幕間:温かい薬
夜、ルルの部屋。蝋燭の明かりがいくつも緩く反射している室内で、ルルは文机に向かい、閉じた本の黄色く照らされた表紙を見つめていた。
少し前までの習慣では、今は眠る前の読書の時間。それは一応、今もそのはずだ。
しかし彼女の手は動かない。
本をたしかに用意した。だが、読む気にはなれなかった。
欲しかったのは、ただ机に向かう理由。そのまま時間を潰す理由。
滲む表紙の文字。焦点をあえてずらして作り出したぼやけた風景に向かい、今日も疲れた、とルルは述解する。
じく、と胸の下辺りが痛む。
ルルが、薄い布が重なった下にある自分の腹をわずかにさすり、誰にも聞こえないように溜息をついた。
『カラスたちが剣を人に教えているなら、その様を見てみたい』
午前中、そのような趣旨の言葉を口にしたのは勇者だった。
きっかけはルルの些細な一言。彼はたまにラルミナ家の方に剣を教え、今日もそういったことをしているんですよ、などという世間話の話題提供のつもりの一言だった。午前のひととき、勇者との会話を途切れさせてはいけないという懸命さから出た話題。
剣、という要素はあったものの、ルルにとってヨウイチがそこまで興味を持つとは思わなかった。ただ空気を繋ぐための言葉で、そこまで何かしらの反応を見せるとは思わなかった。
果たしてその話題を出し、カラスたちを見に出たのは正しいことだったのだろうか。ルルは悩む。
ほんの一時。楽しくなかったとはいえない。カラスの剣を、そしてディアーヌやジグの剣を見ながらそれについての話題を連ねていく勇者との会話は楽しかったと思う。
並んで、ただカラスやディアーヌの動きを見て、ヨウイチの知っている知識と照らし合わせた解説を聞く。
そうだ、楽しかった。
ただそれだけのことが、今日一番楽しかった気がする。
今日もルルとヨウイチは多くの時間を共に過ごした。
今日の昼餐会は、二人だけで。幾人かの王城料理人が、勇者とルルのためだけに昼食をこしらえる。まるで王族に供するように。
色とりどりの皿が順繰りに目の前に現れ、好みによる味の変化を除けばおそらくザブロック家の料理人よりも腕はいいのではないかとルルも思ったほどだ。
そんな料理と同じように、今日ヨウイチはルルを楽しませようと様々な話題を口にした。
絵画を共に見た。書庫を覗いた。尖塔の頂上から景色を眺めた。
いつか、花畑などを見にいこうと約束をした。王城の庭師が趣味で手入れをした庭園があるから、そこへ行こうと。
どれもこれも、もったいないことだとルルは思った。
勇者が自分のためにあれこれと思いを巡らせてくれる。自分を楽しませようと、懸命に頭を働かせてくれる。きっとそれは、カラスとは違うところだろう、と。
また、腹が痛む。今日の行動に思いを馳せていたルルが、その痛みに目を覚ますように瞬きをした。
焦点を合わせた本の文字。カラスから返却されていた、『散歩の末の少女』。
好きだった本。かなりの割合で文章を覚えてしまい、台詞までもほとんど暗唱出来るほど読み返した本。
この本の主人公は自らの思い出を巡り、最後には幸せに結婚をすることを示唆して物語は終わる。
結婚。その単語を思い浮かべれば、やはり自分と重なって見える。
キリカは自分。花冠を作るという花嫁にとって最初の仕事をこなしに花畑を訪れた、主人公。そこにあてはめれば。
勇者は、とルルはそこに当てはまる人物をすぐに見つけ出す。
彼はきっと、ユーリなのだ。物語の終わりに唐突に現れた、主人公を気遣う彼。物語が終わった直後に結婚式を挙げる予定の男性。
きっとこれから彼の手で、キリカは幸せにしてもらえる。キリカは彼と語らい、笑い、時には喧嘩をしてそれでも幸せに生きていくのだろう。
同じだ、とルルは臍を固める。
そうだ、このまま順調に進めば、きっと同じように勇者は私を幸せにしてくれる。少なくとも、幸せにしようとはしてくれるだろう。ここ数日共に過ごして、それは確信出来た。
勇者はずっと嘘をついている。それをルルは知っている。
懸命にルルに笑みを見せて、愛想よく接してくれていること。そんな嘘を。
笑顔が嫌いだった。この王城に来る前は。
しかし今のルルは、勇者の笑みに不快感は覚えない。知っているのだ。その笑みが、自分を傷つけるためのものではないことを。
私のために、彼は嘘をつき続けている。
そう感じたルルは、それに応えるように努力してきたつもりだった。
返事は明瞭に、笑みは温かく。
上手く笑えているだろうか。そう当初は不安に思っていた。昔教育係に教わったように、口角を上げて、目尻を下げて、綺麗な笑みを作れているだろうか。
そしてルルは、ここ数日でその感覚が薄れてきていることに気が付いた。
慣れてしまっているのだ、と愕然とした。
嘘が体に染みこんでくる気がする。
自分は勇者の前で笑っているとき、本当に楽しいのだろうか。
いいや、楽しいだろう。楽しいはずだ。何せ、勇者が自分を楽しませようと懸命に努力してくれているのだ。楽しくないわけがない。
腹が痛む。きりきりと何かを締め付けるように。
嫌ならやめればいい、と誰かが言う。貴方のことなど好きではないと、そう勇者に告げればいい。そう誰かが目を閉じた暗闇の中で囁く。
誰かに言い訳をするようにルルは黙って首を振る。だが、暗闇の中の誰かは自分に続けた。
キリカは思い出の森へと戻ればいいのだ。今すぐに引き返し、花冠を投げ出して森へと駆け込めば。
そうすれば、きっと王子はキリカを迎えてくれる。ようこそ、と尻尾をぶんぶん振って。
説得のためだろう。本になぞらえた言葉。自分が現実に存在する相手を傷つけるようなことをしているわけではない、と言い訳混じりに繰り出される言葉。
自分相手に小賢しいことだ、とルルは笑おうとしたが、その嘲笑う相手が自分と言うことに気がついて笑えなかった。
ならば、本になぞらえれば。
ふと考えた瞬間、まるで最初からわかっていたかのようにルルの中に反論が浮かんだ。
でも、自分には王子はいない。
深呼吸して無理矢理に腹を動かせば、固まったように動かしづらい何かの塊が動いた気がする。
ルルはクスと噴き出すように笑う。
自分に王子はいない。思い出の森もない。キリカは確かに幸せになる。
違うことばかりだ。自分と。いいや、同じだ。キリカと同じように自分は幸せにしてもらえるのだ。
支離滅裂な思考。物語を自分を同一視しようとして、出来ないと客観的に見て、と忙しない。
無駄なこと。何を考えているのだろう、と自嘲しルルはようやく笑うことが出来た気がした。
コト、という音にルルは脇を見る。そこでは、侍女のサロメが静かに薬湯の入った器を机に置いていた。
「お疲れ様です」
「ありがとうございます」
ルルはその器を受け取り、一口含む。いつも通り、冷まさずともちょうどよい温度に調整された薬湯。包むように両手で持てば、温かい。
彼女の家伝の薬湯は、ザブロック家の家中でも評判だった。美味しい、とルルも感心する。そしてそれとは別に、ふと思う。いつからだろう、その飲み口に、薬効とは別の温かな『何か』を感じられるようになってきたのは。
「気疲れも重なると体調を崩します。今日はもうお休みになってはいかがでしょうか」
「……休む気になれないんです」
サロメに視線を向けずに、ルルは独り言のように呟く。
疲れていないわけではない。既に夜更かしの領域、眠くないわけでもない。だがそれでも何となく、寝る気にはなれなかった。
寝たら明日が来てしまう。明日が来れば……。
末尾までは浮かばなかった胡乱な考え。ルルはそれを掻き消すように首を横に振り、もう一口薬湯を口に含んだ。
そこでようやく、ほんのわずかな違和感に気が付いた。
いつも飲んでいるものとは、味がほんの少しだけ。
「……いつもと風味が違うようですが?」
「お気づきになられましたか」
その『甲斐』があった。そうサロメは喜び表情を明るくする。別に気付かれたくてやったわけではない。けれども、せっかくの工夫を、気付かれないのも寂しいものだと考え。
サロメは胸を張る。自分と、もう一人の工夫を誇るように。
「少々配合を変えてございます。神経や胃を痛めていらっしゃると思いましたので、その辺りを保護するように」
「そう、なんですか」
はあ、と溜息をつくように、ルルは感心の息を吐く。
「味はいかがでしょう」
「悪くないと思います……いえ、美味しいと思います」
「よかった。調味は私なので、少々心配だったのですが」
嘘をつく主ではない。そう確信しているサロメは、またルルの言葉に喜ぶ。
自分の得意分野でもある薬湯の調合。その味の調整に関しては、『彼』にも負けていないという事実を再確認した。
もちろん薬効の方は、『彼』の後塵すら拝せないと残念には思っていたが。
『調味は私』という微妙な言葉を聞き逃しながらも、もう一口、と飲んだルルは、温かな液体が喉の奥を滑り落ちていく感触を如実に感じた。
生姜の匂いに触れた喉の奥がちりちりと熱を帯びる。鼻から抜ける香りは甘く、どこか懐かしくも感じた。
そして、液体が落ちた先。胸の中で、何かの塊が解けて溶けていく気がする。
痛みが消えて、代わりに何かじんわりとしたものが胸の奥に満ちた。
味と匂い、それに性状。およそ飲料から感じるはずの全てのもの。
美味しいと素直に思った。自分が同じ材料を使って作れるだろうかと。
そして、何か感じられる気がする。
味、匂い、感触。それ以外に何かがある気がする。
「っ……!」
「どうなさいましたか」
その『何か』を感じ取り、ルルは急ぎ湯飲みを机に置いて目を押さえる。何故だかわからない自らの反応に戸惑いつつ。
それから心配するサロメに何とか目を向けながら、微笑むようにして宥めた。
「目に……塵が入ったらしくて……」
ポロポロと零れてくるのは涙。目の端が熱く、そして止まらない。
何故泣いているのだろう。そんな自分への戸惑いが溢れてくる。
大丈夫、きっとすぐに平気になる。そう自らも宥めすかし、グシグシと目を擦った。
鼻水が出ないように気をつけながらも、何度も何度も涙を拭き取りながらルルは考える。
『目にゴミが入った』。その言葉、最近どこかで聞いた気がする。
どこだろう、とルルは一瞬悩み、その内どうでもいいことだとその疑問をすぐに頭から消し去った。
大丈夫、きっとすぐに平気になるから。




