閑話:ひっかかり
『一話で終わる』と書きましたが、視点変更が連続する地獄と文字数過多により三つに分けます。嘘つきましたごめんなさい。
「……あれ、かな……」
ヨウイチは石畳を急ぎ足で歩きながら、道端にある店、その屋根の向こうに頭だけ見えている石の建物を確認する。
実際にはそれがそうなのかはわからない。けれども、石造りの青い建物、という特異な建物が目を引き、無意識ながらにそれだと確信していた。
視線の先にある建物は、コンクリートのような質感で、艶のある色は玉虫の青。
継ぎ目すらないその異様な物体に、石造り、とは言っても少々他の建物とは作りが異なっていて、それもヨウイチの目を引いた。
しかし確認もそこそこに、足を止めずに視線もそこから外す。
見据えるのはただ道の先。けれどももちろん脳裏にはその建物の姿をきちんと留め置く。覚えておかなければ。次の街で探すときに迷わないように。
これで実はそれが違う建物で、次の街では見当たらずに途方に暮れることになったら大笑いだ。そう、ヨウイチの口元が緩んだ。
昼過ぎになると、人通りも活発になる。一日のうちに、商店などの人の行き来がもっとも激しくなる時間であり、人通りもそれに比例して増えていく。
午前ではほとんど見なかった馬車が隣を通り抜けていく。
ヨウイチは、その姿を見送って溜息を吐いた。
あれに乗っていけば道に迷うこともないのに。そう感じてしまうが、その心配もまだ早いと思い直す。
先ほど出会ったプリシラと名乗る占い師は、急げば徒歩でも日没までには隣町へと行けると言った。それが本当ならば、もとより代金もなく乗れない馬車などに構ってはいられない。
身軽な旅だ。荷物がないとも言えるが。
その身軽さを活かし、目立たないように街中では小走りで、そして人目につかないところに出たら走っていこう。最近は走り込みも出来ていないが、昔に散々やったおかげで脚力には自信がある。
目標というのは重要なものだ。
『ここから逃げたい』というよりも、『隣町へと行きたい』という願い。行き先も手段も曖昧だった朝よりは、ヨウイチの足にも力がこもる。
一歩一歩に力が入る。背筋が伸びて前を向ける。どれもこれも、それは確かに、プリシラとの出会いがもたらしたものだった。
「…………貴方は」
もはや通行人の視線は怖くない。そう思い込み、急ぎ街を出ようと先を見ていたヨウイチ。
そこに、声がかけられる。
先ほどまでは立たない背骨に俯かれた顔。屋台の客引きすら声をかけないほどうらぶれてすら見えたヨウイチだったが、今やその姿は平常に戻っている。
だからだろう。たまたま、店の看板を今度一新しようと思い、その具体案を考えようと外へ出たその花屋の店主がヨウイチの姿を認めることが出来たのは。
振り返ったヨウイチは、無意識に目を背ける。見覚えがあるわけではないが、見覚えがあるかもしれない、という意識外の恐怖に反応して。
「お待ちください。失礼ですが、貴方は……」
小走りで駆け寄ってきた男性の顔をヨウイチは見られない。
だがその質のよい服に、街の人間には中々見られない清潔な肌に、そして何よりその顔に、男性のほうの疑惑はいよいよ深まった。
「……いえ、失礼致しました。このような場に、勇者様……お一人ですか?」
男性は続けて発しようとした言葉を止めて、怪訝さに周囲を見渡す。目の前にいる人物は勇者。そう確信したが、それにしては侍女の姿も見えず、余暇という雰囲気でもない。
「人違いです」
ヨウイチは、それだけ言って首を横に振り、歩を進めようとする。店員に対する冷たい態度に慣れているわけでもない彼は、それだけの言葉で自分でも気分が悪くなった。
「…………しか……し……」
男性はその態度に疑念が深まる。
人違い。その言葉を発した声は確かに聞き覚えがある。王城内の廊下に生けてある花。その納入が間違いなく行われているかたまに確認することがあるが、そのときにすれ違った勇者の声に。そして顔も、まったくそのまま。
間違えるはずがない、などとはいわないが、間違えるような人物でもない。
ヨウイチの後ろ姿に声を重ねようとし、男性はまた口を噤む。
ならば、人違いだと思わなければいけない何かがあるのだろうか。侍女も連れていない。何かしらの余暇で遊んでいるわけでもなさそうだ。何かがあったわけではないだろう、現に今目の前に無事でいるのだから。ならば、何故?
「ゆ……!」
そして、勇者、と叫び食い下がれない現状に気が付いた。
人違い、と勇者自身が否定している。事実はどうであれ、『そう周囲に思われたくない』というのは充分読み取れる。
ならば、ひとまずは。
深々と、お辞儀をして見送る。その気配に勇者が肩を震わせたのが気になり、男性は眉の端を上げた。
一応の落ち着き払った態度を作り、ヨウイチは先を急ぐ。
まずい。そう思った。
現在自分は逃亡中の身であり、そして顔を隠さなければいけない身分。ならばこそ、まずい、と。
声をかけてきた男性。その男性に見覚えがあるわけではなかった。けれども、確実に自分のことを知っていた。
ならば、自分の身分にも察しがついているだろう。自分が王城でどう呼ばれ、どう扱われてきたのかも。
どうにかして誤魔化さなければ。そう思ったが、妙案も浮かばずにただ人違いを主張するしかなかった。
ヨウイチがちらりと後ろの方を向く。もうそこには誰もおらず、先ほどと変わらない街の喧騒があったが。
間違いなく、人違いとは思っていないだろう。そんなに人が馬鹿正直だとはヨウイチも思わない。だからこそ急がなければ。
あの人は告げ口をする人だろうか。そう脳裏に疑問がよぎったが、信用してはならないとも心のどこかで声がする。
告げ口により、逃亡がばれた。もしくはそうでなくとも、人捜しとして誰かがあの人に話を聞いてしまえば。
きっと今頃王城は大騒ぎだろう。自分が消えて、連れ戻そうと騒いでいるだろう。
ならば、急がなければ。
先ほどまでは、刻限が日が沈むまでだった。日が沈むまでに隣街へと着けばと思った。しかし今となっては、もはや刻限は今。一刻も早く街を出て、逃げ出さなければ。
そうしなければ、きっと……。
自身の行く先をまた考えて、ヨウイチは服の前の襟を掻き寄せて息を飲む。
しかし、その行く先にまで考えが及ばず、その中途半端な想像を振り切るように早足の速度を上げた。
王都の各地には、小さな川が張り巡らされている。
それは川というよりも用水路で、自分のところでも鶏などを屠殺する肉屋や、水や氷を多用する魚屋。その他革工場など排水が多い店が横に立ち利用するものだった。
堤防などがないその川縁。そこに大通りから接続されるようにしてかけられた橋。
その橋の袂でヨウイチは立ち竦む。下を覗けば膝よりも少し上程度の深さの水。流れは緩く生活排水が割合多く流れ込むために、粘りけのある泡がゆっくりと目の前を通り過ぎていった。
あの魚は何という魚だろう。下をちらちらと動く影にそう思った矢先に、その影が滲むように見えなくなる。
その水面に浮かんだ泡が、虹色を帯びる。そしてその泡を運んでいる水は……。
「はは……」
水が赤く濁った。そう思ったヨウイチがその視界を動かすと、遠くのほとりで水桶を傾けていた女性がいた。出所はそこで、その赤は、おそらくは。
ヨウイチが目を背けて瞑る。見てはいけないものを見てしまったように。
強く瞑った瞼の裏。そこに残る緑色。実際にはその色は水面に反射した日の光の残像だったが、まるでそれが垂れた血の色だとヨウイチは思った。
鼻が、微かで感じないはずの鉄の臭いを嗅ぐ。その泡に誘われてきた蝿の羽音が、どこかから近づいてきてそして消えた。
彼らは大丈夫なのだろうか。鶏や魚、豚などを日常的に殺している彼らは。
彼らもそうなのだろうか。彼らもカラスと同じで、『人間と獣は一緒』などと言うのだろうか。
目を開ければ、先ほどの血と一緒に流れてきたのだろう、何かの肉片が川を漂う。無表情を装いそこから目を背け、先ほどの女性を見れば、空になり軽くなった桶を取っ手を持って運んでいく後ろ姿があった。
彼らも。
そう考えつつ唇をグ、と力を込めて結んだヨウイチの背後を、子供の悲鳴じみた歓声が叩く。
強烈な声に我に返ったヨウイチは一度深呼吸をした。いつからか聞こえなくなっていた街の喧騒が背後から蘇ってくる。
そうだ。こうしてはいられない。こんなところで足を止めていては。
一刻を争うのではなかったか。早く逃げねば、あそこに逆戻りすることになるのではないか。そう自らの足を叱咤し、橋を渡るべく歩を進める。
足を踏んだ感触。堅牢な橋。先ほどまでと変わらない石畳で、全く変わらない感触なのに。
なのにヨウイチは、その足の下にある赤をはっきりと感じた。そうではないと思っていながらも、足下を血の洪水が流れているような不気味な感触。
どろどろとした振動が足へと伝わる。まるで足の裏と石畳の間に糸を引くように一歩が重い。
欄干のない橋が、頼りなく見える。どこかに縋り付きたい、と願った。
それでもやがて対岸へと辿り着く。まるで渓谷にかかる橋を渡り終えたように深呼吸をすれば、血の臭いが薄れた気がする。
吸った空気は木々の匂いを帯びていて、目の前にはまだ少しだけ街が残っているのに、何故だか清々しい気持ちになった。
後もう少し。街を過ぎれば、街の外には麦畑がある。それは以前テレーズと共に北の森へと出掛けたときに知ったことだ。
また一歩踏み出す。いつの間にか足下のぬかるんだ感触は消えて、普通の石畳に変わっていた。
どこかパタパタという風な、自分の足音が響く。早く、早く行かないと。
そう足に力を込めたヨウイチの横を、子供が遠慮なく走っていく。
無邪気な声。ただ走るだけでも楽しいという態度に、それを裏付ける裏のない笑顔。
自分もそろそろ走っていいだろうか。いや、まだ不自然だ。あの角まで。
「…………」
ヨウイチの足がピタリと止まる。今し方聞いた子供たちの声に違和感を覚えて。
だがその自身の考えに、いいや、と首を横に振った。何もおかしなことはなかった。それに、何かおかしなことがあったにせよ、自分が関わっていることではない。
そんなことよりも重要なことがある。今は子供たちに関わっている暇はない。逃げなければ。
もう一歩足を踏み出そうとしてまた止まる。自身の考えに反論するために。
いいや、違和感はあった。しかし、あったのは今横を通っていった子供たちの『歓声』ではない。むしろ、今の子供たちには、違和感はなかったのに。
振り返ったヨウイチは、先ほどの声の出所がどこかと目で探る。
先ほど子供の歓声が聞こえた。そう思った。
いや、そうかもしれない。今前方に走って向かっている子供たちの歓声が、その時も聞こえたのかもしれない。しかし、そうでないかもしれない。
わずかな可能性がヨウイチの胸をよぎる。ほんのわずかで、見逃してしまえば数分もしないうちに忘れて消えてしまうだろう妙な考え。
だが違う。確信があった。
引き返すように足を踏み出せば、その一歩に違和感が確信に変わる。
そうだ。先ほどの歓声は。
いいや、子供の声は。
あれは、悲鳴だった。
その男は、染物屋の店主だった。
王都に店を構えるようになって今年で十四年。流行らない店は五年で潰れてしまう王都で、その年数を持たせているのは彼の手腕によるものが大きいだろう。
そして皆が驚くのは、その手腕よりも三十四歳という若さ。
十五で新人、二十五で一人前、と呼ばれる稼業。二十で独立した彼を時期尚早と笑う者もいたが、それを彼は独自の図案と手法の開発による売り上げで黙らせて見せた。
腕前は充分、だが権威がない。それ故に王城で使われる御用商人にはまだ手が届かない。
けれどもその糸で布を絞り、鮮烈な色を華やかに仕上げる染め物は既に貴族にも評判で、次の評議があれば候補にも挙がるだろう、とそんな高評価を受けていた。
仕事では問題がない。客には愛想よく応え、注文にも忠実。義理人情もあり、心意気で仕事を受ける。およそ、仕事上の彼しか知らない人物には、彼は好人物にも見えるだろう。
だが多くの人間にもそれがあるように、彼には欠陥があった。
彼には息子と娘がいる。共に歳は九歳ほど。
彼によく似て手先が器用で、母親の要素は共にその目に宿るのみである。五歳になる前から親の職場で染料の匂いを嗅ぎ、指先を藍で染めていた。
よい子供たちだっただろう。彼の才能を受け継いで、そして彼らもその道が嫌ではなかった。彼らも、父のようになりたいと思っていた。七歳を数える頃までは。
よく出来た子供たち。近隣の子供たちも、『見習いなさい』と親から言われるであろう子供たちになるはずだった。
だが、彼は。当の親である染物屋の店主は。
自分の子供の歳も、兄か姉かの上下すらも、覚えてはいなかった。
「……んの!」
横たわった我が子の腹を、男は蹴り飛ばす。その日はむしゃくしゃしていた。染料に使うために煮出した枝が思った色にならず、結局二回も作り直す羽目になってしまったために。
腹立ち紛れにもう一度。我が子はくぐもった呻き声を発したが、それすらも男の苛つきを促した。
先ほど一度叫んだ声が耳障りで、子供の口には染め物を干す縄を詰め込んである。吐き出すことも出来ずに苦しむ我が子の顔が醜くて、そしてその目が妻に似ていて閉口した。
「…ぉ…ぁ……」
呻く言葉はきっと母を求める声だろう。それを言うなとあれほど言った。なのに、子供は言うことを聞かない。
何故だろう。自分はこんなにも頑張っているのに。子供たちはちっとも自分に感謝しない。母親のことを口に出すなと何度も言ったのに。あの我が儘な女は、お前たちを捨ててとっくにどこかへ出ていったのに。
なんて不出来な子供だろう、と男は嘆く。そして自分はなんて不幸な男なのだろう。妻に恵まれず、子供は愚鈍、家族で頑張っているのは自分だけだ。
我が子の奥襟を掴み、仰向けに引きずり起こすようにして壁へと投げる。その拍子に、壁際に置いてあった小さな桶の箍が外れて割れた。
「……ったく、……気をつけろって言ってんだろ!」
何をしてくれているのだろう。それは大事な商売道具だ。小さなそれすらも男のもので、そして子供の体とは違い勝手に治るものではないのに。
男の見つめる先。
痛みと口の中に詰め込まれた縄の苦しみに、子供は浅く息を繰り返す。
傷ついていないはずの目が開かない。体に力が入らない。先ほど小枝を折るような音が聞こえた胸が、痺れるような痛みを発していた。
それでも耐えれば。
こんなもの、いつものことだ。もう少し耐えれば父親の気も済むだろう。今は嵐が過ぎ去るのを待つように、じっとただ耐えるだけだ。
幼いながらに子供はそう覚悟する。
きっとこれは罰なのだ。自分が何か悪いことをしたから今父親に怒られているのだ。
彼は、そう何度も心の中で繰り返す。ごめんなさい、ごめんなさい、と声に出さぬまでも小さく繰り返しながら。
いつからだろう。
それは母親がいなくなってから二年ものあいだ、彼ら兄妹が繰り返してきた健気な習慣だった。
寝返りを打つようにぐったりと手足を投げ出した我が子。そんな我が子がもごもごと口を動かすのが気に入らず、男はつま先を息子のみぞおちに蹴り入れる。
それでも収まらなかった癇癪は、男の足を息子の手に乗せさせる。
まったく、躾とは大変なことだ。世の子供たちを持つ親たちには頭が下がる。そう内心殊勝にも思える言葉を呟きながら、我が子への愛情を一身に右足に込めた。
「やめろよ」
そんな男の耳に、知らない青年の声が響いた。




