閑話:私も
閑話は四つに割ったので、ここから三話ほどルルとか編が続きます。
とぼとぼ、という擬音の通りに足取り重く、ルルは廊下を進む。
行き先などは決まっていない。ただ、とにかくどこかへ行きたかった。
背後には二人付き従う。
侍女のサロメと警護のオトフシ。しかし、二人の存在すらも今のルルには重荷になって、二人を引きずるように歩くしかなかった。
偶然誰も歩いていない廊下は静かだ。
絨毯に阻まれほとんど響かない足音がオトフシを除く二人分だけ。
そんな静けさの中、耳に残った自分の言葉。その言葉が何度も何度も頭の中を反響し、後悔の念を増幅していった。
自分は何をしているのだろう。
カラスは戦争に出ることを選んだ。そしてその助けにとミルラ王女を利用した。
それを知った私は、反対した。
私は何をしているのだろうか。
最初に戦うことを勧めたのは自分だ。戦争に出て、活躍し、名を上げる絶好の機会だと。
彼の強さに、もったいないと。彼が称賛を受けるのは当然のことで、そのために働くのも当然のことだからと。
書庫で彼に切々と説いた。
なのに、何故。
何故今、それが叶うその時になって、自分はそれを阻もうとしたのだろう。
ルルの瞼の裏で、彼の横にミルラ王女が座っていた。その光景が再生される。
先ほど見ていた光景。初めての組み合わせだが、何の変哲もないはずの光景。だが何故だかそれが腹立たしかった。
機嫌よさげにミルラ王女が彼と話す。彼はミルラ王女と密談をしていて、そこで自分を戦場にと売り込んだ。そう彼自身から告げられて、二人への怒りが湧き立った。
自分が参戦を勧めたとき、その時に彼は断ったのに。自分はこの国が嫌いだからと。自分は人間たちを守るために働きたくなどないと。
その言葉は嘘ではなく、たしかに真実だったのに。
考え込み、ルルの胸中で憤りが復活し、目に涙がじわりと浮かぶ。
もちろんルルにもわかっている。
彼が参戦するのは、カラス自身のためではない。
カラスは嘘を言っていた。勇者とルルの結婚を後押しするためかという問いに、『はい、そうです』と。
ルルはわかっている。勇者と自分の結婚を自分が望んでいないことを、カラスも知っていると。
ならば、おそらくそれは結婚の邪魔をするためなのだろう。
根拠はわからないがそのために、死ぬかもしれない場所に自ら飛び込もうとしてくれているのだろう。
それを思えば喜ぶべきだ。ルルはそう自らを律そうとする。
嬉しく思うべきだろう。好きな人が、私のために命をかけてくれるのだ。そのために一国の王女すらも巻き込んで、何かをしようとしているのだ。
まるで物語のお姫様のよう。夢見ていた物語の主人公に自分がなれたというのに。
ルルは戸惑う。
なのに何故、自分は。
ミルラ王女の喜ばしさはわかる。
彼は強い。戦場の様子を自分は知らないまでも、きっと彼は活躍してくれるだろう。戦後、そんな彼を戦線に投入した彼女の名声は、きっと天までも上ることだろう。
それを知っている。なのに。
楽しげに話す彼女の顔に、苛立ちが募った。
その、神経を逆撫でするような言動は今に始まったことではないはずなのに。今回は礼にも悖らず、怒りが湧くような何かはなかったはずなのに。
苛々する。
彼らの仲が縮まることはないと知っているはずなのに。少なくともカラスの方は、縮める気はないと思っているはずなのに。
彼の隣にミルラ王女がいる。そのことに、腹が立った。
本当は責めるべきではないと知っている。
喜ぶべきなのだ。これでようやく彼は、この窮屈な城から飛びだして、戦場を自由に駆け巡ることが出来る。本人が望んでいなくとも、それで全ては上手くいくのだろう。ルルは、そんな気がしている。
そんな彼を戦場に導いてくれたミルラ王女にも感謝をするべきだ。そう、ルルは自分に言い聞かせようとする。
だが、心の中の誰かが叫ぶ。
『何故、自分じゃなかったのだろう』と。
「…………?」
立ち止まったルルの背中をサロメが戸惑いで見つめ、背後からそっと顔を覗き込もうとする。だがそれを、オトフシが無言で肩に手をかけて止めた。
ルルの唇がわずかに震える。自分の感情を自覚して。
彼が戦場に出ることに反対しているのではない。たしかに、ジグ・パジェスは死んだ。見知った顔の死。それはたしかにルルに死を身近に感じさせる衝撃的な出来事であり、そしてそこからカラスの死を連想したこともあった。
だが、そうではない。
自分に話を通さず、ミルラ王女に話を持ちかけたという義理に欠けた行為。その理由は一部正しいが、正確ではない。
戦争に出たくない、という彼の意を尊重した。それは途中までは正しかったが、彼自身が話し始めてからははっきりとそうではなくなった。
理解した。
命のやりとりをする危険な場に出ることを決めたこと。
戦場に出るという大事なこと。
そんな危険なことを、ミルラ王女に先に話した彼に怒りが湧いた。
そんな大事なことを、自分より先に彼に聞いた彼女が、妬ましかった。
何のことはない。これは単なる嫉妬だ。
それを自覚したルルの目を、涙が厚く覆う。
涙を流さぬように、また一歩足を進める。二歩三歩と続ければ、どうにか涙は受け止められた気がする。
憤りで息がわずかに荒くなる。いつもならば抑えておけるはずの心の澱が、かき混ぜられたように表に出てしまう。
そうだ。自分は憤っている。腹を立てている。貴族らしからぬふうに。まるで、単なる街娘のように。
蹲りたくなる。頭を抱えて、誰の目も憚らず。羞恥心と意地から、ルルにはそれが出来なかったが。
憤っている。ミルラに、カラスに。
そしてそれ以上に、自分に。
情けない。
勝手なのは、自分だ。
「……あら」
ちょうど曲がり角。涙でにじんだ光景の中で、ルルは誰かに道を阻まれ立ち止まる。
それが誰だかは一瞬わからなかったが、オトフシが止めなかったことでそれが危ない人物ではないということがわかった。
さりげなく涙を拭うようにし、晴らした視界の中で優雅に会釈をしているのは、よく知った人物。土の匂い。膝についた土埃。
「申し訳ありません。注意を怠っておりました」
「いえ、こちらこそ、……」
ルルも頭を下げる。いつもの声音が出せているだろうか。そう不安になりつつも。
だがきっと、出来てはいなかったのだろう。ルルはそう痛感する。
「……ザブロック様? どうかなさいましたか?」
酷い顔ですが、と口の中だけで呟くディアーヌに、ルルは小さくまた「いえ」と応えた。
少しの後、二人はディアーヌの部屋にいた。後ろにはそれぞれの侍女、サロメとケテ。オトフシは遠慮し部屋の外で待機していた。
ディアーヌの部屋は殺風景で、男爵家ということもありそもそも調度品の質自体が他の家に比べるとやや悪い。だがそれ以上にルルは、その部屋が『実用的』という観点からものが配置されていることにすぐに気が付いた。
どこが、と具体的なことはルルには言えない。けれどもまるで部屋全体が食堂の厨房と似たような印象を受け、部屋の上座、ディアーヌが座るべき席から全ての部屋の物品へすぐに手が届くように配置されているのだと感じた。
二人は向かい合い、どこか緊張感がある空気に互いに動けずにいた。
部屋へと招いたのはもちろんディアーヌだ。血相を変えたルルの様子がどうにもいたたまれず、何があったのかと話を聞くために。
今でもまさに、とディアーヌは思う。侍女の淹れた茶に息を吹きかけて冷ますふりをしてルルの顔を覗くが、落ち込んでいる、という表現が正確なところだろうと推測した。
何があったのだろう、とディアーヌは悩む。
しかし切り出し方がわからなかった。勢いに任せてここまで呼んできたものの、それ以上を行えるほどの人生経験が彼女にはない。
だがいつまでも無言で向かい合っているわけにはいかない。時間をただ無為にするのは忍びないし、何より、重い空気が辛い。
そう踏ん切りをつけディアーヌは口を開こうとする。
しかしその機先を制したのは、ルルの方だった。
「……ジグ様のお墓に?」
「……?」
ルルの言葉に見当がつかず、ディアーヌは一瞬戸惑う。
それからその言葉が自分の行動を示しているとわかり、お茶を静かに皿の上に置いた。
「ええ。先ほど、殯の参列者がいなくなった後、いってまいりましたわ」
ふふ、と笑いながらディアーヌは窓際を見る。そこにはジグともう一人の墓に供えた白い百合の花の残りが、二輪だけ花瓶に差してあった。
そこまで言って、ディアーヌは違和感に気が付く。何故、と。
ディアーヌがルルの顔を見返すが、ルルは静かに茶を傾けるだけだった。
ルルはただ、ディアーヌの衣服の裾と膝に土がついていたのを気付いていた。その土の付き方から、どこか土のある場所でしゃがみ込んだのだろうと見当をつけただけだった。
そして直近で起きたその『出来事』は、ディアーヌを連想するに充分の。
「…………突然でしたわね」
「はい」
ルルへの追及を何となく諦めて、ディアーヌは溜息をつく。
「せっかく剣の師となってくれる人が見つかったのに。この王城で、初めて剣が習えたというのに」
「初めてだったんですか?」
今度はルルの方が驚く。詳しい事情を聞いたわけではないが、ごく初期、一番初めのディアーヌとカラスの稽古を見ていたときには、経験者であろうと当たりをつけたのだが。
ディアーヌは力なく頷く。
「私、家の者には剣を学ぶことを反対されておりますの。だから、兄たちの稽古をのぞき見したり、こっそり指南役から話を聞いたり、なんて涙ぐましい努力をこれまでしてきましたの」
それをしなくて済んだ。それをせずともよくなると思った。
口にして、ディアーヌは改めて感じる。ジグがいなくなったこと自体も悲しいが、それと同時に、もう一つの喪失感に。
「楽しかった日々が終わってしまった。私にとっては、そんな気分ですわ」
改めて、涙が出てきそうになる。無意識に鼻を一度啜る。涙は、墓前で流したもので最後にしようと心に決めていたのに。
言葉と仕草、それにわずかに頬を流れた化粧の跡に、ルルはディアーヌの悲しみを察する。しまった。軽はずみにこの話題を出すべきではなかった、と後悔をしながら。
ディアーヌの侍女が涙を拭く布を取り出そうとする。視界の端でそれを見たディアーヌは、片手でそれを制した。
「泣かないと決めていたのに、駄目ですわね。女が泣いていいのは子供が死んだ葬式だけだ、とまた行儀振る舞いの先生に叱られてしまいますわ」
「あとは涙を流すフリだけを……とか?」
「あらあら、同じ先生に当たったのかしら」
ディアーヌは強張る唇を強引に引き伸ばして笑う。涙が止まるまではいかずとも、それでもそれで何とか出来る気がした。
「お嬢様、お化粧が」
「構いませんわ。誰が見ているわけでもありませんし」
「ですが……」
既に崩れかけている化粧。だがそれを直す気にはなれなかった。それをしてしまえば、ジグへ対する悲しみが薄れてしまう気がして。
そこまでの薄情さはない、と自分では信じているディアーヌだったが、その自信も薄れていた。
「…………」
しかし黙ったまま、侍女がディアーヌの目元に横から手巾を当てる。拭うのではなく、押し当てるように。嫌がり身をよじるディアーヌの化粧を落とさず、涙だけを拭き取る見事な手際だった。
「よしてってば」
「…………いいえ」
客の手前、という大義名分もあるが、侍女はそうではない理由で手を緩めない。全ては主人の誇りを守るため。
「いいから」
「……申し訳ありません、出過ぎた真似を」
若干の苛立ち混じりにディアーヌがその手を押しのける頃には、すっかりと涙は鎮まっていた。人に見せることの出来る程度の、必要最小限の化粧の崩れ。その程度ならばいいだろう、と侍女も納得がいく出来だった。
「仲が良いのですね」
「そう見えますか?」
そんな二人の仕草を見つめて、ルルは羨ましげに呟く。
侍女とは大抵の場合、貴族の子女が生まれてすぐに選定され、その後どちらかが死ぬまで専属で付き従うものだ。もちろんそれは家の事情や考えにもよるため、頻繁に入れ替わる家もあるのだが。
ルルの場合は後者。新しく入った侍女は彼女と上手くいかず、レグリスの手によって一年未満で入れ替わり続けてきた。サロメが一番長く続いてはいるが、それでも付き合いは一年と少しの間だけだ。
ルルとサロメ。険悪な仲とは言わずとも、ルルからは特別親友のように親しいわけではない。ディアーヌとその侍女のような、幼馴染みのような人間関係は作れない、と自他共に認めていた。
そしてディアーヌからすれば、その言葉は誤りだった。
親しんではいるが、親しいわけではない。
何せ、彼女は父の手の者。おそらくこの王城から実家へと戻れば、ディアーヌの王城での生活を告げ口し、生活に更に厳しい制限をかけるきっかけとなるだろう。
言うな、と命ずるまでもない。命じても聞かず、きっと自分はこの侍女の手により二度と剣が握れなくなるだろう、とまで覚悟していた。
「このケテは、私が剣を握るのに反対しておりますの。そんな方とは仲良くなど出来ませんわ」
ディアーヌはそう言いつつ微笑む。諧謔に似せてはいるが、それでも本音の一言だ。
そしてその話題を何となく続けたくなくて、そして踏ん切りがついたディアーヌはその話題を切り替えようと大きく溜息をついて空気を変えようと試みた。
「…………それよりも。何かありましたの?」
「何か、とは」
「ザブロック様にも何やら心配事がありそうで。私も恥ずかしいところをお見せしたんですもの、お話をお聞きしたいですわ」
「心配事なんて……」
ない、と言いたくて言えなかった。正確には心配ではないのだろうと自分でもわかりつつも、それでもたしかに心配というものもある。
まだ言い淀むルルを促そうと、ディアーヌは温かな笑みを浮かべた。
「お話しくださいな。何せ、私もザブロック派閥の末席にいるのですから。心配事なら共有くださいませ」
「……派閥」
ディアーヌの言葉尻をルルは小さく復唱し反芻する。
そこまで大事にしたつもりはないのに、と自嘲混じりに。
「そんなに、大したことじゃないんです。人に話せるようなことでは」
「そうですの?」
ディアーヌはルルの言葉に、また尋ねる。
ただしその対象は、ルルではなくその背後。視線を向けられたサロメは何故だか身震いする思いだった。
そして応えていいのかと悩む。悩み、半ば止めてもらうことを祈り、主であるルルを見るが、ルルは一度サロメを見て無言でまた持っている茶に視線を落とした。
その仕草に、サロメにかかる重圧が大きくなったことを感じた。
主ルルは止めない。自分に尋ねたディアーヌは目上である。
状況的には応えるべきだと思ったが、それはルルの意思に適うことだろうか。
何かしらの合図がほしい。そう願ってルルの顔を背中越しに窺うが、やはり期待した返答はない。
ディアーヌを無視することは出来ない。だが話せば身内の恥を晒すことにならないだろうか。
堂々巡りの思案。それに入りかけて、サロメは唾を飲む。
それから覚悟した。いいや、大丈夫だろう。あとでお叱りを受けるとしても、と。
サロメは、唇を軽く噛んで湿らせた。
「実は、我が家の客分、カラス様がこの度のムジカルとの戦に参戦することになりまして」
「まあ!」
ディアーヌは驚き、またルルの顔を見返す。その真偽を確認するまでもなく、ルルの表情が頷いたように見えた。
ならば、本当なのだろう。侍女が嘘をつくとは思ってもいないが、それでもルルの反応を見ればそれは確実に。
しかし何故? とディアーヌはその言葉に疑問を深める。カラスの勇姿を思い返しながら。
カラスの参戦。
当然、とは言わないまでも納得出来ることだ。彼らは王城内での警護として雇われていると聞いたが、そもそもザブロック家にも邸内を警護する者たちは既にいるだろう。
戦争が始まれば、自分たちは王城から離れることになる。多くは王都近くの実家に帰り、または王都近くの知己の家に厄介になることになる。
ならば彼ら探索者は不要となり、その浮いた分の戦力を戦争という功績を稼ぐ絶好の機会に回す、というのは至極真っ当な使い道だろう。
そしてカラスの適性はディアーヌも知るとおりだ。
自分など歯牙にもかけない剣の腕。そして、魔法という凡人には扱えない圧倒的な力。それらを併せ持つ彼が戦場に出ることなど、何も違和感はない。
ならば何を心配することがあるのだろう。
「喜ばしいことではないですか。きっとカラス様ならば、多大な戦果を上げてザブロック家に……」
だが、言葉を吐いたディアーヌは、ルルの顔色にそれ以上言えなくなる。
ルルも、ディアーヌの言葉に内心溜息をつく。彼女もきっと、わからないのだ、と。
言葉を止めたディアーヌに、サロメが注釈をつけた。
「カラス様は、ザブロック家からではなく、ミルラ王女殿下の麾下として参戦されるのでございます」
「……ああ、あの方からの要請で……」
ディアーヌはサロメの言葉に思い直す。
ならば、功績のほとんどはミルラ王女が得るだろう。その功績を奪われることが嫌で、そのような顔を……。
と考えつつも、何となく違う気がした。
ならば何を? とそれ以外の理由を探し、何とか口を開く。
「では、彼の指揮権を奪われたことを気になさっておいでですか? 気にすることはありませんわ、王族の方なんてそんなものですもの」
「そうではなくて……」
サロメもディアーヌの言葉に反駁する。自分が持っている気持ちが伝わらない、と、もどかしい気持ちまで湧いていた。
それから。
いいや、もどかしく思うまでもない、と思い直す。先ほど決めたばかりではないか。お叱りなら後で受けよう、と。
「お嬢様はカラス様が戦場に出ることが不安なのでございます。ジグ様が亡くなったばかりですから」
「……、……なるほど」
一瞬反駁を仕掛け、それでもジグという名前でディアーヌは納得する。
たしかに、彼が死んだのだ。ならば、カラスもいなくなるかもしれない、と考えるのも妥当だろうと。
たしかに、たしかに、とサロメの一言にディアーヌも腑に落ちる気がした。言われてみれば、カラスも死ぬかもしれない場所に行くのだ。心配などいくらしても足りず、それで……。
ふと、それでも、と違う考えが浮かんだ。
たしかに使用人は大事だろう。それが親しい間柄ならば尚のこと。
だが彼女には、もっと他に心配する相手がいるのではないだろうか。心配しなければいけない相手がいるのではないだろうか。
「でも、ならば未来の夫を心配なさいな。勇者様も戦場に出られますわ」
ディアーヌの単純な疑問。いずれ夫となる彼を、先に心配すべきではないかと。
「……勇者様は……」
「そういう観点からすれば、私としましても、勇者様の方が心配ですわね。ベルレアン卿に一矢報いたとはいえ、正直、カラス様と比べると劣る気もいたしますし」
やはり、昨日の決闘は最後までやってほしかった、とディアーヌは思う。どちらの本気も見たことがない以上断言は出来ないが、そういった場では今のところカラスの方が数段上にいる気がする。二人の戦いを見られれば、そういった格付けもはっきりしたというのに。
ディアーヌにはまだ伝わらない。そう判断したサロメは、言葉を更に核心に近付ける。
二人を一番近くで見てきた彼女にとっての真実に。
「勇者様とお嬢様は、結婚なさいません」
「どういうことですの?」
ルルが勇者との結婚に消極的だったのは知っている。だが最近の様子を見れば、大分積極的になってきたと言っても過言ではない。勇者狂乱の噂が出る前には、廊下や昼餐会会場で二人で歩く姿が大分様になっていたと時折見かけたディアーヌも思ったほどだ。
「最近ネッサローズが戻ってきて、また勇者様につきまとっていると噂ですけれど……。まさか、その程度で物怖じしていらっしゃいますの?」
その程度で物怖じをしないように、と自分たちがいるのに。まさか信用されていないのだろうか。
「そうではなく……」
サロメはルルの顔を窺う。やや俯いたその顔をよく見えず、それ以上言っていいものかと。お叱りは受けると決めていたが、それでも探り探りと頭を回転させた。
しかしそれよりも早く、ルルが口を開く。
「カラス様は、私と勇者様の結婚を阻止するべく戦場に出ます。……私の意を汲んで」
「…………?」
ディアーヌの頭の中に疑問符が浮かぶ。どういうことだ、と心底不思議に思った。
「まだそんなことを仰っていらっしゃるの? そんなこと、私たちには……そんなに、嫌ですの?」
親や周囲の決めた結婚を拒否する。そんなことを認められてはいないし、認められてはいけない。ディアーヌはそう思うが、気持ちもわかる。
だが何故だろう。勇者は、そこまで嫌な人間ではない、とディアーヌは感じていた。もちろん人には好みがあるが、それでも万人に嫌われるような者ではないだろうとも。
ルルも、勇者を嫌っているわけではないだろう。ディアーヌはそう推測する。
でも、ならば何故?
ルルが頷き、それにディアーヌは溜息をついた。
「呆れましたわ……まだそんなことを」
そんな反応は貴族の子女として相応しくない。青い血を受け継ぎ、家を継ぐ役目を持つ自分たちには。
そう、自分のことを棚に上げて。
まるで町娘のような反応だ。彼らならば、たしかにそれが出来るだろう。
好きな男と結婚し、嫌いな男とは口も利かない。そんなことが出来るだろう。
それが許されてはいないのに。
ディアーヌの内心に、わずかに苛立ちが浮かぶ。
自らもわからなかったが、それは、同族嫌悪に近い。
「それとも、……なら、何か結婚を嫌がる理由でも? 懸想している殿方でもいらっしゃるの?」
苛立ちを鎮めるために、表に出さずにディアーヌは笑う。諧謔、それも否定されるための。
町娘ならばそういうこともあるだろう、とからかうような。
しかしその反応は芳しくなく、俯いたままのルルはディアーヌにはわずかに頷いたように見えた。
「…………?」
瞬きを繰り返し、ディアーヌは何となくその仕草の意味を図りかねた。否定されると思っていた、なのに。
「カラス様です」
「えっ!?」
そしてサロメの言葉に、ディアーヌは椅子を鳴らして驚く。
ルルも内心は驚いていた。それを仕草に現すことはなかったが。
サロメとルルを勢いよく交互に何度も見て、ディアーヌはその真意を探ろうとする。冗談だろうか、もしや先ほどの自分の冗談に仕返しを、と。
そう思ったが、そうではないと直感した。
サロメとケテは、そんなディアーヌの仕草の方に驚いていたが。
「え? そんなまさか、ザブロック様? 冗談ですわよね……?」
「…………」
縋るようにディアーヌはルルに笑いかける。だが結果はやはり芳しくない。
「……否定は……しません……」
「えぇっ!!??」
意味なく両手を忙しなく動かし、ディアーヌは慌てる。
まさか、そんな様子は今まで見えなかった。今まで、二人はただの主と使用人という関係にしか見えず、だからある種安心して見ていられたというのに。
どうしよう、と何故か自分の侍女を見れば、彼女は呆れたようにディアーヌを見返してくる。その溜息に、また動揺が増していった。
どういうことだ。これはどういうことだ。
侍女二人を見れば、どちらかといえば知らぬ自分に呆れているような顔。まさか、そんなにわかりやすかったのだろうか? いやまさか、そんな……。
ピシャン、とディアーヌは自らに雷が落ちたように感じた。
思い返せば、そうかもしれない。
カラスと自分との剣の稽古を見に来ていたルルの姿。
お茶会で彼のことを話していたルルの顔。
思い返せば、いくつも、いくつも『それ』はあったのに!!
「へー、へ、へえー、そ、そうなんすね……」
恥ずかしさと後悔に、口調も取り繕えずディアーヌは顔を赤らめる。知らなかったのはまさか、自分だけだったのだろうか。
そして納得もする。
なるほど。それはたしかに勇者との結婚に消極的になるわけだ。なるほど。そういう感情を彼に対して持っていない自分からしても、カラスはたしかに魅力的だ。やや平坦な人付き合いの対応という欠点を除けば、悪い物件ではないと思う。
なるほど、と考える度に、ディアーヌの口から「へー」と意味のない言葉が漏れる。
「あー、だから、ああー……」
ディアーヌの頭の中で、次々と様々なルルに関わっていた事象が繋ぎ合わされていく。『貴族の子女として、ありえない』と彼女に対し感じていた全てが、納得に変わっていく。
俯いているルルの顔が、朱に染まっていた。
「な、なら、それをカラス様はご存じなの? いえ、既にカラス様と将来を誓い合っていたりなんて……?」
「…………」
「それは……」
応えないルルに、言い淀むサロメ。
それでディアーヌは全て悟った。
そして、何となく察してしまった。『これ』に関して、知らなかったのは自分だけだ。
「あ! あの! ……ね?」
申し訳なさが更に引き立っていく。おそらくルネス・ヴィーンハートも、ティリー・クロックスも、それを承知で彼女と付き合っているのだ。なのに自分だけが、それを知らず、的外れな批判ばかりしていたのだ、と。
実際には、ティリーもルネスに聞かなければ一切気付くことはなかったのだが。
ディアーヌは困り、空中で手を泳がせる。扇子を持っていれば顔を隠してしまいたい気分だった。汗顔の至り、とはこういうことだろうか、とも思った。
こういうときに、かける言葉とは。そう頭の中で何度も検討が繰り返される。だが落ち着いていればすぐに終わるはずのその思考も、慌てている彼女には出来なかった。
勢いに任せ、勢いよくディアーヌは立ち上がる。
どうすればいいか、わからなかった。
「あの! ね!?」
頬を赤く染めたまま、ルルはディアーヌを見て目を見開く。何を? という視線に、ディアーヌは圧力を感じた。
「私は、その……剣を学ぶのが好きですわ! 思うとおりに剣を操り、思うがままに身体を動かすのが、とっても好きですの」
ディアーヌが胸に手を当ててそう口にする。自分でも、何をどう言うのか整理がつかぬまま。
「その、……父や母や、ケテに反対されても、それは絶対に諦めませんし、変わりませんわ! だって好きなものは好きなんですもの!!」
何を言っているのだ、とディアーヌは自分でも戸惑う。
「私は、……私も、いつかどこかに嫁ぎ、子を成して妻を『やる』日が来るでしょう。でも、その時にも、私は絶対に、諦めたりしませんわ」
もはや譫言のように、いつも思っていたことを口にする。きっとそれは、ルルの現状にも当てはまると心中で言い訳をしつつ。
ディアーヌにとって、人生のほとんど全てが剣を学ぶ障害だった。
貴族の子として生まれた環境が、反対している周囲の人間が、身体能力ではどうしても男性よりも劣ってしまう女性性が。
だがそれでも、負けないのだ。そんな決意をルルに伝えた。
ルルは、その言葉にここにはいない花が好きな少女を思い浮かべていた。
「カラス様が貴方と勇者様の結婚を妨げるために何をするのかは知りませんが、仮に結婚しても、ね? 結婚することになっても、……」
そしてディアーヌの言葉には抑制がかかる。
それは関わる誰に対しても失礼だ、という良識がディアーヌの邪魔をした。
「…………」
黙って聞いているルルに何故だか申し訳なくなり、話をまとめようとする。
ディアーヌには一向に、その話の落としどころが見当たらないのだが。それでも、どうにかして、と愛想笑いに目を細めた。
「……カラス様は大丈夫。きっと戦場に出ても、元気に戻って参りますわ。何せ、魔法使いなんですもの。私たちの理解を超えて、心配など要りませんわ」
言いながら、何か足がかりを見つけた気がした。
「信じて待ちましょう。私たちには結局、それしか出来ないんですもの。いいえ、私たちも戦うのですわ。ただ、カラス様たちとは戦場が違うだけで」
だがその足がかりをしっかりと掴めた気がしない。
「…………」
そんな無力感に、ディアーヌの尻がストンと落ちる。静かにそれを受け止めた椅子がわずかに軋んだ。
空になっていたディアーヌのカップに、ケテが温かい茶を黙って注ぐ。
喉の渇きを覚えていたディアーヌは、それを勢いよく飲み干した。
先ほどまでの空気に戻る。それが今の言葉も一人で盛り上がっていたように感じさせ、なおのことディアーヌに重たく感じさせる。
「……私、応援しますわ」
「…………え……」
そしてディアーヌの言葉に、ルルはわずかに驚愕する。彼女には、反対されると思っていた。その境遇を受け入れて諦めろ、と言われるとも思っていた。覚悟しろ、と諭す。そういう女性だと思っていた。
でもたしかに、先ほどまでの言葉からすれば。
恥ずかしげにディアーヌが笑う。先ほどまでのルルに負けないほど、顔を赤く染めて。
「ザブロック派閥の一人として、ルル・ザブロック様を応援致しますわ。何が出来るわけでもありませんが、話ならいつでも聞きますわ! 同じように戦っている一人として!」
「……ありがとう……ございます……」
ルルは面食らうようにしながらも感謝の言葉を口にする。
後ろでそれを見ていたサロメは、同じように、という言葉には頷けなかったが、それでも味方が増えたのだと安堵する思いだった。
ルルたちがディアーヌの部屋を後にしたのはそれから少し後。
急ではあるが、夜には最後の晩餐会と舞踏会があると連絡も来ていた。
戦争へ参加する人間たちは、早い者では明日から順次出陣していく。そのための、貴族の子女たちだけではなく、この戦争に関わる多くの人間たちが平和の最後を楽しむための会だ。
レグリスとミルラは既に部屋を後にし、カラスはそんな決起集会の準備に駆り出された。
戦争。政争。それに関わる人物が軒並み消えた部屋。
下男と下女がそれぞれ一人ずつしかいない静かな部屋。
部屋に戻ったルルはそんな静かな場所を見て、ふうとわずかに息を吐いた。




