霧の中より
そうして、ルルが本を読まなくなって、そして笑顔を見せなくなって二日経つ。
勇者の顔はすっかりと綺麗になっていた。もっとも昨日、あの家出の次の日に会ったときには綺麗になっていたが。
相変わらず、この世界の治療師というのは便利なものだ。治る怪我ならば即座に跡形もなく治してくれるのだから。
「書庫があるって聞いて、今度ルルさんを書庫に誘おうと思ったんですけど、あそこ図書館デートに向いてなくないですか?」
「でーと……いやまあ、あそこは遊ぶ場所ではないですからね」
ここは王城。ティリーが花を世話していた庭。呼び出されたわけでもないが、たまたま廊下で行き合った僕に相談があるという。
先ほどから楽しげに勇者は語っていた。久しぶりに昨日、昼餐会でルルに会えたと。楽しい会話などは出来なかったが、それでも嫌われているようなことがなくてよかった、と。
そして、図書館デート。その予定を語られたわけだが……。
「下見してよかったと思いました。いや俺、図書館デートとかもしたことがないんで、向いてるとか向いてないとかもよくわかってないんですけど……」
「……距離を詰めるなら、違う場所の方がよろしいのでは?」
「そうとも思うんですが、その……この世界、日本と違って遊ぶところがないそうなんで……」
「そうなんですか」
はあ、と僕は納得したような声を出す。いやそもそも、僕は日本にいたときにどこかで遊ぶということがなかったと思うので、そういう印象がないのだが。
そもそも若い男女が遊ぶといったら、勇者の時代ではどこへ行くのだろうか。……カクテル光線煌めくダンスホールとか? 図書館でも遊べるというのはどういうことだろう。
僕の時代だったらどうだろう、と考えても、やはりわからない。僕が日本で憧れていたのはどういうことだろう。互いの家々で卓球したり、……テレビゲームとかも僕はやったことがないな。
観劇や活動写真……今は映画だっけ、もあったか。ブラウン管で見たりもしていた気がする。
「どこへ連れてったらいいかなぁ、なんて考えて、マアムさんとも相談したりするんですが、俺にはちょっと、難しいっていうか」
「そういうときに何処へ行くかは私もちょっと……。ムジカルなら弁士や講談師なんかもいたのでそちらをお勧め出来たんですが」
映画などはそういう使い方もあったと聞いたことがある気がする。黙ってても時間が進んで、終わればその感想を言い合うという。僕ならば本を同じように使えると思うが、そういえば勇者は難しいのか。
「宝石細工などを見にいくのは、なんてマアムさんには薦められましたけど」
「ルル様は……喜ぶかはちょっと」
僕が見ると、勇者の後ろにいたマアムが露骨に目を逸らす。勇者にはもちろん見えない角度だし、勇者が見ていれば笑顔で頷くような愛想も見せたのだろうが。
まあ彼女の態度はともかく、その考えは参考にするべきなのではないだろうか。一応同じ女性だし。
そういえば、マアムはお咎めなしになっていた。
当然のように勇者の出奔はなかったことになっており、そして勇者もマアムやミルラ、クロードたちの責任はないと主張している。
ならば、マアムたちを処罰してしまえば勇者の気分も害するだろうし、という判断だ。
下らない。僕ですら、彼女らに責任がなくても何かしらの処罰が必要なのはわかる。なのに勇者様の機嫌をとるために、失敗すらなかったことになるとは。明文法ではないのでそれこそ権力者の胸先三寸ではあるが、ミルラがけじめすらつけていないように僕には見えた。
……いや、僕はミルラが嫌いだからそう思ってしまうだけで、実際には『よかったね』で済むことなのかもしれないが。
そしてもちろん、わだかまりはマアムにも残る。昨日大騒ぎをして僕を疑ったことは謝罪されたが、時折見える『疑われるようなことをする方が悪い』という態度。……冷静に考えてみるとそれもたしかに僕が半分くらい悪いのだが、それでもそれが見えるだけでも謝罪としては失格だろう。
許さない、という確固たる意思は僕の中にはない。彼女に何かをする気はない。けれども、彼女を見る目が少しきつくなっている自覚は僕にはあった。
しかし、同じ女性の意見と考えても僕は首を捻らざるを得ない。
ルルが宝石をいじったり、それを見て喜ぶ姿が浮かばない。いつも着飾っていないというだけで実は好きなのかもしれないが、……本当にわからないから困る。
「宝石見にいっても、俺には買えないし……」
それはわかる。勇者が使う金は、勇者の金ではない。そもそも高価な宝石を買ったところで、それは国からプレゼントされたのと同じことだ。ルルはわからないが、少なくとも僕なら勇者に感謝はしないだろう。
もしも勇者が宝石をプレゼントしたいとして、そしてそれを自分で用意したいとなったら……。
「……採掘、は手間がかかりますしね」
「それ遊ぶとかの話じゃないですよね」
「わかってます」
呆れたような勇者に僕は端的に返す。それくらいは僕でもわかっている。土を掘って選別して、という宝石採掘の作業はデートには絶対に向いていないだろう。
……いや、よくないだろうか?
僕は口に出す。ほんのちょっとした思いつきを。
「採掘の最後、土砂から原石をより分ける作業があるじゃないですか。土砂の中から二人で宝石を探すのは楽しそうじゃありませんか?」
「……それはちょっと」
マアムが後ろから口を出す。僕が見ると目を逸らして口元に手を当てたが、別にいいからこれに関してはいくらでも意見を言ってほしい。
咳払いをするようにして澄ました顔を作ったマアムを、僕は見つめる。言いたいことがあるのではないかと。
「駄目ですか?」
「……それは単なる労働ではないでしょうか」
「二人の共同作業なら楽しい気もするんですけど……」
僕が言い募るが、マアムは小さく首を振る。マアムは反対か。別に僕も採用してほしいとは思っていないが、そこまで言うなら違うのだろう。その感覚は本当によくわからない。
映画と同じようにと思ったのだが。
山に積まれた土砂の中からの宝石のピックアップ。視線を合わせず作業しながらなら会話もしやすい。会話をしなくても石探しで間を持たせられる。見つかったときに共に喜び、一体感も高められる。……なんだろう、何か僕がおかしいのだろうか。
ルルがやっている姿を、僕は容易に思い浮かべられる。机に積まれた土砂に、ふるいをかけて細かな砂を取り除く。黙々と真剣な目で土砂をより分け、何かしらの原石が見つかれば小さく手を握りしめて歓喜する。
僕よりも先に見つけていれば、きっと得意げな顔をして自慢する。もっとも、僕の場合は魔力を通せばすぐに全て見つけられてしまうのだが。
「カラス殿は女心をわかっていませんね」
片眉を顰めマアムが僕を軽く窘める。鼻で笑うように、顎を上げて。
「そんなことをすれば手が汚れます。土や砂を扱うならば服も汚れるでしょう。殿方からの誘いに身綺麗に整えた婦女は、それを乱れさせたくはないものですよ」
「……はあ」
なるほど。作業着でも着て、とか思ったが、それも彼らには難しいか。
「ましてやそんな作業をしてしまえば視線が下を向く。せっかく整えた髪も衣装も勇者様の目には留まらない。女性というのは変化に気が付いてほしいのに」
なるほどなるほど。……いや、納得出来るほどの経験はないが、そんな気もする。
「何より、宝石が見つからなかったらどうするのですか? 宝石採掘の仕上げとはいえ、それは本来労働です。そんな慣れない作業をして、結局何も成果のない消沈した雰囲気。取り返しがつかないでしょう」
うん。僕はマアムの言葉に素直に頷く。先に大きな原石でも混ぜておけばくらいには考えたが、それならその原石を渡された方が簡単でいいかもしれない。
僕が感心するように聞き入ったのでよい気分になったのか、マアムがほんのわずかに笑顔を見せる。
「殿方が整えた綺麗な宝石をもらってこそ、婦女は喜ぶものです」
「そうなんですか」
理解しきれた気もしないが、そうなのか、と僕は勇者に視線を向ける。勇者は自信なさげに目を逸らすと、「……そうかもしれないっすね」と小さく呟いた。
そうなのか。
僕のそういった感覚が的外れなのは知っているのでそう残念でもない。
しかし、そうすると本当どういうものがいいのだろう。勇者とルルのデート。そのプラン、僕に考えさせるものではないと思うのだが。
一瞬途切れた間に、そうだ、と僕はふと思い出す。喫茶店で逢い引きする、というのも聞いたことがある気がする。多分それくらいなら僕もしたことがあるだろう。もちろん、頼子さんと一緒に。
だが、……。
「じゃあ、服を見て回って……も試着とか出来ませんよね」
「そもそもザブロック様にもお抱えの服飾職人くらいはいらっしゃいますので、既製品はどうかと……」
「難易度高いなぁ、異世界」
僕の案は必要ない気がする。マアムと存分に相談して決めてもらえばいいのではないだろうか。一般的な男性は中々そういうものを相談出来る女性がいないと聞いたことがある気がするが、彼にはマアムという恰好の相談相手がいるのだから。
何だろう。自覚してしまえば、彼らとの距離が遠くなった気がする。
僕の知らない世界の話。僕の知らない種類の、知らない仕草について詳細に相談している。
勇者が、マアムも含めて僕の知らない話をしてる。
そんな気がする。
気付いてしまえば、現実味がないのだ。
勇者とマアムの会話。デートプラン。女性と遊ぶ算段。それが耳に入っているはずだが何故だがふわふわしている。
まるで、テレビショーか何かで、俳優と女優が会話している場面。ブラウン管の硝子窓の向こう側で語られている台詞のようだ。
もちろん、そうでないことは知っている。彼らは今現実に、目の前にいるわけだし、彼らに僕が語りかければ彼らも何かしら応えてくれる双方向の繋がりがある。
だがそれでもきっと彼らは手の届く距離にはいない。元々身体年齢は向こうの方が上だが、それ以上に勇者が年上に見えた。
そう思えばもう身が入らない。
もう、どんなデートでもいいと思う。どうせ僕の考えるデートプランなど児戯に等しい策略だ。勇者とマアム、その二人が一緒に考えた何かの方が、ずっと上等に決まっているだろう。
適当に話を済ませ、僕は勇者と別れる。
去り際にマアムが僕を探るようにちらちらと見て、何かを不思議に思うように首を傾げていたのが気になったが、僕はそれを無視した。
夕方になり、僕とオトフシは部屋で交代する。
結局あの後の園遊会では特にデートの話は出なかったらしい。オトフシは勇者のその姿を思い浮かべるようにして、何となくいやらしい笑みを浮かべていた。
「お前は出遅れたな」
「出遅れた?」
デートの話はなかった。そう口にしたオトフシだが、気になることをいう。警護の仕事の話なら、明確に言葉にしてほしいのだが。
「今日はお前にも夜に仕事がある」
「どこかへ行く……呼ばれたんですか?」
「ああ。今日は昼餐会を開かなかった代わりに、晩餐会を開くそうだ。……ルル・ザブロックを含む数名を招いた、とても私的な、な」
「……もうですか」
多分僕の古い価値観からの違和感。
好きな女性と夜に会いたい。食事を兼ねているとはいえ、街中にデートに誘うよりもハードルが高いと僕は思ってしまうのだが。
一般的に、昼餐会は多く参加者を募る開かれたものだが、晩餐会、それも私的なものといえばとても閉じたものになると思う。
具体的にいえば、公的なものと違い、私的な晩餐会は晩餐会では終わらない。僕がザブロック家に招かれたときは少々事情が異なるが、食べただけで解散とはいかないのだ。
夜開かれる舞踏会などもそうだが、多くの場合に晩餐会が終わった後は主催の人間が応接室へと参加者の数人を招き、更に少人数の会が開かれる。そこで軽食や喫煙などを嗜みながら、親密な会話に花を咲かせるのだ。
会話というのも、深窓の人の目に触れないところということで、デリケートな話題が多くなる。政治批判や法に触れかねない話、他者の触れられたくないところに触れかねないごくプライベートな噂話など、そういう話題の会話が。
……本当に、デートよりも大分ハードルが高いと思うのだが。
「もちろんお前の想像しているとおり、その後もあるぞ。勇者はルル嬢を談話会にも招くだろう。ついにルル・ザブロックが、勇者の伴侶第一候補だと衆目に知らされるわけだな」
「何も言っておりませんが」
「フフン。お前の顔が言っている。わかりづらいと言う者も多いが、やはりお前はわかりやすい」
クツクツとオトフシが笑う。わかりづらいという気もしないが、わかりやすいと言われるのもやはり気にするべきなのだろうか。
「招待された時刻は、夜の八の鐘。そのときには妾を頼るなよ。先に休ませてもらう。夜更かしは肌に悪いからな」
「休憩時間ですし、お好きにどうぞ」
「ああ。まあ、連絡としてはそんなところだ」
「了解しました。引き継ぎます」
僕が肩を解しながらそう言うと、オトフシは無言で鼻を鳴らす。そして腕を組んだまま、指だけで自分の腕を叩いてもう一度口を開いた。
「……この前、ルル・サンディアを邸宅まで送り届けたときのお前の言葉に反論しておく」
「この前?」
ルル・サンディア。ルルの旧姓……ということは、『この前』という位の尺度で収まるものではない気もするが。オトフシは僕の言葉を無視した。
「踏み出すべきでない理由と同じくらい、踏み出せる理由もあるはずだ。お前にもな」
「どういうことです?」
「もうすぐわかるだろう。もう、すぐに」
というか、何のことだろうか。一応僕もルルたちを連れてきたことは覚えているが、その会話までも全て覚えているわけではない。
補足を求める。だがオトフシは薄く笑いながら立ち上がり、親指で丸めた紙を弾く。僕の顔に向けて飛んできたそれを指で挟んで受け止めると、後ろ姿で手を振ってパーテーションを出ていった。
そして。
「では、行きましょう」
夜、腹時計では八の鐘の八半刻程前。サロメと共に準備を終えたルルが、部屋を出るべく歩き出す。
一昨日から、会話らしい会話をしていない僕は、その表情が読めないルルに何も話しかけられずにただ付き従っていった。
……なんだろう。何というか、気まずい。
絨毯の上、足音もなくルルは無言で前を歩く。サロメも、当然のように。
見知っている顔。この王城で、一番話して接した二人。だがそんな二人にも、僕は勇者たちと同じことを感じた。
まるで知らない人間たちだ、と僕は感じてしまった。
もちろん、知らない人間のはずがない。
自分の変化に少し驚きつつ、僕はその二人に追いすがる。声をかけられない。前は世間話というか、軽い話は出来たのに。
苦手意識、とでもいうのだろうか。いや、苦手なはずはない。そもそも苦手な人間というのがどういうものかもわかっていないという問題がある気もするが、それでも。
いや、そもそもこんな廊下のど真ん中で立ち止まって話など出来ようはずがないのに。
何を考えているのだろうか、僕は。
考え事、といえばいいのだろうか。
そんな思考を続けている間に、応接区画に到着する。
その内の一つ。何度かこっそりと覗いたことがある。まるで貴族の邸宅のような誂えの場所、勇者の部屋よりもむしろ豪華なこの中の食堂で、今日は晩餐会が開かれるのだ。
入る廊下の脇には、聖騎士二人が立つ。第二位聖騎士団、クロードのところの。
この区画の出入り口はここのみ。おそらく周辺にもいくらか配置はされているのだろうが、まあ暴漢などが入る余地もない万全なものといってもいいのだろう。
ルルの姿を確認し、聖騎士たちが無言で会釈する。本来はこの辺りに招待した部屋の主が立つものだと思うが、今回はもっと中の方にいるらしい。……招待した、勇者が。
聖騎士がルルを見て、そしてサロメを見て、最後に僕をじっと見る。
別に敵意もない、単なる確認の視線。そうは思う。けれどもその中に、何となく違うものを感じた。
はっとして僕は立ち止まる。
この後の手順を思い出して。もちろん、僕がここより先に進むわけにはいかない。
王城内。同じ建物の中とはいえ、作法に則るならば。
僕が立ち止まったことにルルが気付く。それから振り返り、僕へとほんのわずかに笑いかけた。
「……いってきます」
「…………」
二日ぶりに見た気がする。ルルの笑顔。
だがそれは少し前まで見ていた楽しげなものでもなく、嬉しさからでもない。化粧をしている整った顔のはずで、いつもよりも美しいものになるはずだと思ったのだけれども。
なんだろう、何かが足りない気がする。
それでもきっと僕の気のせいだろう。そう浮かんだ考えを押し込んで、僕は軽く頭を下げる。
僕がこれから行くべきは、控えの間。作法としては警備は主催者が用意するもので、僕がここから先へと立ち入るのは無礼だろう。そして腕前としても状況としても、警護は聖騎士で充分すぎる。
「……お待ちしております」
軽く下げただけと思っていたが、自分で思うよりも長い時間頭を下げたらしい。顔を上げたときには既にルルは向こうを向いて、廊下の奥へと歩き出していた。
奥には勇者がいる。招待客を待つために。
ああ、まただ。
僕の脳裏に何故かそんな言葉が浮かぶ。オトフシのさっきの意味深な言葉からだろうか、ルルの後ろ姿が幼いときのものと重なる。遠ざかってゆく背中に近寄れないこの状況に。
どこだろう、と数瞬悩み、ようやくわかった。オトフシの言っていた『踏み出せなかったとき』というのも。
あの時と同じ感覚だ。
ザブロック邸にルルを送り届け、馬車から降ろすために僕は手を差し出せなかった。オトフシに促されたのに。
あの時僕はなんと言っただろう。『する理由がないから』とでも言ったのだろうか。
今朝勇者と話していたときと同じ感覚。
ルルはもう、違う世界に進んでしまった気がする。勇者とマアムが話していた、あの時のように。僕を置いて、別世界へ行ってしまった。
僕は、この先へは進めないのに。
廊下を曲がり、ルルの姿が完全に見えなくなる。足音は聞こえるけれども。
勇者と話している声がしている気がする。どこか遠い世界で。
"僕たちはもう君と一緒に行けないんだ"
何だろう。僕はまだ、何かに気付けていない気がする。
見上げれば、天井。その向こうに月がある気がする。
また何か、母親に怒られそうだ。そんな気がした。




