少女乱舞
手を引かれるがままに、僕とルルは廊下を歩く。先ほど啖呵を切ったルルはそれきり黙ったままで、僕たちの間には何となく気まずい沈黙が流れていた。
相変わらず、ルルの表情がわからない。怒っているような、悲しんでいるような表情で、しかしとりあえずはジュリアンに対して怒っているのは本当なのだろう。
すれ違った使用人たちが、僕たちに気が付いて驚いたように振り返る。もしくは驚いて足を止める。それもなんとなく、気まずかった。
「あの……」
何を言えばいいのかもわからないままに、どうにかして僕は声を出す。それに応えるように足を止めたルルに、僕たちは廊下の真っ只中で立ち止まることになった。
「…………」
困った。何を言えばいいのだろう。理由を聞くのか。それとも、これからのことを相談するのだろうか。
ジュリアン・パンサ・ビャクダンを怒らせた。始まりは僕だったが、それを継いでルルが。
本当は絶対にやってはいけないことだろう。
よく覚えていないし、今は知らないがたしかザブロック家は太師派だった。つまりビャクダン家派に属する家で、そして公爵家と伯爵家の明確な格差がある。主家というほど密接な繋がりはないはずだが立場はまあ悪くなる。
今からでも謝罪を促すべきだろうか。もちろんルルにその責を負わせるわけにはいかないので、僕の首を差し出して機嫌を取るというのがもっともわかりやすい結末だが。
僕の手を握ったまま動きを止めたルルが、力なくこちらを向く。
彼女を困らせるわけにはいかないし……。
違うな。
いや、確かに謝罪などは考えるべきだろう。今後の展開も考えるべきだろう。
だがひとつ、まず僕が発しなければいけないこと。それは人間社会で生きるために、多分必要なこと。
意を決するように、僕は口を開く。なんとなく、勇気が必要だ。そう思った。
「あ……」
「どうしましょう」
だが僕が感謝の言葉を吐く前に、ルルは力なく笑い、困ったように溜息をついた。
「まずお義母様に相談するべきですよね。……手紙などでいいでしょうか。卒倒してしまわれなければいいのですけれど」
続けてルルは、拳の内側を口元に当てて思案する。ここ数日、こんな姿は見ていなかった気がする。
……いやいや、それ以前にまずは。
「その前に」
「……何か?」
僕が改まった態度を取ると、ルルは眉を微かに潜ませて怪訝な目をする。
僕はその態度にまた言葉を吐きづらくなったが、それでも、肺の中に出来た何かの塊を吐き出すように何とか口にする。
「ありがとうございます。私のために」
「カラス様の……?」
それから続くルルのきょとんとした顔。だが、数瞬待つと何事かに思い至ったように首を横に振った。
まるで、慌てるように。
「あ、それは! その、カラス様のためじゃなくて……」
「代わりに怒って頂いて感謝しております。私が怒ると、大惨事になりますし」
冗談めかして僕は笑う。だが、本音だ。
後一瞬ルルが遅ければ、きっとあの会場にはジュリアンの首が転がっていただろう。勢いに任せクロードや聖騎士にも応戦し、僕とルル、それに数人を残して全て会場ごと灰になっていたかもしれない。
「だから、本当にありがとうございます」
そんなことをしてしまえば、それこそ大変なことになっていただろう。そんなことを考える余裕がある程度のことではない気もするが、僕の首だけでは絶対に収まらず、ザブロック家まで累は及ぶ。
そうなればきっと、僕はこの国を滅ぼしにかかる。いずれは聖騎士たちに打ち倒されるとしても、少なくともこの王都は無事では済まさない。自分の身を守るためではあるだろうが、降りかかる火の粉を払うために。グスタフさんに予言されていたように。
感謝の気持ちを持つと、自然に頭が下がるという。
それを僕は今し方、実感している。
そして感謝と共に、言い添えなければいけないこともある。……というか、実際にはこちらが先なのではないだろうか。本当は。
「そして、申し訳ありませんでした。今回の件、口答えをしてしまった私に全ての責任があります」
「……本当にそう思います?」
「…………独り言としてビャクダン様を貶すようなことを口にしたのは本当です。本当は私がそんなことを出来る立場ではないのに」
僕があの場にいたのは、ミルラの命令とアネットたちの人手不足が原因だ。少なくともミルラ王女を盾にしてもいいことで、それすらも浮かばなかった僕は気が短いと言われても仕方がない。
そんな僕にだろうか、ルルは溜息をついた。
「だからといって、人を野良犬呼ばわりしていいことにはなりません」
だがその溜息の意図は、僕の予想とは違っていた。
ピシャリと叱るようにルルが言い、口元を引き締める。
「本当にカラス様に全ての責任があると思っていらっしゃるのなら、それは間違いだと思います。口答えと仰るのなら、最初はビャクダン様から始められたということでしょう?」
「…………」
「先ほど申し上げた通り、私には全く事情はわかりません。お二人が、どういうことを言って、どう返して、どう反応したか。どちらが間違っていて、どちらが正しいことを言っていたのか。それも、よく」
廊下で話し込む僕らの姿を見て、困惑するように下女が一人駆けてゆく。僕が配った軟膏の匂いがした。
「でも、私が見ている間にも、あの方は侮蔑を続けていた。たとえカラス様が間違っていて、道理があちらにあるとしても、私が不快に思ったのはあちらのほうです」
「…………」
「だから、カラス様が謝る必要も、お礼を言う必要もありません。代わりなんかじゃありません。私も怒ってますから」
ほんのわずかに頬を膨らませてルルがそっぽを向く。やはり最近見られなかった表情で、……僕やサロメやオトフシと、打ち解けてきていたと思った表情で。
それから一転、頭痛を覚えたように渋い顔で目を瞑る。
「でも本当に、どうしましょう。とりあえずお義母様に報告します。サロ……」
ルルはサロメを呼ぼうとするが、いない。あれだろうか、まだ昼餐会場だろうか。
「サロメさんもいませんし、一度会場へ戻ります?」
なら、僕らもその後を把握しておくべきだろう。僕が提案すると、ルルは『何言ってるの?』と首を傾げた。
もちろん、僕もそのまま戻る気ではない。ほとぼりも冷めないままにそんなことをしてしまえば、火に油を注ぐことになるだろう、とは思う。もっともこのまま姿を消しても同じようなことだろうが。
僕も少々落ち着いてきてはいるらしい。今後の展望は、一切立たないままだが。
僕らを見る視線がないことを確認し、僕は魔法で姿を隠す。
それを見て、ようやく納得したようにルルは頷いた。
そっと扉を開けて昼餐会場の中へ入ると、僕らが起こした諍いを更に継ぐように一人と二人が睨み合っている姿があった。
一人はもちろん、ジュリアン。それに対するは、ルネスとティリー。
そんな睨み合いを見つつ、おろおろとしていたのはサロメ。
とりあえずサロメに居場所だけ伝えよう。僕はサロメの耳元に僕の声を届ける。いつも思うが、オトフシのように口を動かさずに声だけを発生させられたら便利なのに。……いや前どこかでやった気もする。出来る気もするが、今ここでチャレンジする意味もあるまい。
「サロメさん」
「……ふぁ!?」
声をかけられたサロメも驚いたようで、小声で叫びながら不自然に背筋を伸ばす。皆の注目がジュリアンたちに向いているからいいものの、それなりに変な動きだった。
「申し訳ありません。会場に戻ってきました。今は姿を隠していますが、近くにおります」
「そ、そうでございますか……」
サロメは僕たちの姿を探そうときょろきょろと見回したが、当然見つからずに諦めてまたジュリアンたちへと視線を戻した。
「無礼を働かれたのは俺だぞ! その俺がどうして諌められなければいけないんだ!?」
「見苦しいから、が理由だと何度も言ってるんだが」
ティリーの言葉に腹立ち紛れにジュリアンが手近な円卓の天板を叩く。花瓶が転がり、それを見てティリーが眉を顰めていた。
「どんな事情があろうとも、皆様の迷惑ですわ。紳士らしくお平らになさいませ」
「ならお前らも淑女らしく口答えをするんじゃない」
「そうしなければ解決しない駄々っ子がいるのだから仕方がない」
円卓に歩み寄り、さりげなく花瓶を戻しつつ、ティリーが呟くように囃し立てる。零れた分の水でも差し出したいところだが、今のこの状態では無理だろう。
「……なら、すぐにこの会場くらい出てってやる。それでいいだろう?」
「そうするとどうせルル君を追ってくじゃあないか。カラス君が一緒だからあまり危ないことにはならないだろうけれども、またどこかで喧嘩をしてもらっちゃ困る」
ティリーが目で牽制しているのはクロード。なるほど、だから退場させられないのか。
なら、彼女たちにも伝えるべきだろうか。僕たちは今ここにいると。
どうやら彼女たちはジュリアンを牽制し、後を追わせないようにしてくれていたらしい。
だがそんな危なっかしい役割をする必要はない。
彼女たちとて、実家は侯爵家。派閥はよく知らないがそれでも公爵家に逆らっていいこともないだろうに。
「……別室へお連れ致します」
おそらくティリーが口に出来なかった解決策を、クロードが口にする。……これなら一応必要ないだろうか。
「俺が?」
「ご無礼ながら」
クロードの提案に、もう一度ジュリアンが机を叩く。机の端に置かれた花瓶は、今度はティリーの手により立ったままだった。
「やめたまえよ。ベルレアン卿も困ってらっしゃるじゃないか」
「いちいちうるさい女だ! お前もカラスにイカレた女か!?」
「それは違うかなぁ。友人だよ。ルル君ともねぇ」
ティリーの言葉に、不意に僕はルルの様子を確認する。ルルの方は僕の視線に気付いていなかったが、多分、嫌悪感は抱いていない。
まあルルの様子から確認する前に、何となく信じたい。その言葉が真実だと。
そういえば勇者は、と見れば、ジュリアンとティリーたち、それと彼らを遠巻きに見ている女性たちとの間に立ったまま俯いて黙っていた。
「ハッ! クロックス家の花狂いと乱暴者の野良犬か。お似合いだ」
「人の話をちゃんと聞こうよ。……ま、……」
ティリーが言葉を切って、ふふと笑う。何となく意地の悪い顔で。
「男女の仲はそういう関係しか知らないのならば、仕方ないよねぇ」
「…………」
「ところで、君のお仲間は加勢しないのかなぁ?」
そしてティリーがジュリアンの背後を見る。少し離れた位置で笑いもせずに見ていたのは、先ほどまでジュリアンを囲んで笑い合っていた男たち。
……何となく言いたいことはわかったし、挑発する意図もわかった。けれども、それにしても、挑発しすぎではないだろうか。
「コミレスト家、ルガール家、デベラン家。錚錚たる顔ぶれの男たちが、ビャクダン様の後ろで見ているだけかい?」
ええと……男爵家、男爵家、伯爵家の三人で……。
「……随分と、人望がないらしい」
「口が過ぎるぞ!!」
その男たちの出自を僕が思い出そうとしている間に事態が進展する。
ジュリアンがティリーに詰め寄る。ジュリアン自身何をしようとしたのかはわからないようだが、その手がふわりと浮かび上がったのに合わせてティリーが自らバランスを崩した。
咄嗟に念動力を作用させ、見えない程度に速度を落とし、床への激突を免れさせる。見た目ではわからないだろうが、本人はクッションにでも落とされたような感触だと思う。
尻餅をついたティリーは思っていた感触がなかったのか一瞬戸惑う目を見せたが、すぐに思い直したかのようにシクシクと泣く真似をして目を伏せた。
「……痛い……暴力を振るわれた……。謝罪と賠償をしてほしい……」
「貴方、そんな芝居じゃ誰も騙せませんわよ」
呆れるように、そこに今まで黙っていたルネスが言葉を被せる。
それから溜息をついてジュリアンを見た。
「とりあえず、落ち着きなさいませ。暴力などなかったことは私が見ておりますが、しかしそのように猛っていらっしゃるのも事実。まずは冷静に話を致しませんか」
「それともビャクダン家の作法なのかい? それが」
座ったまま挑発を続けるティリーを、ルネスが「黙ってなさい」と叱りつける。
僕もさすがにやりすぎだと思う。あれだけ言われれば、ジュリアンの怒りにも正当性が出てしまうのではないだろうか。
憤懣やるかたない、というふうに奥歯を噛みしめたジュリアンが、大きな舌打ちをして振り返る。
クロードがそれに反応し、ティリーたちを一瞥してジュリアンに向き合った。
「こちらへ」
「いらん。頭を冷やせばいいのだろう? 自室に戻る」
クロードはそのままつかつかと歩き出すジュリアンに困ったような視線を向けてから、近くにいた聖騎士に顎で合図をする。
合図をされた聖騎士はさりげなくジュリアンの後を追うべく歩き出した。監視か。
「ビャクダン大公ご子息閣下」
「…………」
去っていこうとするジュリアンをティリーが呼び止める。
睨むようにティリーを見たジュリアンは、黙ったままその続きを待った。
ティリーは立ち上がり七分丈のスカートの裾を直して払う。
「ルル・ザブロックに不埒な真似は許さないよ。もしも何かをしたのなら、お父様にお願いして閣下の邸宅の時間を止めてさしあげましょう」
「ティリー!」
ルネスが止めるが、ティリーは意に介さない。
ジュリアンはまた前を向く。
「お前は一々親に泣きつくのかよ。だっせぇ」
「……なんだい。わかってるならいいんだよ」
ティリーの言葉に大きな舌打ちをして、ジュリアンはそのまま部屋から出ていった。
ジュリアンが出ていった後も、昼餐会の凍り付いた空気は変わらない。
ほんの少しざわざわと話し声がしたか、程度の変化。
それを見咎めたのだろうクロードが勇者を見た。
「勇者殿、何かないか?」
「……俺が、ですか?」
小声での応酬は結論がでないようで、おろおろとするわけでもないが何をすればいいのかわからない勇者はただ辺りを見回すばかりだった。
そんな様子を見ていたルネスが一つ溜息をつくと、その溜息を取り戻すかのように大きく息を吸った。
「しゃんとなさいませ。勇者様、今の貴方はこの会の主人なのです。……気落ちするお気持ちはお察ししますが、この会で起こる騒動は全て自分のものともお思いになりませんと」
「…………俺が?」
どうして自分が? と勇者は何度も繰り返す。
「取りなしも仲裁も慣れないと難しいと思います。けれど、せめてあの子の味方くらいは……」
言いかけて、「ああ」と苛つきを表に出すようにルネスが頭を激しく掻く。
「とにかく……勇者様はとりあえず会へお戻りを。招待客を退屈させませんように」
それから示したのは、家の爵位からするとまだおそらく勇者と話していないグループ。その女性たちがそれを望んでいるかどうかはわからないが、挨拶はしなければいけないだろう。
「私はルル様をお探ししてきますわ」
「その必要はないんじゃないかねぇ……」
ティリーが先ほど尻餅をつかなかった臀部をさすりながらルネスを止める。彼女は僕の関与を知っているからだろう、余裕の表情で、それでいてどこにいるかわからない僕たちを探す気もないようだった。
「とりあえず今考えるべきは私たちの安全じゃないかなぁ」
「……貴方が挑発しすぎたのでしょう」
はっはっは、と笑うティリーに、まったく、とルネスがまた溜息をつく。
正直僕もルネスに同意見だ。
「ビャクダン様はあれで大人しくなると思いますか?」
ルルがぽつりと呟く。それから答えを求めるように、僕を見た。
僕としても不確かな答えしか持っていないが、それでも。
「無理でしょう。おそらく、今でも適当に何やら嫌がらせを練っていますよ、きっと」
「…………」
僕の答えが気に入らなかったのだろう。ルルが唇を噛んで黙り込む。しかし、おそらく本当のことだ。認めなければ。
今回のことはここ限りの諍いではなく、僕への恨みからによるもの。そしてそれは未だに解決出来ておらず。ジュリアンはおそらく未だに僕相手に何かしらの報復を考えているだろう。
邸宅では囚人の命を弄び、王城でも下女たちをただの遊びの道具としか見ておらず、そして刺客すら放つ外道。ならば、忘れるわけがない。……彼が恨む何かをやった僕の方は、何をやったかすら覚えていないのだが。
しかし、こういうときには頼りになるはずの、ミルラはいったい何をしているのだろう。昼餐会には顔を見せず、この騒動でも影すら見えない。
そしてまあ、嫌がらせは考えていたのだろう。
その考えが的中しているのを、僕たちはその日の夕方すぐに知ることになる。
クロードが携えてきた手紙。ジュリアンからのそれは、決闘状と呼ばれるものだった。




