表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
捨て子になりましたが、魔法のおかげで大丈夫そうです  作者: 明日
神聖にして侵せぬもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

710/937

閑話:夕焼け小焼け

 


「……んだよ?」


 染物屋の男は不機嫌を隠そうともせずに振り返る。ここは自分の家の工房、その通路とも倉庫とも言い難い中側。

 当然表には面していないし、従業員以外は立ち入り禁止の場所だ。

 だがその声には聞き覚えなく、そして振り返った先で憤怒の形相を浮かべているその顔にも見覚えはない。


 部外者。そしてここは自分の家。

 ならば相手は不法侵入してきた邪魔者で、男にはここで怒る道理がある。そう頭のどこかで冷静に確認した男は、一切の後ろめたさもなくその青年を睨んだ。


 男の足の下で、ぐにゃりとした感触が歪む。踏みつけられている藍で染まった指先が軋み、子供が動けぬままに顔を歪めた。


「やめろって」

 一歩、ヨウイチが近づく。染め物工場の特異な匂いも漂う湯気も何も気にせずに、また一歩子供の下へと。

 ヨウイチを見て、男も苛立ちに顔を歪める。この青年は何を根拠にそんなことを言っているのだろう。ここは自分の家で、そして今自分は子供の躾け中だ。止められるようなことなど何もしておらず、そしておかしなことを言っているのは目の前の青年のほうだろう。

 その青年の背景もわからずに、ただ睨む。

「衛兵か? それとも……なんだ?」

 しかし、ヨウイチは怯まない。それがまた男の脳内に困惑を広げた。


 なんだこの不審人物の妙な自信は。官憲か、それとも物狂いの類いだろうか。その仕立てのよい服は高価そうで手の込んだものだとは職業柄すぐに見抜くことが出来たが、それでもその正体がわからない。


 また一歩近づいたヨウイチが、足下に転がる子供に視線を注ぐ。

 力なく横たえられた四肢。その手は未だに男の足の下にあり、まるで空き缶を潰すように踏まれていた。

 顔は腫れ上がり、口には何かが詰め込まれている。その痛々しさに目を背けたくなる。

 血が流れるようなものはない。けれども、よっぽどの理由がなければ、およそその無抵抗な子供にしていい仕打ちではない。

「なに……してんだよ、あんた」

「何って、……躾だよ。躾」

 何を馬鹿なことを、と男が眉を顰める。その言葉を聞いたヨウイチも、同様に。


 もしかして聞き間違えだろうか。

 躾。その言葉から想像されるものを、その範疇を明らかに超えている光景を目にして、ヨウイチはふとそう考えてしまった。


 そうして動かぬヨウイチに男の苛立ちは収まらず、そして不信感まで覚え始める。

「お前こそ、何してんだよ。ここは俺の工房だぞ。危ねえもんだってあるし秘伝のもんだってあるんだ。出てけよ、部外者は」

 目の前の青年は何をしにここまで来たのだろう。

 客ならば温かく迎えよう。けれどもそうではないらしく、そして自分の行動に文句をつけているらしい。

 不法侵入してきた青年。目的は何だ。金か、それとも技術か。そう、目の前の青年の考えがわからずに薄ら寒さを覚えて唾を飲んだ。



「え、衛兵を呼ぶぞ」


 もしも目の前の不審者の目的が、自分を害することだったら。

 ふと浮かんだ考えに、そうだ、と妄想が加速する。

 自分の腕を妬み、他の染物屋が雇った『そういう稼業』の人間だったら。精一杯の抵抗をするべきだろう。そうしないと、今まで懸命に働き守ってきた自分の城が……。


「それ以上、近寄ると……」

「その足を退けろって」


 歩み寄ってきた不審者に、手近な武器を視線で探し、男は壁に立てかけてあった竿に目を留める。これで追い払えればいい、が、それでも太刀打ち出来なかったら……。


 不審者の声に応えたわけではない。

 だが男はヨウイチの言葉通りに足を我が子の折れた手からどけ、壁際にあった木製の竿を掴みヨウイチへと向ける。


 全く今日は運の悪い日だ。仕事も上手くいかず、子供は自分を苛立たせ、そして訳のわからない不審者に絡まれている。何故、毎日文句も言わずに家族のために懸命に働いている自分がこんな目に遭わなければいけないのだろう。

 男は、泣きそうになった。



 ヨウイチはその男の顔が酷くおかしなものに見えた。

 怒っているのはわかる。苛立っているのはわかる。なのに何故、その怒りが『憤り』に見えるのだろうか。

 

 男はまるでヨウイチが不当にこの家に押し入ってきた強盗のように見つめ、あまつさえ武器になりそうな棒まで向けている。

 自分がしていることを自覚していないのか。自分が、子供に今まさに大怪我を負わせていることを。


「大声を出すぞ。それ以上近づくと、ただじゃ済まさねえ」

「……落ち着けよ。その子を、病院に……」


 もしも彼が暴力を振るってなどいないのだったら。

 ならば単なる不可抗力だったのだろうか。もちろんそうは見えなかったが、それでも子供に暴力を振るっていたというのは単なる自分の勘違いで、子供が何らかの事故で大怪我をしてしまった上、自分が登場したことでパニックを起こしているのだろうか。

 そんな、相手を慮る考えが浮かぶ。

 しかしそれを振り払うように首を振った。


 見間違えなどではない。確かに見た。現に子供は先ほどは手を変色するまで踏みつけられ、今まさに口の中には何かを詰め込まれている。

 それは明らかに人為的なもので、そして、そうだ。先ほど男はまず自分に聞いた。『衛兵か?』と。

 衛兵。この世界における警察のような組織。まずそれを聞いたということは、きっと男にも罪悪感があったのだろう。もっとも、そうは見えないが……。


 そうだ。

 ヨウイチはハ、と気付く。


 先入観と『躾け』という言葉からだろう。目の前の男が、目の前の子供の親だと思っていた。

 けれど、違うのかもしれない。その目の前の男と子供は無関係で、今まさに、暴漢たる男が子供に暴力を振るっていたのかもしれない。

 そんな想像が頭をよぎる。

 そうだ、そんな暴力を、親が子供に振るうわけがない。そんな、勇者の幸せで根拠のない出鱈目な妄想もそれを補強した。



「……その子から離れろよ」


 親ならば、どうかと思った。けれども、男が暴漢ならば。

 衛兵を呼ぶと言った。呼べばいい。捕縛されるのはそちらのほうだ。

 ヨウイチも、そんな意気を込めて男を睨む。


 ヨウイチの視線に、ついに男は怯んだ。まず感じたのは力の差。野生動物同士のように互いの力の強さを計りあった彼らは、お互い無意識に正しい判断をする。

 力の差は歴然。何故かは知らないが、男は目の前の不審人物に刃向かえるはずがないとさえ思った。

 立ち向かえないと思った理由は力の差だけではない。目の前の不審人物が、凶暴で、残酷で、冷酷な犯罪者にも見えて。


 だが男も、無抵抗で終わるわけにはいかなかった。

 不幸に塗れている自分の人生。それでもそれを、こんな不審者にぶち壊されてたまるものか。



 男が拙く木の竿を振る。

「…………!!」

 男には、剣術の心得も槍術の心得もない。それでも武器というものが強いものだとは知っている。そして槍がどう使われるのかも知っている。振ればいいのだ、おそらくは。


 襲われる。そう感じたヨウイチは、咄嗟にその槍を避ける。穂先のない槍。怯えも混じり鈍い動きだが、しかし殺気の込められた槍を。

「……っ! 馬鹿!!」

 そして避けながら踏み込み、咄嗟に両腕を上げ、修めている剣術の組み打ちの構えを作った。



 佐原一刀流は、介者剣術の一派である。開祖が戦場で鎧武者相手に組み打ち、作り上げた技術体系。相手も自分も鎧を帯びて、何かしらの武器を持つはず。故にその技術は本来、互いの素手をほとんど想定していない。

 けれども、技術というのは研鑽と変化を繰り返すもの。時代の変遷において、その流れはある。

 具体的には、戦国時代後。鎧などつけずに街中を歩き、殺し合いが始まる想定。

 そんな中、時の継承者が武器に剣を選ばなかったことは今を生きるヨウイチには意外なことだったが、そんなものは些細なことだ。



 ヨウイチの構え。佐原一刀流の当て身は、拳頭を使わず真っ直ぐ打たない。利き腕とは反対の腕を極端に前に伸ばした独特の構えから打たれるのは、肘と手首……殊に手首を使い加速する横や斜めの打撃。

 手打ちと揶揄されることもあるが、それは正しい。もちろん顎先などへ綺麗に当たれば意識を刈り取ることもあるだろうが、佐原一刀流ではその打撃で勝負を決めるわけではない。


「……っぃ!?」

 ヨウイチの左の拳。その第二関節が揃って男の顎を打ち、動きを止める。

 牽制。それで充分。


 動きを止めた男の襟と腕を掴み、引っ張りながら足をかける。

 柔道でいうところの体落としに似た動き。これも独特の投げ技で、受ける相手や地面の素材によっては大怪我をするが、それでもこれで決着をつけるものでもない。


 男は引かれた腕とかけられた足で綺麗に体を反転させ、背中から地面に落ちる。

 受け身も取れない男は苦しみから逃れられぬものの、ヨウイチの動きは終わらない。



 介者剣術とは、鎧を着た相手へと使う技術。その技術の骨子は、時代を経て鎧の着用がなくなろうとも変わらない。

 基本の動きとしては、拳で相手の動きを牽制し、投げて相手を転がし地面に組み伏せ、そして。



 ヨウイチが、落ちた男の顔めがけて拳を振るう。

 最後に放つのが、必殺の一撃。武器を持っていればその武器で、なければ拳で、組み伏せた相手の鎧の隙間を突き、相手を絶命たらしめる。

 ヨウイチの下段突きは、日本でも分厚い樫の板を三枚まとめて叩き割った。それを無防備な人体へと放てば、その結果は明白だ。


 魔力と力を込めた拳。

 それが男の顔面へと迫る。


 だが。


 修練の結果、ヨウイチが下段突きをする瞬間、いつも心の奥に響く声がある。それは刻まれた師匠である祖母の声。



 "相手を殺す気で打て!!"



 ヨウイチの拳がピタリと止まる。

 拳は男の鼻をわずかに潰す位置で止まり、男は打たれなかったことに困惑して息を荒くした。


 それ以上拳を押し込めず、ヨウイチの拳が震えた。

 そうだ、殺す気で打たなければ。だからこそ必殺の威力が宿り、決着の一撃となるのに。


 だが、とその拳がもたらす未来を想像し、ヨウイチの表情が凍り付く。

 殺す気で打たなければいけない。そうしなければ、ただの軽い打撃だ。人体というのは意外と頑丈で、軽い打撃では制圧も出来ない。


 けれど、打ってしまったら。殺す気で打ってしまったら。


 ヨウイチの脳裏には確信があった。

 もしも今の自分が無防備なこの男の急所に拳を殺す気で打ち込んだら。


 この人は死んでしまう!!




 ほんの数瞬。動きを止めたヨウイチを男は一瞬怪訝に思ったが、すぐに気が付く。

 この不審者は、これ以上攻撃出来ない。その理由まではわからないが。

「……へ、へへ……」


 男には、ヨウイチが急激に小さくなったように感じた。先ほどまではどこかしら迫力のあった威容は次第に消え失せ、ただの弱々しい青年に見えた。

 ならば。


「……ぅっ!!」


 男が思いきり、壁際に手を伸ばす。そこにあったのは先ほど自らの子供が壊した桶の残骸で、それでも外れかけた箍にちょうどよく指がかけられた。

 ヨウイチの頭めがけて、全身の力を使い、下から渾身の勢いでそれを打ち付ける。

 その衝撃で桶は完全に壊れてしまい男の手には箍の金属部分だけが残ったが、その分の衝撃に襲われたヨウイチは、痛みに押されて横向きに平衡を崩した。


 自分の子供という、弱い者を嬲り続けてきた男だ。その機を逃す男ではない。

 喧嘩の作法までは知らないまでも、ヨウイチの手を引き、引きずり下ろすようにして地面に倒す。入れ替わるように起き上がった男はヨウイチの腰の上に乗り、完全に見下ろす体勢に入った。

 そして振り下ろされるのは、今度は男の拳。


「……ぁっ…がっ………!!」

「ハハハハハハハハハ!!」


 爽快だ。そう馬乗りになった男は感じた。ヨウイチの顔に向け、振り下ろす拳が鼻血に塗れる。

 何せ、この不審者には何をしても構わない。ここは自分の工房で、見ている者は不出来な息子ただ一人だ。

 殺す気はない。だが、死んでも構わないと思っていた。


 それくらいしても構わないだろう。なにせ、おそらくこの不審者は善良な自分を殺そうと思ってここに来たのだ。ならば、死んだところで誰も構うまい。


 男の拳に鋭い痛みが走る。ヨウイチの歯で切れた指の痛みに、怒りが再燃した。

「っ……! 痛えなこのやろぉ!!」


 またこんな目に遭わせられた。ああ、神がいるとしたら、自分をどれだけ不運で可哀想な身に遭わせれば満足なのだろうか。




 振り下ろされる男の拳は一般人なりで、更に魔力で強化されているヨウイチの体に大怪我を負わせるような力は入っていない。だがそれでも、何度も何度も執拗に振り下ろされた拳に、ヨウイチの顔が腫れ上がり始めた。


 腕は上げて耐えているが、無抵抗に近い防御。

 ヨウイチの意識は消えていなかった。だが、それでも反撃する気は起きなかった。

 拳は痛いが祖母のものほどではない。だが、反撃出来ない。


 弱い弱い目の前の男。手加減しても殺してしまいそうで。


 それももはや比喩ではない、とヨウイチは信じている。

 既に一人殺している。ならば自分は既に人を殺す力があり、そしてそれを振るうことも出来る。

 しかし振るってしまったら、もう帰れない。そんな気がする。

 帰る道すら見つからない日本へ。もしも人を殺してしまえば、そこへの道が閉ざされてしまう気がする。



 …………。


 なら、死ぬのか? 自分は、このまま。



「ハ……」

 ヨウイチは自らに振り下ろされていた男の拳を、顔に当たると同時に握りしめる。

 そのまま押し返すように力を込めると、震えと共にその手が上に持ち上げられた。


 男の顔が凍り付く。

 ヨウイチの鋭い目。先ほどまでは弱々しく、小動物のようにも見えていた迫力のない顔が、今はまさに鬼気迫るものと変じていた。

 男の手が震える。力を入れているからではない。背筋を貫いた寒さに。生涯初めて感じた、鋭い殺気に。


「……んだよ」


 強がるように男が呟く。そして握られた手を強引に振り解き、振り上げる。

「んだよぉぁ!!」


 だがその手は振り上げたところで、手首を掴まれ、振り下ろすことは叶わなかった。


「あ?」

「遅くなりました、申し訳ありません」


 男が、その手を掴む誰かを見る。だがその視界が誰かの顔を認める前に、男の視界が一回転し空を向いた。




 現れたのは、ジグ。

「暴行を認め、聖騎士団員に許された俺の権限において、捕縛させてもらう」

「……!?」

 掴まれた手がふりほどけない。手首が万力のような力で締め付けられており、骨が軋む音すら男には聞こえた気がした。

 ようやく視界に入った先にいた、短髪の男。その真摯な表情に、男が恐れ戦き凍り付く。

 それに、今の言葉は。

「せ、聖騎士?」

 聖騎士。それはその者が爵位を持つ貴族とだということを意味し、そして男には手が届かないほどの高い地位にいる人物だということも表していた。

 逆らってはまずい。そう、男にも判断する知識はあった。



 抵抗されたら、即座に攻撃に移る。大人しくなった男を見つめながらも、そう考えていたジグは、男の一挙手一投足を見逃さないように目に力を込めた。


 その視線に、また男は怯える。先ほどまでヨウイチに感じていた畏怖を、今度はジグに改めて。

 だがそんなことは認められない。ただ己の弱さを認められない羞恥心により。


 首を勢いよく振って、景気づけする。そうだ、聖騎士ならばたしかに従うべきだが、今目の前にいる乱入者はその証拠を出していない。それに、聖騎士ならば今まさに襲われている自分の味方をしてくれるはずだ。

 なのにそのどちらもなく、そして今自分を拘束している悪者が聖騎士であるはずがない、と。

「動くんじゃない」

「はぁ!? ふざけんな!! てめえもこの男の仲間かこらぁ!!」

「仲間と言えば仲間ではあるが、そうではないな。とりあえず、大人しくしろ」

 強がるように暴れる男を、ジグが制する。手首をわずかに捻るだけで、男の手首から肘、腕から肩までが固定されて軋みを上げる。

 だがそれでも足りない。そう感じたジグは、とりあえず手の確保を止めて、男を立たせた。


「……動くなよ」

「…………は?」


 続く三つの点穴。一瞬で施された男は余りの激痛に全身の力が抜けて地面に倒れ伏す。

 だが、手放された体を動かせないわけではないことに気が付く。

 何をしたのだろう。そんな疑問が男に湧いたが、それでも動くなら問題はない。立ち上がり、不審者どもを追い払おう。そう決意して地面に手をつこうと試みた。だが……。

「く、は……あ、あああああ?!!」

 だが、指一本動かせば、神経を抉られるような痛みが全身を駆け抜けた。

「痛……いたあぁぁ、痛い痛いいぎゃいいぎゃいあああ!!」

「動くなと言っただろう。応援が来たら解穴してやる」

 暴れて腕を動かせば、その分更に痛みが増す。

 しばらく叫び、痛みが痛みを呼ぶ悪循環にようやく気が付いた男は、唇を噛みしめ涙を流しながら目を瞑って身を固めた。



 もはや完全に無力化された男。とりあえずそちらはいいだろう、と続きジグが落ち着き払って駆け寄ったのは、もちろんヨウイチだ。

 大の字になり荒い息を繰り返していたヨウイチの横にしゃがみ込み顔を近付ければ、ヨウイチの方もジグをようやく認識した。


「大丈夫……ではなさそうですな」

「ぉ、ぁ……」

 舌を噛んでいて上手く喋れない。そう理解したジグは、ヨウイチが何事かを伝えようとしていることに気付いてその指に注目した。

 プルプルと指し示された先。やっとの思いで持ち上げられた指先が示しているのは、倒れている子供。


 もちろん、それはジグも承知してる。故に、何も答えずにうんと頷いた。


 勇者も大丈夫そうだ。怪我はしているが尾を引くものはない。そう判断したジグは、今度は子供に向かう。勇者が最後まで心配していた大事な子供に。

 失神している子供の口に詰め込まれた縄を解くように引き出し、呼吸を確認する。

 とりあえず、生きている。ならばいい。


 ふう、とジグは溜息を吐く。

 とりあえず勇者を自分が一番に発見出来た。これで、マアムからの聞き取りが不十分だった失態を取り戻せるだろうか。

 ……取り戻せなかったら困る。そう内心ぼやきながら笛を取り出し、周辺の聖騎士たちへと届くように『確保』の報を鳴らした。






 目も開けず、ヨウイチが意識を取り戻して最初に感じたのは、背中に当たる固い木の感触だった。

 間違いない。今自分は横になっており、そして寝ているのはベッドではない。

 頬に風を感じる。おそらく外。張り付いたかのように開けづらかった瞼を少しずつ開けば、細い線の視界の向こうがやや黄色く見えた。


 ゆっくりと目を開き、やはりと思う。

 見上げているのは空。それも、夕暮れの始まりつつある黄色と赤の混ざった空。鳥たちが、編隊を組んでどこかへと向かって飛んでいった。

 ここは王都のどこかの広場。それを裏付けるように、背中の木の板は先程占い師と話したときと同じ感触がする。


 そのまま一度深呼吸し、鼻からゆっくりと息を吐く。しこたま殴られたわりには、顔や手足の痛みが少ない、と違和感を覚えながら。

 とりあえず鼻は折れていないらしい。何の気なしに触れた鼻の皮膚の腫れた痛みに「いてて」と呟きながら確認して、もう一度深呼吸。今度は口から、大きく息を吐きだした。



「お目覚めですか?」


 そして聞こえてきた声に、心臓が跳ねた。慌てて飛び起きながらその声の主を確認すると、隣の椅子に腰掛けていた女性。

 ルル・ザブロック。彼女の姿を認めたヨウイチは、小さく失笑しながら首だけで会釈を返した。



 ルルは意識を取り戻したヨウイチを前に、懸命に頭を回していた。

 ここからどうすればいいだろう。何を言えばいいだろうか、と無表情を装いながら懸命に。

 意図なく口は噤まれ、そして視線はヨウイチに固定される。

 ヨウイチはその視線に、咎められているわけでもないのに痛みを感じた。



 ルルは、まだ対応に困る。ここに来るまでに決めていたこと。ヨウイチに対してとるべきだと思っていた態度。それを、どうやって表に出そうかと。

 だがそうやって悩むほどに、彼女の表情が消えていく。

 実際は戸惑い。しかしその表情が、ヨウイチにはただの無表情に見えていた。


「……私は……」

 それでもようやくルルの腹が決まる。彼のようにと決めたではないか、と自らを奮い立たせて。


「私は、暖炉の炭です」


 そして奮い立たせた結果吐き出された言葉に、何か違うなと気づき、赤面した。



「え、ええと……?」

 ルルの言葉にどう反応していいかわからず、ヨウイチのほうも戸惑い言葉に詰まる。

 咳払いをして、ルルは仕切り直す。今のはなかったことにしてほしい、と全身で訴えかけながら。それからとりあえず口にしたのは、クロードから預かった連絡事項。

「先ほどの子供は、兄妹でベルレアン卿の家の道場に奉公に入ることに決まりました」

「さっきのって……。さっきの子供? もう一人いたんですか?」

「はい、下に妹が。今日はまだ暴力を振るわれたりはしていないそうですが」

「それはよかった……んですけど、奉公、というのは……あんな状態の子を? どうして?」

「建前です。しばらく居候をさせる代わりに、働かせるとか」


 もちろんそれも少し違う。彼らがろくに働ける状態にないというのは、ルルや様子を見た聖騎士たちの共通意見だ。

 虐待を受けていた子供たち。その兄妹は全身に痣や傷が広がっており、運動障害も著しい。

 奉公でもなく、居候でもなく、しばらくはただの療養生活になるだろう、とクロードは厳しい目で呟いていた。


「期限としては傷が癒えるまで。傷が癒えて……父親が自由の身になれば、本人たちに選ばせるそうです。父親の下に戻るか、それともそのまま奉公を続けるか」

 もしくは暇乞いをし、自立をするか。そこまではクロードも言わなかったが、第三の選択肢として残ってはいるだろう、とルルは感じていた。

 ただし、クロードはこうもルルに告げていた。『子供は親の下に戻ることを選ぶだろう』と。『叩かれていたのは自分が悪いことをしていたからだ』と何度も聖騎士に訴える子供は、きっとそうすると。

 意識の変容。それは根深い。


「そうですか。それじゃあ、しばらくは……」

 ルルの内心を知らずに、ヨウイチはルルの言葉だけを反芻する。父親の下に戻る、というのはありえない選択肢だと思う。そして、クロードの家はとても大きな武術道場だ、という認識もある。

 そして、持って回った複雑な話だが、そんな難しい話ではなく、多分、要するに。

「……じゃあ、助かったんですね」

「はい」

 ヨウイチがホッと息を吐く。肩の力が抜けて、自然と笑みがこぼれた。


 それから顔を両手で隠すようにして、俯いて万感の思いを声に込める。

「よかったぁ……本当に、よかった……」

 自分には止めることは出来なかったが。それでも。



「……何故」

「え?」

「何故、子供を助けたんですか? オギノ様には何も関わりのない子供だったのに」

 ルルはヨウイチから視線を外して前を見る。自分の顔を照らしている夕日が眩しかった。

「え、だって、普通助けますよね」

 ヨウイチはルルの言葉に首を傾げる。それが当然、という顔で。ルルが子供を見捨てるような冷徹な人間でもないだろうとも考えつつ。


「オギノ様は、王都を出ようとしていたのでは?」

「そうでしたけど、悲鳴が聞こえて……」


 あ、とようやくヨウイチは思い至った。自分でも一応考えてはいたこと。どこかの時点で頭から消え去ってしまっていたこと。

「……そうですよね。そのまま逃げられたんですよね……」

 惜しいことをした、とヨウイチは天を仰ぐ。だが何故だろうか。惜しい、とは思えなかった。

 子供が助かった。それが今何よりも嬉しい。もう、殴られて苦しむ子供はそこにいないのだ。


 ああ、とヨウイチは伸びをする。袖についていた土がパラパラと落ちてきた。

「格好悪いですよね。家出して、逃げ切れもしないで、子供を助けようとしてそれも出来ないでぼっこぼこにされて、って」

 結局助けたのは、多分意識を失う間際に見た聖騎士と、クロード団長だ。結局自分は何一つ出来ないまま、何も成せずにこのままきっと連れ戻されるのだろう。


 無力だ、とヨウイチは思う。

 今回死力を尽くしたとは言わないまでも、頑張ったはず。なのに、何一つ出来ていない。

 すると、きっと自分は頑張っても何も出来ないのだ。人も殺せない。人を助けることも出来ない。逃げ出すことも立ち向かうことも出来ない弱い自分。

 何故召喚などされたのだろう。こんな自分が。


「でも、助かりました」

「……結果的に、そうなってくれてよかったです」


 ルルの励ましにも、ヨウイチは気付かずに寿ぎを返す。

 そこに、自分の力は介在していない、と信じて。




 自分にしかわからない程度にわずかに声を震わせながら、ルルが少しだけ声を上げる。

「実は私は、ミルラ王女に、オギノ様を連れ戻してこいと言われてここに来たんです」

「…………そうっすよね」

 だろう、とはヨウイチも察しがついている。おそらく自分は救出され、簡単な応急処置だけを施されてここに運ばれたのだろう。そしてこのまま王城へと帰らせれば、何も変わらないと予想されて。

 ルルを見れば表情が硬い……気がする、とヨウイチは思う。彼女は自分を説得しに来たのだろう。世話をかける。こんな何も出来ない自分に向けて。

 だが、ルルはヨウイチの予想していなかった言葉を吐いた。


「でも、そんな気がなくなりました」

「……?」

「私も、オギノ様は逃げてもいいのだと思いますから」

「……マジっすか」


 ルルとしては本音。故に、表情がふと緩む。笑ってはいないが柔らかくなった表情にヨウイチは安堵したが、それ以上に、ほんのわずかにまた胸が痛んだ。

 戦え、とは言われたくない。けれども、戦わなくてもいい、と彼女には言われたくなかった気がする。

 もはや自分すらも見放しつつある自分。けれども、他の誰が見放そうとも、彼女にだけは……。

 ヨウイチは、出ていない涙を拭うように目を擦る。

 ついに見放されたのだ。彼女にも。

 彼女にだけは、見放されたくなかった。期待されていたかった。そう自覚して。



 ヨウイチの沈んだ声に、ルルはまた言葉が出なくなる。

 上手く話せない。


 こんな時、カラスならどうしただろう。勇者と関わりのない身分の中で、多分王城でもっとも勇者に近しい彼なら。どう説得をしただろうか。

 今日は真似をする気でいた。真似をしようと考えて、クロード相手にいらぬ嫌みまで口にして練習までした。しかし今でもまだ掴めないままだ。


 単なる思いつき。もしかしたら、あの人のようにやればいいのかと思っていた。

 カラスは、ただ、話を聞こうとしてくれた。ただ、自分が見ている光景を見せてくれた。しかしそれがどれだけありがたかったことだろうか。

 自分も苦しかった。ザブロック家の邸宅で過ごしてきた日々も、この王城に来てからの窮屈な日々も。多分、ヨウイチと同じく。

 そんな悩みも、ルルは吐き出すことが出来た。サロメに、そしてカラスに向けて。

 ならばヨウイチにもそれが必要なのだ、きっと。

 そう思ったのに。


 やはり自分には無理なことだった。あの人を真似するなんて。

 ならば悲しいことに、この分であれば、もう説得は出来ないだろう。


 夕焼けを見上げてルルは小さく溜息をつく。不相応な気負いをしてしまっただろうか、と内心後悔しつつ。

 鷺の群れがどこかへ帰っていく。目の前で小さな鳥が、母親に促されて飛び立っていった。



 綺麗な説得は諦めよう。そう決意したルルは、何も目標なく口を開く。きっと、話しているうちに妙案も浮かぶ。浮かばなかったらそれまでだ。

「つまらない話ですけど、聞いて頂けますか?」

 唐突な提案。話を聞くのではなく、聞かせる。自分でもそれが正しいことなのかは図りかねたが、それでもヨウイチが頷くのを見てもはや後には引けなかった。


「……私は多分、オギノ様に境遇が似ていると思うんです」

「ルルさんが?」

 ルルがコクリと頷く。そうだ、とミルラ王女が初めて自分を訪ねてきたときのことを思い出しながら。

「私は、ここより東にある大きな都、イラインの生まれです。そこで小さな食堂の娘として生まれ育ちました」

「……貴族じゃなかったんですか?」

「はい。ただの町娘です。いいえ。でした」

 生まれついての貴い身分ではなかった。それが、どれだけ劣等感を刺激していただろう。

「でも、それが……どうして?」

「お父様……今は亡き先代ザブロック伯爵には、庶子である私以外子供に恵まれませんでした。このままだと家が絶えてしまう、でも家は自分の血を引いた子供に継がせたい。そんな葛藤があったのではないでしょうか」


 庶子という単語。それに、その家を継がなくてはいけない理由が理解出来ないまでも、ヨウイチは曖昧に頷く。

 とりあえずルルは、その先代の娘なのだろう、と要訣だけを理解して。

「ともかくとして、私は十歳の頃にザブロック家に養子に入り、今は『そう』しています」


 だから、同じ。まだ言葉足らずではあるが、理解出来ただろうか。

 ルルはそうヨウイチの目を見るが、まだ半分わかってはいない様子だった。


「……私もすごく、逃げ出したかったんです。今まで過ごしてきた市井の娘だった頃とは全く違う生活から」

 儀礼も生活様式も言葉遣いも何もかもを変えなければならなかった。嫌な叔父が死んでから多少楽にはなったものの、それでも食事の度に気合いを入れなければいけないのは辛かった。

「豪華な食事も、綺麗な服も、世話をしてくれる使用人も置いて、どこかへ行きたかった。いいえ、まだどこかへ行きたいと思ってるのかもしれません」


 まだたまに夢に見る。朝起きたらそこはイラインの食堂にある自分の部屋で、今から自分が食材を仕入れて下拵えをしなければいけないのだ。

 母親は隠居し、自分が食堂を切り盛りする。もう一人たまにそこに従業員がいることがあるが、何度も出ているのにその顔を未だに見れていないのは不思議なものだったが。


 そこまで聞いて、ようやくヨウイチは理解出来た気がした。

 ルルも、逃げ出したかった。突然祭り上げられてしまった環境から。


 二人共に、そしてルルは改めて、親近感を自覚する。

 共に一般人ともいうべき環境から、皆から羨望の的になるはずの地位に祭り上げられた。

 そして共に、逃げ出したかった。逃げたい理由はそれぞれ違うが。



 だが。

「だから……」

 そこまで聞いて、聞いたからこそヨウイチの心に少しだけ怒りが湧く。似ている、のはそうだろう。だが、似ているだけだ。

 ルルは今、上手くやれているのだろう。本人の言からしても。

 だがしかし、結局説得ではないだろうか、とヨウイチはその先を予想した。

 自分は上手くやれているのだから、お前もそうしろ、と言われている気がした。まだルルは、何も言っていないのに。

 俯いた首と拳に力が入る。


「だから、逃げるなってことですか?」

「……いいえ」


 どう伝えればいいのだろう、この感覚を。ルルはヨウイチの怒りを見てまた悩む。

 慣れた、といえば慣れたのだろう。だがまだ慣れたわけでもなく、ただ少しだけ耐えられるようになっただけだ。

 そしてその要因は……。


 ……わからない。やはり、上手くは出来ない。あの人のようには。

「オギノ様は、どうすれば勇者を続けていただけますか?」

「……結局、続けさせたいんじゃないですか」

「いいえ。理想を聞きたいんです」

 説得ではない。質問だ。


 だがヨウイチは、その問いに答えられない。答えはわかっている、それでも。

 冷たい態度をとらないように、と努力しても、ふてくされているのが自分でもわかった。


「わかってます。どれだけ自分がいい待遇なのかも」

 まるで、ファンタジーの中に出てくる王侯貴族の生活だ、とヨウイチは感じていた。美少女の侍女がいつも付き従い、自分の要望は大抵全て叶えられ、綺麗な服を着て豪華な食事を楽しめる生活。足りないところなどほとんどない。……醤油の味を恋しく思ったことは何度かあるが。

 日本にはもう帰れず、家族にもう会えない、ということを除けば、きっと望むべくもない生活。それこそ今日出会った子供からすれば、きっと涙を流して羨ましがられる生活。


「でも、無理でした。人殺しはやっぱり無理だ。絶対に、……」


 ルルは目を細める。

 ヨウイチの言葉に、わずかに嘘を感じた。


「では、人を殺さなければ、やっていけるんですか?」

「……やっていける……というか、やっていけませんよね。これから俺は、勇者なら、人を殺さなければいけないんですから」


 ヨウイチは自覚する。

 少し前にした自分の想像を思い出して。


 血塗れの鎧を纏い、攻め寄せてくるムジカルの兵。追われるように逃げ出すエッセンの善良な人々。鍬や掃除道具などの武器を構えた人々の抵抗を意に介さず、ムジカルの兵たちは蹂躙していく。

 その人々の前に凜然と立ち、立ち向かうべく剣を構える自分。

 理想像だ。勇者として、そしてこの国で芽生えた願いとして。


 けれど、その先を、想像していなかった。


 血が流れないことなどありえない。背中にいる、ルルを含む人々を守るために、自分は剣を振るう。

 鎧の隙間を縫って刺し抜いた先にあるのは人体で、断つのは肉、そして血管、果てには命。

 勇者として人々を守るためには、人を殺さなければならない。その時に自分は、どんな顔をしているだろうか。



「俺は、昨日人を殺しました。でも、どうしても、……わかったんです、無理だって。カラスさんやテレーズさんからすれば、『何で出来ないの?』って思うんでしょうけど、俺には無理でした。どうしても」

 彼ら『出来る』人間を呼称する言葉を、ヨウイチは一つ思い浮かべる。彼らがそうだとは思えない。けれど。

「俺、ニホンでは普通の高校生だったんです」


 高校生。わからない単語にルルは一瞬悩むが、それをルルは無視した。

「人なんか殺せない。人を殺したら犯罪者です。それが出来るなら、それは殺人鬼みたいな奴らで……」

 そして勇者の言葉に、今度はルルが少しだけ苛ついて眉を顰める。

 殺人鬼。それが忌むべき者たちだということはわかっている。だが、そのヨウイチの言葉に従うなら、その、ヨウイチが言っていることは。

「殺人鬼、ですか」


 少しだけ冷たくなった声。その声に違和感を覚え、わずかに怯んでヨウイチは吐きかけていた言葉を止める。

 夕焼けに照らされたルルの表情はわかりづらく、その感情まではわからなかったが。

「それは、タレーラン卿や……カラス様も?」

「……あ、いえ……」


 一瞬何故だかわからなかったが、ルルも自分が不機嫌になったのがわかった。自分の言葉を反芻すれば、その理由もわかった。

 そしてその感覚に、先ほどサロメたちから言われたことも何となく自覚する。

 確かに不機嫌だった。今と同じく。


 一度静かに深呼吸し、ルルは自戒するように心を鎮める。

 落ち着けば、なんとなく、ヨウイチの悩みがまた自分と重なっているとも感じた。

 程度は違うし対象も違う。しかし、……聞いてくれた彼も、こんな気持ちだったのだろうか。

 いいや、考えるまでもない。

 ここにいない男性の顔を思い浮かべ、ルルの唇が少しだけ綻ぶ。


 "……だから私は今、人間たちが嫌いです"


 こんな気持ちだっただろう。他ならぬ自分も、あのとき同じ気持ちだった。

 ならば、同じ返答があるだろう。目の前の勇者にも通じる、同じ言葉が。


「彼らは、殺人鬼でしょうか?」


 "……でも、ご友人がいらっしゃるんですよね"


 ヨウイチがまた返答に詰まる。たしかに彼らがそうだとは言えない。そうだと、貶すことは出来ない。でも……。


「…………それでも、俺は、人殺しは……」

 自分でも負け惜しみに聞こえる。そして、まるで駄々っ子のようだとも自嘲した。

 それに『いや、違う。それは日本の常識だ』と、そう、心の中で誰かが反論している。だがそれにも理性が反論する。『自衛隊も、海外では軍隊もあった』と。

 もちろん、自衛隊は発足以来まだ一度も戦争への参加はないのだが。


 言葉を絞り出すヨウイチの反応を見て、ルルはまた嘘を感じた。

 嘘。本当はそうとも思っていない。……だが多分、それを自分でも知らないのだ。


「……人を殺すことなんて出来ない、ですか?」

「…………はい」

 ルルは確認する。やはり、嘘。

 冷酷な言い方だが、本当は、多分自分でもそう思い込んでいるだけの。



 どうしてだろう。ルルは考える。

 出来ないことはない。実際に、ヨウイチは人を殺している。ならばあとは心情の問題。

 だが、やりたくない。それはわかるし、それだけが理由……でもない気がした。


 どうしてだろう。

 自分なら。あの時自分はどう考えていただろう。貴族の華々しい生活が嫌で、自分は。

 ……自分も、本当に嘘をつくことが嫌いだったのだろうか。



 ルルは、ヨウイチを通して自分を見る。目の前にいる、嘘をつくことに怯えている少女。

「オギノ様は、恐れていらっしゃるのではないでしょうか」

「怖いというなら、そう、でしょうが……」

「人を殺すことじゃなくて」

 怖いというのならそうだろう。人を殺したときの、恨みがましい目が怖い。悲鳴が怖い。怨嗟の言葉が、感情が怖い。そうヨウイチは内心付け加えたが、ルルの言葉はそれを否定した。

「どういうことっすか」

 わからない。ルルの言っていることが、わからない。だがその瞳が、真剣に考えてくれていることはわかった。


 ルルがヨウイチを真っ直ぐに見る。

「私は、怖かったです。それが当たり前になってしまうのが」


 ルルは言葉を発しながら自覚する。怖かった、というよりも嫌だった。

 嘘をつく自分が。嘘を平気でついて、それに対しなんとも思わなくなる自分が。


 ルルは推測する。

 ヨウイチは恐れているのだ。人殺しは嫌悪しているのだろう。だが、それ以上に。

 自分が、平然と人を殺すようになってしまうことを。



 正解かどうかはルルにはわからない。

 それでも、問題が解けたときのように、何となく嬉しくなる。だがそれを抑え、ルルは平然とした顔を作った。


「オギノ様に当てはまるかどうかはわかりませんが、私から」

「…………」


 ヨウイチは、ルルの言葉に腑に落ちるものを感じながら視線を逸らす。それにも構わず、ルルは続けた。

「オギノ様は、殺人鬼にはなりません。そうやって、思い悩んでいる限り」

「そう、でしょうか」

「……以前、友人が口にした言葉ですが……誰の心にも、神聖にして侵せぬ場所があるそうです。そこに、オギノ様の場合、『人を殺したくない』という気持ちがある」

 ティリーが口にした言葉。彼女の姿を思い浮かべながら。

 自分の個性を嘲笑うような言動をされながらも、平然と『それは違う』と考えつつ、サロメの言動を尊重しあしらったあの姿。

「もちろん、人殺しが平気で、それを楽しむようになったのなら、オギノ様も殺人鬼と誹られてしまうでしょう」


 でも。


「でも、そうじゃないのなら。神聖にして侵せぬ場所、心にそれがあるのなら。だったら、きっとそうはなりません」


 もっともそれは、人殺しを出来るようになってからのことだろう。

 だが、出来たとしても、それを恐れることはない。そう、ルルは告げる。


「勇者というお役目は、きっと必要なものでしょう。私にはよくわかりませんけれど」


 いなくなってもいい自分とは違う。そうルルは口に出さずにその言葉を飲み込んだ。

「だから今、大勢の人が動いています。オギノ様を城へと連れ戻すために。……それに……」

 カラスは軟禁されている。勇者を自分が連れ戻すまでは。

 勇者を城に戻すのは、それが一番の理由で。


「いえ、ですから、一度お城へ戻って頂けませんか。その後、進退についてはお考えください。その後どうしても嫌ならば私からもカラス様にお願いします。次は連れ戻されないところまでいけるよう」


 今回は冤罪だった。けれど、次は確かに法を犯してもらおう。

 そしてばれたら一緒に怒られよう。もちろん、一番罪が重いのは自分だ。



「……嫌だと思い続けてくださいって」

 ヨウイチがぽつりと呟く。その言葉に、聞き覚えがあって。

「何か?」

 尋ねるルルを見た勇者は、そこに違う男性の気配を感じた。処刑の前に、会いにいった男性のものとそっくりな気がした。

「いや、カラスさんと同じことを言うなぁって」


 ヨウイチが苦笑する。なるほど、その時はよくわからなかったが、ルルの説明でようやく理解出来た気がする。

 嫌なら、嫌。それは変わらない。

 ならば嫌なままやればいいのだ。……それを出来ないのが問題なのだが。


 ルルも思わず噴き出しそうになる。

 真似をしたつもりだ。しかし、自分の言ったことなどとうの昔に彼が発していたのだ。

 また少しだけ恥ずかしくなる。そして、敵わないなぁと内心苦笑した。


「やっぱり、みんな困りますよね」

「はい」


 城へと戻らなければ、ルルも困る。そして聖騎士たちも、マアムも、ミルラもきっと。

 自分を犠牲にしなければいけないわけではない。そうは思うが、見捨てられない。……もしかして、だから、自分が召喚されたのだろうか、とヨウイチは少しだけ悔しく思った。


 そして、夕焼けを見つめて悲しく思う。

 まだ人は殺せない。どれだけ言われても、出来る気がしない。

 けど、だったら。

 人を殺せない勇者など、あの城に居場所はあるのだろうか。



 ヨウイチの反応に、ルルは手応えを得る。後に続くかどうかはわからない。けれど、城に帰す説得は成功したと確信した。

 立ち上がり、ヨウイチに笑みを向ける。自然とこぼれた笑みを。

「行きましょうか」


 ヨウイチはその笑みが、美しい笑みだと思った。

 夕日に照らされた瞳が綺麗で、輝いて見えた。その女性が、神々しくも見えた。


 何となくルルを見つめていられなくなり、ヨウイチはまた目を逸らす。そして現状をわずかに再確認し、恥ずかしくなった。

 城へは帰らなければ。家出は終わりだ。今、迎えはきた。


「……一人で歩いて帰らせてもらえませんか? 逃げませんから」

「何故でしょう」


 ルルは首を傾げる。少年の意地を理解出来ない少女が。

 不思議そうに見つめるルルに、ヨウイチは笑顔を向けようとする。しかし向けられなかった。眩しくて。


「これでルルさんと一緒に帰ったら、俺本当に、手を引かれて帰るガキみたいじゃないですか。俺が、俺一人で帰らなくちゃ」


 いじけて家出をした。喧嘩に負けたみっともない姿を見せた。そこまで自覚しても、最後に残った意地。

 それを微かに感じ取り、ルルは「わかりました」と呟いた。




 ルルが夕日に向けて立ち去ってゆく。その伸びる影を見送って、ヨウイチは溜息をつく。


 今日自覚した。

 いじけた姿を見せた。みっともない姿を見せた。およそ格好良くはない姿を、ルルに見せてしまった。

 それでもなお、あの人にみっともない姿を見せたくはない。格好悪い姿を見せたくはない。


 やはり自分は、好きなのだ。彼女が。

 恋。おそらく無意識のものはあるだろうが、十八年間、自分でもそうだと思ったものはない。だがこれがきっとそうなのだ、とヨウイチは確信した。


 そして一つ口の中で呟く。『オギノヨウイチ』。自分の名前。


 勇者、と呼ばれ続けて忘れていた。勇者であれ、と皆にすり込まれてきた呪いの言葉。先ほどプリシラに尋ねられて自覚した重い枷。

 そうだ、自分の名前は『荻野陽一』。十八年間そうして生きてきたのに。

 忘れかけていた。自分の名前を。


 そうだ、だからだ、とヨウイチは今日わかった。

 何故彼女が好きになったのか。これだけの女性がいる中で、何故彼女を好きになるほど注目したのか。そのきっかけ。


「……あの人だけは、俺を勇者と言わないんだ」


 勇者であれ。人を殺せる者であれ。そう、彼女は口にしなかった。

 彼女だけが。彼女だけが。


 そんな人に迷惑をかけるわけにはいかない。

 人殺しを嫌がる自分を認めてくれた数少ない人に。


 帰ろう。とりあえずは。もし逃げるのなら、次の機会にしよう。

 立ち上がった勇者の目が、夕焼けを受けて眩んだ。





「よいのですか?」

「ええ。後はお願いします」

 ヨウイチと話した後。近くで様子を見守っていたジグとオトフシ、サロメの下へとルルは舞い戻った。

 帰るといったヨウイチの言葉に嘘はない。あの分ならば、ヨウイチは本当に帰ってくるだろう。ルルはそう信じている。

 だが、ジグとしては半信半疑だ。これから影ながらヨウイチの警護と尾行をする身とあっては、出来ればルルが同伴して城へと連れて帰ってほしかった。


 ヨウイチを見れば、まだ広場の椅子から動かない。決心が出来ないようだとジグには見えていた。

「……しかし」

「私はこれで失礼いたします。ベルレアン卿にも、よろしくお伝えください」

 食い下がろうとするジグ。その言葉を無視するように押し切り、ルルは王城目指して歩き出す。

 そのあまりの切り替わりの早さに呆気にとられたジグにかけられる「ごきげんよう」という言葉。それに応える間もなく去って行くルルに、サロメとオトフシが続いた。



 王城への道。そこで三人に会話はない。

 もとより会話の少ない三人ではあるが、今回の原因はルルの先ほどよりも沈んだ顔だ。それがサロメにもオトフシにもわかり、声をかける気もなかったオトフシはもとより、サロメもそれを指摘する気になれなかった。

 通行人や商人たちが何事かを話している。その騒がしさにも、全くルルは無頓着だった。


 横を家路につく子供が駆けてゆく。今日助かった子供もあれくらいだっただろうか。

 そして、ルルはふと思ってしまう。あれくらいに戻れたらと。


 まだイラインにいた頃。まだザブロック家には数えられず、普通の子供でいられた頃。

 あの頃だったならば、こんな風な気持ちにはならなかっただろう、と考えてしまった。


 今日自分は何をしたのだろう。

 勇者を説得し、城へと戻らせた。それはそうだろう。従者を一人人質に取られ、ミルラ王女に命じられてそうした。

 だがそれは、どういうことだっただろう。

 結局は、自分は王女に手を貸したのだ。殺人を嫌がり、おそらくもう勇者という称号をも捨てたいと願っていた男性の手を取り、強引に引き戻して椅子に座らせた。


 もしも自分だったら。自分がされる立場だったら。

 ルルは今日の自分に嫌悪を感じていた。


 逃げてもいいと自分は言われたかった。けれど、自分は言えなかった。最後に罪悪感を消すために、わずかに口にしたくらいで。

 もっともそれを不思議には思わない。貴族とはそういうものだ、と諦めていた。


 そして貴族とはそういうもので、そしてルルも貴族であるからこそ、この後の展開がルルには何となくわかってしまった。



 ヨウイチとの会話。そのヨウイチの態度。

 これだけ話せば、鈍い自分でも察しがつく。自意識過剰とももはや言えない。ヨウイチは、自分を恋慕している。


 そして自分も、彼に親近感を持ってしまった。それこそ、この状況を作ったミルラ王女の思い通りに。


 ルルも、自分がたいしたことをしたとは思っていない。ヨウイチの説得など他の人間でもしているだろうし、話を聞くこともカラスはおろかマアムや他の人間まできっとしている、と思っていた。

 しかし、自分が話すだけで、トントン拍子にヨウイチは心変わりをした。自分が関われば、ヨウイチの操作は上手くいく。そうミルラ王女やその周囲にまた示してしまった。


 ルルは流れを感じた。ミルラやヨウイチが作り出す、自分を押し流す強い流れを。

 もうこの流れの先は決まっている。ルネスやティリーに保護を求めていたときに半ば覚悟していたこの流れが、ついに始まってしまった。

 わかってしまった。


 きっと私は結婚するのだろう。

 勇者ヨウイチ・オギノを婿に迎えて。




 なんて光栄なことだろう、とルルは静かに溜息をつく。その溜息を、サロメが心配するのに気が付かずに。


 なんて光栄でありがたいことなのだろう。

 貴族同士の結婚。それは通常親が相手を決定し、子供に逆らう権利などない。お互いの顔を知らないことなどよくあることだし、生まれる前から相手が決まっている者だっているほどだ。


 なのに私は、私を好きになってくれた人と結婚出来る。

 愛のある結婚。果報者だ。ザブロック家に入った自覚が芽生えてから、望むべくもないと思っていた幸せな結婚。


 きっとオギノヨウイチは、自分を幸せにしてくれる。

 少なくとも、心から幸せにしようと努力してくれる。それが貴族の家に生まれた女性にとって、どれだけ貴くありがたいものかもよくわかっている。



 ルルの脳裏に、大好きな本の結末が浮かぶ。主人公である花嫁の幸せが約束された、輝かしい一文。そうなりたいと思っていた主人公に、近いうちに自分もなれる。



  "今日のキリカは世界一幸福な花嫁"


 何を恐れることがあるのだろう。何も嫌なことなどないはずだ。

 所詮私は貴族の娘。そうなることなど、覚悟の上だったはずなのに。


 ルルはほんのわずかに涙ぐむ。サロメにも気付かれないように、前だけ見つめながら。

 涙を流すわけにはいかない。いつか通る道だ。そう自覚しながらも、自分の心に嘘はつけなかった。


 勇者との愛のある結婚。貴族の令嬢ならば、誰もが羨むであろう結婚。

 でも、出来れば私は。

 私のことを好きになってくれた人と結婚するよりも、私は。



 私も、私が好きな人と結婚したかった。



 きっとこれからも、全て諦めなければいけないのだ。

 少女の時間は終わってしまった。これからの人生、全てを家と国に捧げる。それがこれからの私の仕事なのだ。


 覚悟していたこと。なのに何故だろう、こんなに悲しいのは。

 涙が落ちそうになり、見上げた空。

 暗くなった空に、白く大きな月が浮かんでいた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 勇者とルルは結ばれて欲しくない!!!!
[一言] ルルの嘘を見抜くというのは才能というか魔力を使った特殊能力なんですか?お世辞が嫌いと言うだけで嘘がわかるようになるのはいくらなんでも強引すぎる気が…。それと、本人が嘘と思っていなくても事実に…
[気になる点] 戦争が終わって落ち着いたらヨウイチもレヴィンの様に、まだこの世界にないものを広めようとするのかな? そのときカラスは始末するんだろうか?ルルの夫となっているだろうヨウイチを。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ