ほつれ
どこがどう変わった、とかそういうことではない。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ」
入り口で脇に座っていたオトフシに会釈をしてから、目が合った奥のサロメに挨拶をする。ルルは、中でまた本を読んでいた。
僕は気配を消しているわけでも、ましてや隠しているわけでもない。けれど、ルルは気付かないようで手元の本を覗き込んだままだった。
一応ルルにも礼は必要だろう。軟禁されていた僕が解放されたのは彼女の働きによるもので、使用人である僕は本来感謝のしようもない。
歩み寄る。だが、様子がおかしい。ルルは本を読んでいた。それなのにページがめくられない。何事かを考え込むように視線は固定され、文字すら追っていないようにも見えた。
「ルル様」
「…………っ!!」
もう少し近づいてから僕が声をかけると、ようやくこちらを見る。もちろん驚いていたようで、肩を震わせて本が手からパタリと落ちた。
その様子を怪訝に思いながらも、僕は続けて口を開く。
「この度はありがとうございました。そしてお疲れ様です。……勇者様の様子はいかがでしたか?」
「え、ええ。お疲れ様です。カラス様も」
答えながら、本を文机の脇に寄せて、ルルは椅子の上で方向転換しこちらを向く。
「少々怪我はなさっていますが、少し話したら大人しく戻って頂けました。そんなに苦労することもありませんでした」
「怪我ですか?」
「はい。街を出ようと外へ向かっている最中に、親に暴力を振るわれている子供を発見したとかで……、それを止めるために、無茶をされたようです」
「……はあ」
要は喧嘩したということだろうか。
頭の中で、よくやった、という声と、馬鹿なことを、という声が同時に響く。僕の頭の中では前者が優勢だが、後者をとる人だっているだろうし、勇者もそうしても咎めることは出来ないのに。
そして、子供か。
「子供は今大怪我をしていて……ベルレアン卿の家でしばらく預かるそうですが」
「ならまあ、安心ですね」
大怪我と聞いて僕の先ほどの脳内の声は前者しか聞こえなくなり、また別のざわめきが脳内に起こったが、その声もルルの言葉に落ち着いてきた。
大怪我を負わせたということは、きっと虐待じみていたのだろう。そんな子供が一時は助かった、ということ。それはどう考えても喜ばしいことだ。
「…………」
ホッと息を吐いた僕をルルが見つめる。何か言いたげにして、それでも何も言えないように唇を結んだまま。
「……何か?」
「………………いえ」
手を足の下にしまい、ルルが静かに首を振った。
「……明日から、警護の配置の転換をお願いしてもよろしいでしょうか」
「明日からでしょうか? 別に構いませんが……」
ルルの命令ならどんな形にもなるし、ルルが僕らに任せるならオトフシの意見も重要になる。だがまあ、ルルが言うのなら僕はただ頷くしかないだろう。とりあえず、僕の一存で決められるものではない。
「オトフシ様も」
ルルは少しだけ声を張り上げたが、そこまでしなくても聞こえていただろう。オトフシも静かに立ち上がり、こちらへと向けて歩いてきた。
僕とオトフシがルルの前に並んで立つ。一応仕事上のことだろうか。僕が姿勢を正すと、それを見てオトフシが微かに鼻で笑って同じようにした。
サロメはこのことについて何も聞いていなかったのだろう。戸惑いながら僕たちを追い越すように歩き、僕らを含めればルルを囲むようにやや遠くで立つ。下ろした手を体の前で組んで。
「明日から、昼はオトフシ様、夜はカラス様に基本的に統一して頂きたいのです」
「……外へ出るときは基本的に私が、ということですな?」
「…………」
オトフシの質問に、ルルはコクリと頷く。
「何故でしょうか?」
何となくオトフシは訳知り顔に見えるが、僕にはわからない。とりあえず尋ねるが、ルルの反応は考えながら話しているように遅い。
頷くよりも俯いて、ルルは呟くように口にする。
「……私の、個人的な事情です」
「個人的ではないでしょう。立派なことではないでしょうか」
何も言っていないのも同然。そう感じた僕だったが、オトフシはまた励ますような言葉をかける。僕はサロメに視線を向けるが、サロメは首を傾げて応えた。
オトフシが僕の方を向く。諦めたように息を吐きだしてから。
「お前は男。妾は女。これから男性の帯同をしたくないという事情はわかるだろう?」
ルルがわずかに首を横に振って、足の下に入れた手を握りしめる。違う、と言っている気がするが、反論はないようだった。
オトフシに賛同するように、否定なくまたルルが口を開く。
「……勇者様の伴侶候補としての話。この王城へ来た理由を、そろそろ前向きに考えます。カラス様がいては、オギノ様もそういう話が中々出来ないでしょうから」
「…………だ、そうだ。これから不寝番は任せたぞ」
オトフシがポンと僕の肩を叩く。僕はその感触に視線を向けることなく、なるほど、と頭の中だけで呟いた。
なるほど。勇者。勇者と、か。
「もちろんこの城には大勢の素敵な方々がいらっしゃいます。勇者様が私をお選びになるかどうかはわかりませんが。それでもそれが……仕事ですから」
ルルの目が見えない。物理的にそこにあるのに、表情が見えない。そんな気がする。
「話は終わりです。サロメ、今日の夕食は食堂で頂きます。準備を」
「……よろしいのですか?」
「はい。オトフシ様も、お願いします」
「心得ました」
今日の夜は予定通りオトフシが当番。朝仕事を代わってもらったからといってそこに変更があるわけでもなく、通常通りそのままだ。
僕からしてもアネットたちから頼まれた薬の作成があるので、その分の空き時間を作ってもらった、ということもあるのだが。
サロメがルルの衣装を整える準備をするべく、ルルの部屋へと入っていく。オトフシはまた待機所へと戻っていくが、その時にポンと僕の肩を叩いていった。
二人が離れ、僕とルルだけになる。
僕が見下ろす形。ルルは叱られるのを待つ子供のように黙って固まっていた。
「……何かございましたか?」
「…………」
明らかに様子がおかしい。何か言いたいことがあるのに口に出せないように。
それだけではない。勇者の件についていきなり積極的になることといい、色々とおかしな気がする。
また考えるようにして、目を伏せたままルルは唾を飲んでから口を開く。
「いいえ、何も」
嘘だ、とルルのように口に出しそうになる。もっとも僕にはその判定は出来ないが、それでも多分、位には想像がついた。
「突然の方針転換。何も理由がないわけではないでしょう?」
「……私は……私の仕事をしなければいけないだけです。今までがおかしかったのでしょう」
「では何故、今までがおかしかったと?」
「…………」
詰問しているようで、何となくやめたくなる。いや、やめるべきだ。別にルルがどう方針を転換しようと、僕は従うしかないのだから。テレーズと同じく。
しかし本当に、ここで止めてしまっていいのだろうか。予感がする。ここでやめれば後悔すると。
「別に……いいじゃないですか。別に」
ルルの声に、久しぶりに苛立ちが混じる。喧嘩をしたいわけでもないし、僕も引き下がればいいのだけれども。
「何となく、よくない気がするので」
「それこそ、何故ですか? 何となくでいいじゃないですか」
これだけ話しても、目を合わせてくれない。それこそ、僕は不味い兆候だと思う。
「何かあれば、相談して頂きたいのですけれど」
「……何もありません」
困った。先ほどのテレーズと僕の会話のようだ。これを思えば、テレーズに悪いことをしたのかもしれない。いやまあ、僕には彼女に話せることは本当になにもなかったが。
「ですが……」
「これ以上、詮索しないでください。……命令です」
「…………」
そして、ルルの発した言葉に内心少し驚く。命令。この王城に来て、初めて彼女から聞いた言葉かもしれない。
そんなふうにいつもと違うことをしているから、僕は気になっているわけだが。
しかし、これ以上は無理か。
「……了解しました」
僕は頭を下げて踵を返す。
話してくれないのであれば仕方がない。歯がゆい思いではあるが。
邪魔する権利もない。本来外様で、何の関係もない僕には。
勇者との婚約に前向きになる。それはたしかにルルの仕事だ。
ルルは『自分ではない誰かを選ぶかも』と口にしたが、まあそれはないだろう。勇者の側には既に問題はないし、ルル側が乗り気になればもはや障害はない。
決まりだろうか。ミルラ王女の脚本も成就し、勇者は愛する人を得て戦場へと向かう。
『命令』が出た。ならば、僕にそれを止める権利はきっとないのだ。




