知らぬは一生の後悔
その日、王城内がある一つの出来事の話で持ちきりだったことを聞いたのは、僕は城勤めの下女のアネットからだった。
洗剤が切れたからもう少し欲しい。そういう要望のもと、彼女らの朝の仕事場に届けた際に興奮気味に彼女は僕に話し始めた。
「……死んだ、ですか?」
「はい。執務室で血を吐いて死んでたそうです。持っていた毒を浴びてしまったということですけど」
どう考えても朝の眩しい日差しの中聞く話ではない。だがアネットは、洗濯物の端を持って勢いよくパンと振って、それからやや楽しげに続けた。
「私よく知らねーですけど、見ただけで死ぬ毒なんてあるんですねぇ。本当に怖くて嫌んなっちゃいます」
「まあ、……いくつかあるにはありますが」
さすがに、アネットたちも詳しいことは知らないようだ。だが噂好きの宿痾というべきか、ニュースを伝えることに飢えていたらしい。
憶測と偏見混じりに、鼻高々にアネットはそのニュースを語り尽くしていた。
「つまり、殺されたんでしょうか?」
「いえ……どうなんでしょ? 自分で持っていた毒だってのも聞きましたけど」
ニュースというのは人の目を引くからニュースとなるもので、そして今回のものはそのニュースにうってつけの題材だったらしい。
曰く、王城内でとある貴族が一人亡くなった。それもおそらく事故で、しかし死んだ原因は自分が蒐集していた毒の一つの誤曝露によるものだったという。
彼女らに薬の内容までは伝わっていないが、その薬は『見ただけで死ぬ』ような薬らしい。そして現場にそれが落ちていたらしく、片付けようとした下男や近隣の者たちがさらに被害に遭って、そしてその人数が現在進行形で増えているという。
……一瞬、嫌な想像をしてしまったことは黙っておきたい。特にエウリューケには。
「そんな毒のせいでその部署の辺りの使用人が何人も倒れてしまったみたいなんですよ。で、手が足りないってんで今大先輩とかがあっちに駆り出されててとても気が楽……いえ、大変なんですよ。私たちの人手も足りなくなるから」
「それはお疲れ様です」
「しかもこんなときにもお貴族様たちは昼餐会を開くとかいってますし! さすがにカラスさん、どうにかなりません?」
「私がどうにか出来るものでもないでしょうに」
洗濯物のとりきれていなかった水分を絞り、ぼたぼたと地面に垂らしながらアネットが言うが、それは無理な相談だろう。
貴族の会は貴族のこと。もとより僕が何かしらの影響を持つわけでもない。
「だって勇者様に相談出来るの、カラスさんくらいじゃないですか」
「勇者様のあれのことでしたか。……といっても、まあ無理です」
勇者の昼餐会。今日あるのは予定通りだったが、その予定の変更も無しか。いやまあ、使用人がいくらか欠ける程度なら問題はないだろうし。
「ここは勇者様のお目に留まった、見目麗しいアネットさんの出番では?」
「それまだ続くんですかー!? もう嫌ー!!」
どうやら彼女は、この前たった一度勇者に水汲みを手伝ってもらったことを、まだ同僚にからかわれているらしい。
こうやって人の口に上るのは、そこそこ気の毒だけれども僕にはどうにも出来ないし頑張ってほしい。
それに、もうすぐその噂も消えるだろう。
勇者が相手を決めた。それが公式にも知れ渡れば。
「マッド・クインルズ伯爵閣下だ」
「え?」
一応詳しく聞いておこうか。そう思い、ルルの部屋に戻った僕はいつものように待機していたオトフシにその話題を出す。そしてオトフシの口から出た死者の名前に、何となく聞き覚えがあって驚いた。
事も無げに爪の手入れをしながらオトフシは続ける。
「どうせお前も知っているだろう。勇者が処刑人をしたときに立ち会った右廷尉の官だ」
「……あの、ですか」
僕はその光景をおぼろげに思い出す。しっかりと覚えているのは勇者の周囲だけだったが、その前後、勇者へと指示を出していた貴族。そいつか。
「アネットさんの話では細かい事情がわからなかったんですが、毒殺ですか?」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。妾にもその辺はわからん。だが今朝、執務室で亡くなっているのが発見されたらしい」
「自分で蒐集していた毒だとか?」
「海兎の毒だ。また珍しいものを持っていたものだな」
フフン、とオトフシは笑う。その意味ありげな目に、僕はその意図を感じた。
「僕ではありませんからね」
「わかっているさ。お前が殺す動機がない。そもそも毒はたしかにクインルズ伯爵の蒐集品の一つだったと家人の証言がある。よく自慢していたらしい。お前のお仲間と同じように、そういうものが好きだったらしいな」
「好きだった……なら」
「その辺りはお前も気付くだろう。好きだったのなら、取り扱いを間違えるわけがない。妾の予想としては、……まあ、事故ではないのだろうな」
キッ、とオトフシの爪がヤスリに擦れて鳴る。その先を指で撫で、引っかかりを確認していた。
「海兎の毒は、雄の海兎で防げると聞いたが?」
「そうですね。扱う人の多くは干した雄の海兎を腕輪や指輪にして身につけるはずです。水中でなければ、それで一応防げるはずですが……」
「現場にはそれも散乱していた。正しい扱いを知っていたのだろうがな」
正しい扱いを知っていて、対策もしていた。なのに、その対策が……散乱?
「切れたとかではなく?」
「これも妾の印象だが、切れたのではなく、切られていたな。もちろん、本当に切れてしまって取り落としたのかもしれないが」
断定は出来ない、とオトフシは強調する。余計なことを言いたくないという決意が見てて取れた。
海兎の毒。以前エウリューケも所持していたが、青から紫色に煌めく透明感のある毒だ。
新鮮なうちは紫。古くなると青になり、青になった辺りで失活して毒効を失う。失活してしまえば無毒だし、綺麗な色ではあるので染料としても使えるものだとは聞いたことがある。
効果としては、胃を焼く神経毒。ただし、その効果も、曝露する経路も独特なものだ。
簡単に言えば、視界に入ると効果を及ぼす。
効果がある人間は限られていて、性別と年齢による個人差が大きい。不思議なことに、効かない人間どころか誰が飲んでも何もない毒なのだが、それを見てしまえば少年から成年の男子には覿面の効果を及ぼし、若い女性の多くにも血を吐かせ妊婦なら流産させる。
「野次馬としては中々笑える顛末だったがな。知らないとはそういうものか、と」
「何があったんです?」
爪の先についた粉を吹き飛ばし、オトフシは唇を綻ばせる。
「今朝発見したのは部下だったようだが、その男は年齢もあったのか無事だった。次いで呼ばれた治療師も無事だった。……だが、その後呼ばれた衛兵が次々と倒れていったのだ。現場に零れていた海兎の毒でな」
「…………なるほど」
そこにあると知らないのであれば無理はない。海兎の毒が見えるようにそこにあり、現場へと駆け込んだ衛兵はまずそれを見てしまった。
吸ったり飲んだりしなくとも曝露してしまう毒。とても厄介な。
「何とか無事な者で検証を行い、とりあえずその場は事故ということで終わった。しかし、現場を片付けようとした下男たちも被害に遭い、そして下女のほとんどは平気だった……のがまずかった」
「そこに至るまで、毒に誰も気付かなかったわけではないでしょうに」
「一応一人目が倒れてからは皆覆面はしていたぞ。毒の蒸気を吸わないように、という配慮だったが、蒸気など何の意味もないことには気付かなかったようだな」
クツクツとオトフシが笑う。今日のネイルは、海兎と同じ青紫。
「仕方あるまい。アウラの海より遠いこのエッセンで、薬師でもなければ海兎の毒など誰も知らん。治療師も知識としてはあっただろうが、それが実際にそれだと判断するのが遅かった」
「それで、被害は衛兵数人と下男たちだけ……ですか?」
「いや? 言っただろう、下女が平気だったのがまずかったと」
爪に塗る塗料の小瓶から筆を持ち上げ、その筆の先から滴を瓶の中に落とす。
その様が、これからオトフシが口にしようとしていることを暗に示していると僕には感じられた。
「当然、まだ下女たちは毒の正体を知らん。おそらくその目の前にある青紫の液体が毒だということはわかっていただろうが、その人体を侵す経路までは知らなかったようだ。風通しのいいところなら平気だと思ったようで、丁寧に水拭きし、その汚れた水が混じった桶を外に面した廊下で運び……途中で誤ってこぼした」
「うわぁ……」
「その後要請を受けた治療師たちの手で除染はされたようだが、それまでにその廊下を通った相当数の使用人たちが被害に遭ったようだな。こぼした水を片付けるのに手を貸そうと、駆け寄ってそのまま倒れた者もいる。助け合いの精神というのは大事だが、それが害になることもあるということだ」
僕は渋い顔をしてしまう。その光景を想像して。
水拭きの際に一応希釈されていたのもまたまずかったのだろう。原液なら即効性があるだろうが、希釈液なら効果の発現も遷延し軽くなる。通りかかった人間がほんのわずかに違和感を覚えていたが、その後自室でいきなり血を吐いた、とかあると思う。
さすがにその廊下での曝露では、死人は出ないだろうが……。
「現在治療師たちが解毒薬の調合を大急ぎで行っているよ。まあ材料が揃わずに難儀しているようだが、……フ」
鼻で笑い、オトフシが話を閉じる。
……まあ、本来笑い事でもないと思うが、自分と関わらなければこんなものだろうか。
「……そうすると、僕も呼ばれそうなものですけどね」
治療薬が必要で、治療師でもあまり見たことがない珍しい毒。なら、その専門家である僕にも声がかかりそうな気がする。
僕がそう言うと、オトフシも頷いた。
「妾は知らんが、ありそうではあるな。だが、治療師が大挙して動いているのだ。面子のためにお前は参加させんよ」
「また面子ですか。下らない」
放っておけば死人が出るかもしれないのに。もしかするともう出てるかもしれないのに。
しかし、と僕は自嘲する。まあ僕も同じことか。そうなっているかもしれないのに、自分から申し出ることもしない僕も。
楽しむように頬をつり上げていたオトフシだったが、それから一つ溜息をついて僕を横目で見た。
「……、一つ気になることもある」
「気になること?」
「ザブロック嬢は、関係ないだろうな?」
僕はオトフシの言葉の意味がわからず、わずかに首を傾げる。だがすぐに、ああ、と気付いて否定のために首を横に振った。
「違いますね。ここのところ患ってらっしゃる胃痛は、おそらく心因性の虚証です。特有の臭いもしませんし」
確かに不安というか心配になるのもわかる。だが、昨日から今朝にかけてはルルは外出すらしていない。だからというわけではないが、僕の見立てでは間違いなくなんともないだろう。
「ならばいい」
僕の言葉に、安心したようにオトフシは肩を下げた。そして、もう一つ、と続ける。
「クインルズ伯爵が立ち会った処刑、勇者が執行する代わりに一人赦免になったそうだな」
「ええ」
死刑囚は本来二人。だが、その夫婦の夫を勇者が処刑する代わりに妻が助かる。そういう話だったはずだ。
「昨日の夜。その助かったはずの女が、留置所で流産、本人も血を吐いて死んでいるのが見つかったそうだ」
「……死因は」
正直関係がなさそうだと一瞬考えてしまったが、ここで話したのだ。関連がないわけがあるまい。少なくともオトフシからは。
そして、流産、妊婦という要素を足せば……。
「治療師の見立てだと、夫の死を見た精神的な負担による流産、それに伴う出血や胃潰瘍などでの衰弱、卒中が重なった結果だそうだ」
「本当ですか?」
「公的にはな」
涼しい顔でオトフシは答える。
しかし、明らかに嘘だ。僕にすらそう思えるほどの状況。……海兎の毒は、そのために使われたのか。
「まあ何にせよ、ルル・ザブロックが違うのであれば、妾たちには関係のないことだ。お前もそんなことは気にせず……」
励ますように言葉を続けていたオトフシだったが、途中で言葉を切る。そして無言で首を横に振り、また溜息をついた。
「残念だったな。妾には関係のないことだが、お前には関係があるかもしれない」
「やはり薬を作れと?」
突然の転換だったが、オトフシにとっては何かしらの根拠があるのだろう。どこかの噂話を聞いたとか、もしくは誰かの動きを見たとか。
とにかく、僕が。僕に何の関係が。
「違う。おそらくルル・ザブロックの担当としてオルガが連絡にこれから来るだろう。城から正式に通達が来る。いくつかの部屋では既に」
だから何の話だ。そう重ねて続けようと僕が口を開こうとしたところで、近づいてくる足音に気が付いた。
そしてすぐに、扉が叩かれる。オトフシが片目を開けて、「オルガだ」と呟いた。
オルガさんのルルへの連絡。それは先ほどのオトフシからの噂話を前置きにした、ごく簡単な用事だった。
「一人ですか?」
「はい。申し訳ありませんが、各家一人ずつの協力をお願いするそうです」
聞こえてくるオルガさんの声は本当に申し訳なさそうで、ルルもそれを汲んでオルガさんへの態度は柔らかいと思う。
話は簡単だ。
クインルズ伯爵の事故による影響で使用人たちが減り、臨時で異動しているため王城各地で人手が足りなくなっている。
けれども、皆を集めた勇者との昼餐会は予定通り行われる。
そこで賢いミルラは考えた。この区域で働いている使用人たちのいくらかを王城各地へと回し、その補充に逗留中の貴族たちの使用人を使えないかと。
聞いているサロメが露骨に眉を顰めていた。普段の彼女からはあまり想像出来ないが、『はぁ?』と威圧しながら聞き返すように。
オルガさんすら恐縮しつつ、ミルラ王女への不満を抑えられていない。
僕がミルラを嫌いということを考えてあえて彼女を擁護すれば、たしかに家同士での使用人の貸し借りなどよくあることだ。
さすがに侍女などの家人に近い立場や料理人などの安全に関わるところは少ないどころかほぼないといっていいだろうが、掃除夫や庭師などの休暇中は臨時雇いでなんとかすることもある。
そして、使用人たちを他へと向かわせるのもまあわからなくはない。下男下女たちは遍在しているとはいえ、担当するブロックごとでまとまりのようなものがある。王城各所で手が足りなくなる現在、勇者のもてなしだからといっていつも通り行うのは使用人の不親切な独占だと周囲から反感を買いかねないことなのかもしれない。
だが、現在ルルたちは客人の立場だ。
ミルラはホスト側、本来全て用意して当たり前。こちら側から協力を申し出たならばまだしも、命じるのは礼に悖ると思う。
そこまで勇者が大事か。昼餐会の一つすら中止出来ないほどに。
なんだろう。少しだけ苛つく。命令一つとっても、彼女からは『逆らわないだろう』という傲慢さが感じられる。
伝聞でしか見えていないはずの顔が、不細工に歪んで見える気がする。
「カラス様」
視界の中に炎が見えていた。しかしルルの呼びかけにそれが晴れて、慌てて僕はパーテーションの中で立ち上がった。
「はい」
急ぎルルのところへと早歩きで歩み寄ると、オルガさんがやや道を開けるように体を斜にした。
ルルが俯きこちらを見ずに、淡々と僕への命令を出す。
「お聞きになっていたとおりです。休憩中申し訳ありませんが、お願い出来ますか? アダムやナミンにも別の仕事があるので……」
「わかりました」
そして仕方のないことだ。王城へと逗留している各家が連れてきている使用人はそれぞれ五人。その内訳の大抵は、侍女一人に下働き三人、後は各家の嗜好により料理人や美容師などを一人、程度。
だがルルの連れてきている使用人は、他の家がほとんど連れてきていない警護で二枠埋まっている。
他の家よりも下働きが少ない。それでも下男か下女を一人出せばいいと反論も出来ると思うが、彼らが他の家よりも比重高く仕事を受け持っているのも知っている。
つまり、そういうことで誰か一人供出されるというのなら、今現在仕事のない僕が出る。
道理だ。拒否出来る程度の緩いものだが。
「お願いします、おそらく会場の設営等の仕事で終わりますので」
「その程度で済むのなら構いません」
オルガさんも僕に頭を下げる、が、下げることもないと思う。彼女はただ連絡をしに来ただけだ。僕が何かしらの不満を持ち、不機嫌さをぶつけるのならばミルラへ……ぶつけられたら苦労しないのだが。
よろしくお願いします、という言葉を残してオルガさんは去ってゆく。それを見送り、僕はいわれたとおりに会場へと向かおうと背筋を伸ばした。縮んでいたのか骨が鳴る。
「大丈夫なのでしょうか?」
心配そうにサロメが言うが、何を心配しているのかわからない。続きを促し顔を見ると、困ったように口を噤んだ。
「……別に難しい作業などがあるわけではないでしょう? 人手が足りないといっても、力仕事や何かでしょうし」
大丈夫、と心配されるようなことはないはずだ。危険もなければ器用さが要求されるようなこともない。そもそも緊急で召集された使用人に重要な仕事が任されるはずもない。
「難しくともカラス殿ならどうにでも出来ると思いますけれど……」
「けれど?」
歯切れの悪いサロメを再度促す。怒らないからはっきり言ってほしい。
「その、大人数で集まって準備するんですよね」
「そのはずですが」
「いえ、その、私の偏見だと思うんですが……カラス殿が、誰かと協力している姿を想像出来なくて……」
「……返す言葉もありませんが、言う必要ありました?」
最近僕に向けて遠慮がなくなってきてやしないだろうか。
顔を全力で逸らしたサロメと、入り口の方から聞こえた噴き出す声に、僕はそう思った。
 




