欠席裁判
何か問題だろうか。僕やティリー、更にその侍女がいるここで普通に口に出した以上、重要な機密とかそういうことではないんだろうが。
そしてクロードが僕をちらりと見て、困ったように頭を掻いた。だがそれ以上何も言わず、テレーズに向きなおる。
「出来ると思うか?」
「個人的な印象だが、そこまではおそらくそう困ったことも起きないだろう。だがその先は……」
二人ともが、具体的な名詞を出さずに淡々と会話する。
それでも深刻そうに、互いに目も合わさずわずかに視線を下に向けていた。
そんな姿を眺めていた僕の足が軽く踏まれる。横にいたティリーに。
ティリーは僕の肩に顔を寄せるようにして囁いた。
「カラス君、カラス君、二人が何を話しているかわかるかい?」
「いいえ。さっぱりです」
僕も囁き声で応えるが、まあ抑えていないので二人にはばっちり聞こえているだろう。
それを示すように、クロードがこちらを向く。
「……明日から、第七位聖騎士団は遠征に出るんだ。遠征といっても近場なんだが」
「近場ですか?」
「王都北の森だ。それ自体はいつもの……訓練だな」
「どんなことを?」
ティリーが好奇心を抑えられないように会話に混ざる。次には今度はテレーズも手振りを交えながら口を挟んだ。
「適当な陣地を作って、食料なんかを調達しつつ歩哨を立てて……と、部隊を分けた夜戦を交える簡単な野外演習だよ」
「そんなことを貴方がたもするんですなぁ……」
「聖騎士団といっても、戦場では権限以外は騎士団と変わりないしな」
「いよいよ実戦に近い訓練ですか」
「……ああ。実戦に近い」
僕の言葉尻を捉えるよう、テレーズは頷く。その深刻そうな顔に、心配のような感情が浮かんでいた。
「何か問題でも?」
「そこは大した問題じゃないんだが……」
言い淀むテレーズの言葉を継ぎ、クロードが書類の端を叩きながら応えた。
「勇者殿に、獣を殺してもらう。出来るだけ大型のものを」
…………。
「ああ、そういう」
僕が納得し頷くが、ティリーはまだわからないようで首を傾げた。
「つまり?」
「今回は獣……でも、次はもっと違うものになるんじゃないでしょうか」
「遠回しにいうのはやめてくれたまえ。まるで私一人だけ仲間はずれみたいじゃないか」
「……段階を踏むのかはわかりませんが。どこかで、人間を」
ティリーの薄ら笑いが止まる。そして僕と同じように、「なるほど」と小さく呟きクロードを見た。
「勇者様は、戦争の経験などないのでしたね?」
彼女もどこかで聞いたことがあるのだろう。もしかしたら彼女も本人から聞いたのかもしれない。
「それについては直接話したカラス殿やテレーズの方が詳しいな。テレーズも、勇者の侍女から話を聞いたミルラ様の立てた計画に乗っているだけだろうが」
「まあ、そうだな」
クロードの言葉にテレーズが頷くと、三人と一人の視線が一斉にこちらを向く。まあ、黙っていることなど出来ないだろうし、もう聖騎士団では周知の事実だろう。
「人を殺すどころか、生き物を殺した経験もほぼないんじゃないでしょうか。彼の国ニホンは、そんな平和な国だとか」
人を殺せば大きな事件。小動物が殺されても、それよりも小さいが事件となる。僕がいたときですらそうだ。時代は下っても、勇者と話した印象からも多分それは相違ないだろう。
殺しても問題になりにくいのは虫か植物くらい。……今思えばよくわからない区分だ。
僕の言葉にテレーズも頷く。
「私が本人に聞いた話でもそのようなものだ。戦争などなく、それは平和な国だとか。よくわからないが、場合によっては人が喧嘩をしただけで、すまほ? とかいう絵の動く板で、国中にそれが知らされるみたいなことまで言ってたな」
「平和……なのだねぇ」
「そんな報せよりも、『花が綺麗』や『可愛い動物が生まれた』なんて報せの方が多いとも笑っていた。本当に、平和なんだろうな」
ティリーの呟きに、羨ましそうにテレーズが苦笑する。まあどれも、この国では望めないことだが。
そしてその苦笑も、すぐに沈んだ顔に変わる。視線を落とし、申し訳なさそうな顔に。
「だが、殺したことがないと困るんだ」
「素人の質問なんだけれども。そこまで変わるのですか?」
「変わる」
クロードが、ティリーに端的に応える。腕を組んで、溜息をつきながら。
「聖騎士の中にも稀に何も感じない素質があるのもいるが、大抵の奴は最初の殺人を覚えているよ。そして最初は、躊躇したとも」
「だんだんと慣れるものでもあるし、最初が戦場でという者も多い。だが……それでも最初が戦場というのも勇者殿なら危うくて困る。躊躇った結果、自分や周りに被害が出ることもある。だから先に段階を踏んで経験させなければ……とも思うんだがなぁ……」
たしかに、とも僕も思う。実際の最初は違うが、それでも僕が意思を持って初めて人を殺したクラリセンでの一幕は、思い出そうと思えば今でも拳に感触が残っている。
テレーズが大きな溜息をついて、机に両手をかけて下を向く。
「やはりどうも気に入らん」
「…………」
「平和な国で、人を手にかける必要もなく勇者は暮らしていた。そんな世の中を私たちは目指すべきで、そんな人間を戦場に出さないために私たちがいるんじゃないだろうか」
「お前が愚痴を言ってもどうにもなるまい」
「そうなんだが。今更になって後悔しているよ。勇者召喚にもっと真剣に反対しなかったことを」
はー、とまた大きな溜息をついて、垂れた長い髪を揺らす。
まあ彼女が愚痴を言ったり反対したところで、やはり何も変わらないと僕も思う。レイトンやカンパネラの言葉通りいつかは勇者は召喚されていたのだろうし、彼女の言葉は政治的な力は一切持たないだろう。
「……カラス殿」
テレーズから視線を外し、クロードが僕に呼びかけてくる。腕を組んだまま、何となく偉そうに。彼も鼻から溜息を漏らしていたが。
「おそらく四日後。死刑囚が一人使われ、そんな儀式が行われる予定だ」
「そんなに早くですか」
「俺としては遅い。出来れば遠征中にまとめて済ませた方がいいくらいに思ってる」
「勢いでってことかい?」
ティリーの合いの手に、クロードが小さく頷く。
たしかに、勢いで済ませて……済ませられるものだろうか?
「本当なら……お前に、勇者殿から話を聞いてやってくれと頼むところなんだが」
「励ませ、とでも」
獣を殺し、人を殺してショックを受けているであろう勇者。彼を励ませ、というのは本来なら僕の仕事でもないんだけど。
そして本当なら、ということは僕になにもしなくていいと言っている。多分、何もしなくて良くはないんだろうが。
「それでいいと俺は思ってる。だが、……そうは思わない人間もいる」
クロードが腕をとき、手を組んで肘を机に乗せる。
「勇者がこの城から出てしばらく留守をし、そしてすぐさま傷心の渦中に落ちる絶好の機会だ。おそらくミルラ様はやる」
「……何をすると?」
「お前の主、ルル・ザブロックが部屋から出てこない原因。その排除」
僕とティリーは視線を見合わせる。ネッサローズ侯爵家。よく知らないが、彼女のことを?
「実は前々から準備があったんだ。そして絶好の機会である今だからこそ……」
言葉を途切れさせて、クロードが部屋の外を見る。
それと同時に、近づいてきていた誰かが扉をノックしノブに手をかけた。
「そらきた」
クロードが苦笑いをしながら僕とテレーズを見る。またここに加わろうとしているその誰かの正体が、既にわかっているようで。
まだわかっていない様子のテレーズから視線を外し、僕を見てからクロードは顔を下へ向けて一声「入れ」とかけた。
「失礼致します。クロード様……と……」
返事を待っていなかったようなタイミングで扉を開けた女性。知っている顔だ。ミルラ王女の侍女、アミネー。
彼女は部屋にいた僕たちをじとっと見回し、小さく咳払いをする。
「失礼致しました。改めて、クロード様。ミルラ様が例の件で、とお呼びです」
「了解した。後ほど」
「出来れば急いでお願い致します。ミルラ様もご多忙のこと」
クロードは乾いた笑い声を発しながら、先ほどテレーズから受け取った書類へサインをする。そして壁に目をやり、おそらく関連する書類を探し始めた。
「申し訳ないが、こちらも暇というわけではない。すぐに済む」
「……では、外でお待ちしております」
「ああ」
やれやれ、と疲れた溜息を発しながら立ち上がり、クロードが壁に歩み寄る。
そして荒く閉じられた分厚い紙の束の中から一束を引きずり出し、これは違った、と棚に戻した。
そんな仕草の最中も、外へ待つと言ったアミネーが出ていかない。
彼女は僕をじっと見て、何かを悩むように視線を泳がせていた。
「はっきり言いまして、これは私の独断ですが」
アミネーの言葉に視線が集まり、彼女自身は僕を見ながら口を開く。
「カラス様も、ご一緒にどうぞ。貴方の主に関わることですので」
「……後ほど、ミルラ様からお嬢様にご連絡等ある予定では?」
「いいえ。おそらくは『その時』までございません。しかし、事前に貴方から伝えていただく方がよろしいと思います」
「それも貴方の独断で?」
「その通りです。ですがこれは貴方のためにも、よろしくお願いします」
僕とティリーは顔を見合わせる。
そしてティリーが自分も行くと言いだし、アミネーもそれを了承して話は終わった。
「来ましたか」
ミルラ王女が待っていたのは、王家が生活する区域の一番手前辺り。応接室といってもいい調度品が並ぶ部屋で、ルルの部屋よりも豪華だと思った勇者の部屋よりも、更に豪華な一室だった。
手をそっとつけて感触を確かめれば、壁は分厚い。漆喰の奥、木の支柱以外にも石やわざとだろう細かい空気の層を挟んだ壁。壁には及ばぬものの、同じく分厚い扉まで含めて、防音性はしっかりとしている。
おそらくここで常人が叫び声を上げても廊下の外まではほとんど響かないだろう。まさに、内緒話にうってつけの部屋だった。
ティリーの侍女は百合の花束を抱えたままではまずいと、彼女たちの部屋へと戻っていった。一度置いてから再度ここに合流するらしい。
ここといっても、女性王族の生活区域に入る廊下、女性聖騎士が二人警備している廊下の入り口で待っているそうだが。仕事中の彼らとのにらめっこはちょっと辛そうだと思う。
待っていたミルラは部屋に入ったクロードを微笑みで迎えたが、続いた僕らを見て顔を顰めた。わかってたことだけど。
「……貴方たちは呼んでおりませんが?」
「姫様、勝手ながら、私がお呼びしました」
助けを求めることも必要なかったらしい。ミルラの言葉に続いて、アミネーが応える。ありがたい、が、やはり招かれざる客という感は否めない。
ミルラの方はアミネーに応えずにじっと僕を見ていた。張り詰めたような表情に、……しばらくの後、苦笑のような微笑みが入った。
「まあいいでしょう。貴方にもどうせ伝わる話。その前に少々お話をしておきたかった」
そしてそのまま、ティリーへと顔だけ向ける。
「クロックス様も、ようこそおいでくださいました」
「押しかけたようで申し訳ありませんねぇ」
またも、ティリーはテレーズへとしたような丁寧な礼を行う。もっとも先ほどよりも、笑顔に違うものが混じっていると感じたが。
ミルラがクロードに対し、席を指し示す。座れということだろう。
もちろん僕に対してはその合図はない。元々座る気もないが、ティリーもいいのだろうか。
僕らから正面に見える背もたれ付きの長いすに、まるで玉座にでも腰掛けるように悠々とミルラは座る。そして彼女の真正面に座ったクロードに向けて、やや前屈みになり口を開いた。
「クロード卿、それで、例の件は?」
「一応裏は取れております」
「なら結構。察しが付いていると思いますが、……明日、決行します」
またしても、話としては蚊帳の外の感じがする。
クロードとテレーズが会話していたときと同様、二人だけでわかる単語で会話し、そして僕とティリーはまた一瞬視線を合わせて互いに『わからない』とだけ伝え合った。
ミルラが視線を僕へと向けて、柔和ではない笑みを浮かべた。
「喜びなさい。貴方の主に悪意を向けた痴れ者は、明日を最後にこの城を去ります」
「…………」
ありがとう、とでも返せばいいのだろうか。そもそも喜んでいいのだろうか。いや、悪評を立てた女性がこの城を出ていくというのは、もちろんいいことなのだろうけれども。
僕は一瞬戸惑い無言で頭を軽く下げる。無礼というか礼儀知らずの行動だが、余計なことを言うよりはマシだろう、と自己弁護しながら。
僕の反応を不満に思ったのだろうか。わずかに腰を前にずらして、ミルラがこちらへとほんの少しだけにじり寄った。
「……ときに、貴方は最近とみに薬売りの真似事をしているとか?」
「…………」
僕は一瞬だけ、睨み付けそうになって慌てて堪えた。
僕を挑発でもしているのだろうか。その一連の仕草と言葉の中で、いくつもいくつも僕の神経を逆撫でするような。忘れているはずがないのに。その行動が、彼女の行動によるものだと。
深呼吸は出来ないまでも、そんなような心持ちで僕は落ち着こうと試みる。そんな僕の様子を嘲笑うように、ミルラは続けた。
「手や肌に塗り込む軟膏に、紅なんかも」
「……ありがたいことに好評を頂いております。やはり皆様、美容には敏感なご様子で」
「そう。嫌みかしら」
「とんでもない」
そもそも僕は嫌みとして口に出したわけではない。だが、仮にそうだとすれば、どちらが始めたというのだろう。
出来るだけ敵意や苛立ちを込めないようにしながらミルラを見返せば、彼女はフンと鼻を鳴らした。
「原因だった私の浅知恵は謝罪致しましょう。全ては貴方たちを見誤っていた私が悪い」
「……どういうことでしょうか」
「貴方たちは頑なで、いつも私たちの慮外の行動をする。もはや、貴方たちへ期待はしないことにしましたの」
貴方たち、というのは僕以外の誰だろうか。……といっても、おそらくはルルのことだろう。僕はまだしも、ルルは彼女に逆らったことなどないはずだが。
ミルラは人差し指を立てて天井へ向けて、言い含めるように改めてゆっくりと口を開く。
「命令も、駆け引きも、もう面倒です。だから、取引。それなら貴方やルル・ザブロックにもわかりやすいでしょう?」
「…………」
「ルル・ザブロックの目下の敵、ヴィンキー・ネッサローズは退去させます。本当なら、その後に報せに向かうつもりだったのですけれど」
「……取引、というのは」
取引を提示。なら、ミルラの提示した取引条件はそれ。ならば、こちらが提示するものは?
僕の中にいくらか候補が浮かぶ。だがその中に、まずはそれだろう、という一つの選択肢がある。
「第一に、ルル・ザブロックの蟄居を解かせなさい」
まあ、やはり、という感覚。順当なところだと僕も思う。
僕は軽く頷きながら、それでもミルラから視線を外さなかった。
「残念ながら私がルル様の行動をどうこうすることは出来かねます。しかし、……そうなれば、大手を振って部屋の外を歩くことは出来るでしょう」
「第二に」
僕の言葉には反応を示さず、ミルラは指を二本立てる。
何故だろう。その仕草にではない。その言動、そして不敵な表情の中に、何故だか焦りのような不自然さが見える気がした。
「その後。勇者様にはこれから心労がかかる出来事があるでしょう。そこで、ルル・ザブロックを勇者様に接近させます。貴方はそれを邪魔しないでくださいな」
「曖昧な約束は出来かねます」
「ならもう少し直接的に言いましょうか。弱った殿方に優しく声をかけて寄り添う女性。そんな庶民の恋物語を、ルル・ザブロックには体験させて差し上げます。貴方はその登場人物ではない」
「ルル様も、勇者も、役者扱いですか」
僕は思わず呟いてしまう。この王女は、彼らを何だと思っているのだろう。ルルも勇者も、この王城で悩んで苦しんでいる人間だというのに。
「寛大な私は、今の言葉は聞かなかったことにして差し上げましょう。口答え出来る身分でもないお前が」
「…………」
何となく感じた尊大さが、目の前の姿に膨れあがっていく。
「ルル・ザブロックには後ほど、細かい指示を出します。全ては事が終わってから」
言いたいことを言い終わったのだろう。ミルラがまた、背もたれに深く体を預けた。
「どうやって追い出すつもりなんです?」
目眩がしてきた気すらする。そんな中、ティリーが疑問を発する。それにはクロードも顔を後ろに回すようにして視線を向けた。
「まだ詳細は詰めておりませんが、明日、本人に姫様が話をしてくださる。俺たちが少し調べた情報を以て」
「これは驚きましたなぁ。最近の聖騎士様は諜報活動までなさる」
はへー、とあまり表情を変えずにティリーが感嘆の息を吐く。もちろん誉められているにも関わらず、クロードは苦笑いで応えたが。
「で、どのような?」
「数日に一度、ネッサローズ様は侍女も使用人もいない中で、他家の殿方とお会いなさるんですのよ」
そして、問いにはミルラが答えた。
「まだ未婚、なのに複数の男性と性的接触を持っている女性を、勇者様のお相手候補としてここに置いておくなど出来ませんからね」
「それは何か根拠が? 二人だけで会っているといっても、中で札遊びでも興じているのかもしれない」
「侍女にも確認済みですわ。それに……そんな言い訳が通用しないことくらい、貴方もご存じではなくて?」
「確かに、確かに」
参った、とばかりにティリーが両手を軽く胸の前まで挙げる。
「しかし、この件はどなたかに相談されたのですか?」
「いいえ?」
不敵に笑っていたミルラが、ティリーの言葉に唇をわずかに尖らせる。癇に障った、とでも言いたげに。
「上手くいくとよろしいですなぁ」
「何が仰りたいのですか?」
「何も。一切、何も」
にやー、とティリーが笑う。僕はその口元ばかりに注目していたが、ミルラの前では目は笑ってない、ということに今更ながらに気が付いた。
「でも、そうですなぁ。カラス君は立場上口に出来ないと思いますので、代わりに私が口に出します」
「…………」
「取引、というのは間違いだと思いますよ。取引というのは、互いに損をするか、互いに得をするべく行うもの。仮に先ほどの条件を二つとも飲んだとして、カラス君には何も利益がないのでは」
言い切ったティリー。その顔を、ミルラが強く睨み付けた。
「私は先ほど個人的に、カラス君の味方をすると決めていましてねぇ。正直、黙っていられませんでしたね、はい」
ティリーがこちらをちらりと見てウィンクをする。
正直、多分ミルラ以上に僕が驚いている。洗浄液を渡した、銀貨一枚分にも満たないであろう、あれだけでか。
ミルラは一度明後日の方向を向き、短く息を吐く。それから表情から険をとり、それでも冷たい顔でティリーを見る。
「……貴方がたがどんな関係かは知りませんが……」
そして言葉を切り、机を一度引っ掻いた。
ガリッという音が響き、机の木ではなく爪が割れた音が僕の耳に届いた。
「貴方も、蛮勇ですね。それとも、クロックス卿にでも泣きつけばどうとでもなると考えておられるのでしょうか」
「おや、貶されているのでしょうか?」
ティリーが泣きぼくろを掻く。怒っている風でもなく。
「そうやって我が儘を通している、と評判ですよ。親の権力に頼るのは、ほどほどに」
「その言葉、ミルラ王女様がそうしないと断言出来るのであれば、甘受致しましょう」
二人が見つめ合い、そして同時にフフ、と笑う。
和やかで温かい雰囲気、というものではない。むしろ逆で、僕ですら感じられる寒々しい空気が、両者に挟まれているクロードを中心に流れた気がした。
「……本当」
そしてミルラの視線がこちらを向くと、それがより一層強く感じられた気がした。
「よい味方ですこと。見目麗しいというのは得ですね?」
「どういう意味か、わかりかねます」
というよりも、嫌みの類いだろう。一瞬意味を解すことが出来なくて良かった、と思うべきだろうと思う。深くは考えないでおきたい。
それに、何となく馬鹿にされている気がする。僕ではなく、ティリーが。
「本当、占いなんて信じるものではないわ」
ミルラがまた、誰に聞かせるわけでもないように口の中だけで呟く。
聞こえたのは僕とクロードくらいだろうか。クロードは、何のことかもわからなかったようだが。
だが、僕は何となくその単語に思い至った。
『占い』。それは、僕の知っている女性が職業的に扱っていたもので……。
「もういいでしょう。アミネー、お二人はお帰りですわ。案内して差し上げて」
クロードに忠告しておくべきだろうか。
プリシラが、ミルラに何かを喋った。
その事実を悟った僕は、ミルラの行動に一抹の不安を覚え、今後のことに関して頭を巡らせることしか出来なかった。