閑話:大理石
ハイロ注意
どうやら戦争が始まるらしい。
ハイロは重たい鞄を担ぎ直しながらそう述懐する。
どうやら戦争が始まるらしい。
街並みを見てもそうだ。目の前を歩く金属製の鎧姿の大柄な男。もしくは今道を横切る黒焦げたような外套を身に纏う女。彼らは皆一様に副都イラインの北を目指し、我こそはと戦場に駆けつけるべく準備を始めている。
戦争など自分には関係ないことだ。
戦う術も持たず、それ以外のおよそ戦いに出る技能を持たないハイロはそう内心呟いた。
その斜めがけした鞄に入っている書類の束は、五番街を中心とした工房と、周囲の商店の商品のやりとりに必要な重要なもの。その商品の内容は、戦争の気運高まるうちにどんどんと種類を変化させてきた。それを知っていてもなお、ハイロの考えは変わらなかった。
「こんちわっす!」
いつものように五番街のとある木工工房に入り、大きな声で挨拶をする。頭を下げつつ叫ばれるその挨拶を鬱陶しいと思うものも大勢いたが、何よりその元気の良さは皆に親しまれる要因の一つとなっていた。
「おう、ハイロ。釘が足んねえ。四号釘を二百本、あと、犬釘が二百本だ」
「うぃっす。お願いします」
持ってきていた注文書を引っ張り出し、ハイロは親方に差し出す。それを見て親方は溜息をついた。
「いいかげん字を覚えねえかな」
「物覚えが悪いんで」
へへへ、と笑うハイロにそれ以上親方は何も言わず、注文書に注文先と要望する物品を記入していく。本当ならばここにハイロが記入し、親方がただ名前だけを書けばいいものだったのだが。
「午後までにほしい」
「わかりましたぁ!」
ならば、いつもの御用聞きの順路を少々変えて、金属鍛冶の工房を早く回るように調整せねば。
「失礼します」と呟くように言いながら、ハイロは工房を出て先を急ぐ。
書類がはみ出るほど詰め込まれた鞄は重かったが、働き始めてから既に五年以上経つ。
慣れたものだ。重さなどほとんど感じることもなく、ハイロは石畳の上を足音をほとんど立てずに駆けていった。
調整した順路を、いつものようになぞるハイロ。
いつもは順番通りに回り、訪ねる時間もおおよそ決まっているものだったが、ハイロも工房も特に問題はない。工房も客先の要望によって時間が前後するのには慣れたものだし、そのために最適な経路を適宜選択することもイラインの土地勘あるハイロには簡単なものだ。
早歩きで立ち止まることもない足。
普段は、普通ならば。
だがハイロは、とある九番街に近い道端で、その足を一旦止めかけた。
すれ違おうとしているのは、黒い外套を身に纏った人物。ハイロは、その外套が竜の鱗という希少で自分には手が届かないもので出来ていることを知っている。
目の前にいたのは、自分の過去を知る数少ない人物で、そして交友を断った友人。
探索者をやっている、魔法使いカラス。驚きに、その顔を直視してしまった。
「…………」
名前を口にしそうになり、もごもごと口の中だけに押し留める。
彼も、別に自分に会いに来たのではないだろう。たまたま、通りがかったのだろう。ハイロはそう思い直し、先を急ぐべく足を踏み出そうとする。
だが踏み出せない。足が勝手に立ち止まろうとするとハイロは感じた。
まるで夢の中で走ろうとしているかのように、ふわふわとした感触で足が前に出ない。足踏みをするように足だけを動かし身体を止めたが、そんなことをする必要はない、と頭では念じていた。
友人だ。
本来ならば、笑顔を浮かべて挨拶でもするところだろう。
お互いにどこかで用事があるならば、簡単に世間話でもして別れるところだろう。
だがハイロはそれが出来ない。彼とは既に交友を断っている。
交友を断ったのはこちらの問題だ。
道で会っても話しかけるな、と言ったのは自分だ。
ならば、何をしているのだろうかと自分を叱咤する。視線を外し前を見たが、その視界の端に入るカラスの姿がぼんやりと大きく見える。
息が荒くなった気がする。そう思いながらも、懸命に小幅で足を踏み出す。
また一歩カラスが近づいてくる。こちらを見ずに。こちらなど、全く眼中にないように。
軽快に進んでいた足を鈍重な歩みに変えて、ハイロも足を止めないように懸命に動かす。
その横を、一瞥することもなくカラスが通り過ぎていく。足音なく、衣擦れの音もなく。
たしかに通り過ぎていった。充分そう思えるほどの時間をおいて、ハイロが振り返る。その先に、小さくカラスの背中があった。
そしてようやく、ハイロは、詰めていた息を吐きだした。
「こんちゃっす」
「あら、どうも」
いつものように『麗人の家』と呼ばれる工房にも顔を出す。親友の勤める工房。そこでいつものように裏の通用口から中へと声をかければ、いつもとは違う人物が顔を出す。
この工房の親方である彼、または彼女。女性らしさ溢れる仕草を見せ、体型も化粧もまさに女性そのもので、遠目からみればまさしく女性そのものの親方。だがハイロは知っている。近くで見ればわかる。明らかな男性だと。
親方はハイロを見て、一瞬悩んでからその艶のある唇を開く。
「リコちゃんなら今いないわよ」
「あ、いえ、リコに会いに来たんじゃなくて、仕事っすよ」
「……あなた、仕事なんてしてたのねぇ……」
頬に片手を当てて、しみじみと親方が呟く。もちろんそれは冗談だ。それを双方共にわかっているからこそ通じる類いの。
「ちょっと別の客先へ寄ったんで、いつもと時間は違いますけど。とりあえず、進捗伺いっすね。どうですか?」
この工房には、ハイロの勤める店を通じ、依頼が出ていた。
簡単に言えばそれは、兵士たちが使う物資の大量注文だ。
「陣幕用の布なんてとっくに出来てるわよ。むしろ早く引き取りに来てくれない? 倉庫の中で邪魔で邪魔で仕方ないわ」
溜息をついた親方に、ぎくりとハイロは肩を震わせる。ハイロ自身が叱られているわけでもないが、叱責されているように感じ。
「そうね。あとは、弓懸けは注文数の七割方終わりってところかしら。包帯や三角巾なんかはあとちょっと。明日の午前には全部揃う予定よ」
「じゃ、明日の昼には引き取りにこさせますんで」
「そうしてちょうだい」
きりりとした眉を歪めて、苦々しげに親方は呟く。
実際問題、今回の仕事には色々と不満があった。
大量注文自体はありがたい。支払いが国家ということで、支払いの不安もない。けれどもそのせいで、倉庫が埋まっていき、職人たちは本来の仕事が出来ない。
いつもと違う質の布を使う包帯などは特に、織り方自体をいつもの布と変えなければならない。それが出来る技能を持つ職人は限られ、さらにその数人の職人は工房の中でも高い技能を持つ者たちだった。
そのせいで親方も、いつもはしない面倒な仕事をしなければいけなかった。地味で面倒な仕事をしたくないからこそ、独立し部下を得て、共同といえども自分の工房を持ったというのに。
愚痴を吐くように親方は溜息をつく。
だが、わかっている。この仕事はこれから前線に立つ兵士たちを支える重要な仕事だ。この国で暮らし、この街で店を持っている以上、応えるのは当然のことだ。親方としても吝かではない。
「私だってお洒落な服だけ作ってたいのに。本当に、戦争って嫌ね」
「……そっすね」
親方の不満の原因をハイロは知らない。戦争が嫌だ、とも思っていない。
けれども否定も出来ずに、ただハイロは肯定を返した。
「じゃ、俺まだ回らなくちゃいけないところあるんで」
「そ。じゃあね」
そしてハイロは気を取り直し、親方に別れの挨拶をする。
それから通用口を出て、周囲の道を確認する。大丈夫、まだリコは来ていない。
中に向き直り、親方に頭を下げる。
「ではまたよろしくお願いします」
リコに会わずに済んだ。
その事実に、ハイロは自分が安堵するのを如実に感じた。
ハイロの仕事は夕には終わる。多くの工房もその日の営業を終了し、街中の物流も一旦止まる。その物流の一端を担うハイロも、その時間はお役御免だ。
「乾杯!」
誰ともなく、木製の小さな樽を掲げ、その中の液体を喉に流し込む。
それはほぼ毎夜、どこかの酒場で行われるいつもの行事だ。ハイロも含め、工房や商店の下っ端の人間たちが集まり、前後不覚になるまで酔う酒盛り。
仕事の疲れを押し流すために。仕事の不満を酒で散らすために。
夕食も兼ねてほとんど毎日行われる酒宴は、彼らの少ない給料を節約する知恵でもあった。大皿で頼む料理は同じ人数分でも小皿で頼むよりも安くなる。それを狙って行うというのも当初の目的だ。もちろんそれは、増えていく酒量のせいで無駄にもなっていたが。
今回の参加者は五人。ハイロもその一人として安い酒をがぶがぶと飲む。
責任ある仕事として高給取りのモスクや、今や一番街どころか国中の貴族からも注文が来るということで懐に余裕のあるリコには不要なこの酒宴。参加するのもその三人の中では彼だけだ。
「こうさ、馬をずらっと並べてさ、何人かで蹄鉄打ってくんだよ、蹄鉄」
参加者たちの話題はもともとそう多くはない。同じような生活。同じ社会階層。同じように職場では下っ端で、いつも同じような話が続く。
だがそれでもよかった。
彼らにとっては、不満さえ共有出来ればいいのだ。不満や愚痴を共有し、解決出来ずとも結束する。それさえ出来れば何も問題はない。
「先輩がさ、それでカンカン打ってくんだけど、わかる? 俺の仕事ってさ、まだ何もしてない蹄鉄を先輩に渡すだけなんだよ。ふざけんなって話だよ。俺だって出来んのに、お前にはまだ早いってさ」
鍛冶師の見習いである青年が酒の杯を机に打ち付ける。
「見て覚えろってったって、釘打つだけじゃん。あとは……焼き付けとか? するけど、あんなん簡単じゃん」
「うわぁ……、それあれじゃねえの? お前が出来るからって先輩に嫌がらせされてんじゃねえの?」
「だよなぁ」
仲間内の擁護に機嫌をよくした鍛冶師見習いは、肴の鮭の酒浸しを囓る。キュッキュッという独特の歯ごたえに、舌鼓を打った。
「いや、あれは……」
「あん?」
ハイロは反論しようとする。
装蹄の現場は、以前工房を訪れたときにハイロも見たことがある。
もっともその時には、一頭の馬に丁寧に装蹄をする現場だったが。
「ほら、あの他にもやることあるんじゃねえ? 蹄上手く削ったりとか、前のを綺麗に外したりとか……」
「そんなん適当にやれば出来るもんだよ。俺だって」
「やったことあんのか?」
口の中を湿らせるように、ハイロは酒を一口含む。どうも以前見た記憶を掘り起こせば、ハイロにはそうは見えなかったものだ。
蹄鉄を固定している数本の釘を金槌で起こし、外してから蹄を削り、綺麗になったところに新しい蹄鉄を調整してから熱して押しつける。それから歪んだ形をまた微調整して蹄につける。
どう見ても、簡単には見えなかったもの。それを出来るともなれば、羨ましさすら感じるという思いだった。
だが鍛冶師見習いは目を逸らす。やれば出来ると彼は信じている。だが、やったことはない。親方に、先輩に許可がもらえず。
「……ないけど、出来るだろ?」
「いや俺は何とも言えないけど……」
聞き返されてハイロも濁す。
そして、後悔した。『そうだ』と一言同意すればよかったのだ。
鍛冶師見習いは職場で冷遇されていて、それは立場に不相応な能力があるからだ。そうだ、その通りだと同意すれば、それで話は済んだのだ。
自分もその渦の中に入れたのだ。
駄目だ。
ハイロは酒を一気に喉の奥に流し込む。
このままでは、駄目だ。彼らは何もおかしくはない。おかしいのは自分と世界で、そして彼らも含めた自分たちは可哀想な境遇に置かれているのだ。
そうでなければ。
そうでなければならないのだ。
流し込まれた酒精に視界が曲がる。店員に向かい酒を求め、会話へと戻る。
耳から入る音までもが歪み、それこそ正しい世界なのだと確信出来た。
「俺んところの供出品なんか俺から見ても酷いもんだぜ」
「……そーなんすか……?」
目が据わりかけたハイロが合いの手を入れる。
もっとも、その話題で出るであろう話はハイロは知っていた。
石工の見習いである彼の工場から供出される石材。それを納入されたのはハイロからしても知己であるモスクだ。
そして納入されたモスクがそれを誉めていたのも知っている。
「そーそー。石を真っ直ぐに割ることも出来ねーでやんの」
「…………」
それは違う、とまたハイロは言いかけた。供出品の石材は特殊な積み方をするために作られる特注品で、モスクの設計図通りの品だ。通常直方体にする石を、わざとほんの僅かに歪んだ状態で作り、そしてほとんど誤差のない仕上がり。それはその工房の高い技術力を示しており、モスク曰く、自分で作った方が早いと思っていたがそれは間違いだった、と。
だがその言葉もすんでで納める。
一応は倫理上、そして目の前の見習いを否定も出来ず。
代わりに、『聞かなかったのか』と疑問を口にしようとしてそれもやめた。
どうしてそういう形に割っているのか。どうしてそういうことをするのか。そういうことを、作っている職人に聞けば教えてくれたかもしれないのに。
それはモスクが数年前通った道だったのに。
ハイロが見ている景色が溶けるように歪んでいく。
強い酒を三杯も飲めばこうなる。いつもこうだ、とどこかで安心して見ている自分がいる。そうだ、こうしていればそれで済む。
「手先が鈍ってんだよ。やっぱ親方たちも歳だしなー。これからは俺たちの時代? 的な?」
「頭の固い奴らは駄目だよ。俺が親方になったら、もっと見習いにも優しくしてやりてえ」
「お前が親方になるって。何十年先だよ」
ゲラゲラと誰かが笑う。
その声に応えて、ハイロも無理矢理口角を上げた。
自分から話題を出すこともなく、ハイロは酒宴をやりすごそうとする。
それでも嫌なわけではない。毎晩、この空気の中で過ごそうと思えるくらいには。
その温かい空気、雰囲気が自分を包み込む。
ここでなら、誰からも傷つけられない。そんな気がする。
リコもモスクももう遠くに行ってしまった。そしてカラスも。
皆、自分を置いて遠くへ飛んでいってしまった。
ここが自分の最後の居場所なのだ。
目の前にいる、料理人の追い回しの名前は何だっただろうか。そんなことすら思い出せない今でも、彼らはきっと仲間なのだと思う。
彼らと馬鹿話をして、そうしてきっと自分は上手く生きていく。
「そういやさ、あの、ほら、カラスって探索者いるじゃん? あいつ、イラインに戻ってきたのって知ってる?」
「知ってる知ってる。なんか昨日だかに、この街にまた戻ってきて早々になんかやったらしいぜ」
「なんか?」
知っている、と顔も見えない目の前の男にハイロは内心同意する。
なにせ、昼間に会っている。
いいや、会ったというわけではない。見た。
「なんか……北の兵営で同じ探索者をぶん殴ったとか」
「うわ。怖え」
石工見習いが肩を震わせる。その震えを抑えるように大きく一口酒を含んだ。
「その探索者……何したんだ?」
回らない呂律を懸命に回し、ハイロが話題に加わろうとする。あくまでも知らない顔で。あくまでも、知らない振りで。
鍛冶師見習いは料理で汚れた口を拭いハイロに目だけを向ける。
「わかんねえけど。治療院が大騒ぎになったってんだからひでえことしたんだろうな」
「ふうん」
実際には鍛冶師見習いの表現は違う。
大騒ぎになったのではない。大騒ぎをしたのだ。その探索者が。
しかし噂話は広まり変わる。大抵はより面白く、より大げさな方へと。
「俺はカラスがその探索者から何かちょろまかしたって聞いたけど」
追い回しが追随し、うろ覚えの噂を繰り返す。それもまた、噂の変わる一要因だ。
「まじで?」
「店に食いに来てた客が見てたらしいよ。何か旗? みたいなもんを取り合ってたとか」
「何でそんなもんを」
「知らねえ」
益体もない話。とりとめもなくカラスの悪行に関する推測は重ねられていく。
「大体、なんでイラインに戻ってきたんだろうな」
「人殺して逃げてきたとかありそうじゃねえ?」
そしてその推測に意味はない。
楽しければいい。武勇に優れ、眉目も優れ、本草学という学問に精通しているという彼が、とにかく悪者であれば。
「でこれからまた人殺し志願かよ。うわ」
「それで金もらえるんだから楽だよな。俺金もらってもそんなん無理だわ。やりたくねえもん」
とにかく、善良でひたむきで懸命に日々を生きている自分たちよりも下等な存在であれば。
ハイロは大理石のように溶けた景色の中で、その話題に懸命に同意しようとする。
そして同意しきれず、たまらず席を立った。
「ちょっと便所」
「おう。いっぱい出してこいよー」
誰かが言った冗談に、ゲラゲラとまた笑い声が響く。それにもハイロは薄ら笑いで答える。
厠へ入り、ハイロは汲み取り式の穴へと胃の内容物を吐き出した。
涙と鼻水と胃液と。それと同時になにか大切なものが体から出ていく気がする。
一息をついて、息を荒くし鼻水を袖で拭う。
その耳に、遠くで仲間たちの笑い声が響いた。
ここが自分の最後の居場所なのだ。
目の前にいる者の顔すらわからない。しかし彼らはきっと仲間なのだと思う。
彼らと馬鹿話をして、そうしてきっと自分は上手く生きていく。
リコとカラスにモスク。仲間だった。
全員どこかへ行ってしまえばいいのだ。
ここが俺の最後の居場所だ。それを守るためならば、いくらでも今の仲間たちの話に頷こう。
これでいいのだ。
彼らに混ざり、堪え忍んでいればただ一切は過ぎていく。
魔法の力もなく、器用さもなく、頭の良さもない自分に出来るただ一つのこと。
これでいいのだ。
これで。




