意に沿い
僕は歩く。まず目指すはスティーブンの屋敷。
そこから探索ギルドを経由し、貧民街へと向かえばいいだろう。上手く辿れば昼までには終わる話。
大通りを歩く人通りはやはりまだ多い。
まるで戦争などないような、とは言わない。歩く人間は鎧を身につけた『いかにも』な人間たちが多いし、前に比べると子供が出歩いている数は減ったと思う。
だがそれでも一般人はまだまだ見かけるし、悲壮感など感じさせない仕草で普通な生活をしている。内心はどうだか知らないが、彼らは逃げないのだろうか。
よく考えたら、ササメもそうだ。昨日ササメは、暢気にも戦争後の食事の予約を入れようとしていた。正確に言えば、一月後には普通に食事が出来るかのような話しぶりだった。
この国の戦争前後の空気は未経験だが、こういうものなのだろうか。
街は今普通に動いている。武器屋などでの戦時特需はあるようだが、流通などが止まることもなく、商店の商品棚は以前と変わらないように見える。
……まあ、僕が、逆に活気づくムジカルの空気しか知らないだけなのだが。
飲み水代わりに買った大きなオレンジのような果実を皮ごと囓る。
その横を、御用聞きらしい、灰色の髪の青年が駆けていく。肩にかけた鞄から、パンパンに詰められた書類の束が溢れそうになっていた。
「………ぁ…」
何故だか一度立ち止まりかけた彼と目が合いそうになったが、僕はそれを無視した。
ここに来るのは四度目だろうか。
一度目はレシッドと一緒に、二度目はバーンと腕試しをしたとき。三度目は、スティーブンに呼び出されたとき。そして今日、四度目は僕の用事で来たわけだが。
練武場が併設された立派な屋敷。高い塀はやはり金持ちの証といえるような設えで、門から見える家屋までの道のりは石畳が敷設されている。
以前そこで掃除をしていたのは次期当主とされているアヒル口の礼儀正しい男、クリス・ウィートンだった。今にして思えば次期当主がやる仕事とも思えないが。
そしてそこで今汗を垂らしながら埃を掃いて集めているのは、金髪の女性だった。
もちろん、僕は名前も知らない女性。会ったのは、ただ二回目の。
「ごめんください」
僕は敷地の外から、十歩以上離れたその女性に声をかける。
短くウェーブのかかった金の髪。初夏の強い光を弾いて天使の輪を作っていた綺麗な髪が揺れた。
「…………な、なんでしょうか」
おずおずと返される聞き覚えが無いわけでもない声。……いいや、聞き覚えはないはずだ。初対面で、僕たちは言葉を交わしてなどいないのだから。
僕は努めて明るく返す。別に彼女に用があるわけではない。
「スティーブン・ラチャンス先生にお取り次ぎを願えますか。この度の戦争のことで、カラスが会いに来たと」
「は、はぁ……」
戸惑うように彼女は応えて、思い出したかのように「どうぞ」と辿々しく中を指し示した。
「初めてじゃのう。カラス殿から訪ねてくるとは」
スティーブンとはそれほど待たずに会うことが出来た。
先ほど変わりなかった街だが、練武場の方は大分変わっていたらしい。簡単に言えば、閑散としている。
当然だろう。月野流の門下生は水天流と同じく騎士や衛兵が多い。本来の仕事が待っているし、そして騎士や衛兵でなくとも、その力を振るうために今は英気を養っている。武術は使うべくして学ぶもの。武術などを単なる自己研鑽のために学ぶ人間など、そう多くはないのだ。
「ここで会うこと自体二度目ですし、当然でしょう」
「そうじゃな」
板の間。互いにあぐらをかいて、僕らは向かい合う。以前とは違い、横に誰もいない。完全に二人きりだが、ちょこちょこと年嵩の女中が顔を見せるのであまり二人きりという気はしなかった。
横に置かれた湯飲みに入っているのは熱い黄茶。ザブロック家や他の家でも供されたような高級そうな茶葉。……やはり、一応大御所というべきなのだろうか。
喉を湿らせるようにスティーブンはその茶を一口含んだ。
「またイラインを離れていたと聞いたが、息災だったようじゃな」
「ええ。少し王都へ行ってきましたが……」
「このイラインも副都とはいえ、王都には負けるじゃろ。楽しかったか?」
「仕事なのであまり出歩きもしませんでしたが……まあ楽しかったですね」
絆されるところだった、というのは言い過ぎだが、まあきっと良いところだったと思う。良いところというのも、王城内の、ごく限られた一部のみに適用される言葉でもあるのだが。
「この街よりは良いところだったと思いますよ。どうも僕はこの街に嫌われているようなので」
僕の言葉に、スティーブンは「あー」と納得の声を吐く。
「カラス殿に殴り飛ばされた探索者が、衛兵に訴えようとしていたとかいうのは聞いたわ。まったく命知らずなことをする輩もいるもんじゃな」
「そちらは僕は知りませんが、そんなことが」
何を考えているのだろうか。腕っ節の強さを売りにしている探索者が、自分が負けたと訴え出る。……馬鹿なのではないだろうか。
しかし。
「なら僕は犯罪者ですね」
「どうじゃろうな? なんでも、詐欺の証拠を取り上げようとしたとかそういう話じゃったか? 現場にいた門下生から話半分に聞いていたからよくわからんけども」
噂は広まっているということか。
僕は何か悪いことをして、その悪事を暴こうとした正義のヒーローを殴り飛ばして怪我をさせたと。
……これで本当は衛兵に訴えていない、ということならば更に笑えることだけど。
本当に信じなかったのならば訴え出るだろう。
だが僕の言い分を信じているのならば訴えられないし、もしくは調べられると困るなら訴えない。何か、後ろめたいことがあれば。
「僕の今の身分を証明する旗を、取り上げられそうになったので抵抗しただけです」
「旗?」
「ええ。今の僕の所属先の」
僕はスティーブンの前で刺繍が見えるように旗を広げる。
スティーブンも知らないだろうが。
「咥えているのは蕗かのう? それと……鷹?」
「鷲です。王家に連なる人物しか使えない動物の」
スティーブンは目を細める。王家、というその言葉に反応して。疑わしい目つきではない。その目つきに、あの殴り飛ばした探索者と違うものを感じた。
「第一王女、ミルラ・エッセン王女殿下の旗」
「……王女殿下か。なるほどのう」
伝わった、と確信して僕は旗をまた綺麗に畳む。
しかし、ミルラ王女もおおざっぱだと思う。身分を示すものとして、もう少し小さなものは用意出来なかったのだろうか。徽章とか。
「して、戦争のことというのは? それについてのことかの?」
そして話が早い。スティーブンの言葉に僕は頷く。
「……今少し、戦力を募集しておりまして」
「…………」
何を言うのか、とスティーブンの片眉が上がる。それから腕を組んで、やや前屈みになった。
「簡単に言いますと、僕と一緒に戦ってもらいたいんです。天下無双と名高いスティーブン・ラチャンス殿に」
「ほぅ……」
「おそらく月野流にも要請が出ていることでしょう。でもそこで敢えて、僕と共に。そうすれば、月野流の名を売る舞台が用意出来ます」
「カラス殿と共にか、いいのう」
ふふ、とスティーブンが口元の髭を揺らす。腕を解き、のけぞるように身体を伸ばした。
「懐かしいのう。戦場で幾多の敵を蹴散らし、叩っ切り、のし上がったあの戦場。もしあの場にもう一度出られるのなら、今度はもっと上手くやってやるわいな。じゃが」
またスティーブンは湯飲みを手に取る。それほど熱くもないのに、息を吹いて冷ましていた。
「じゃが、申し訳ないな。そもそも儂は戦場には出んよ。月野流道場から正式に出るのは内弟子の三人じゃ」
「クリスさんたち、ですか。スティーブン殿は?」
「儂は道場を守るという大事な役目がある。ここより帰る場所のない者たちも大勢いるでな」
「……少々意外ですね。役割が逆かなと」
「儂を何歳じゃと思うとる。もう八十を数える老体じゃぞ。戦場なんぞもう立つことは出来んじゃろ」
「それこそ、意外かなと」
むしろ率先して戦場に立つ人間だと思っていた。
僕の話が断られることは予想の範疇だったが、そちらは。
「たしかに老体かもしれませんが」
「一応目上じゃし、否定しとくれんかのう」
「だってご自分で仰いましたし」
「……ああ、うん、そうじゃな」
まだまだ若い、とはお世辞にも言えまい。たしかにスティーブンは老人だ。
僕の言葉に納得したようにスティーブンは苦笑いを返す。いや、こういう話をするためにきたわけではないのだが。
「老体といえども、充分な力があると思ってここまで来ました。今回の戦場でも、先陣に立って戦うのかと」
僕の印象では、スティーブンの腕前は演武で手合わせしたクロード以上だ。クロードも本気ではなかったということを考えた上でも、クロードとスティーブンが仮に戦えばスティーブンに軍配が上がりそうだと思えるほど。
一月と少し前にスティーブンと手合わせした僕がそう思えるのだ。ならば老いは理由にはなるまい。
「月野流の未来を背負って立つのは若いもんじゃからな。少しは奴らも働かせんといかん」
「もう背負うのはやめたんですか?」
「言ったじゃろ。もうこの老いぼれは、後ろから見てるだけが精一杯じゃよ」
弱気な一言、とも思う。だがスティーブンはニカと笑い、その笑顔には負の感情は見えなかった。
「この戦争が終わったら、次代をクリスに譲ろうと考えとる。そうすれば儂は楽隠居の身じゃな。それからなら、カラス殿のお誘いにも乗ったんじゃが」
「まだまだ現役でやれるでしょう」
「おう、あと何年かはな」
八十余歳までは現役でいる。……正直、クロードやテレーズを考えると少々複雑な思いだが。スヴェンに至っては三百年以上の現役なのだし。
「箔をつけてやらんといかんのじゃよ。二代目の悲しさ、初代の儂は戦争で活躍したという逸話がある、じゃが奴には従軍経験もなければ武勇伝もない。儂が戦場でまた活躍してしまえば、何が何やらわからなくなるじゃろう」
じゃから、とスティーブンは続ける。
「人生にはその年代なりの楽しみがある、とはリドニックでプリシラ殿に言われたことじゃが。きっと儂の今の楽しみなんじゃろうな。儂が芽吹かせた種、それを次の奴らがどう大きく育てるのか、それが今の一番の楽しみじゃて」
「…………」
僕は自分の分の黄茶を口にして間を持たせる。
まるで、人生が終わる瀬戸際のような話。枯れた話、という風にしか思えないのは、僕の人生がまだそこに至っていないからなのだろうか。
「この年になって今更、ようやくリドニックで気付いたんじゃ。あの、メルティ殿処刑の日。儂はあの日、きっと答えを得た」
「答え?」
「儂はもうすぐ死ぬじゃろう。あと十何年か、もしかすると、数年も待たずに。そのことは、それはそれは怖くて堪らない。『老い』が、憎くて憎くて堪らない」
スティーブンが目を伏せどこか遠くへ思いを馳せる。きっとそれもまだ、僕が知らない感覚。
「じゃがな、死ぬのが怖くない者もいると知った。自分が死ぬことを知っていながらも、そのばかでかい何かに押し潰されず、死を恐れず受け入れることが出来る者がいる。次代のために」
リドニックと言われたからだろうか。僕はその言葉に、何故だか白波に飲まれるアブラムを思い出した。
グーゼルと僕を罠にかけ、諦め、その最期に年老いて笑顔で死んでいった老人。白波に攫われ、月へと到着したときには既に満足げに事切れていたという彼の姿を。
多分、スティーブンが思い浮かべている人物とは違う。
「儂はな、そんな尊敬出来る人間になりたいんじゃよ。じゃから、今回戦場に出るわけにはいかん。次代を信じ、見守れるようになりたいんじゃ」
「……そうですか」
僕としてはあまり納得のいかない理由。
だが、無理強いは出来ない。命の関わる場に出すということを考えれば。
スティーブンにもスティーブンの理由があるということだろう、と理解しよう。
「なら、残念ですね。〈不触銀〉スティーブン・ラチャンス。味方になってくれればこれ以上に心強い人もいないのに」
「すまんの。……なら、うちの若いのにいかせようか?」
諦めた僕に、冗談交じりにスティーブンは言う。
だが僕はその言葉に、真面目に首を横に振った。
「いいえ。挑んでいただこうとしたのはムジカルが誇る五英将の首。月野流二代目の腕前は疑うべくもないものですが、僕が責任を取れるのはスティーブン殿の命だけです」
「辛辣じゃのう」
スティーブンは笑う。もとより本気のつもりもなかったらしい。
クリス・ウィートンの正しい腕前は知らない。月野流からは内弟子の三人が参加するということは、おそらく残るはエースとバーン。ここでアブラムの本を受け取ったときにいた三人だろう。彼ら全員の腕前が、スティーブン以上だとは思えない。……そういうところを、今回の戦争で彼らは払拭しようとしているのだろうが。
「なんにせよ頑張ってほしいものじゃな。カラス殿が出れば千人力、エッセンの負けはあるまい」
「どうでしょうかね。負けさせるつもりはありませんけど」
「ムジカルに負けた国は悲惨と聞く。……儂はこのイラインもそうなってほしくはない」
「…………」
沈痛な面持ちでスティーブンは言う。僕はその言葉に、同意出来なかったが。
「少なくともムジカルでは、非戦闘員はすぐさま内地へ退去します。その程度しないこの街の人間たちは、一度くらい教訓を得てもいいと思いますけどね」
ムジカルには負けさせない。この街を蹂躙はさせない。
けれども、それくらい一度体験してみてはどうだろうか。少なくともムジカルは敗戦国の人間を積極的に殺そうとはしない国だ。物は接収され、人は奴隷と変えられるが。
スティーブンは怒っているわけではないが、何となく残念そうに笑った。
「スティーブン殿の言うとおり、悲惨なことにはなるでしょう。でも、悲惨なことになりたくなければ逃げればいいのに」
「カラス殿は逃げられるからのう」
腹立ち紛れのように何かを言おうとしていた僕。その言葉を遮り、スティーブンは諭すように溜息をつく。
「みんな逃げられないから逃げないだけだと?」
「……皆、この街で暮らす者たちはそれぞれに守るものを持っている。家族に家、自分の店、農地。それを考えれば、ここを離れることこそ出来んもんじゃよ」
膝を叩き、スティーブンは拍子を取る。
「儂とて同じじゃ。儂も、この道場を守るためにここに残ろうと考えとる……言われてみれば変なもんじゃな。こんな建物なんぞなくとも稽古は出来るのに」
黄茶を飲みきり、スティーブンは手を叩く。
「おおい、誰ぞ!」
すぐに女中が入り口の引き戸を引いて現れた。
その年嵩の女中にスティーブンは湯飲みを示す。
「新しい茶を入れてくれんかのう」
そちらの分も、とスティーブンは僕の分の湯飲みもさりげなく指さす。しかし僕はその湯飲みを上から掴むように湯気を遮る。
「おかまいなく。もう、そろそろお暇致しますので」
いい時分だろう。スティーブンの勧誘は出来なかった。ならば、次へと行かなければ。
そう思い口にした僕の言葉に、スティーブンは力なく「そうか」と言った。
女中に見送られ、僕はスティーブン邸を後にする。
急ぐようだが仕方ない。思うとおりに進んでいない以上、少々焦るべきときだ。
レシッドを呼び出すべく探索ギルドを経由し、その後予定通り僕は貧民街に到着する。
そして貧民街に到着し、僕はモスクの『貧民街じゃなくなりつつあるところ』という言葉の意味を知った。
「…………」
モスクの作った壁は健在だ。十二番街を越えて、分厚い城壁の向こう。
そこには雑多で、劣悪な環境の住居が乱立していたはずだった。
半壊した家屋は白い布で拙く修繕され、道には汚物やゴミなどが散乱している。住民たちは息を潜めてその陰に暮らし、呻き声や叫び声がいつでもどこかから聞こえている。そんな場所だった、と思う。
モスクの設計し、敷設した石畳。その固い感触を足の裏で感じながら、僕は歩を進める。
貧民街、にきたつもりだったが。
壁を越えて、まず目に入ったのは更地となった土地。細かな砂利と湿った土が混ざった地面には、家屋だった名残がどことなく残っている。
もちろん、全てではない。だが、まるで道幅が広くなるように、道に沿った家屋が削られるようになくなっていた。
そしてそれは、今も。
「やめえ、やめてくれぇ!!」
「どけっ!!」
視線の先、衛兵のような……まさしく多分衛兵なのだが、所々金属が入る革の鎧を着た男たち七人ほどが、家屋の壁を引き剥がし崩す。
その様を止めようとする痩せた男。栄養状態も悪く、歯も抜けて、衣服の片袖が破けたままの。
男は衛兵に殴り飛ばされるように突き飛ばされ、口の中を切ったようで唇の端から血を垂らしていた。
男に構わず、貧民街らしい、粗悪な作りの壁が衛兵に引き倒される。その度に、めきめきと薄い木の板が割れた音が響く。中にある調度品……粗末なベッドと部屋干しした下着が露出し、それすらも衛兵たちが破壊し、取り去ってゆく。
石突きで床を叩き、破壊する。
そんなふうにして破壊された建材やゴミを、人夫が素知らぬ顔で台車に載せて運んでいった。
ふと後ろを見れば、モスクの作った壁の際、そこに大勢の人間たちがしゃがみ込んでいる。
明らかに貧民街の人間たち。腹だけが膨れ、手足が痩せた老若男女。衣服も粗末で、見ているだけでも悪臭が漂いそうな者たち。
十数人はいる彼らは、一部は泣き、一部は沈痛な面持ちで、一部は建物を打ち壊す衛兵たちを憎々しげに見つめていた。
僕は衛兵たちから離れるように後退る。恐ろしいわけではない、が、近寄りがたい何かを感じて。
そんな僕に、誰かが声をかけてきた。項垂れるように道端に座り込んでいた男。
「……あんちゃん、グスタフに可愛がられてた……ガラクスってったか?」
「…………違います。グスタフさんには世話になりましたが」
見れば、僕は名を知らない老年男性。六十歳ほどだろうか。頭頂部は禿げ上がり、前歯も二本なくしていた。
「懐かしいなぁ、最近見なかったけんども」
へへ、と男は力なく笑う。ガラクスではない、と否定出来ていない気がする。
「んな上等なべべ着てよう。どうだ、街の仕事は上手くやれてっか?」
「……おかげさまで」
「ガラクス、知ってっか? グスタフは死んじまったぜ、あいつが死んで、この街はこの様だ」
「何があったんですか?」
「知らねえ。でも、急なんだ。急になんだ。街の奴らがよう、いきなり、俺らの家をぶっこわしてった。奴らは何かを探してんだよ、俺の勘だけどさ、へへっ」
汚れた鼻の下を何度も擦って男は笑う。知っているのか知っていないのか、……何となく、正気を失っている風で。
「しっかしお前も災難だったよなぁ。せっかく女助けたのに、そのせいでさぁ」
「…………?」
「許せねえよな。衛兵の奴ら、騎士の奴らだって、役人だって、あいつらだって、だって……」
ひひひと笑いながら、男はまた地面を見つめる。それから、何かに気が付いたかのように顔を上げた。
「それにしてもよう、ガラクス、お前……なんで? なんで生きてんだ?」
「僕はガラクスでは……」
「ガラクスっ!? お前死んだはずじゃ!?」
腰を抜かしたように、男が座った体勢から後ろ向きに崩れる。その顔は驚愕に染まり、怯えも混じった顔で僕を見つめていた。
「わ、わあああああ!?」
「とっつぁん、落ち着けよ。相手は生きてる人間だよ」
十歳ほどだろうか。近くにいた少年が、宥めるように男に呼びかける。
だがそれに構わず、男は叫び声を上げたまま這々の体で逃げていった。
「……あんた」
「ガラクスじゃないです」
今度は少年が、僕を足下から頭まで何度も値踏みするように見る。
少年は、明るいオレンジ色の髪の毛が、埃でくすんでいた。
「あんた、こんな場所に来る人じゃないだろう。街の人間がここに来るなんてどうかしてるよ」
「街の人間呼ばわりは何となく不快なのでやめてほしいところですけど」
「…………?」
少年は僕の言葉に眉を顰める。何かしらの原因で麻痺しているのか、その片方の眉は動きが中途半端だった。
「人を探しに来たんです。ニクスキーさんって方、知りませんか?」
「知らねえ。……あんた、ウェイトって奴の仲間か?」
「いいえ。ウェイトさんもここに来たんですね?」
じり、と少年が後退る。脅かしているわけではないからその対応は勘弁してほしい。
それよりも、重要情報だ。ウェイトもやはりここに来た。
そして、少年から香る匂い。貧民街には顕著な体臭に気をつけていないというその様の中に、微かに混じる肉の匂い消しに使われる香辛料の匂い。
「否定されるでしょうが、どちらかといえばニクスキーさんの仲間です。ウェイトさんは何を?」
「……俺たちに、ニクスキーさんの居場所を聞いて回ってた」
「なるほど」
しかしやはり、少年の警戒心は解けていない。
今にも僕と反対方向に駆け出しそうで、その視線は路地と障害物の確認までも済ませていた。
「おお、これはこれは。閃きは現場から得ろというが、天恵か」
そして僕の背後からも、声がかかる。足音は三人分。そしてその声は聞き覚えがある。
「随分と雰囲気を変えたな、カラス」
「これはどうも。ウェイトさんはお変わりないようで」
僕はウェイトを見ずに、身を固める少年を確認する。
明らかな緊張。まるで何かを隠しているかのような。
僕はその少年に『行け』と指で合図をする。それが伝わったのかはわからないが、それとなく少年は離れていく
それから振り返り、愛想笑いを浮かべるウェイトを見つめた。




