けてほしい、と彼は言った。その願いはそのまま変わっていないのだろう。
だがまあ、多分もうニクスキーさんは助かってはいる。
テレーズはこれを喧嘩だと思っているらしいし、ウェイトは誰の手によるものかはわからないが眠っている。他の人間たちも、今のところ起きる気配はない。
ならばこのまま任せようとも、テレーズはニクスキーさんをここで処断はしまい。しかるべき場所に連れていこうとするだろうし、そんな場所ならばニクスキーさんは簡単に逃げられるだろうとも思う。
とは思うのだが。
それでも、小さな子供の願いだ。なんとかここでニクスキーさんを回収したい。
「ここにいる少年、ホウキはそのニクスキーさんの連れだったそうです。先ほどまで一緒に表通りを歩いていたとか」
「ほう」
「ニクスキーさんは探索者です。詳細はわからないんですが、そこで何かきな臭いものを感じたんでしょう。このホウキを貧民街へ帰し、ニクスキーさんは一人になった」
じ、とテレーズはホウキを見る。嘘ではないかと疑う視線だ。
だが嘘ではないし、ホウキもそこは否定しないだろう。
僕も、嘘はつかない。ただいくつか言わないだけで。
「おそらく彼らはそのニクスキーさんをここで包囲したんでしょう。この、罠張り巡らされた裏路地で」
僕は言いながら広場の周囲を見渡す。存在自体はホウキに聞いていたが、正直驚いた。
広場に入る路地の部分にあった鋼線はニクスキーさんに切断されているようだが、おそらく犬猫ならば通り抜けられないほどの細かさで張り巡らされた罠があった。
そして上を見れば、周囲の家屋の屋根に隠されるようにして張られた罠まである。先ほど『細かくなった』という雀の一羽は、広場の端のほうで臓物も含めた細かな肉片を晒していた。
テレーズが僕を制するように掌を見せる。
「待った。つまり倒れている中には、このニクスキー殿の仲間は誰一人いないというのか?」
「正直全員の顔を見ていないのでわかりませんが、おそらくそうではないかと」
多分、と頭につくがそうは思う。見た感じ、倒れ方的には。
そして、僕が続けるのは一番の重要部分。
「そしてニクスキーさんとこのホウキの関係に気づいた彼らは、ホウキを拉致し、ニクスキーさんに対する人質に取ったそうです」
またテレーズがホウキを見る。
ホウキは一度俯いて、それから震える手で一番離れて倒れている男を指さした。
テレーズがその先を見て、視線が離れたことを察したホウキがようやく口を開く。
「……そいつに、……小刀を突きつけられて……」
ホウキの首には、ごく小さな虫刺されに似た傷跡が残っている。皮一枚が破けた程度の傷だが、治さずにとっておいた。
僕はテレーズの許可を取らずにニクスキーさんに歩み寄る。
膝をついてはいるが、意識もないのに倒れないのは鍛えられた体幹のおかげだろうか。
「当然ニクスキーさんはホウキを救出。しかしそのときにこの傷を負い……」
近づいてみれば、かなりの深手だ。服が裂けた中に見えるふくらはぎと足首の真ん中くらいに一本走った傷。出血はまだ染み出すように続いており、腱は断たれ、深さは骨まで届いている。
「難を逃れたホウキは、僕へと助けを求めて走った……というわけです」
麗人の家の親方の話では、往来で僕の名前をずっと呼びながら走っていたそうだ。
僕の居場所など知らないだろうに、どこにいるともわからない僕へ向けて懸命に。
子供の努力。無駄にするわけにはいかない。
しゃがみ込み、ニクスキーさんの足にそっと手を当てる。
気絶し、闘気の加護も薄い今、魔力が簡単に浸透した。
傷は深いが単純なもの。治すのは簡単だ。
全く人間とは面倒だと思う。鬼や大蛇など、人間以外の生物であれば、この程度の傷は闘気を集中させるだけで治るというのに。もしくは魔法使いならば。
原因としては、おそらく基礎的な治癒能力の差だとは思うが。
「……なるほどな」
テレーズが片眉を寄せ、鼻息を吐き出し頷く。
「わかっていただけましたか」
「ああ、納得した」
頷きながらも、テレーズの語尾は終わっていない。発音的に、「だが」とでも続きそうで。
「ご理解いただけましたら……」
その反応に怪訝に思い、僕は続けようとするが、すぐにそのテレーズの言葉の真意に気づく。
テレーズの動作からではない。僕の背後に忍び寄るその他の気配。
たいしたものだ。意識を取り戻していたのに気づかなかった。
背後でほんのわずかな風切音が聞こえた気がする。
僕は左膝をついてしゃがみ込んでいた体勢から地面に手をついて体を回転させる。右足を伸ばしつつ上へと突き出せば、そこにはニクスキーさんへと向けて槍を振り下ろそうとしていたウェイトの手首があった。
罅が入った音がする、ウェイトの手首から。
「…………ぃ!!」
舌打ちをしつつウェイトが槍と体を引く。
僕も立ち上がり、正面から改めてみれば元気そうで、……鼻から噴き出した血の滴が石畳の上で弾けた。
「……寝てればいいのに」
「この絶好の機! たとえタレーラン団長の前とはいえ逃すわけにはいかん!!」
ウェイトの口の中から、血の臭いとは違う薬の臭いがする。
……晴帳。遅効性の気付け薬。口の中にでも仕込んでおいたのだろうか。
「貴様、貴様らもだ! 石ころ屋ニクスキーを守る者ども! 生きては帰さん!!」
「…………」
先に気づけばよかった。そうすればウェイトを改めて失神させておくなど手が打てたのに。ここへ来て失敗ばかりだ。
ウェイトが意識を取り戻し、おそらくここから弁明する。そしてテレーズは、僕の言葉よりも聖騎士であるウェイトの言葉を信じるだろう。……そもそも僕も、ニクスキーさんを弁護する言葉などないのだけれども。
しかし。
「『タレーラン団長の前とはいえ』?」
僕は嘲るように口に出す。
よく考えずとも妙な言葉だ。直接の上司ではないそうだが、それでも重役の前ではやってはいけないこと、というふうな。
口の中で舌打ちをし、ウェイトは槍を構えなおす。僕とニクスキーさんへと向けて。
「テレーズ・タレーラン団長におかれましては、どうか今しばらく目をお瞑りになられていただきたく思います。このウェイト・エゼルレッド、聖騎士に許された権限において、この者たちに罰を」
「……お前、聖騎士か」
「後ほどご説明いたします故、しばし」
「駄目だ。今説明しろ」
「ですが……!」
「そのニクスキー殿は私が眠らせた。一昼夜は目を覚まさん。時間はある。答えろ、何故このニクスキー殿を狙ったんだ?」
横から声だけで止めているテレーズに対する感情か、ウェイトの手が槍をきつく握りしめて震える。
立ち塞がる僕の体に焦点を合わせず、その先にいるニクスキーさんへと向けられた目。
ウェイトは長い瞬きをして、その目に力を込めなおしていた。
テレーズへとは目を向けず、警戒を絶やさずにウェイトは口を開いた。
「……この街にあった、石ころ屋という雑貨店をご存じでしょうか」
「その名はさっき聞いたが、知らん」
「ほんの二月ほど前まで、この街を支配していた犯罪組織です。貧民街にあった石ころ屋という雑貨屋を隠れ蓑とし、この街の暗部の権勢を恣にしてきた」
ほんのわずかにウェイトの足が前方へとずれる。含み足と呼ばれる技法。間合いを誤魔化すための。
「ひったくりや窃盗。血が流れる強盗や、税の流れを歪ませる汚職、衛兵による犯罪のもみ消し。賄賂、人攫い。その他ありとあらゆる犯罪が、元を辿ればその組織に行き着いた」
「酷い組織だが……何でそんなのが野放しになってたんだ?」
「そいつらのやり口です。既にこの街の貴族や官憲には手が伸びており、どんなにその悪行を暴こうとしても、そちらから邪魔が入る。たとえ家屋ごと人が消えても、何事もなかったことにすらされてしまう」
反吐が出る、とウェイトが呟く。
「その男、ニクスキーはその首魁の懐刀だった男。首魁の死んだ今となっては、最高幹部ともいえる存在でしょう」
ウェイトの目の焦点が僕に合う。幹部でも何でもない僕にまで追及がくると思ったが、そうではないらしい。
テレーズが、おそらく『お前は?』というような意味の視線を僕へと向ける。
両掌を胸の前でひらひらさせると、テレーズは首を傾げていた。
じりじりとウェイトの槍が発する圧力が増す。力を入れて突けば、僕の胸くらいなら貫ける位置ではないだろうか。ニクスキーさんにはまだ届かないようだが。
「石ころ屋。そんな組織があったから、この街は正義の通用しない街だった。ひったくりや窃盗犯は捕まらず、せめて盗品を取り戻そうとしても石ころ屋が流す闇の市場では行方不明。不可解な死は日常茶飯事! 衛兵も貴族も市民たちも、奴らの機嫌を損ねれば無残な骸を晒すのみ」
「…………」
「その思想は無辜の者すら汚染する。貧民街の者たちには盗みを教え、詐欺のための情報を授け、鴨を斡旋する。あのホウキという子供すら、哀れな奴らの被害者だ!」
食い入るように、ウェイトが僕を見つめている。
僕へ言っているのかと思った。だが、何か違う気がする。
誰かにその言葉を聞かせている気がする。僕ではなく、テレーズでもない。誰かに。
「タレーラン団長、ご理解ください。ここで捕縛して衛兵に引き渡そうとも、この男には何の効果もない! 誓っていいましょう、罰されもせずに解放される。数多の人を殺し、数多の人を悪の道に引きずり込み、数多の人の道を断ってきたこの男は、何の処罰もされず!!」
許せない、とウェイトが奥歯を噛みしめて鳴らす。今気がついたが、前歯が折れているらしい。
もう一度、と構え直された槍にはおそらく殺意。
「そこをどけ、カラス。正義は成されなければならない。邪悪は排さなければならない。盗みも殺人も詐欺も汚職も何一つ許してはならない。一つ一つ、正していかねばならない。それが社会を守る我ら聖騎士の、絶対正義となる唯一の道だ」
ウェイトの槍に込められた殺気は僕へと向けたものだろう。
どかなければ斬る。そんな決意がその手に感じられた。
そして。
「嫌です」
「ならば!」
僕が道を開ける気がないことを確認し、ウェイトは即座に攻撃に移った。
瞬間、僕の喉元へと突き出される槍。当たればさすがに僕も死にそうな攻撃。
一応対応しようと下から手首で弾くべく僕は半身になり手を振り上げようとしたが、その前にウェイト自体が、その首に当てたテレーズの手で宙を舞った。
受け身もとれずにウェイトはまともに背中から地面へと落ちる。おそらくきちんと受け身がとれるようにテレーズも投げたのだろうが、受け身を取らなかったウェイトは大丈夫だろうか。
咳き込むように息を荒くし、ウェイトは口の端に泡を吹く。
「王女殿下の食客への危害はさすがに看過できん。うちの団ではないが、聖騎士というならば私の命令は聞くはずだな?」
「止めるならもっと早く止めてくれませんか」
僕がテレーズに抗議すると、テレーズは鼻で笑う。
そもそも止めるべきは、ウェイトが最初に目を覚ましたとき、僕の背後から襲いかかってきたときのはずだ。
「カラス殿がやられるとは思えない」
「それはわかりませんけど」
正直今回も別に危なげはないが、それでも不測の事態はいつでも起きる。何かしらの問題があって、ウェイトの攻撃に気づかなければ僕はあのときニクスキーさん共々槍の一撃をくらって昏倒していたかもしれないのに。
「――――い」
息も絶え絶え。おそらくニクスキーさんに打ちのめされたのが効いているのではないだろうか。よくよく見れば首元にも血がつき、赤い服は目立たないが乾いた血で染まっている。服の下はおそらく痣だらけなのだろう。
そんな状態で、ウェイトは槍を杖にして立ち上がった。
同時に呟かれた言葉は不明瞭で、聞き取れなかったが。
テレーズと共にウェイトを見つめる。先ほど投げられた影響か、もはや槍を構えることも出来なさそうな疲労した姿を。
ウェイトの息が急激に切れている気がする。喘鳴音が響く。
「逃すわけには、いかない……」
「…………」
無言でテレーズが続きを促す。
「そいつは、石ころ屋は、自らたちが罪を重ねるだけでなく、その後継までも育成してきた。貧民街の子供たちに知恵を授け、盗ませ、奪わせ、騙し取らせた。そう育てられた子供たちは、成長し、良心の呵責なくそれを行うことになる」
顔を上げたウェイトは、テレーズをまっすぐに見た。
「治安維持は我らの仕事でもあるはず。現にそこにいる子供は、石ころ屋の支援を受けて生きてきた! 悪いことを悪いことと知りもせず! そんな子供たちを増やすのは! 我らにとっても看過できないことのはずでしょう!!」
言い切ってから、タレーラン団長、と呟いて縋り付くようにウェイトは彼女を見る。
テレーズといえば、ただ感情の読めない厳しい目でウェイトを見ていたが。
「誰かが、やらなければ」
最後にぽつりと呟いたウェイトの言葉は、それまでと違って、どこか寂しげに聞こえた。
「っふっざけんなよ!!」
そして一瞬静まりかえった広場に、子供の声が響く。
俯いたまま震える拳を握りしめ、それから顔を上げて地団駄を踏んだ。
「ニクスキーさんはそんな悪い人かよ!! あんたらにこんな囲まれて! いじめられるほど悪いことをしてんのかよ!!」
「そうだ!」
ウェイトはホウキの問いに即答する。全くの呵責のないまっすぐな目で。
「お前にはわかるまい……善い生き方というものを知らぬ!! それが当然となってしまったお前たちには!」
振り絞るように、掠れた声でウェイトは応える。怪我や疲労による憔悴で、もはや手は出せないようだった。
「そんなん知るかよばーか! 善い? 悪い? 知らねーよそんなもん!!」
子供特有の、キンキンと高い声。それが周囲の石壁も震わせている気がする。
「掻っ払いが悪いことなんて俺でも知ってるよ! でもさあ、俺たちだって食わなきゃ死ぬんだよ!!」
戦闘で砕けたのだろうか。足下に散らばる小さな小石。それを拾い、ホウキがウェイトに投げつける。当たっても痛くないだろう砂利のような小さな小石を、ウェイトは胸でまともに受けた。
「失敗して殺された奴だって何人も知ってる! 次は俺かもしれないって怖くて出来ない日もあった!! 俺だってそんな危ねえことなんかしたくねえよ!」
「だったらしなければいい! 罪など犯さず全うに……!」
「だったら俺たちに死ねっていうのかよ!!」
また小さな石がウェイトに当たる。
何の衝撃もないだろうその石で、ウェイトが揺れたように見えた。
「果物売ってる店に近づくだけでこそ泥だなんだのいって追い払われてさ! 落ちてた鞄を拾い上げただけで盗人だとかいってぶん殴られてさ! あんたこそ知ってんのかよ!」
「それはお前たちが……!」
「聖教会だって俺たちの上には神様がいないとかいって!」
いつの間にかホウキが涙ぐむ。
「石ころ屋だけだった」
鼻水も拭わず、そのままぽろぽろと涙をこぼしていた。
「石ころ屋だけだったんだ!!」
叫び、ホウキがニクスキーさんに駆け寄る。
そしてしゃがみ込み、肩を掴まえて揺さぶった。
「起きろ! 起きてよニクスキーさん!! 逃げて!! こんな奴らに!!」
だがニクスキーさんは眠ったように……ようにではなく眠っているのだが、目を覚まさない。ホウキが掴んだことによりバランスも崩れ、力を抜いたように地面に崩れ落ちた。
「ねえっ!! ニクスキーさん!!」
それでもまだ揺さぶり続けるホウキの姿に僕はため息をついて、その肩を叩いてどける。ホウキに睨まれたが、どうってことない。
「点穴による昏倒です。簡単に目を覚ましたりはしませんよ」
僕は指に闘気を込めてニクスキーさんの耳の下辺りを突く。先ほどテレーズが行った点穴は、これで解穴出来るはず。
僕は背後で立ち尽くしているウェイトに向けて口を開く。
「石ころ屋はグスタフさんの死でほぼ壊滅しています。犯罪者への支援も現在行ってはいない。今更ニクスキーさんを捕縛する意味はあまりないと思いますが」
モスクの話では、ニクスキーさん以外の構成員もウェイトの手にかかっているという。そちらも含めて、だが。
「……それでも」
もう一度触ってわかったが、ニクスキーさんは右腕も折れていた。それに肋骨も。これも治しておこうか。
さりげなく手を取り魔力を通す。覚醒しつつある影響だろう、先ほどよりも治癒させづらい。
振り返れば、ウェイトは恨めしげに僕を睨んでいた。
「それでも、この街は、……一つ良くなるはずだ」
「本当でしょうか?」
立ち上がり、僕は振り返る。
足下でニクスキーさんが、静かに瞼を開いた気配がした。
時間を稼ごうと思う。ニクスキーさんも意図は読んでくれるだろう。
僕が一歩足を踏み出すと、ウェイトは緊張したように唾を飲んだ。
それから深呼吸をしてウェイトも一歩踏み出してくる。テレーズは手出ししないのか、ただ黙って見ていた。
僕は手に力を込める。
ホウキの願い。『ニクスキーさんを助けて』。
叶えよう。最初、聖騎士相手の立ち回りはさすがにどうかと思ったが。
考えてみれば、今の僕はミルラ王女の私兵だ。迷惑がかかるとしたら彼女だし。
むくりと体を起こしたニクスキーさんに、ウェイトは舌打ちをする。
挑発のために僕が口角を上げると、やっとのことで槍を構えていた。
そんな僕の前に躍り出る小さな影。
ウェイトはその影を見て、眉をひそめた。
「……何のつもりだ」
両手をめいっぱい広げてホウキがウェイトの前に立ち塞がる。おそらく、僕よりもなお勇敢に。
ウェイトに対抗するように、ウェイトの足下にホウキが唾を飛ばす。
「わかってるよ。このカラスって奴に任せておけばいいってさ。あんただったら俺なんか簡単に殺せるんだろ。こんなことしても無駄だってわかってるよ。でもさ!」
口早にホウキは言い、歯を食い縛ってウェイトを見る。
「あんたは知らないっていったけどさ、一つ絶対に正しいことを知ってるよ! 世話になった人が困ってんのに、何もしないのは悪いことだろ!?」
振り返らずに、ホウキが声を張り上げる。明らかに後方に向けて。
「逃げて! ニクスキーさん早く!!」
萎えていようとも一瞬で自分を殺せるはずのウェイトから、目を逸らさず。
僕はちらりと後ろを見て、ニクスキーさんと目を合わせる。目を覚ましたニクスキーさんはホウキと僕の姿に事情を察したようで、ふと力なく笑って頷いた。
それからホウキに視線を向けて示し、唇だけで「ここは任せた」と口にする。
僕が頷くと、ニクスキーさんは静かに立ち上がる。
ウェイトが反応をし、また舌打ちをする。
それを嘲笑うかのように、ニクスキーさんの気配は背後から消え去った。
ウェイトが目を見開く。それで察したのか、ホウキが振り返りニクスキーさんの姿を探したが、当然見つからない。
僕が見てもどこにもいない。唯一目が合った雀が、「あっち」と嘴で教えてくれたが。
「……っ!」
ウェイトが槍を振り上げる。その槍を力任せに片手で振り下ろせば、石畳が弾けるようにすり鉢状のへこみに変わった。
もう一度、とウェイトが地面を叩くと、ぱらぱらと礫が飛ぶ。
槍を取り落とし、膝から崩れ、その地面を今度は拳で叩きはじめた。血混じりの礫がまた飛んできた。
何度も地面を打ち、気が済んだのかウェイトは肩で息をする。それから低い声で呟く。
「タレーラン団長……何故……貴方なら……」
成り行きを見守るように途中から腕を組んでいたテレーズが、ウェイトの言葉に両眉を上げる。
たしかに、と僕は思う。『貴方なら』の正しい続きはわからないが。
ホウキや僕はニクスキーさんを助ける気でいた。
しかしテレーズは聖騎士。それも、ニクスキーさんは大喧嘩の現行犯だ。しかもウェイトの言で、戦闘の事情もある程度知ったはず。
追えるかどうかは置いておいても、彼女も捕縛に参加するべきではなかったのだろうか。ニクスキーさんを逃がそうとした僕を叩きのめしてでも。
まさか、ミルラ王女が怖いとは言うまい。
僕とウェイトの視線がテレーズに集まる。
それでも無反応で腕を組んだまま静止していたテレーズだったが、僕らがじれったく思っているうちに口をゆっくり開いた。
「……にゃーん」
「は?」
眉を顰め、苛立つような声をウェイトが上げるが、僕も驚き思わず首を傾げる。
無表情だったテレーズは少しだけ照れるようにし、視線を背けた。
「いや、すまん。クロードのように何か小賢しいことを言おうと考えたんだが、奴のようにはいかんな。上手い言葉が思いつかなかった」
「だからといって、何故、猫……?」
僕が呟くように尋ねるが、テレーズはハハハと明るく笑ってそれを無視した。
そしてウェイトに歩み寄り、その肩を上からぽんと叩く。
「まあ、喧嘩の鎮圧は済んだし、お前らも目を覚ました奴から頭冷やして帰れよ。そういえばどこの所属だ?」
「…………第三位聖騎士団〈日輪〉所属、ウェイト・エゼルレッド」
「そうか、エーミールのところの。……あれ、〈日輪〉はミールマンに駐屯しているんじゃなかったか?」
「…………」
四つん這いになっているウェイトを、テレーズは見下ろして尋ねる。ウェイトはそれに答えられないのだろう、黙っていた。
「第三位団長からの帰還命令を無視してこの街に留まっているそうです」
「いや、帰れよ」
代わりに口にした僕の言葉に唇を尖らせ、またテレーズが同じ言葉を口にする。今度は場所が違うだろうが。
動かず地面に手を突いたまま握りしめるウェイト。それを見ながら、テレーズはため息をついた。
「……私にはどっちの言ってることもよくわからん。よくわからんが、あいつは悪い奴なんだろう? だったらあの男のことなら衛兵に任せておけ」
「…………」
ウェイトは無視するように黙ったまま。
それでもふらりと立ち上がり、息切れをしつつ歩き出す。覚束ない足取りは、どこかの怪我が原因というわけではあるまい。
「私は、失礼いたします。あの男を追わねば」
テレーズの言葉は無視して、彼女に視線を合わせない。テレーズはそれを見て、またため息をついた。
「そのニクスキー殿からの伝言だ」
テレーズの言葉に今度はウェイトがぴたりと静止する。何を言うのかと。
テレーズはそれを見て、眉を潜めながら唇を尖らせた。
「『石ころ屋の遺産は、自分で探せ』とさ」
「…………出来るわけが……」
何かを言いかけて、ウェイトが首を横に振る。
そして歩き出す。まだ幽鬼のような足取りで。
その後ろ姿に、また小石が当たる。誰も反応せず、ウェイトも立ち止まらなかった。
もう一つ、と小石を投げるのはホウキだった。ウェイトのではないが、僕とテレーズの注目がそちらを向いたのがわかったのだろう。ばつが悪そうに一度地面を踏んで見る。
「正義とか悪とか……よくわかんねえよ」
更にもう一つ投げた小石は、石畳で弾かれていた。
その音に景気づけされたのだろう。ホウキは顔を上げる。それから大きな声で、叫ぶように口を開く。
「よくわかんねえけどさ! そんなよくわかんねえもんよりも!!」
徐々に大きくなっていく声量。驚き雀たちの中にも飛び立つ者も出始めた。
「腹一杯飯食わせてくれる人が! 一番偉いに決まってんだろうが!!!!」
顔を真っ赤にして叫び終わったホウキは、大きな声で泣き出す。
ウェイトにも間違いなく聞こえた声。どこかにいるニクスキーさんにも、きっと。
「仲間を置いてくなよな」
テレーズが呟き広場を見渡す。倒れている人間たちはおそらくニクスキーさんに気絶させられたのだろうが、未だ微動だにしていない。息があるのは胸の上下動から確認済みだ。
しかし泣く子は強い。
どうしたものか。
僕とテレーズは顔を見合わせ、泣き止むまでその場から動けなかった。




