閑話:幸福な主人公
「お嬢様、そろそろ」
「……わかってます」
もはや夜の帳も降りる時間。戦意高揚の舞踏会は始まっており、既に会場入りをしていなければいけない時間。
それでもルルは、自室にいた。
炊事場の前。上座となる位置に座り、俯いたままで。
無為に時間が過ぎていく。舞踏会場では今もまだ、皆はせわしく動いているというのに。
そんな穏やかな時間の中。ルルの目の前にはこの王城、この席で過ごした風景が浮かんでいた。
使用人たちとの団欒を楽しんだ空間。初めは辛く苦しいだけだと思っていた王城で過ごす時間。いつからだろうか、それが苦ではなくなったのは。
もちろん、来客があれば別だ。けれども、この部屋にいる限りはそう辛いことなどなかったと思う。
逆に、どれだけ楽しかったことだろうか。まるで、あの時期待した程だ、とルルは気付く。義母が探索者のオトフシとカラスを晩餐会へと招くと決めたと聞いたその時に、胸の中で思い描いたような、団欒。
この王城での日々はもう終わる。想像したものとは大分違う、期待以上の楽しかった日々。
けれどそれは良い思い出のはずなのに、思い出す度に胸が締め付けられる思いだった。
今日の舞踏会には行かなければいけない。
自由参加に近いそれではあるが、ルルには招待状が来ている。その白い便箋がある以上、その招待は強制で、召集といってもよいものだ。
だが、ルルの足は動かない。もう動くと決めたのに。
その舞踏会に参加するという意味を考えて、動けない。勇者を連れ戻すときに、もう覚悟したはずなのに。
王がルルと勇者の結婚を認めない、というアミネーからの連絡。それを聞いてルルは、解放された、と一瞬喜んでしまった。ほぼ同時にアミネーの言動からその本当の意図を察してしまい、愕然としたが。
覚悟したはずだ。もう、勇者の嫁という立場からは逃れられないのだと。
それなのに。
ルルは膝の上で自分の手を握りしめる。
この王城で出会った優しい人たちの言葉を思い出して。
逃げるなら力を貸す、と申し出てくれたティリー・クロックス。
戦うなら応援する、と言ってくれたディアーヌ・ラルミナ。
困ったことがあるなら何でも言って、と何度も繰り返してくれたルネス・ヴィーンハート。
他にも、サロメやオトフシに限らず、様々な人が自分を心配して温かい言葉をかけてくれた。
何故、自分にこんなにも優しいのだろうか。
こんな自分に、優しくする価値などあるのだろうか、と疑問に思う。
そしてそんな言葉を思い出す度に、覚悟と決意が緩んでいく。
勇者と自分の結婚を妨害するために、カラスは戦場へいく。
興味がない戦場に。参戦者に対し、死ぬなら勝手に死ねという冷たい態度まで取っていた彼が。……戦場に出るのならば、私の下で働いていたいとまで言ってくれた彼が。
ルルは唇を噛みしめるが、痛みが走ってそれをやめた。
自分はまだきっと、何かに期待しているのだろう。
勇者と結婚などしなくてもいい。そしていずれはレグリスの手からも離れ、どこかで静かに暮らせるのではないか、という淡い期待。
そしてそれを、自分ではない誰かがお膳立てし、自分の知らないところで成し遂げてくれるのだろう、という期待。
全て人任せにしていれば、全て良いように解決する。
なんて怠惰で傲慢な考えだろうか。そう思いつつも、逃れられない。
自分が夢見た物語の主人公。なりたいと思っていた主人公。彼らはそうではないからこそ、主人公になれるというのに。
覚悟したはずだ。勇者と結婚すると。
決意したはずだ。これからの人生全てを、家と国に捧げると。
なのに。
何故、みんなこんなにも優しいのだろう。
ザブロック家。現在エッセン王国に七十八しかない伯爵家の一つ。ならばその名を受け継ぐ自分の家柄はたしかにそれなりに高い。
だが、それだけだ。
ルルの胸中に自分を卑下する文句が無数にわき上がってくる。
特別美しいわけではない。美しく着飾ろうと青い血を半分しか受け継いでいない身では、それに相応しい気品は出ない。
何か特別に秀でているものがあるわけではない。ティリーのように花の声を聞くことも出来ず、ディアーヌのように剣を振ることも出来ない。ルネスのような気配りも出来ず、およそ良い性格とも言い難い。
何故、勇者はこんな自分を見初めてくれたのだろうか。
何故皆、こんな愚鈍な自分に優しくしてくれるのだろうか。嘘のない心からの笑顔で、優しい言葉をかけてくれるのだろうか。
何も取り柄がないこの私に。
そんなことをするから、希望が湧いてしまう。期待してしまう。
そう責任転嫁する自分にも、腹が立ってしかたがなかった。
「『それでも、急がなければ』」
サロメにも聞こえないように、小声でルルが口にする。
好きだった本の最後の頁。子供の頃に見た夢に満ち溢れていた思い出の森。その森から離れようとした、主人公のキリカの独白。
ルルは自分を叱咤する。
もう子供ではないのだ。幸福な夢に浸ってばかりはいられない。婚約者の下へ、自分の足で走り出さなければ。
「……?」
「行きましょう」
何かを呟いただろうか。そうサロメが聞き返す代わりに振り返るが、ルルはそれを無視して立ち上がる。
苦手な舞踏会。勇者が王の意を汲み、自分を誘いに来なければいいのだ、などと期待しつつ。
ルルの視線の先で、オトフシが立ち上がる。
警護の任についている。舞踏会場内はまだしも、舞踏会場までは彼女がルルを送り届けなければいけない。
ルルもそう思った。ただ、仕事に従事しようとしているのかと。
だがオトフシは、扉に背をつけるように立ち塞がる。しょうがないな、と言わんばかりに笑みを浮かべつつ。
サロメは意味がわからず、咎めるように口を開く。
「オトフシ殿」
「邪魔をするわけではありません。警戒です」
「警戒?」
「ええ。どうにも、先方は突けば割れそうな顔をしておりますからな」
ルルとサロメの頭上に疑問符が浮かぶ。
それと同時に、扉を叩く音がした。
「勇者様です。……いかがなさいますか?」
部屋の中に乾いた風が吹いた。その場にいた三人誰もがそう思った。
その空気で渇いた喉を潤すようにルルは唾を飲み、「開けてください」と一言口にした。
サロメが開けるはずの扉をオトフシが開けた。そのことに面食らいつつも、マアムを連れて訪れたヨウイチは、挨拶もそこそこに『お願い』を口にした。
「……その、ルルさんと、二人きりにしていただけませんか」
「…………」
お断りします、という言葉を態度だけで発し、オトフシはサロメとルルを見る。サロメがそれに応えて一歩ヨウイチに歩み寄ると、身体ごと横を向いたオトフシの前を通すように、きっぱりと言った。
「出来かねます」
冗談ではない。サロメはそう内心付け加える。
勇者だから、というわけではない。未婚の貴族子女を、異性と二人きりにしない。侍女の大きな役割でもあり、それを放棄するわけにはいかない。
それに、勇者だから、ということもある。
もはや勇者がルルに恋い焦がれているのは周囲の誰の目にも明らかなことだ。そんな勇者が、ルルと二人きりになる。ここにいる誰かが漏らさなければ問題はないことなのかもしれないが、万が一にもそんな噂が立ってしまえばルルの沽券に関わる。
そして、体面などという形のあることだけではない。勇者発狂の噂は真実であることはカラスとオトフシから伝わっているし、そんな勇者がもしも力尽くでルルに迫るとしたら。
「大事な話なんです」
「お嬢様を殿方と二人きりにすることなど出来かねます」
婚約者など、そういうものであればサロメもすぐに折れた。だが、勇者はルルの婚約者ではない。
そうでなければ、たとえ王族が相手であっても侍女は一歩も引かない。それは貴族たち、主の体面を守るために、公的ではないが慣例的に認められた法だった。
「いえ」
だが、サロメの肩に後ろから手がかかる。小さく、少しだけ貴族にしては固い掌。
「……オトフシ様、問題はありませんか?」
「しかしお嬢様」
「問題はありません」
ルルの言葉にオトフシは応える。オトフシは、少々面倒だが、と口の中で付け加えた。
「ならば構わないでしょう? サロメ、お願いします」
「お嬢様、ですが……」
「…………」
少しだけ暗い表情で、ルルが首を横に振る。
駄目だ、この主の意思は固い。そう思ったサロメがオトフシを見るが、オトフシはヨウイチに見えないよう、指先で壁に貼られた紙を示した。
部屋の中の様子を常時監視し、そしてオトフシの意のままに動かせる魔法陣紙。
それは、仮に誰もいなくとも、オトフシが部屋の中にいるのと同じ。
ならいい、とまでは言えずとも、不承不承とサロメが頷く。
「私は、部屋の前で控えさせていただきます」
「私もおります。それが、私の出す条件です」
追随するようにオトフシが言い、それにはマアムが頷いて応えた。
「……意外でしたな」
「意外?」
部屋の外に出たオトフシとサロメ、そしてマアム。
オトフシは部屋の扉の真正面に背中をつけ、腕を組んでその奥に視線を向けたまま口を開いた。オトフシに話しかけられたのかと思ったサロメが眉の形で不機嫌を示しながら聞き返すが、オトフシは目だけでそれがマアムのことだと示した。
マアムは唇を尖らせたまま、オトフシを睨むように見返した。
「このような話、一番に止める側だと思っておりましたが」
「勇者様が仰られたことです。私にはそれを邪魔することは出来かねます」
「勇者様の侍女の言葉としてはそうでしょう。……いや、侍女としても少々あるまじき行為とは思いますが」
フフン、とオトフシはマアムを煽るように鼻で笑う。
本当はマアムも止めるべきだった。そう言われてしまえば、マアムの胸の内にも罪悪感が湧いてくる気がした。もっともマアムも、それ以上の感情が今胸の中で渦巻いていた。
「勇者様は、ルル・ザブロックをお手つきにすることなどございません」
「そうでしょう、そうでしょう。その様子ですと、貴方の誘惑にも耐えたくらいですからな」
勇者は女性に慣れていない。それは普段の様子を見れば明らかで、そしてそんな彼に、下着の透けるマアムの寝間着姿はそれはそれは刺激的だっただろう。
毎晩ではないが、勇者に見せたその姿。それは誘惑に等しいと、オトフシは思っていた。
だがマアムとしてはそのような意図はない。少なくとも、意識的には。そして、途中までは。
「そのようなはしたない真似、するわけがない」
「しかしそれを今は、後悔している」
サロメは話についていけず、ただ二人の会話を耳に入れる。
そしてそれよりも、と主のことを心配することで精一杯だった。
サロメを置き去りにし、オトフシは自身の耳を指先で軽く叩いた。
「中の様子はよくわかっております。勇者様がルル様に何かをしようと指一本触れれば、その瞬間、命の保証が出来なくなることはご承知いただきたい」
それが出来るからこそ、部屋を空けた。二人きりにした。
「…………」
突然の話題の転換。オトフシは『止めるなら今』という意味でそれを口にし、マアムは疑わず、けれど無言でそれに応えた。
「あの、……」
ヨウイチとルルが向かい合う。いつもルルたちが談話で使っていた机を挟んで座り。
ヨウイチは、言葉を出しかねていた。
ここに来るまでに何度もシミュレーションを重ねていた。ここに来るまでに、告白の言葉まで考えていたのに。それが全て裁断機にかけられたかのように頭の中から消え去り、目の前の女性の目がまともに見られなかった。
「俺……!」
意を決して顔を上げてルルを見るが、それだけで言葉の最後が消えていく。ただ一言、一言だけ言えればそれで済むのに、と何度も自分を叱咤する声が聞こえた。
そして、言えない。
「………ぶ、舞踏会、遅かったですね」
「今出るところだったんです。遅くなったのは……気分が優れませんでしたので」
「そういうときもありますよね……って」
へへ、とヨウイチは愛想笑いを重ねるが、それで更に自分の情けなさが増した気がした。
だが情けないままではいられない。
彼女の前に立つならば、格好良い自分でなければ。
強引に背骨を立たせて、大きく息を吸った。
「今日、ここに来たのは、大事な話があるからなんです」
「大事な話、ですか」
ルルとしても、その言葉には察しがついている。戦争前という特殊な時間。わざわざ舞踏会を抜け出して、自分の部屋に来た重大さ。そして人払いまでする雰囲気。
ついに来てしまった。そんな気がする。
「俺は、最初、ルルさんのことあんまり注目なんてしてなかったんです。なんかこの世界に突然連れてこられて、何かみんな勇者様勇者様って持ち上げてくれて、なんかずっとふわふわしてて」
ヨウイチも、最初は嫌だった。拉致監禁に等しいとさえ思えた。
ここから帰れない。いずれ戦争に連れていかれる。日本の高校生ならばまずないであろうシチュエーションを嫌悪し、何故自分なんだろう、と毎晩嘆いていた。
「それがあの、先代の絵を見にいったときでしたっけ、ミシマナオミツさんの絵の前で、あのカラスの横にいたルルさんを初めて見て……」
思い返せば輝いていた気がする、と勇者は思う。あの時から、違う雰囲気を纏っていた気がする、とも。
もちろんそれは、今思い返したからそう思っているだけなのだが。
「……なんというか、暗い人だなぁって……すんません、思ってました。あんまり喋らないし、仕草も、その……」
すんません、とヨウイチは小さく口の中で繰り返す。今はまずい、と口に出してから思ったが、止まらなかった。
ルルとしては文句はなかった。その通りだと認識していた。ヨウイチが嘘をついていない様子からも、その通りなのだろうと。
「でも、昼の立食パーティーとかで話して、やっぱり他の人とは違う、なんて思って……」
何を言いたかったのだろうか、とヨウイチも内心戸惑う。終点だけは決めていたが、出発点を定めていない話。もう限界に来ている、とまで感じた。
「ええと、違うんです。違う……違わないけど、あの、……とにかく」
「…………」
ルルは黙ってじっと待つ。運命の宣告、と覚悟していることを。それが彼の口から告げられるとは思っていなかったが。
その仕草に、待ってくれている、とヨウイチは思った。それ自体は正しかった。
ならば、もう待たせるわけにはいかない。
ヨウイチは息を吸う。それから軽く息を止めた。一瞬のことだったが、それをヨウイチ自身は長い時間に思えた。
ルルの視線に堪えきれないように、ヨウイチは言葉を吐き出す。
「好きです」
ルルはその言葉に、嬉しいような恥ずかしいような、そんな胸の高鳴りを覚えた。
ヨウイチは続ける。堰が切れたように。
「俺、彼女なんて出来たこともないですし、女の人の喜ぶことなんてさっぱりわからないけれど、でも、……」
続けようとしている言葉。その自信はない。しかし、心のどこかで『お前は出来る』と勇気づけてくれる声がする。祖母の声と自分の声が混ざった調子で。
ヨウイチは思う。きっとそれは、今までの人生の証。
だが、言えなかった。代わりにもう一度。
「俺は、ルルさんのことが、好きです」
「…………っ」
重ねられた言葉に、ルルが唇を噛みしめる。
不思議なことに、嫌なわけではなかった。ただ、その言葉にどう応えていいのかわからなかった。
好意を持ってくれているとは思っていた。きっとそうなるとは思っていた。
けれども、実際に、真正面からその言葉をぶつけられ、心臓の音が自分の耳にまで聞こえるほど動揺していた。
頷けばいいのだろうか。『私も』と心にもないことを言えばいいのだろうか。それとも。
「…………」
互いに沈黙する。お互い、その続きを口にするのを躊躇った。
ルルは表情を歪めたが、ヨウイチにはその表情の意味がわからなかった。なんとなく、泣きそうな顔。
「……なんで」
「……?」
「なんで、私なんですか?」
戸惑いから、期せずして出てしまったヨウイチを責めるような言葉。ルルとしてはその意図は込めておらず、ヨウイチも、ただその言葉を素直に受け取った。
そしてヨウイチは、素直に受け取りつつもその答えを持っていなかった。
何故、という難しい質問。
「ルルさんだけは……俺を、勇者と呼ばなかったから……」
「そんなの」
「と思っていたんですけど」
ハハ、とヨウイチは冗談めかして言う。もちろんそれは、ルルの顔を見ては言えなかったが。
「でも、俺にも理由はわかんないんです。好きになったら全部好きで、いつからだったかもよくわかんなくなっちゃって」
ヨウイチは恥ずかしさに少し俯いて、頭を掻く。
そしてそんなあやふやな過去や現在よりも、もっと確実な未来を見た。
「でも、約束します。俺、彼女なんて出来たこともないですし、女の人の喜ぶことなんてさっぱりわからないけれど、でも、……」
先ほどいわんとした言葉。それをもう一度繰り返し、頭を上げれば先ほどよりも肩の力が抜けている気がする。
「でも、幸せにします。必ず。だから、結婚してください」
またしても、沈黙が流れる。
今度は明確に、ルルが応える番。そう自覚しつつも、ルルはヨウイチの言葉を反芻して膝の上の自分の手を握った。
なんて感動的な場面なんだろう、と思おうとした。まるで昔から夢見ている物語の主人公に、自分がなったかのようだと。
これで頷けば、自分は物語の続きを演じられる。素敵な男性と恋に落ち、幸せな人生を送ることが出来るのだ。
何を迷うことがあるのだろう。
既に覚悟した身。家に国に、心も体も捧げる覚悟。それに、自分を好きになってくれた男性が相手ならば申し分ない。
所詮自分は貴族の娘。結婚など思うとおりにいかないものだ。結婚のことでなくとも、今後の人生で、思うとおりにいくことなどそうあるものではないのだ。
きっと勇者は自分を幸せにしてくれる。
でも。
「…………陛下が反対されていることはご存じでしょう」
苦し紛れにルルは反論する。自分の言いたいことをまとめる時間稼ぎに。
だがその質問は、既に解決している。ヨウイチは迷うことはない。
「俺は戦争に出ます。ルルさんのために、精一杯戦ってきます。そうすれば、戦後に望みを口に出来ると聞きました……邪魔はさせません」
王に邪魔はさせない。そのつもりでヨウイチも口にしたが、そこでもう一人の男の顔が浮かんだのはルルには話せなかった。
カラス。今現在、もっとも強く、もっとも邪魔な敵。あいつにも、邪魔はさせない。
ヨウイチの言葉で、ルルはまた自嘲した。
なんて劇的な言葉だろう。先の言葉と合わせても、申し分ない。
恋愛を認めない環境や邪魔者、そんな障害に阻まれた悲恋。それを成就させるために男は戦争で戦い、女はそれを静かに待つ。
まるで物語だ。物語の主人公だ。
そして自嘲の中で見つけた答え。
まるで物語だ。物語の主人公だ。
でも、ただそれだけだ。
「ありがとうございます。勇者様のようなお方にそこまで言っていただけるのは、望外な喜びです」
ありがとうございます、と繰り返しながらルルは頭を下げる。深々と、丁寧に。
「じゃあ」
続けられる言葉に了承を感じ、ヨウイチは気持ちが浮き立つ。緊張が解けるように、笑みがこぼれそうにすらなった。
しかし。
頭を上げたルルが言う。
「でも、お断りします」
実際に続いたのは冷たくあしらう言葉。そしてその言葉に反し浮かぶルルのその笑みに、ヨウイチは困惑した。
全身の骨が砕かれるような感覚だった。ヨウイチはへたり込むように身体を落とし、座面を身体が滑り落ちそうになるのを必死で堪えていた。
何故。
「私の身をお望みになるのであれば、戦後、レグリス・ザブロック女伯爵様を通じ申し込みくださいませ。そうなれば、その時私はたしかに貴方の妻となるでしょう」
所詮自分は貴族の娘、とルルは内心繰り返す。
やはり、無理だろう。家の当主に、親に逆らうのは。そう思っていた。
ヨウイチは、意味がわからなかった。
断られたと感じ意気消沈した。けれど、続く言葉は了承に近い言葉。
喜ぶべき言葉かどうか、判別に詰まる。喜んではいけないとすら感じた。
「なら今……!」
「私は、お断りします」
なら今了承してもいいのではないのだろうか。そう返答の催促をヨウイチは要求しようとする。しかしそれをルルはきっぱりと遮った。
「…………」
「話がこれで終わりならば、どうぞ舞踏会にお戻りくださいませ。私もじきに参ります」
「何で……!」
拒否されている。
そう気付いたヨウイチが、わずかに声を荒げて立ち上がる。無意識に息が上がった。
どこかから剣を向けられているような威圧のような雰囲気が感じられたが、それは無視した。
何で、と声なく繰り返す。その姿を見てルルも心苦しくはなったが、それでももう嘘はつけない。
気付いていたこと。知っていたこと。それを言葉にするだけだ。
「ありがたいことに、……勇者様は私を好きだと仰ってくださいました。でも、私は、勇者様に恋慕しておりません」
「…………!」
ヨウイチの視界から色が抜ける。
ルルが遠くなっていく気がする。白黒の視界の中心部が歪み、吸い込まれるようにどこかへ。
自分ごと吸い込まれそうになる感覚を抑えるように、ヨウイチは机を両手で殴った。
ガン、という音。
それに合わせるように部屋の壁を何枚もの紙が動いたが、部屋の中の誰も気が付かなかった。
「何で、ですか……」
「…………」
ルルの笑顔が困ったように沈む。やはり言えない。特に、自分に好きだとはっきり言ってくれた相手には。
彼が、こうだったらよかったのに。
そのルルの表情に、ヨウイチは察する。既に気付いていたこと。わかりきっていたことを確認して。
それはあの日、あの夜ヨウイチが気付いたこと。
「……カラスですか」
「…………」
ルルは応えない。ただその代わり、先ほどのヨウイチの言葉に反応しなかった心のどこかが動いた気がした。
やはりと思う。
勇者の告白の言葉。それに自分の胸は高鳴った。
けれども心は、動くことがなかった。
「……私には、好きな人がいます」
「何で、あの男は、ルルさんを……!」
カラスを糾弾する言葉。それを吐き出そうとしたヨウイチだったが、ルルの視線にそれ以上言葉を吐き出せなかった。
まるで祖母やテレーズに睨まれているときのようだ、と感じた。優しげな笑みのはずなのに。
ルルが更に目元を緩めれば、圧力までも緩んで消えた。
「何故好きになったのかはわかりません。多分、……私が考える、『王子様』に似てたから」
散歩の森の少女の王子様。それは、ルルにとっては全ての物語の『王子様』の原型だ。
困っている自分の手を引いて、温かな場所へと連れていってくれる。そんな、昔から見る夢の話。
「勇者様の言葉は嘘じゃないと思います。勇者様ならば私を幸せにしてくれる。……多分、その人よりも」
ルルは『その人』を思い浮かべる。
決して、最上の伴侶ではないだろう。言葉足らずのくせに一言多くて、人間も嫌いなのに近くに女性が寄ってくる。自分勝手で、相談も無しに自分の命をかけてしまう。
それでも。
「でも私は、勇者様に幸せにしてもらうよりも、その人と一緒に幸せになりたい」
書庫に行った。その後、尖塔を巡り、城の中を探検した。
楽しかった思い出。
「私は、自分のその気持ちを大事にしたいんです」
それが私の、神聖にして侵せぬ場所。
身も心も家と国に捧げると覚悟した。
だが違う。捧げるのは全てじゃない。
この身はたしかに捧げよう。これからの人生、人のために。
けれど、心の中までは誰にも踏み込ませない。
誰にも変えさせない。誰にも媚びず、私は私を諦めない。
いつか他の誰かを好きになるかもしれない。けれども、それまでは、楽しかった思い出があれば自分は生きていける。
ディアーヌと同じように戦える。たとえ誰かの、勇者の妻となったとしても。
私は。
再び流れた沈黙。その雰囲気は、最初よりも、大分重い。
ルルは覚悟していた。
話の流れとはいえ、目の前の男性の告白を断ったのだ。仕方のないことだ、と自分の心を取りなしても罪悪感が募る。
無論、仕方のないことではある。告白すれば全て受け入れなければならないということになれば、世の男女は意に沿わぬ結婚ばかりとなるだろう。
その罪悪感に、ルルは何かを言おうとした。取り繕おうとした。だがそれを、意思の力で噛みしめるようにした。
それこそ勇者に失礼な気がして。
ならばと代わりに勇者に叩かれるくらいは覚悟していた。
それくらいならばいいと思った。もちろんそのようなこと、オトフシが許すはずがないのだが。
呆然と立ち尽くすヨウイチは唇を震わせ、拳を握りしめる。
受け入れられると思っていた。自然に、全てが。この部屋に来るまでは、輝かしい未来に心躍っていた。戦争に勝ち、好きな女性も、勝ちたい男への勝利も、全てを手に入れられると思っていた。
今思えば、何故だろう、とも思う。大それたことだ。人生を決める大事なこと。それに、こんなに急に思い立ってすることではないのに。
それがルルの言葉で、金槌で頭を殴られたような衝撃が走った。
出来ると思ってしまった。出来ると思ってしまっていた自分の幼稚さに、腹が立った。
何故もっと考えなかったのか。もっと準備をして、もっと彼女の気持ちを引いて、もっと……。
後悔が止まない。足りなかった思考回路を埋めていくように。
「……俺が」
何が足りなかったのだろう。それを尋ねたくて、尋ねればもっと答えから遠ざかっていく気がして、言えなかった。
その代わりに、負け惜しみのように言葉を吐く。
「俺が、戦争で活躍して、偉くなって、王様に願えば……」
「そのときには、必ず」
ルルは無意識に笑う。嘲笑っているわけではない。決意を込めた、強い笑みで。
「約束です」
言葉に込められた意思。ヨウイチは、綺麗だと思った。美しさに見惚れるほどに。
ヨウイチもその笑顔に負けないよう、負けてたまるかと笑みを浮かべる。
「その言葉、忘れないでくださいね」
そう口にしたのが、精一杯の意地だった。
静かに扉が開けられる。
ヨウイチが出てくることを知っていたオトフシは眉を上げて反応するに留めたが、他の二人は勢いよく跳ねるようにその向こうを見た。
「失礼しました」
ヨウイチが頭を下げて扉を閉める。そしてオトフシたちを見て、はにかむように笑みを浮かべた。
「お二人とも、わざわざすみませんでした。俺、舞踏会に戻ります」
「勇者様、……」
その笑みとも違う何かを感じ、マアムがヨウイチに声をかける。しかしヨウイチは、それに応える元気が残っていなかった。あるのは、意地と空元気。
まるで死期を悟った象のように、そのままヨウイチは歩き出す。オトフシにもサロメにも、挨拶はもうないと言わんばかりに。
結果はどうだったのだろうか、とマアムは心配しその背中を見つめるが、ヨウイチからの返答はない。
無事に終わった、と肩を解すオトフシが、ヨウイチの背中に声をかける。
「……それで、申し込むのか?」
「…………」
若い女性の声のはず。マアムにもサロメにもそう聞こえたが、ヨウイチにはそう聞こえなかった。
まるで老婆の声。まるで、祖母のような。それが自分を諭していた。
ヨウイチは立ち止まり、わずかに顎を上げる。浮いていない涙を受け止めるために。
「出来るわけ、ないじゃないっすか」
ヨウイチには見えない背後でオトフシが掌を振り、囃し立てるように笑う。
「…………だろうな。そんなことをしてしまえば、ルル嬢の気持ちは永遠に手には入らん」
ヨウイチはその声に、深い溜息を返した。




