座った席
4話か5話と書きましたが、この話を三つに割ったので、その……
「鶏小屋……といったら失礼かしらね……」
ルルたちからすると大分遅れて部屋に戻った僕は、いつものパーテーションの中から、レグリスが部屋の中を検分するのを眺めていた。
レグリスがここに到着したのは、遅れた僕とほぼ同時だ。女伯爵となった彼女にも政務はある。その調整をしてからここに来たらしく、突然訪ねてこられたことでサロメが慌てていたのが印象的だった。
ルルもいつもより緊張しているらしい。というか、礼儀上も今はくつろげないのだろう。座らず静かに背筋を正して、レグリスの言葉に「はい、お母様」と繰り返し応えていた。
「……上手くはやっているのかしら」
「はい、お母様」
「聞きましたよ。勇者様に見初められ、伴侶の第一候補とまでなっているとか」
「……いえ、それは……」
何かを言い返しかけて、ルルの声が少し沈んだ気がする。
レグリスも気付いたのではないだろうか。一瞬黙り、口元を隠した扇子をパタパタと自分の顔の前で揺らした。
だがルルの言葉はそれ以上続かない。
「母は誇らしく思っております。内気な貴方が、と心配をしておりましたが……」
そして続けようとしたレグリスが今度は言葉を止める。
サロメがティーポットを机に置いて、カップを二つ離して並べた。それぞれ上座と下座。ルルとレグリスの分だろう。
「あら、ありがとう」
サロメが無言の会釈で応えるが、その顔に戸惑いが見える。
戸惑った原因は、レグリスが着席しようとしている場所。
上座と下座。招いた部屋の主はルルで客人がレグリス。レグリスは爵位を持ちルルは無位。レグリスは親でルルは子。座る配置はその場にいる人間に応じて幾通りもあるが、この場合はレグリスが上座に座り、ルルが下座に座るのが正しい、と聞いた気がする。
もしくは双方上座でも下座でもない同列の席に対面で座る、と。
しかし重そうな衣装を折り曲げるようにしながら、レグリスが座ったのは下座。驚き一瞬動きを止めたサロメに、レグリスが連れてきた侍女が視線で『早く茶を注げ』と促しているようだった。
暑いのだろう。こちらから見えるレグリスのうなじの白粉が、汗で薄く剥がれていた。
それから二人の事務的な会話が始まる。
僕はそれを眺めて、ちょうどいい、と何となく安堵する。こういう場合、タイミングが悪いのは僕の常だ。それが逆に、レグリスがここにいるというのは僕にはそうない絶好の機会。
レグリスのルルの部屋への滞在。
何の用かはわからない。言葉の通りなら、勇者を射止めた功績の礼賛か、それとも気を抜くなという激励か。それとも単なるご機嫌伺いか。
……レイトンが関わっているという可能性もあるのが嫌になるが。むしろそれが一番ありえそうなのが悲しい。経験上、僕の行動や策動がタイミングが良く進むわけがない。
しかし今回はありがたい。今は無理だが、会話が途切れれば僕も彼女らに何となく話しかけられる。あとは、先ほど僕が話した彼女がここにいつ来るか、だが。
「勇者様はどんな方ですか?」
「……少し難しい方です。やはり、ニホンとこちらでは何かと勝手が違うらしくて」
「そう。ですがこれからは大丈夫ですね? きちんと貴方が支えて差し上げるのですよ」
「…………」
ルルが頷く。
レグリスが扇子で口元を隠したまま、ほんのわずか、横目でちらりとこちらを見る。僕にはそれが、何故か牽制のようにも見えた。
「これで私も安心出来ます。あとはあちらからの婚約申し込みを待つばかりですが……」
「しかしそれに関しては奥方様……」
言葉を止めたレグリスに、サロメがおずおずと口を開く。ルルは目を伏せたまま喋らず、一口だけ白茶を含んで机に戻した。
「何です?」
「先日ミルラ王女から世話役を変わられた方から使い越しに伝言がありまして、その……遠回しではあるのですが、婚約などは……」
「婚約の差し止めがかかっている。ええ、存じておりますよ」
恐る恐る、という風なサロメの言葉に、レグリスがピシャリと応える。呆気にとられたように固まったサロメを見つめ、拍子を取るように自身も白茶を一口飲み込んだ。
「ですがあんなもの、単なる上級貴族へのご機嫌取りに決まっているでしょう。陛下はそういうお方です。貴方たちまで騙されては困ります」
「……そうなのですか?」
サロメが驚きを見せながらルルを見る。相変わらず、口を閉ざしているルルを。
「ルル。貴方はさすがに気付いているでしょう」
「……はい、お母様」
「問題になるのは戦後のこと。勇者様から申し込みが来るのは戦後ですし、結納などはそれ以降になるでしょうが……めでたいことには変わりない」
レグリスが扇子を閉じる。
「だというのに、……何を暗い顔をしているのですか?」
「いえ、そんなことは」
「勇者様との結婚が不安なのですか? これはザブロック家にとっても、貴方にとっても幸運な出来事なのですよ?」
「…………はい、ありがたく思っております」
喜ばしいのなら、大抵は暗い顔はしない。顔が暗いのは喜ばしいことではないから。
レグリスも、そう思ったのだろう。多分、その理由も察しがついているのだろうが。
またちらりとレグリスがこちらを見る。オトフシも僕も、それには無反応で通した。
それからルルたちの言葉が少なくなり、一杯目のお茶がなくなる頃。
ようやく、彼女らに声をかけられそうな状況になる。心情的にも身分的にも彼女ら親子の語らいを邪魔出来ないが、会話もほぼ途切れた今ならば何とかいける。
今だ、と僕は腰を浮かす。
やはり先にレグリスにも話しておくべきだろう。ルルも多分反対はしない……と思う。
だが、廊下の方から僕の耳に足音が届く。やはり、タイミングは悪いらしい、と舌打ちした。
部屋に玄関からノックの音が響く。
オトフシは全くその外を見ずに、サロメに呼びかけた。
「安全です。どうか、最上級礼で」
「最上……?」
レグリスの侍女が小さく呟く。二人分の足音を聞いていた僕はその来客が誰だか察しはついているし、そもそもここに来てほしいとお願いしたのも僕だ。
レグリスに礼をし、パタパタとサロメが玄関に歩み寄る。扉を開けて、そしてそこにいた顔に、何事かと彼女は何故か僕の顔を一度見た。
突然の来客。本来立ち上がる必要もないレグリスが慌てて立ち上がる。レグリスの侍女などは、小さく口の中で「あっ」と声を上げていた。
姿を見せた来客は、優雅な笑みを浮かべて室内を一度見渡した。そして僕を見た後、中にいるレグリスを見て、その唇にほんのわずかに緊張を見せた。
そういえば彼女も、金の髪か。
「ごきげんよう、ルル・ザブロック。そして、初めまして。お会い出来て光栄ですわ、レグリス・ザブロック卿」
緊張しているのだと思う。それでも優雅な仕草は乱れず、ミルラ・エッセンは嫋やかな仕草でドレスの裾を揺らしてわずかに頭を下げた。
慌てて立ち上がったものの、すぐに落ち着きを取り戻したレグリスは焦る様子もなくまた扇子を開く。唇の端の白粉は、少しだけ割れているようだったが。
「これはミルラ王女殿下。初めてお目にかかります」
「私の方は、初めてという感じはしませんね。私と致しましては、憧れの貴方にお目にかかれてそれだけで満足というところなのですが、……今日は少々お二人に用事がありますの。お邪魔だったかしら?」
「娘に、ではなく私にも?」
「ええ。お二人に」
もう一度視線をミルラから向けられ、僕は立ち上がる。そんな僕を見上げて、オトフシは声もなく鼻で笑った。
パーテーションから出る。部屋中の視線が、僕とミルラの間をぼんやりと行き来した。
「来るムジカルとの戦争。戦力などいくらあっても足りるということはありませんわ」
「……まさか」
レグリスがほんのわずかに眉を顰めた……と思う。眉間に皺ではなく罅が入った。
「察しがついているとは思いますので、前置きは省かせて頂きます。ザブロック家に要請します。使用人カラスを、私の兵としてお借りしたいのですわ」
部屋にいる、オトフシ以外のザブロック家の四人が皆一斉に驚愕に目を剥く。
しかし皆、それを表に出さない見事なもの。「はぁ!?」と声を上げ、それを示したのはサロメだけだった。
「ありがとう。ザブロック家で出されるお茶は他の家とも違う良い香りがいたしますわね」
とりあえずと通されたミルラは、レグリスの斜め前、一番の上座でもなく下座でもない場所に腰掛けた。先ほどと変わり、今度はレグリスが上座に座る。そしてミルラの真正面には、部屋の主である、ルル。
「……どういうことでしょうか」
ルルが先ほどよりも少しだけ低い声でミルラに問いかける。その最中に、僕にもちらりと視線を向けたが、……これは多分、怒っているときの声だろう。
気付かないようにミルラは態度を変えず、お茶菓子にと出されたクッキーを小さく割った。
「言葉の通りです。探索者カラスを戦線に投入させていただきたいのです。変則的ではありますが、彼は私の私兵として、遊軍として行動していただきたい」
「何故?」
「何故、と仰いましても……、ルル・ザブロック様、貴方は必要だと思いませんか? 聖騎士二名がムジカルの工作員に殺害されるという事件が起きた。数名だと推測されている単なる工作員が、聖騎士をですわ」
ミルラの不敵な笑みに焦りなどは見えない。だがこれは、たしかにミルラの懸念事項だった。
「今回従軍する予定の聖騎士団は九つ。おおよそ二百三十名。最終的に戦闘を行う各地の騎士団やその他の戦力は合わせて三万ほどになる予定です。その三万のほとんどが聖騎士以下の練度しかない以上、無視してもよい数字でしょう」
「……何を仰りたいのでしょうか」
レグリスが言葉の先を急かす。ミルラはルルに顔を向けたまま、視線だけをレグリスに向けた。
「この戦争は負けますわ。単純に、手が足りずに」
「そんな、まさか……」
不快さにレグリスが小さく首を横に振る。これは多分、本気だ。
「しかし前回のムジカルの侵攻は、今回よりも少ない派兵で撃退出来たはず。何故前回と違うのです?」
「…………」
ミルラが言葉を選ぶように黙り、クッキーを口に入れて間を取る。話している最中にものを食べるのもあまり誉められたことでもないはずだが、音もさせずに咀嚼するその仕草は、何故だか綺麗に見えた。
ミルラの喉が動く。
「私が個人的に入手した情報から。今回、ムジカルが本気だからですわ」
「本気?」
「ええ。簡単な試算でおよそ十万以上の兵が押し寄せる。もちろんその個々の強さは聖騎士どころか我がエッセンの騎士団にも劣るでしょうが……今回、その想定もわからなくなりました」
それは僕もそう思う。
ジグともう一人の聖騎士は死んだ。ムジカルから少人数で遠征に来た誰かがそれをやったとするならば、その誰かはムジカル軍の中でどれほどの手練れなのだろうか。
それがカンパネラならば話が早い。
彼は〈成功者〉ラルゴ・グリッサンドの麾下の魔法使い。そして同格と想定される魔法使いは当然複数いて、そしてそれは他の五英将の麾下にもいる。
つまり、聖騎士を殺せる人間はそれなりに大勢いる。
「その戦力差は、カラス様一人の参戦で埋められるものでしょうか?」
「どうでしょうか。それはご本人に聞いていただけませんと」
そんなはずがない、というレグリスの反語混じりの問いかけに、ミルラは僕を巻き込むように笑う。僕も何か応えるべきだろうか、と口を開きかけたが、それよりも先に口を開いた女性がいた。
「…………だとしても、カラス様が出陣なさる理由にはなりません」
俯きながら、ルルはそう呟く。膝の上に置いた拳が小さくなったように見えた。
「これは要請です、ルル・ザブロック様。国家の存亡の危機、ベルレアン団長に匹敵するほどの戦力を出し惜しみは出来ませんわ」
「……だとしても」
顔を上げたルルが、ミルラを真正面から見つめる。視線が、先ほどミルラがいなかったときよりも、大分強い。
「私は拒否させていただきます。レグリス・ザブロック女伯爵閣下に雇用され、カラス様は今私の管理下にあります。ならば……」
「口を慎みなさい、ルル」
レグリスがルルを止める。
「わかりました」
そして小さく溜息をついて、またこちらをちらりと見た。
「失礼致しました、ミルラ王女殿下。殿下からの要請ならば喜んで。要請は承りました」
「お母様」
「ルル。これは王女殿下からの要請です。ミルラ王女殿下は寛大にも私たちを説得に当たってくださっておりますが、本当ならばこのような話など不要なのですよ」
「でも」
「聞き分けなさい」
言い募るルルを、レグリスがピシャリと言い込める。だがそれからまた、今度はじろりとこちらを見たのが、何となく叱られている思いだった。
ミルラも溜息をつく。
「そうですわ」
ルルがその言葉に唇を尖らせる。それをミルラは、ふふ、と笑った。
「そしていくら寛大な私とはいえ……私ばかり悪者になるのはやはりいかがなものかと思いますわ? カラス」
「……申し訳ありません」
呼びかけられ、僕は思わず視線を逸らして謝ってしまう。レイトンからの策とはいえ、やはり先にルルに話は通しておくべきだったのだと思う。
彼女なら、……いや、レイトンが言うところでは、先にルルに言ってしまえばもっと大きな反発があったという。だから黙っていた。半分、騙されて。
その後結局、言い出せることもなくここに至る。
後悔と慚愧の念が胸中に満ちる。これは、ルルが怒っているのは、乗ってしまった僕の責任だ。
「……カラス様?」
信じられない、とルルはこちらを見る。
改めて僕はルルを見て、深く頭を下げた。
「申し訳ありません。参加は、私が望んだことです」
頭を下げた僕は、先ほどミルラを説得したときの事を思い出していた。




