閑話:追放
人の両の目は体の前方、やや外向きにあり、視界はそれぞれ眼球を頂点とした円錐状に広がっている。
それぞれの目が捉えた視界は中央のわずかな部分を中心視野、その辺縁を周辺視野と分けられ、それぞれの解像度は極端に違うものだ。
大まかに、中心視野は解像度が高く、周辺視野では色の認識の幅が広がるという。
そのため常人の視野というものは、正面から扇状に広く広がっているにもかかわらず、その中央付近しかほとんど用を足していない。
目の端で見ている光景はぼんやりとし、もちろん何かが急変すれば違和感を覚える程度はある。しかし、簡単な文字すら人には読み取れないものだ。
そしてその事実を、日常生活で気にする者はほとんどいない。
故に。それ故に、人の目には誰しも本人すら知らない死角がある。
その他の生理学的暗点と呼ばれる網膜の欠落部や眼球の傷、そして周辺視野の重なりによる死角。その場にいる全員の死角に入り込む技術さえあれば、そこを突くことは可能である。
人は目の前の光景を見ているようで、全く見ていないことすらあるのだ。
今、部屋の壁際に立ち、二人の女性が向かい合うその様を見守っているプリシラに、誰も気が付いていないように。
質の良い調度品が使われている室内。この前日にクロード、それにカラス、ティリーたちとミルラ王女が会見した部屋。そこは今険悪な雰囲気に包まれていた。
取り囲むように壁際に控える二人の衛兵は、近衛兵とも呼ばれる精鋭たち。中央には、机を挟んで二人が座り、各々信用のおける侍女と一人の使用人たちが背後に控える。
主役である向かい合った二人。一方にいる女性は前日と同じ、ミルラ・エッセン。しかしその向かいには、昨日と違い今はただ一人、侯爵家令嬢ヴィンキー・ネッサローズが紅茶の杯を机に叩きつけるようにして拳を震わせていた。
「……今、なんと?」
「聞こえませんでしたならば、もう一度口にしましょう。ネッサローズ侯爵家二女、ヴィンキー・ネッサローズ。貴女には、この城を立ち去っていただきます」
今度は聞こえたでしょう? とミルラは微笑む。もっとも、ヴィンキーが聞こえなかったわけでもないことは、重々承知の上でのことだが。
「何故……」
「理由を述べる必要がありますか?」
ミルラが言い切るが、ヴィンキーは内心何度も頷いていた。
あるだろう。あるに決まっている。何の説明もなく、ただ王城を出ていけと言われるのは心外の極みだ。
もちろん、重大な事件でも起こせば出ていかざるを得ないだろう。それどころか、刑部に裁かれるような事態になることすらあるだろう。だが自分には身に覚えがない。
そもそも、彼女が自分たちの退去を求める権限があるのだろうか。
「よろしければ、お願い致します」
「…………」
落ち着こうと、こぼしかけた紅茶を一口飲んでヴィンキーが震えを収める。
この暗愚とも噂の姫のことだ、何かしらの誤解があるか、それとも論理に何かしらの瑕疵があるだろう、と信じて。
王から勇者の接遇を任されているとはいえ、彼女個人は何の権力もない自分たちよりもやや上の立場というだけの小娘だ。ならば、反論のしようはある。
ヴィンキーが紅茶を飲むのを待ち、ミルラは小さく咳払いをして口を開いた。
「この王城に皆様が集められたのは、勇者様の婚姻相手、その候補を見繕うためのものだということは周知のことと思います」
「もちろんです」
知っている。もちろん名目上は、ただ『この城を華やがせるため』との召喚だったが、そんなわけはあるまい。
だからこそ自分は勇者に対して関心を引こうと努力し、そしてめぼしい敵を蹴落としてきたのだ。
もしや、その敵を蹴落とす行為が問題にでもなったというのだろうか。ならばそれこそ反論のしようはいくらでもある。
多くの人数が集められたここから、勇者が選ぶのは伝承によると一人だろう。ならばその一人になろうと努力することは、自分以外の全てを蹴落とそうとする行為にほぼ等しい。
「もしや……」
「でしたら、ご理解いただけると思いますわ。いずれ勇者様の寵愛を受け、その血を継ぐ子を身籠もる予定の女性が、その他の男性と関係を持っているなど……、認められるわけがないでしょう?」
「……なっ……!?」
あらぬところからの攻撃。ヴィンキーはそう感じた。
「それは……?」
「調べはついております。ここ七日ほどで、三回」
そして畳みかけるように口にされた言葉に、更に驚愕する。どうやって調べた、と。
「直近を調べただけでもそれです。しかも、うち一回は違う殿方。遡ればまだまだ出てくるでしょう。奔放なのはほどほどになさいませ」
よよ、とミルラが口元を隠しながら眉を顰める。内心は、自分の常識からは外れた行為に、笑いしか出ないという程度の反応だったが。
「…………」
どう言い返そう。そう悩むヴィンキーだったが、言葉が出なかった。取り繕うべきか、それとも受けて立つべきか。否定すべきか肯定すべきか、それもミルラと同じく自らの常識に則り悩み。
「嘘、というような言葉は無駄ですわ。貴女の身内からも、証言は得ております」
そして、ミルラの『身内』という言葉に、一瞬誰だかわからず戸惑いが浮かぶ。
だが、ヴィンキーは確かに感じた。そのミルラの瞳が、ほんのわずかに一瞬だけ、自分の侍女を見たことを。
ヴィンキーは脇に視線を向けて、咎めるように見る。
「……貴方」
「わ、私はっ……ただそのような退廃的な振る舞いはと……ただ……」
裏切った。侍女が。
半ば当てずっぽうではあったが、侍女の言葉にそう確信出来た。
主の反感を買い、胃が痛み立つのもやっとになった侍女。そしてそれを睨むように見つめるヴィンキー。
ヴィンキーの手元で、畳んだ扇子が軋む。
その反応を、言い返せない、ととったミルラは勝ち誇るように笑みを強めそうになり、慌てて表情を戻す。まだ真面目な顔で、まだ悲しげにも見えるように、と。
「おわかりいただけたでしょう。今ならばまだ、私の胸の内に収めておきます。事情を知る一部の者たちの口にも鍵をかけましょう。明日の昼までにこの王城をご退去ください」
その余裕ある態度に、ヴィンキーはさらに腹が立った。笑みをまだ浮かべていないミルラの顔に、何が可笑しい、と悪態すらつきそうになった。
そして、本気とも思った。人目に付かないここへ自分を呼び出したことからもう覚悟はしていたが、それでももはやこれは冗談で終わる話ではない。
ミルラ王女は勇者の配偶者選びから、自分を完全に脱落させる気なのだ、と確信した。
冗談ではない、とも思う。
せっかくの好機なのだ。勇者を夫に迎え入れれば、自分はまた返り咲ける。目下の女たちがどれほど良い夫であろうと、自分の夫には敵うものか。
そうすれば、舞踏会で、晩餐会で、皆が私を褒めそやすのだ。
仲睦まじいだけが取り柄のうだつの上がらない夫と一緒になった女どもは、よく冗談交じりに自分の夫を貶める。もちろん実際は、それはただの自慢だとわかっている。だがそんな不快な言葉を聞いたら、こう言ってやるのだ。
『貴方たちも、私のようにいい男を選べば良かったのに』と。
なのに。なのに、その機会を奪われる屈辱。
もう決定はしているだろう。自分はおとなしくここを出ていかなければいけない。そうしなければ、ミルラ王女は彼女が知った自分の夜の生活を暴露し、強引に立ち退かせるだろう。
それが今後の悪影響になること。その程度は、ヴィンキーもわかる。勇者との結婚どころではない。遊びに問題はなくとも、ろくな結婚相手すら見つからなくなるだろう。
だが、気に入らない。その余裕のある態度が。まるで正義の審判者のような顔をして、自分をただただ一方的に裁定するミルラ王女が。
おとなしく引き下がるのが賢明だろう。そう考えたヴィンキーだったが、腹の虫が治まらない。生来の勝ち気。それが、受けて立つことを選ばせる。そして、肯定することも。
「ならば……」
持っていた扇子を折りそうになりながらも、懸命にヴィンキーは歯を食いしばり堪える。そしてその代わりに、と頭に浮かんだ名前を吐き出そうと考えた。
「ヨイラシア家の令嬢は、どうなのです? クインルズは?」
「……それは?」
「お嬢様!?」
ヴィンキーの侍女がか細い声で止めるが、それをヴィンキーは聞いていなかった。
「殿方と寝るなど年頃になれば誰でもしていること! 今更その程度、問題にする方がおかしいんですわ」
ヴィンキーは殊更に大きな溜息を吐く。目の前の女性が、自分よりも目上ということを忘れているように。
「……世の人全てが自分と同じとは考えないことですね」
ミルラは内心で、その反例を次々に思い浮かべる。もちろん真実は知らないが、たとえばザブロック家の令嬢に悪い噂はない。彼女の周囲、ヴィーンハートにもクロックスにも。
そして、そうではないと言い切れる人物が、今瞼を閉じた内側にただ一人いる。
「みんな取り繕ってるだけですわ! それを信じられるなんておめでたい方」
自棄になったようにヴィンキーは笑う。高笑いにも似たその笑い声は、部屋の中だけに響き渡った。
そして、もう一つ皮肉が思い浮かぶ。今まさに口に出されたミルラの言葉。それに、伝え聞くミルラの噂。
「ああ、ミルラ様におかれましては、まさに自分と同じと考えていらっしゃるのですわね」
「…………?」
ミルラはその言葉に、一瞬戸惑った。どういうことだろうか、と。
だが次の瞬間、その意図に思い至る。思い立ったその時、机に四筋の傷が出来上がった。
「……どういう、意味でしょうか?」
「そのままの意味ですわ。あらまあ、たしかにミルラ様は汚れなき体を誇りに思っていらっしゃるのでしょう?」
汚れなき体。それ自体は彼女らにとっては褒め言葉とも取れるものだ。彼女ら貴い身分、とりわけ未婚の女性にとっては、当然の身支度、ともいえるものだった。
だが、ヴィンキーの口に出した言葉に籠もる悪意。それを感じ取ったミルラは、ヴィンキーの意図を正確に読み取った。
「口を……」
「申し訳ありませんわ。汚れてしまったこの体、私は、皆様に求められるものですから」
胸元に手を当てて、歌うようにヴィンキーは口にする。『私は』と強調しながら。
「口を、閉じなさい」
机に出来た傷。そのささくれがミルラの爪と指の間に食い込む。わずかな出血が、拳を握りしめると机に一滴垂れた。
もちろん彼女らの道義上はミルラが正しい。ミルラ王女の貞操ともなれば、国家にとっての一大事、というものでもある。そしてそれにも増して、多くの社会で貞操観念というのは重要であり、そしてこの国で高貴な身分である彼女らにとっては貞節こそが唯一正しい行為だ。
それに反するヴィンキーの言葉は、当てつけ混じりのものとはいえ、その場にいた誰しもが内心眉を顰めるものだった。
「私たちは王城を華やがせる花。花ならば美しくなれば、虫も大勢寄ってくるもの。たまには甘い蜜をあげませんと……」
そんな空気を意に介することなく、ヴィンキーは続ける。余裕ぶっていたミルラの顔が、段々と険しくなっていくのが心底面白くて。
「……ああ、そうですわ。誰も寄ってこない方も、中にはいらっしゃいますわね」
何故かしら、と小さく呟きながら、ヴィンキーの視線がミルラを舐める。
ついにミルラの目が、険しく細められた。
「命令です。その口を閉じなさい、ヴィンキー・ネッサローズ」
ミルラの爪の先が血で滑る。机に引かれた赤い線を見て、ヴィンキーの侍女が痛々しさに目を逸らした。
ミルラは怒りを懸命に押し殺しながら、声が震えないように細く深呼吸を繰り返す。
穏便に済まそうと思っていた。まさしくこの城に滞在するに相応しくない理由を見つけ、それを突きつければ彼女はおとなしく去ると思っていた。
なんて優しい処置なのだろう、とまで考えていたのに。
なるほど。やはり、それは目の前の女が言っていたことに当てはまるのだろう。
自分ならば、これで王城をおとなしく去るというのに。愚かにも、権力を持つ、立場のある自分に挑発などを繰り返すなど。
「気に障りまして?」
「ええ。的外れの囀りは、とてもとても耳に障りますわ」
ヴィンキーはミルラの言葉に、『的外れ』などではない反応を感じた。清潔な布を手に駆け寄ってきた侍女に手を任せるミルラの姿が、態度や仕草と裏腹に弱々しい小娘に見える。
こんなひ弱い小娘に、と不服は残る。
しかし、それでも、たしかに今回は仕方がない。今この場で出来ることは限られている。
扇を開き、ヴィンキーは口元を隠す。
「それでは、勇者様にご挨拶をしてからここを出ましょう。明日、お帰りでしたかしら?」
「いいえ。明日まで猶予は差し上げますが、勇者様がお帰りになる前に出ていきなさい」
「あら冷たいですわ。勇者様にお別れの挨拶も出来ないなんて。勇者様も訝しがるんじゃないでしょうか?」
「挑発はもう結構。貴女はこの王城を立ち去った、とだけお伝え致します」
もちろん、聞かれたらの話だ。
そもそも勇者は気にも留めないだろう、とミルラは考える。今勇者の目に映るのはルル・ザブロックただ一人。おそらく、ヴィンキーが姿を消そうとも気づくこともないのではないだろうか、と正確な予想をしつつ。
「そう。挨拶もさせていただけないの。残念です」
扇子を閉じつつ、一応、とばかりにヴィンキーは溜息を吐く。
そして、そこまでのミルラの反応を思い返しつつ、その内心を推測していった。
ミルラは言った。挑発、と。
たしかに挑発はした、したが、その反応もやはり少々控えめだった。言葉は選んだつもりであるし、『おめでたい』以外は『そういうつもりではなかった』と釈明出来る余地も残したつもりだ。
ほとんど一種の賭けだった。これだけでも処罰されてもおかしくない言動。なのに、しないらしい。
それはこの一連の騒動を自分の胸に収めておく、という言葉の通りなのか。それとも、ビャクダン大公派閥の自分に気を遣ってのことだろうか。
このエッセン王国には十一の公爵家がある。その下、侯爵家は二十九。侯爵家のうち最上級に位置するネッサローズ家に気を遣った、となればまあ話はこれで終わってしまうだろう。
だが……ともう一度ヴィンキーはミルラを舐めるように見る。
このか弱い小娘の選択が、本当にこの小娘の胸の内だけに終わっているのであれば。
いいだろう。帰ってやる。
だがこのままで終わらせない。
とりあえず、考えるべきは侍女への処罰からだ。
そう決めたヴィンキーは、舌なめずりをするように扇子を撫でて下ろした。
(……なるほどやっぱり。そんなふうに解釈しちゃったかー)
壁際で二人を見ていたプリシラが、興味をなくしたかのように歩き出す。もちろん、興味など一切なくしてはいないのだが。
外套の白い裾を揺らしながらしずしずと歩く。ミルラ王女の行動について考えながら。
思い返すのは、彼女と交わした言葉の数々。
"その道を歩くのは少し厳しい。誰か、相談出来る方はいらっしゃらないのですか?"
"いるわけがありませんわ。私の手腕で、どうにかしないと"
"……ミルラ王女殿下。お一人で背負いすぎないほうがよろしいかと"
プリシラは何度かミルラに接近し、会話をした。
その度に、彼女の今後についての『占い』を交えて、プリシラなりにも正しい答えを導けるように助け船を出してきたというのに。
"味方を、お作りになっては?"
"味方? ですか?"
"はい。そう、たとえば……ルル・ザブロック当人。もしくは、彼女の周囲の人間"
彼女に不足している帝王学というのは、人に請うて学ぶことは中々出来ない。
だが政のことならば、細かい制度などは無理であっても、考え方や測り方ならば様々なものから自然と学ぶことは出来る。それこそ、普段の人との関わりからでも。
もしも彼女がこの国最初の女王となるならば。なれるならば。それはそれで素敵な話だ。そして決して叶うはずのない夢を追う彼女に力を貸すのは、とてもとても楽しいものだ。
"そうだ。私としては、彼が適任かと"
"彼?"
"そう。ザブロック家の使用人、カラス"
誰からの目にも映らぬように、そっと扉を開けてプリシラは外へと踏み出す。
その廊下の端に見える聖騎士たちも、ご苦労なことだ、などと考えつつ。
"あんなものに頼れと?"
"頼るのではなく、使うと考えていただければ。もちろん彼も意思を持つ人間なので、それなりに手順は必要になりますが"
"あのような顔だけの愚鈍な庶民が、力になるとは思えませんわ"
"そうとも限りません。彼がそうとは言いませんが、どのような卑小な人間であっても、力にはなります"
勇者は今頃森だろうか。
彼がおそらく初めて意識的に何かの命を奪う瞬間。その前と後の変貌も、直接その場で見てみたかったが。
しかし、まあここでも楽しめたからそれでいいだろう、と薄紅色の唇から息を漏らした。
"……彼を、味方に出来るかしら?"
"出来ますとも。殿下なら。ただ、簡単ではありません。それをどうするか考えてみてください"
(結局一人でやってしまったね。これは紛糾するだろうなぁ……)
たとえば彼が味方についたならば。もちろん残念ながら、彼にも答えは出せないだろう。しかしそれでも真剣に考えてはくれるはずだ。彼の性格的にも、おそらくは。
その真剣な考えのなかに、ミルラ王女のとるべき道、そのよすががあるもしれない。そうすればそれはそれで上出来だ。
そしてそれ以上に、彼を味方につける行為に意味がある。試金石たる彼を味方につけることが出来るのならば、それはきっと他人を味方に付けるという素晴らしい能力の証明だろう。それを目指せば、そんな能力が彼女にも育ってくれるだろう。
そう信じて、助け船を出したというのに。
もちろん、自分の助言を聞き入れないだろうとも思っていたが。
それは仕方ない。最後は彼女が選ぶことだ。人の道を、余人が決めることなど出来はしない。
しかし面白い。
拡散し、散乱する思考。
考えることが山ほどあり、そして見られるものが同じくらい多くある。
だからこの城は楽しいのだ。
誰の視界にも映らず、誰の耳にも音を聞かせず、プリシラはただ一人で笑っていた。




