みんな忘れてしまった
体調崩してたので間空きましたがエタりはしません。
「と、そういうわけだ」
応接用の椅子に腰掛けて、クロードがそう口にする。
真正面のルルにではなくその後ろにいる僕に向けた端的な言葉。
決闘状と呼ばれる正式な書類。いや、書類として公式なそういうものがあるというわけではなく、決闘を行う際に相手に送りつけるものとして正式な書簡。
送り主はビャクダン家。送り先はザブロック家。以前オルガさん立ち会いの下レヴィンと行ったものと違い、今回は家と家との間の正式なものだった。
クロードから受け取ったルルが、その中身をちらりと覗き、そして僕に手渡す。
手渡された僕は当然その中身を読むことになったが、なんというか、『古風』という感のものだった。
「随分と……達筆ですね」
文章的には簡潔なものだ。
『来る三日後の夕。処刑場にて信と義を賭け争う魂。残すは影一つ』
……正直、三日後にやる、程度の意味しかないものだがこういうものらしい。
「ジュリアン本人の筆跡だな。教養はあるようだ」
オトフシが覗き込み、注釈を入れる。そこを疑ってはいないが、そうなのか。
そしてクロードがまた口を開く。億劫そうに。
「時間は三日後の夕の五の鐘。処刑場で行う」
「出るのはジュリアン様でしょうか?」
レヴィンはあのとき自分で戦った。今考えれば、それだけはあの男の数少ない美点だと僕は思う。だが、クロードは首を横に振る。
「いいや。代闘士を立てるだろう。そして、ザブロック家側からはカラス殿、お前を指名してきている」
「そんな条件つけていいのでしょうか?」
僕は苦笑いしてそう皮肉を言う。それならばこちらからも、ジュリアン本人に出ろと言いたいところだけど。
クロードも、それに応えるように苦笑した。
「本来は駄目だな。だが、今回の事の発端を考えると、仕方ないとは俺も思う。立会人を務める立場から俺もそれを薦める」
「相手は誰です?」
こちらは僕が出る。
まあ確かにそうだろうとも思う。ザブロック家の抱える『戦える人物』。そのうちの一人だし、ルルの命令ともあれば出ないわけにはいくまい。オトフシも命令は聞くが嫌がるだろうし。
それよりも、では相手は?
「まだ決まっていないらしい。数人の傭兵や魔術師に声をかけていると監視している部下から報告が上がってるが、成果はないようだな」
「ジュリアン様に出てきて頂きたいものですけれど」
「いいな、それは俺もそうしてほしい」
僕の言葉にゲラゲラとクロードが笑う。立会人といえば本来中立のはずだが、それでいいのだろうか。
「……何を賭けての決闘なのでしょうか」
ルルがぽつりと呟く。今までその話に誰も興味を示さなかったのが不思議なくらいだが、何となく意表を突かれた気分だった。
「今日の昼、昼餐会での喧嘩。その、どちらが悪かったか、という責任らしい」
「私はあの会場にいた皆様に判断して頂ければそれでよろしいのですが」
「それでは済まないと言っているのですな、ビャクダン家は」
頬杖をつくようにクロードが自分の両頬を支えて溜息をつく。
「カラス殿とジュリアン様の口喧嘩を発端とした争いはルル・ザブロック様を巻き込んで、更にその後クロックス家とヴィーンハート家のお二方まで加わった口論に発展した。もはや不問には処せないし、誰かは、もしくは誰もが責任を取らなければならない」
「私は、間違ったことは申しておりません。それで責任を取れと言われるのは不愉快です」
「それを、向こうも仰っていらっしゃる」
クロードはルルの言葉を遮るように言い切った。
「どちらが正しいかは詮議をすればいずれはわかりましょう。それぞれの言い分とそれを口にした経緯に順番を紐解いていけば、いずれは。けれど、それも時間がかかるし、時間が経つほど不明瞭になる。カラス殿」
「…………?」
「ジュリアン様と、互いに何を言ったのか鮮明に覚えているだろうか?」
「はっきりと」
当然、と僕は思う。会話の間までは自信がないが、言葉ならば再現出来ると思う。
僕が応えると、クロードがまた唇を尖らせて渋い顔をする。
「……普通は覚えていないんだよ。興奮していれば特に」
「…………そうですね」
そしてクロードの言葉に、たしかに、とも腑に落ちる。交わした言葉ではないが、ルルに止められるまでにジュリアンが何かを言っていたと思う。しかしたしかに、その辺りは全く覚えていない。
「その上、第三者が聞いてでもいなければ互いに言った言わないの水掛け論だ。そして、善意の第三者はおおよそジュリアン大公ご子息閣下の味方になってしまうだろう」
「それは向こうもお望みでは?」
始めからその種の争いの勝敗は見えている。向こうは貴族で僕は人でなし。ならば、悪いのは僕になるのだろう。
仮にルルが味方についてくれても同じ事。向こうは公爵家、こちらは伯爵家。善意の第三者がすり寄るのならば間違いなく向こう側だ。
「それはそうでもないらしいな。半分ほどはクロックス様のお手柄じゃないかと俺は思うんだが」
もっともらしくクロードは両頬を添えた手でつり上げながら言う。ふと気付いたが、『お手柄』というだけで、この男が中立でないことはよくわかると思う。
「己が戦う、とは言えないまでも、己が選んだ代闘士に自身の正しさを証明させる。そこに家の事情などを入れないように、とな」
手でつり上げたわけでもなく、クロードの口角が上がる。それからルルの方を向いて一言呟くように言った。
「良いご友人を持たれましたな」
「……ええ。カラス様も」
視線を机に向けたまま、ルルは僕へと話題を逸らす。
彼女も、誇ればいいのに。
「ともかくとして、簡単なことだ。今回の決闘で賭けるのは、あの時の言い分。もちろん全てではないが、勝った側の言い分が通ることになる」
「どうせ、こちらが勝っても公爵家を慮る裁定が下るのでしょう?」
景気よく言い切ったクロードに水を差すように、腕を組んだオトフシが鼻で笑う。楽しそうに笑っているが、僕としてはあまり楽しくない話題なのだが。
そして、それもそうだと僕は内心同意する。どうせそうなる。この国は、下から上までそういう国だ。
不測の事態への対処を考えずに勇者を城外へと見逃したミルラはその失態を不問にされ、城内で殺人が起きても公爵家が関わっていただけで未だに誰にも知られていない。
貴族と平民と賤民は明確な上下があり、万民に適用されるはずの法も、上位が下位に行う限りにおいて何の枷にもなりえない。
たしか昔オルガさんは言っていた。『貴族は決闘の取り決めは必ず守る』と。それは貴族にとって、交渉の窓口を一つ放棄するということに等しいからと。
……だが仮にそれを反故にしたところで、もしかしたら何の不利益もないのではないだろうか。行うのが、貴族とそれ以外の場合には。
オトフシが顎を上げ、薄笑いで口を開く。
「『ビャクダン家とザブロック家の名前を使い行われたとはいえ、これは決闘などという物騒なものではなく単なる子供の喧嘩でしょう。まあまあ、ここは穏便に』」
そして吐かれた芝居がかった言葉。ジュリアンもルルも子供という年齢ではないはずだが、オトフシにそう言われてしまえば何となくそんな言い分が通りそうな気がした。
「『いいえ、これは決闘です。私が立会人を務めた公正な』」
芝居がかった口調をクロードが継ぐ。だが幾分か、オトフシよりも棒読みだった。
言い切ったクロードは一瞬黙り、噴き出すように笑う。
「まあ、そう言いたいところなのだが、普通にやればオトフシ殿の仰るとおりのような展開が待っていましょうな」
「普通にやれば?」
「単なる喧嘩で人は死なん」
奥歯にものが挟まったような言い方だったクロードの言葉尻を捉えれば、クロードは我が意を得たりと頬を支えていた両手を天へと伸ばす。
「……まるで私に相手を殺せとでも言いたげですが」
「殺せとは言わんよ。だが、無傷で済ませることもあるまい」
前屈みになり、クロードが机を指で叩く。
「カラス殿もではあるが、互いに承知の上で舞台に上がって頂く。怪我をし、最悪死ぬような舞台に。それを単なる喧嘩というのは通さん」
「それはクロード殿が決めることではないでしょう」
「ま-、そうなるがな」
騎士爵程度のクロードがどう思うかなど、公爵様にはどうでもいいことだろう。それを言うと、クロードも首を反らして同意した。
「だが、逆に考えてもみろ。カラス殿が勝つ。そして、ルル・ザブロックの言い分が通ればよし。通らなければ決闘という手段の公正さに関わる」
「だから、決闘ではなかった、ということにすると……」
「決闘ではない、ただの諍い。それもルル・ザブロックとジュリアン・パンサ・ビャクダンの個人的なもの。家の沽券には関わらないものともなれば、ただの喧嘩。そうなれば、さすがにその諍いの顛末はミルラ王女、果てには警備主任の俺の手の中に入る」
ぐ、とクロードが手を握りしめる。
「そうなったらもうこちらのものだ。『穏便に処置を』とでも伝えて全部不問にしてやるさ。それくらいの意地は俺にもある」
「私が負けたら全部水の泡ですね」
「今から負けたときのことを考えるなよ。負け癖がつくぞ」
ついつい水を差すように僕も口を挟んでしまう。だがそれを受け流すように、クロードは鷹揚に笑った。
「武器も魔法の使用も認め、決着は戦闘不能か降参のみ。ならば、カラス殿に勝てるとしたら俺にも勝てる相手になるぞ。そんな者は天下広しといえどもそう何人もいまい」
「今適当に考えただけで三人ほどいらっしゃいますね」
何人もいない、という言葉に僕は指を折って数える。
そもそも僕は天下無敵と自慢しているわけでもないし、目指しているわけでもない。もちろん時の運もあるし簡単に負ける気もないが、僕に勝てる人間というならばそれなりにいるだろう。
「嘘だと言え」
クロードがはっはっは、と笑う。鷹揚な笑いが、何となくわざとらしいものに変わっていった。
……しかし、ジュリアン・パンサ・ビャクダンとの決闘か。
また妙な展開になったものだ。まるであの時と同じ。
レヴィンと初めて会ったあの時。奴の腕を内傷が起きる程度にぽっきりと折ってやったあの時の決闘のような。
決闘など一度だけ。作法も知らず、まあ適当な野試合と考えればいいのだろうか。
本当に、レヴィンと同じように直接かかってくればいいのに。そうすれば、もう止められることもない。クロードの言っていたとおり、もう喧嘩とも呼ばせない。首をはね飛ばし、喧嘩とも言えない状況にしてやるというのに。
恨みがある、というのであればそうすればいいのだ。
レヴィンが功名心から僕へと向かってきたのと同じように、ジュリアンも恨みを持って僕を襲いに来ればいい。
むしろ、その恨みを持った従兄弟の某かは何をしているのだろうか。
そもそも、誰だそれは。今までビャクダン家に関わったことは絶対にない。
しかし、ビャクダンではない彼の従兄弟というのであれば、母系の方で……。
母系?
……パンサ?
「……あっ……」
話題が一段落し、出された茶を無言で啜っていたクロードが、僕のわずかな声に顔を上げる。
「どうした?」
「いえ」
何となく恥ずかしくなり、僕は口ごもり視線を逸らす。その先にサロメがいて、思わず反対を向いたところにオトフシがいてまた何となく誤魔化すようにクロードを見た。
「なんだ、にやついて」
「いいえ。この国の風習の一部にはまだまだ疎かったなぁ、と自嘲です」
オトフシならば気が付いていたのではないだろうか。いや、オトフシではなくとも、オルガさんならば。……他の人間と違い、気付いていたら教えてくれる人だからオルガさんも気が付かなかったのだろう。多分。
「何を恨まれているのか何となくわかったので」
「ほう」
長い人生、ほんのわずかしか関わっていない人間の細かい名前など覚えていない、と誰にかはわからないが弁解したい。
たった今レヴィンのことを思い出していたから、連想出来ただけなのだが。
僕がこの国で決闘を行った数少ない経験のうち、その最初のあれ。
レヴィン・セイヴァリ・ライプニッツとの決闘。それを思い出していたから。
そしてレヴィンとの決闘は、正確には最初の決闘ではない。
「従兄弟って、グランヴィル・パンサ・サーベ……ラス? のことでしたか」
僕はオトフシにそう問いかける。
どうせオトフシもあの昼餐会会場の騒動は聞いていただろう。そしてジュリアンの言葉も。
腕を組んだままオトフシは笑う。溜息交じりに。
「なんだ、今更気付いたのか」
「誰だ?」
「副都イラインにある男爵家の長男だな。母系の家は、今カラスが言ったとおり、パンサ」
クロードの問いにオトフシが端的に応える。
そう、母系の家。この城に来る前ジュリアンの名前をオトフシから聞いたときに、普通に気付くべきだったのだ、僕は。
この国の騎士爵を除く男性貴族の名前は、三つの連なる名前になっている。三つの名前はそれぞれ、名前、母方の姓、父方の姓、となる。
昔ルルの授業を盗み聞きしているときに聞いたこと。知識を生かせていなかったというのはこういうことだろう。
「いったい何を……」
「以前、決闘をしたことがあります。今回と同じように」
「こいつが顎を盛大に潰したせいで歯を全部失った可哀想な男です」
オトフシが笑いながら僕を指さし、注釈を加える。その言葉にルルは眉を顰め、サロメは絶句し口元を隠すように押さえた。
「それは……恨むか……?」
クロードは困ったように唸るが、すぐに答えは出る。多分それは僕も同意見の。
「しかし決闘だろう? 意趣遺恨残らぬはずの」
「はずの、というところが重要でしょうな。ベルレアン卿の十代の頃を想像されるといい」
「まるで俺の幼い日を知っているかのような言葉だが……まあ、わからなくもない」
オトフシの嘲るような笑みを、クロードが苦笑で迎える。
それから、得心した、と笑顔で頷いた。
「なるほどな。決闘、ならば勝った方から謝罪も出来ん。恨み骨髄に入ったグランヴィル某のために、大公ご子息閣下は義憤に駆られてカラス殿を狙っていた、と」
「そのようですね」
「あの殺人事件の謎が解けましたな。ははははは……はは……」
笑みを浮かべて、一転、クロードは頭を抱える。そのまま笑うように鼻息をこぼしていた。
まあ、謎が解けたからといって僕が何かをすることはない。
グラニー、だっけ? あの男が未だに僕を恨んでいるというのは仕方のないことという気もするし、そういう感情を持つことは止められまい。それが貴族失格、というふうなことを置いておいても。
それよりも好奇心が湧く。久しぶりに。僕はオトフシに顔を向ける。
「パンサ家、というのはどういった家なんでしょうか? 召集された中にはいらっしゃいませんでしたよね?」
「ん? ああ。今回はたまたま『空き』がいなかったのだろう。本来ならば真っ先にこういう場に出す家だが」
「娘を公爵家に嫁に出し、同時期に男爵家にも。ビャクダン家はわかりますけど、サーベラス家にそんな旨みでもあったんでしょうか?」
何となく思い出してきた。あの狐騒動のとき。競売会場で会ったグラニーの父親は男爵『止まり』とオルガさんに評されていた。つまり、そんなに評価されているわけでもない家だろうに。
公爵家に嫁に取られるとすると、それなりに名家のはずだ。だが、それが降嫁とも呼ぶべき男爵にも嫁ぐとは。
「あそこは手当たり次第に嫁に出すからな。以前、この国の貴族はほぼ全員血が繋がっていると言っただろう?」
「はい」
「その大きな要となっている家の一つだ。パンサ子爵家は」
くだらない、とへらりと笑い、オトフシが笑い飛ばす。
「お前はムジカルで薬師をやっていたと聞くが、助産の経験は?」
「ありません」
「……だが、知識としては知っているはずだ。 男腹、女腹という言葉。あそこの家は代々極端な女腹だ。家を興してから継いできた当主のほとんどが、他家から婿入りした男、というくらいにな。そして」
言葉を切り、オトフシは組んでいた腕を解いて胸の前で両手を広げる。何かを止めるため、ではなさそうだが。
「そして平均的に、一世代に十人ほどの娘を作る」
「…………子だくさんですね」
「以前当主の妻となったパンサ家の女と話したこともあるが、そいつは一縷の望みもかけていたらしい。やはり自分の血の繋がった男子がほしい、という欲求もあることはあるそうだな」
……なんだろう。下世話な話をしている気がする。
けれども、何故だろう。オトフシの昔話、という感じの話。
何故だろうか、先ほどから、歴史の授業を受けている気がする。
「その多くの子供たちが、多くの家に散っていく。そうするだけで、需要と供給が成り立ってゆく」
「…………」
「新興の家の多くは、より上位の家との繋がりを持ちたい。今回のサーベラス家がジュリアンの従兄弟となれたように」
「そちらはわかります。けれど……」
だが、ビャクダン家からは別だろう。より上位の家というものが存在せず、縁を繋ぐなら公爵家、せめて侯爵家辺りまでではないだろうか。
「一方、その『より上位の家』側からは、身分の低い妻、が手に入る」
「……そんなもの必要ですか?」
「必要だな。たとえばジュリアンの兄弟関係は覚えているか?」
また。
なんとなく、教師に以前の授業の復習をさせられている気分になってきた。もちろん、覚えさせられたことは大体覚えている。
僕は一度頭を掻いて間を取り、情報を頭の中で整理して吐き出す。
「三男二女のうち、三男です」
「そうだな。多くは部屋住みのうちに一生を終える、三男だ」
オトフシは笑う。くつくつと楽しそうに。
今現在この部屋で笑っているのはオトフシだけかもしれない。いやまあ、確実にオトフシだけだ。
「貴族の家は原則男子が継ぐ。そしてもしも長男が夭折したときに備え、二人目、三人目を作る。だが、二人目の出番があることなどそうそうないし、三人目など尚更だ」
「この国は、一夫一妻制では?」
ならばその子供たちは、皆同じ父母を持つはずだ。父も母も違う兄弟姉妹が大勢生まれるムジカルと違って。
そう一瞬考えたが、僕は言葉に詰まった。
「そうだな。だが、目の前に既に例外がいるだろう」
「オトフシ殿、失礼です」
黙って聞いていたルルが目を伏せる。それを見たサロメが咎めるが、オトフシは悪びれることもなく苦笑した。
「口が過ぎた。申し訳ない。では切り口を変えよう。身分の高い妻の子は、それ相応の扱いが求められる。大事に育て、時がくれば仕事を世話し、妻の家に失礼のないよう丁重に扱わなければならない。……部屋住みのまま一生を終えるなど、以ての外だ」
「……最悪、使い潰してもよい予備のために」
「そうなる。パンサ家も、それを承知で嫁に出ている。嫁、というのもおかしいな。結婚ではなく、別の言葉が一応王貴典範というもはや誰も読まん分厚い本には載っていたのだが……まあ忘れてしまった」
途中までは調子よく喋っていたものの、オトフシも片目を瞑り唇に指を当てて悩む。
だがすぐに諦めたようで、その続きを思い出そうとはしていないようだった。
「最後に、嫁を出したパンサ家は、代わりにその嫁を育てるのにかかる費用の倍ほどの支度金を受け取っている。特に家業も持たないパンサ家のしのぎ、というやつだな」
ギリ、と歯を食いしばる音が聞こえた。
一瞬僕の拳が握られた音かとも思った。事実、焼け付くような痛み。僕はまた、無意識に拳を握りしめて何かを我慢していたらしい。
だが音は違う場所から聞こえてきた。音の方向を見れば、視線は右斜め下。そこにいるのは、ルル。
「……結婚を、そんな簡単に……」
「冷静に考えてみれば回っているのがおかしな仕組みなのですが。まあ、そういうものもある、とルル様におかれましては辛抱頂ければ」
慰めるようにオトフシが言うが、ルルはそちらを見ない。それからその返答の代わりに食いしばった歯を解いて深く溜息をついた。
「……オトフシ殿は」
いつの間にか腕を組んで話を聞いてたクロードが口を開く。先ほどのオトフシのように片目を瞑り、それでいて胸をはった威厳のある姿で。
「…………随分と昔のことをよくご存じらしい。王貴典範など、現在書庫の中でも紛失していると聞いたことがあるのに」
探るようなクロードを、オトフシは鼻で笑う。
「私は人よりも長く生きておりましてな」
「オトフシ、というのは本名か?」
「それは警備に関わることでしょうか?」
何となく空気が引き締まる。見つめ合った二人の間に、ぴし、と空気が鳴った気がする。
だがそれも束の間。すぐに顔を崩したクロードに、空気が緩んだ。
「いやいや、失敬。女性の過去を探るものではないな。それで何人から張り手を食らったことか」
「それが賢明かと。機会があれば自ら話すのが女というもの」
オトフシの表情も緩む。言葉に合わせて返した手の先、爪がきらりと光を放った。
「気をつけましょうとも」
もはや気品の欠片もない立ち方で、どっこいしょ、とクロードが立ち上がる。
それからまた、何かを思い出したかのように僕を見た。
「そうだ、カラス殿。これから暇か?」
「……いいえ。夜は私の仕事の時間なので」
「そうか、残念」
酒の誘いなら断るし、それ以外でも大体断る。その理由が出来ているだけ、警護の時間調整もよかったことなのかもしれない。
「カラス殿と一緒なら、ミルラ王女殿下をからかいにいこうと誘ったんだが」
「…………一国の王女を、からかうとは」
随分と不遜な言い様だ。正直、クロードらしくもない。
「なに」
聞かれたクロードも、表情を歪める。
決して、楽しそうではない。どちらかというと、寂しそうな笑みで。
「ミルラ王女殿下はいま、とっても落ち込んでいらっしゃるからな」
そう、クロードはぽつりと呟いた。
オトフシの話にでっかい矛盾がありますが、後で使うやつなので気づいた方は内緒で……。




