閑話:家出
閑話→本編→閑話という視点変わり地獄
こんなに簡単に出られるとは思わなかった。
ヨウイチは、舗装された土を踏みながら、青く広い空を見上げて拍子抜けする。
まだ午前の早い時間。朝食直後に王城を抜け出して今、吸った空気が美味しい。
振り返れば少し大きめの土管のような水路。そこからは生活排水らしい水がちょろちょろと流れ、川に流れ込むべく小さな用水路へと導かれていた。
まだ街の人通りは少ない。しかし、いないわけでもない。
朝の市場は食堂向けの営業を一通り終え、ここからは生活利用者のための営業となる。広い道をポツポツと歩く人影は、しかしヨウイチのことなど気にかけずに流れていた。
横を見れば遠く、小さく衛兵の姿も見える。その姿にヨウイチは若干怯えながらも、王城前の広い通りを横切るように急ぐ。
衛兵たちはヨウイチが一人でいればすぐに見つけられるが、人混みに混ざってしまえばすぐには見つからないだろう、というのは抜け道を教えてくれた協力者の言だ。
その人混みというのがこの早い時間はまだ形成されていないのだが、それでも他に二人もいればそれは『人混み』だ。
台車を引く人夫の斜め後ろに並ぶように居場所を変えれば、背後に小さくなってゆく衛兵も、恐るるにたらない。そんな気がした。
もっともヨウイチの今の服装は、豪華とはいえないまでも仕立ての良い逸品。顔や衣服の清潔さも相俟って、一般人でないことも目敏いものならばすぐにわかることだったが。
そんなことを露知らず、ヨウイチは歩く。出来るだけ背後の王城から離れるように。
エッセン王国の王都、グレーツ。それはエッセン王国の始まりの地であり、そして古くはエッセン王国とはこの都のことのみを指していたに等しい。
北に肥沃な平地に山野。南には大きな川。災害も少なく、農作物を育てるのにも、狩りをするのにも適した気候。
東のネルグや西のウラテムといった聖領からは離れ、森の実りは劣ってしまうが魔物少なく人や獣に適した土地。
それは豊かな国だった。一粒の種から一本の木が生えるように、人々が働けば働いた分だけ、努力に裏切られずに豊かになれる国だった。
その豊かさは長い歴史を紡ぎ、その長い歴史はこの街を整備していく。
通りにくい道は整備され、使いづらい建物は作り直され、流通は効率化し人の流れも活発になってゆく。
ヨウイチは、住人たちの歩き始めた道を進む。その歴史を感じることもなく、ただただ王城から遠ざかってゆくように。
『逃げ出したい』。
ヨウイチが王城から抜け出した理由は、それだ。
昨日はとてもとても嫌なことがあった。
封印したい記憶。もはや遙か昔にも思える出来事。ただし、それは昨日のことで、やはりまだその感触がヨウイチの手に残っている。
人を殺した。その感覚。
ヨウイチが立ち止まる。増えてきたすれ違う人間たち。日本にいたときには煩わしかった人混み。それが今や、自分もその一員であると感じられてなんとなく安心出来た。
立ち止まり、避けていく人間たちをぼんやりと見つめながらヨウイチは拳を握った。
その掌の感覚に、より一層昨日の感触が蘇る。
人を斬ろうとした感覚。人の肉を刃で叩き、両断出来なかったまでも深々と食い込ませた感覚。血が噴き出して、その血が頬にかかった感触。目の前で上げられた悲鳴。その悲鳴を上げさせた自分、そして恨みの籠もった目で自分を見つめる被害者と、その妻。
頬を拭えば、まだそこに血がついている気がする。自らの手の温かさが気持ち悪い。
感覚を断ち切るように目を強く瞑り、暗闇の中で俯いた。
カラスは言った。人間を殺す感覚は、鹿を殺す感覚と一緒だと。
今ならば、『違う』と自分は自信を持って言える。
何も同じことはない。鹿を殺すことも嫌だったが、人間を殺すのはもっと嫌だ。
一緒だと言った。ならば、あの人は理解出来ないのだろうか、この感覚が。
頭がおかしいのではないか、などと心のどこかで囁き声がする。あのカラスは頭がおかしくて、だから人間と鹿が同じとしか感じられていないのではないか、と。
前にジュリアンに聞いた。『あのカラスを人間だとは思うな』と。
その時も、そんなことはないとヨウイチは否定した。今でもそれはそう思う。けれども、本当はそうなのではないだろうか。人間ではない、ということはないにしろ、人間ではないと皆が思えるほど何かが欠落していて、それ故にカラスは人間を殺すことが平気なのではないかと。
だがヨウイチは、聞こえていない声に耳を塞ぎ、その内心の声に強く首を横に振る。
それも違う。きっとカラスさんは正しい。きっと人間と鹿は同じなのだ。同じなのに、自分がきっと違うふうに捉えているから。そう、自身を説得し、思い込もうと努力する。
でも!
やっぱり、人間と鹿は違う!
耳を押さえた手が震え、上にずれて髪の毛をくしゃりと丸める。顔が苦悶に歪む。その様子に通りがかりの何人かが目を向けたが、物狂いの類いかと皆目を逸らした。
怪訝に思う周囲の声も、視線すらも全く意に介さず、ヨウイチは食いしばった歯の隙間から息を漏らす。
どんなに取り繕っても、逃れられる気がしない。
だってあれは、自分が剣を振り下ろした相手は人間だ。
その人間を殺すのは、人殺しだ。
そう、誰かを罵る声がする。頭の中で響いた自分の声が、誰かを罵っている。
目の前で男の首を飛ばしたテレーズ。それに、数え切れないほど人を殺したといったカラス。
彼らを罵る声に聞こえて、違う、違う、と小さく何度も呟いた。
彼らを人殺しと罵るのならば。人を殺した人間を、人殺しと罵るのならば。
ならば、自分は。
お前が一番酷い人殺しだ、と自分の声がする。目の前で、自分が自分を指さしている。
耳を塞いでも、目を閉じても。
へたり込んで、違う、と口にする。何度も呟いていた言葉だが、その言葉が一番軽く、力がなく、そして上滑りしている気がする。
何が違うのだろう。自分がその剣を首に向けて振り下ろした。血が舞った。どぼどぼと垂れた。刃が肉に食い込む感触がまた手に蘇る。痺れるようにその感覚が腕まで広がり、染みついて離れない。
違わない。何も。
そうだ。
自分も、これで人殺しなのだ。
そう改めて内心で呟けば、もう、違うとは言えず、代わりに溜息が出る。
よろけるようにして前に手をつき、反射的に目を開ければそこには自分の手。何度洗っても血がついているような気がして、昨日は何度も何度も洗った手。
人殺しの手。
何を取り繕うことがある。そんな自分がおかしくて、それから気が済むまで、ヨウイチは咳き込むように笑った。
ひとしきり笑い、気を取り直すこともなく、ふらりとヨウイチは立ち上がる。
もう昨日から、何度も何度も何度も何度も繰り返した作業だ。
蝿の音が耳に響く度、自身が人殺しだと、何度も何度も責めてきた。
それでも、責めても責めても気が済まない。
男の呻き声が耳から離れない。女の恨みの籠もった目が頭から離れない。
何が勇者だ、こんな男が勇者であるものか。そう、何度も何度も自分を罵った。
殺すべきだ、勇者なら。戦場に立つのなら。
殺すなんてとんでもない話だ。人が人を殺す。そんな悍ましいこと、出来るわけがない。
ヨウイチの足は萎え、歩けない。王城から離れたいのに。
こんな世界から逃げ出したいのに。
俯けば涙がこぼれ落ちそうになる。
どこへ逃げればいいのだろう。この寄る辺ない世界で、何も持たない自分が。
目に浮かんだ涙を振り切るように振り向けば、ちっぽけな自分と対照的な大きな王城が見える。視界の中に収まりきらない滑らかな曲線で作られた城はそこに悠然と聳え立ち、まるで自らを見つめているように見えた。
「…………っ」
途端に足が動く。もうここにはいられない。勇者と祭り上げられて、そして勇者になれなそうな自分には。
動き出したといえど、歩く足は重い。ヨウイチには、まるで泥に埋もれた足のように感じた。
(剣は……)
歩きながら、懸命に『それ』以外のことを考えようとする。人殺しの自分という事実から目を背けたいと懸命に考えながら。
(……剣は置いてきちゃったな……)
与えられた宝剣は、枕元に置いたままだ。人生で初めて、自分のものになった刀剣。振り続け、手に重さが馴染み、ようやく愛着が湧いてきたというのに。
(マアムさん、心配してないかな。……ミルラさんも)
抜け道を知っている二人とはいえ、今日ここで出てくることは伝えていない。自分が姿を消して慌てていないだろうか。慌てているのならば悪いことをした。もう、なおさら王城へは帰れなくなったな、と苦笑した。
テレーズにも伝えていない。彼女の訓練も勝手に休んでしまった。怒っていないだろうか、などと心配をして、ああ、と首を横に振る。
そして、ヨウイチは自分が考えていたことをもう一度反芻し、破顔する。
(やっぱ、城のことばっかだ。なんだろうな、俺、何考えてんだろ……)
この世界に来て、この国に来て、見たものといえばほとんどが城の中のことだ。城の中で、勇者として手に入れたものに体験したこと。
まだ未練があるというのか。そんな、何も出来ない役割に。
なんて優柔不断で未練がましいのだろうと自嘲しつつ周囲を見れば、そこは見覚えのある景色。
……そういえば。
(この辺、ルルさんと歩いたっけ)
見れば遠くにはルルと話した青果店がある。もっともそこにはマアムもサロメもいたが、ヨウイチはその風景にルルの姿しか浮かばなかった。
青果店に歩み寄り、棚をちらりと覗けばあの日と品揃えは変わらない。実際には仕入れの関係で多少の変化はあったものの、ヨウイチの気付ける変化ではない。
その記憶の中心となっていたのは、ルルに教えてもらった果実のこと。
(あれ、結構酸っぱかったな。それにちょっと苦いし)
蓮柑。紫色の柑橘類のような果実。ルルの薦めたとおりに火を通し、肉と一緒に煮込まれて出てきたその果実を食べたときの味を思い返し、ヨウイチの口内に唾が沸く。火を通せば甘くなると言っていた通りに甘くはなっていたのだろうが、それは砂糖やガムシロップのような甘さではない。ヨウイチの記憶に照らし合わせれば、酸味の強いアップルパイ、という程度のものだったのが印象に残っている。
(……舞い上がってたもんな、俺)
その後立ち寄った武器屋。そこで話したときに見せたルルのはにかんだような笑顔。その笑みが、突然懐かしく思えた。
まだ、勇者をやれるかもしれないと思い込んでいたときのこと。
この角を曲がれば、その武器屋へと向かえる。そんな曲がり道を曲がれない。
ヨウイチは、無意識にその先へ視線がいきそうになり堪える。後ろめたさに胸が痛んだ。
彼女のことが好きだと思った。
最初はカラスの隣にいるだけの女性だと思った。けれども次第に目が離せなくなり、会えたときには心躍った。
思い返せば舞踏会で、昼餐会で、王城の廊下で、視線の先にいた彼女は輝いていたと思う。その舞踏会での演目を見つめる真摯な目が、とても綺麗に見えた。
今思えば、好きになった理由は何だったのだろう。
知らぬ間に目で追っていた。昼餐会で話す彼女の言葉の一つ一つが、何度も耳の中で反響した。一度でいいからその手に触れたいと思った。彼女の笑顔がもっと見たいと思った。彼女が自分と話しているときに、笑顔を見せると心躍った。
でも、それはきっと好きになったから思ったことで、その最初は。
ヨウイチは思い直し、元来た道へと引き返す。そして進むのは王城へと繋がる道ではない。目指すはあの武器屋。彼女と普通に話せた最初の場所へ。
ルルへと縋り付きたい気分だった。彼女のことを考えていれば、他のことは考えなくてもいい。そう思い、自分を殴りつけたい気持ちになった。
彼女のことを逃げ道に使おうというのか。そのために好きになったわけではないのに。
武器屋の前へと辿り着けば、前と同じ佇まい。
きっとその中にはあの日と同じように店主がいて、商品の剣が飾られているのだろう。中には既に幾人かの客がいるかもしれない。もちろんそれは、ヨウイチに感じ取れるものではなかったが。
その店に入ろうとして、ヨウイチは扉に手をかける。
しかし躊躇し、その心に湧いた感情にまた涙が出そうになる。
自分は何をしているのだろう。未練がましい。浅ましい。この時になってなお、彼女の幻影に縋ろうというのだろうか。
中に入り、あの日と同じように剣を振っても隣にあの人はいない。
金を持っておらず、客にすらなれない自分を店主は温かくは迎えまい。
思い浮かべただけでわき上がる寂寥感。その扉が冷たく重くて、ヨウイチはその手を離した。
何をしようとしていたのだろう。そうヨウイチは自問する。
ここでまごまごしていては、すぐに王城から追っ手がかかるだろう。誰かが連れ戻しに来て、そしてまた自分は連れていかれる。あの処刑場に、きっとまた。
早く逃げ去るべきだ。一文無しの素寒貧のままではあるが、逃げられるところまで。
金も職もないのであれば、しばらくは野宿になるだろう。
野宿ならば、この前やったばかりだ。もちろんその時は聖騎士団で分担して運ぶ荷物があったが、それでもやったことがあるのとないのとでは大分違う。小学校の時にやったキャンプをもう一度この世界でやるだけだ。飯ごうも寝袋も、バンガローもここにはないが。
何故こんなところで立ち止まっているのだろう。何故、何故。
ヨウイチは自分の身体を叱咤するように太ももを叩く。間違いを選んでばかりだ。カラスの言うとおり、最初から逃げていればよかったのに、と。
それでもそれこそ後の祭り。もう、変えられない。逃げなかった事実も、そして自分が人を殺した事実も。
過去を振り払い、逃げるようにそこを後にし、すぐ横にあった広場に何の気なしにふらりと飛び込む。設置されていた椅子に、ヨウイチは疲れて眠るように座り込んだ。
歩く気が起きない。立ち上がれない。
俯く視界の中には自分の足と地面とが映るだけで、ただ耳には足音が届いていた。
近くを子供が通り抜ける。楽しげに、ドタバタと走りながら。道で台車を引く音がする。そして馬車の音。がたがたと車輪が緩み、石畳に弾かれるように跳ねていた。
そのままどれくらい経っただろう。背中の緊張に首が痛み、自分の筋肉の軋みが聞こえるようになってきた頃。
ぐうとお腹が鳴る。こんな時でも腹は減るのか、とヨウイチは笑い、顔を上げた。
その目の前の光景に、ヨウイチは唖然とする。
いつの間にか、昼は過ぎている。王城を出たときにはまだ朝食を食べてすぐだったはずなのに。往来に人は増えていて、まるで時間を飛ばしたかのように感じた。
お腹が空いた。そうだ、人は腹が減るのだ。食べなければ。
そうヨウイチは考えたが、しかしその手段に悩む。食べ物をどうやって手に入れよう。北の森は遠い。南に川があると聞いたが行ったことはない。ならばホームレスのように廃棄の弁当を、……と考えてもこの世界にそんなものがあるかどうかすら知らない。
結局何一つ出来ないのだ。この世界では、自分は。
また頭を抱えて俯いて、両手で包むように頭を叩く。結局この世界に来て出来るようになったのは魔法を一つ使えるようになったのと、そして人殺しだけ。
ヨウイチは手を止めて笑う。いっそ強盗でもしてしまおうか。どうせ、人は一人殺している。一人殺すのも二人殺すのも一緒で、自分の魔法ならば遠くからでも首を飛ばせるだろう。
……飛ばせるだろうか?
いいや、飛ばせるわけがない。目の前にいる動けない人間一人の首すら、飛ばせなかった自分が。
「困っているね」
乾いた笑いすら発せずにいたヨウイチ。しかしその声に弾かれるようにして顔を上げ、横を見る。
見れば隣の椅子に座っていた女性が発した声。
ヨウイチはその姿に驚いた。いつからいたのか。今か、それとも既にいたのか。少なくとも、ずっと気づかずにいたのは確かだ。
声を発した女性は、白い頭巾のついた外套を身に纏い、その隙間から見える金の髪を隠しているようにも見えた。
その笑みは美しく、ヨウイチもわずかに見とれるほどだった。
だが。
どこかで見たことがある。その女性を、……多分城で。
「慌てなくてもいいよ。連れ戻しに来たわけじゃない。ただ、困っていそうだったから声をかけただけ」
「……困ってなんか」
「見たところ、今日のご飯も満足に食べられなさそう。泊まる場所も不安で、行き先も決まっていない。……困っているだろう?」
ニコリと笑いながら吐き出された言葉に、ヨウイチは返せずに詰まる。全くもってその通りだと感じ。
「ミルラ王女とは何度かお話しさせてもらっているけれど、君とは初めましてだよね」
女性が何の気なしに手を差し出す。その手の意味を一瞬解せず、それでも次の瞬間理解してヨウイチも慌てて手をさしだした。
「私はプリシラ。占い師さ」
「……荻野陽一、です」
プリシラは、うんと頷いて手を離す。その手を何故だか名残惜しく感じたが、ヨウイチはその理由がわからずにただ手を引いた。
そしてもう一つ、気が付いたことがある。
自分の名前。そうだ、自分の名前は……。
十八年間使ってきたはずの自分の名前。それを口の中で反芻すれば、何故だか新鮮な気分になる。そうだ、自分の名前は確かに荻野陽一だったはずだ。
「……本当に、連れ戻しに来たんじゃないんですか」
「うん。私は君に命令出来るような立場じゃないし、命令する気もない。ただ、そうだね。君を見かけて連れ戻さなかったとなると色んな人に怒られるから、この先も私のことは黙っていてくれると助かるな」
いたずらっぽくプリシラは笑い、唇の前に指を立てる。
「わかりました」
「素直でいい子だ」
そして可愛い。プリシラは内心、そう付け足した。
プリシラは空を見上げ、流れる雲を眺める。わずかに流れた無言の時間。ヨウイチは、その無言の時間を苦痛とも思えないことが何となく意外だった。
「……君のことは、なんて呼べばいいのかな?」
「え?」
視線を空に向けたまま、プリシラは尋ねる。その質問の意味をわかっていてもヨウイチは即答出来ずに、ただ間を保つために聞き返した。
聞こえないふり。それをわかっていても、気にせずプリシラは今度はヨウイチの方を向く。
「君は、なんと呼ばれたい? 官位がなかったから敬称は統一するとして……オギノ様? ヨウイチ様? それとも」
言葉を一瞬切ったプリシラ。そのわずかな時間に、ヨウイチはその次の言葉を予想した。そして、やめてくれ、と叫びたくなった。もちろん叫ぶ時間はなかったが。
「勇者様」
「…………」
そしてプリシラが口にした呼び名に、顔面の血の気が引いた気がする。ここ数週間で、何度も何度も何度も何度も聞いた呼び名だったのに。
心臓が早鐘を打つ。その胸を押さえるように服を掻き寄せれば、今度は荒くなった自分の呼吸に気づいてそれを鎮めるのに時間を使った。
「……便宜上、君と呼ぶことにするよ」
答えられない。そうしたヨウイチの反応を楽しみ、プリシラは話題を移す。実際には何も変わらない話題を。
そして勇者に見えるように、二本の指を立てる。
「君には今二つの道がある」
わかっているよね、とプリシラはヨウイチの顔を覗き込んだ。その二つの道にも何となく予想がつき、ヨウイチは頷いた。
よろしい、と言葉に出さずにプリシラは目を細めて続ける。
「一つは王城へ戻る道。道順はわかっているだろう? そのまま戻り、ミルラ王女に頭を下げて元通りさ」
元通り、という言葉にヨウイチは唇を結ぶ。
そうだろう。その道ならば、このまま王城へ戻り、そして元通り出来ない勇者を演じるのだ。
選べない道。もう出来ない、自分には。そう確信出来る道。
そして、一つの道が王城へ戻る道ならば、もう一つは。
「隣の街へ行くには、どうすれば」
もう一つの道は、と先んじてヨウイチは尋ねた。その反応にわずかに驚いたプリシラは眉を上げ、喉の奥で笑いながら笑みを強めた。
「簡単さ。目の前の道。そこを、王城と反対方向へ一直線。道なりに進めば一番近い街があるよ」
偶然ながら、目の前の道はそのまま人生の岐路を示している。
そう告げられたヨウイチは、目の前の道を無感情に眺める。その道を行き交う人間たちの流れが、一瞬止まったように錯覚した。
「ちょっと急がないといけないけど、急ぎ足ならば徒歩でも充分日が沈む頃にはつくだろう。そうしたら、青い石の建物を探すんだ」
「青い石? ですか?」
「そう。聖教会の治療院。今君は路銀がないからね」
もちろんプリシラも渡す気はない。そんな物を渡してしまえば、これから先の道が簡単に、平坦になりすぎてしまう。
「この道を進んだところにもあるから覚えておくといい。ともかく、そこの治療師に頼めば、簡単な労働と引き替えに軒先を借りることが出来る。今日の寝床が確保出来るよ。ついでに、余裕があれば明日の朝ご飯もね」
それは治療院の慣例だ。わずかな寄進か、労働という対価で寝床ともいえない寝床を貸す。それこそ先代の勇者が治療院の軒先を借りたという逸話から生まれた、治療院の小さな親切。
寝床と朝食。そこまで至れり尽くせりならば。そう、ヨウイチの目に光が宿る。
もちろんその品質まではわからないが、それでも随分と大きな希望になった。
「そして、さすがに隣街は捜索の網がかかるのも早い。早朝に旅立てとは言わないけれど、明日にはまた次の街を目指して進むといいね。そこから先は、おそらく君が名乗り出ないと見つからなくなる」
第三位聖騎士団長やカラス、あとはオトフシなどの有能な探索者が捜索に乗り出せば別だが。そう口には出さず、プリシラはヨウイチに都合のいい計画を並べていく。
勇者はこちらを選ぶだろう。そう確信しながら。
「……わかり、ました」
ヨウイチは深く頷く。目の前の女性を信用したわけではないが、それでも今は信じるより他ない。
その言葉のうちに、自分の得になるようなことはなかった。ならば、きっと嘘はついていないだろうと考えて。
もちろんプリシラが口にしたのは嘘ではない。実行出来れば、その通りになるであろう確かな指針だった。
だめ押しとばかりに、ヨウイチはプリシラを見る。先ほどと逆に、彼女の顔を覗き込むように。
「でも……どうしてそこまで教えてくれるんですか? プリシラさんだって、この国の人じゃあ……」
「私はね、親切なんだよ。特に頑張っている子にはさ」
ヨウイチの目を見返さず、プリシラは遠い目をする。その目の先に浮かんでいるのは、まだ小さな可愛い弟の姿だった。
「……君を見ていると、私の弟を思い出すよ」
「弟さんが?」
「うん。少々特殊な職業でね。君と同じように、人を殺さなくちゃならなくて……そして、悩んでた」
「…………」
人を殺す。その言葉に、自分が王城から逃げ出した理由を今更ながらに思い出し、ヨウイチは唾を飲み込む。
その反応が楽しくて、プリシラは遠い日の思い出を思い返しながら言葉を紡ぐ。
「『死んだ人たちが、こっちを見て睨んでる』『殺した時の感触がどうしても忘れられない』って悩んでた」
もっともその弟は、すぐにそれを克服してしまったが。それも、克服というよりも、折り合いをつけた、というのが正しいのだが。
「だから、他人事じゃないんだ。嫌なら逃げてもいいんだよ。……そう、他の人にも言われてると思うけどね」
「……はい」
優しげなプリシラの笑みに、ヨウイチの力が抜ける。やはりどう考えても、自分を騙そうとするような人間ではない、とそう感じた。
「さあ、急ぎなよ。さすがに月明かりの中街道を進むのは危ないからやめたほうがいい。……特に、人殺しをしたくないなら」
「…………ありがとうございます」
王都周辺は比較的治安がいいとはいえ、完全ではない。
獣も出るし、時たま悪い気を起こして旅人を襲う人間も出る。今確認出来ているわけでもないし、人さらいなどそうそうあることではない。
何より最近の人さらいのうちもっとも凶悪といわれていた人間は、それこそヨウイチの手で死んでいる。
それでも万全に、安全の旅を。
このプリシラの言葉は、それでもという完全な親切の言葉だった。
「この道を、右に真っ直ぐ、ですね」
「そう、右に真っ直ぐ」
もう一度、ありがとうと頭を下げてヨウイチは急ぎ足で広場を後にする。座ったままでそれを見送ったプリシラは、その背中に小さく手を振った。
ヨウイチの足音が消えていく。もはやプリシラの耳にも聞こえない。
「右に道なりに行けば、三つ目の曲がり角の左手に聖教会の治療院がある。その建物を参考にするといい」
ヨウイチの姿が消えてから、プリシラは補足を重ねる。もはやヨウイチには聞こえない言葉と承知しながら。
「辻馬車は四つ目の曲がり角の手前、小さな路地を進んだところ。路銀を持っていれば」
もちろんそれは、路銀を持っていないヨウイチには意味を成さない情報で、路銀を渡す気もないプリシラも伝える気はなかった。だが、ただ楽しむように、ヨウイチの今後を考えて、嘲るように。
「六つ目の左にある店の前は、足早に通り抜けたほうがいいね。中の店主は王城にも出入りしているし、君の顔も知っている。気づかれると、聖騎士に通報がいくよ」
まあおそらく、急ぎ足の今ならば大丈夫だろうが。万が一引っかかったら面白い。
プリシラは一つ伸びをする。新鮮な街の空気。森の中よりも汚れた空気が、肺に入る感触が如実に感じられた。
青空の下というのはいいものだ。色とりどりの光景が、五感の全てで感じ取れて。
ふう、と溜息を吐いて、プリシラは肩を下げる。それから足を蹴り上げるように数回ばたばたと動かした。
「川の手前右斜め前の染め物屋には、子供に手を上げる、生きる価値のない親父がいるんだ」
さて勇者は、順調に逃げられるだろうか。
そうプリシラは笑い、誰の視界にも入らずに煙のように姿を消した。




