花の声
アネットやその他への親切を始めて二日後。彼らからの注文も少しだけこなれてきた頃、僕は一つ忘れていたことを思い出して、廊下を歩いていた。
一番忘れてはいけないことを忘れていたのだ。
手指用の軟膏、作ってからまず渡さなければいけなかった人間が一人いることを。
といっても、いつどこにいるかわからない男だ。
そもそも本来は気軽に会えるような人物でもないため、まず適当な聖騎士を捕まえてその辺りを聞いてみなければいけない。
いやそもそも、警備中の聖騎士は仕事中で、私用で話しかけるのも憚られるし、聖騎士自体身分の高さ故に本来僕からは話しかけられないのだが。
せめてジグとかその辺りならまだもうちょっと気軽でいいんだろうか。
それもきっと本当は駄目なんだろう。
そんな悩みを抱えながらも、警備中だった聖騎士に尋ねてみると『多分この辺』という程度には教えてくれた。
話は出来るし普通に教えてくれる。だが一応態度が軟化した今、僕と彼らの立場や地位の差を、逆に改めて感じていた。
「こんにちはー」
「お疲れ様です」
荷物を抱えた名前も知らない下女までもが、すれ違うときに僕に声をかけてくる。
アネットに渡した薬類は、周囲からの嫉妬を避けたい彼女に順調に横流しされているようで、また僕の知名度が上がっているのが何となくわかる。
まあ、これはレイトンが無理矢理上げたものではなく、僕が選んだことだ。これに関しては誰にも文句は言えまい。
絨毯が途切れる渡り廊下のような場所。
その両脇にある中庭は、昼の強い日光に照らされた花で溢れ、僕とは正反対に光り輝いて見えた。
「やぁカラス君といったね。おはよう」
その花、地植えだが、花壇のように列を成して植えられている白い花。その花の前に蹲るようにして女性が一人、その横には侍女であろう女性が一人佇む。
僕に声をかけてきたのは蹲っていた方。今日は濃い臙脂の細身のドレスを身につけて、前と同じく小さな帽子を団子に被せて、ティリー・クロックスがそこにいた。
しゃがんだまま、全く何の動作も伴わずに顔と視線だけがこちらを向いていた。
「……おはようございます?」
「お嬢様、もう昼ですので……」
「いいじゃないか。私はさっき起きたんだから」
時間に合わない挨拶にどう応えればいいかと悩みながら僕が言うと、侍女もほんの小さな小声でそうティリーに囁きかけていた。もちろんというか、ティリーは取り合わないようだったが。
顔だけで後ろに振り返るようにして、ティリーは僕へとまた視線を向ける。
「ルル様は元気かい? はは、といっても、事情は知ってるからわかるよ。元気だよね」
「ええ。おかげさまで」
「おかげさまもなにもないよ」
足首が完全に出るくらいのやや短い丈のスカートはそのためだろうか。しゃがみ込んでいる彼女のスカートの裾は地面に引きずられておらず綺麗なまま……だったが、それと対照的に汚れているものがあった。
手袋もない彼女の指先。湿った黒い土と乾いた灰色に近くなった土。それらが手を汚し、爪の間まで真っ黒に見える。
「……何をなさっておいででしょうか?」
「ん? ああ。今日は幸運なことに、この花を分けてもらえることになってね」
この花というのは、目の前にある白い百合の花だろう。
「庭師曰く、昼過ぎには植え替えるべく掘ってしまうから、それまでにほしい分は確保しておいてくれと」
はっはっは、とティリーが笑う。
なるほど。たしかによく見れば、いくつかの花が既に抜かれている。抜かれているというか掘り起こされており、ティリーの横に球根とそれにくっついた花が横たわっていた。
しかし、だったら……。
「何か掘るものとか用意なさった方がよろしかったのでは?」
「掘るもの? 道具のことかい?」
「ええ。円匙とか、何か借りても……」
僕が何となくそう申し出ると、またティリーは口を開けて笑った。
「はははっ。いやまったく、なるほどなるほど。薬師としてはなかなかの腕なのだと思ったけども、植物のことにはあまり詳しくないのだね、君」
「……まあ、薬に使えそうなものではないですし……」
名前もうろ覚えだったが、たしかこの花は玉百合といったか。春から初夏にかけて花を咲かせる早生の種。開ききらずに丸みを帯びたままの花を観賞用にするという。
ひとまず僕の知識の中には、この花を生薬に使うレシピはない。他の種類の百合根を使うことはあるのでこれも何かしらの薬効があったりするのかもしれないし、僕が知らないだけで使い道が確立されていてもおかしくないが、とりあえず僕には。
「この玉百合は、とても植え替えに弱い種なんだよ」
言いながらティリーはしゃがんだままこちらへ方向転換し、先ほど抜いてあった百合の花を、根の部分を見せるように示した。
「知識がないものならば、植え替えるのも難しいんじゃないかなぁ。この球根から伸びる根、これを切ってしまうと、途端に弱っていってしまうんだ」
「はあ……」
受け取って球根部分を撫でると、髭のような上根も下根も綺麗に残っている。引き抜いたときにどうしても切れてしまうような細いものまで、丁寧に残してあるように見える。
そこまで過敏になるほど、とは僕は知らなかったが。
「当然、円匙なんかを使えばざくざくと切れてしまうかもしれないからね。ざくざく切っても問題ないまるでネッサローズの某のような束喧嘩百合というのもあるんだが。あれはあれで綺麗だよ、ネッサローズとは違って。切ったら切った分だけ生えてきて、混ぜて植えれば絡み合って成長して一本の太い百合のように鈴なりに咲くんだ」
ティリーが掘り途中だった株に目を向ける。
「でも、この子たちは違う」
そこでは……なんというか、自然薯でも掘るような丁寧さで土が除けられ百合の根が露出していた。
土で汚れた手をそこにつっこみ、また指先でティリーは丁寧に土を掻いていった。
「業者すらそれを知らないこともあって、球根と茎の部分だけを残して売ってることもあるのだが……、あれはけしからん、まったくもってけしからん。植えても半分以上は生えてこないそれを、知らずに買うのは初心者なんだからね」
何かに気が付いたように少し手を止めると今度は土の方が動く。
湿った土。その中から、わずかに濡れたように光るピンク色の何かが顔を見せた。ピンクと緑の混ざったような細長い体……いや、普通にミミズなのだが。ティリーはそれを、「悪いね」とだけ言って摘まんで少し離れたところへ放っていた。
「そして何より、考えてもみたまえ。彼らはその根から栄養を取るんだ。彼らの根は、人間でいえば口や喉の辺りだろう?」
「もっといえば消化管、ですかね」
「まあその辺りは興味もないけども。しかし人間でいえば喉や口。人間の姿で想像してみたまえ。そこをざくざく切ってしまってから、『さあ別のところで働いてくれたまえ』と言える奴は鬼畜だと私は思うね」
「極論とは思いますが、同意します」
そうしても大丈夫な種もいることだし、場合にもよるだろう。この機会、この花に限ってのことならば同意するが。
それでもやはり極端な話だと思う。というか、人間で考えるようなこと……ではあるのだろうか?
僕は話を変えるように、周囲を見渡す。一列植えられたこの白い花、まだまだ元気そうだが。
「しかし、これだけまだ綺麗に咲いているのに、植え替えてしまうんですか?」
「あぁ、時期的にもうすぐ枯れるからねぇ。ここは王城、なら一時でも枯れてしまった花を置いておきたくないだろう?」
「ならティリー様が植え替えても、すぐに枯れてしまうのでは……」
「枯れた茎を切って水をやっておけば、来年にはまた咲いてくれるんだよ。この子たちは根がなくなると弱いと言ったけれど、根さえ生きていればまた綺麗に咲いてくれる」
「そういうものなんですね」
はあ、と僕が納得すると、つつ、と斜め後ろにいた侍女が僕へと近寄ってくる。
そして顔の前にまで垂らした長い前髪を押しのけつつ、耳打ちするように顔を近付け、口元に手を添えたまま囁くように言った。
「ちなみに、お嬢様は簡単に仰っておりますが、きちんとした手当が必要です」
「ジェシー、言いたいことがあるならいつものように普通に喋りたまえ」
「は、恥ずかしくて……」
「なんだね、君はいったい」
溜息をついて、ティリーはそれ以上何も言わず、また根を掘る作業へ戻っていった。
「まぁ、ジェシーの言ったことも間違いじゃあない。『これ』というものはなくて経験にもよるけれども、彼らのそれぞれの言い分を聞いて、良い環境をつくってあげる必要がある」
「日当たりとか、水とか……ですか?」
「そうだねぇ。水が冷たかったりしても文句言う子もいるし、日が当たらないほうがいいと言うひねくれ者もたまにはいる。他にも風当たりや土の栄養もね。人間相手と一緒、その辺は本当、経験さ」
二匹目のミミズを放り投げ、丁寧に掻き出した根っこを切らないように株をそっと取り出す。
まるで普通に植えられているような姿をそのまま横倒しにしたような姿で、既に並べられている先輩たちの横に新たな百合が列した。
「もし興味があるのなら、来年の春に私の家に来たまえ。そのときには立派にまた花を咲かせたこの子たちを見せてあげよう」
「……機会があれば、よろしくお願いします」
僕はその言葉に一瞬頷けず、それでも条件をつけて頷く。
機会があったらいいかもしれない。機会があれば。そしてその家が、物理的に残っていれば。
都合六本。
侍女が畳紙のようなものに丁寧に包んで抱えて持つ。手にくっつきながら、乾き始めた土を払いながらそれを見つめていたティリーは、「そうだ」と声を上げた。
「呼び止めてしまったが、君は何か用事でもなかったのかな? 言ってしまえば、暇だったのかな?」
「暇ではない、というわけではありませんが、用事の最中ですね。少し悩んでいますが」
「悩み?」
「聖騎士の詰め所などにいきなり押しかけて良いものかと……」
ははと笑みを作りながら、僕はそうぼやくように口にする。
「聖騎士たちに用事があるなら、その辺歩いているだろう?」
ティリーは庭師が使っていたのだろう水桶から柄杓で水を汲み、手を濯ぐ。綺麗になったとは言いづらいが、泥汚れはほとんどそれで落ちたらしい。
「クロード・ベルレアン団長にお会いしたいんですよ。渡したいものがありまして」
「何か贈り物かね?」
「いいえ。ティリー様たちにもお配りした手指用の軟膏なんですが。……そうですね、クロード団長から、贈り物になる予定です」
「ほぅ?」
これを? と侍女からまさにその軟膏の瓶を受け取ったティリーが首を傾げる。
使おうというのだろうか。ならば、その前にもう少し汚れを落としたほうがいいと思う。
僕はそれを手の仕草で止めて、クロードに渡そうと思っていたもう一つの瓶を懐から取り出す。予備をつくっておいてよかった。
「先にこちらを塗ってからもう一度手をお濯ぎください。泥汚れが残っていると少し汚らしいというか、……言葉を間違えました。手触りが変わってしまうので」
ティリーに渡すと、興味深げにしげしげと眺める。瓶は振ると泡立ってしまうのであまり振らないでほしいが。
「ほうほう。また新しい……油?」
「油みたいなものです。汚れを落とす洗浄液ですが」
テレーズが不潔というわけではないが、仮にその場で手に塗って試すとしたら、その前に使ってほしいと思って準備したもの。粘度も低く匂いもないが、液体石鹸みたいなものだ。
言われたとおり、ティリーが手にそれをつけて伸ばす。既に泥はほとんど落ちていたが、それでも手にまとわりついた小さな泡が茶色く染まっていた。
「……これ、花たちに影響はないのかな?」
「ほとんどない、というところでしょうか。地面に触れて毒を帯びさせるとかそういうことはないですが、離れたところで洗ったほうがいいかと思います」
それも念のためだ。これだけを使って花を育てるとかそういうことをしない限り大丈夫だと思う。
「そうすることにしよう」
ティリーは廊下に面したところの低い壁際で、泡を水で濯ぎ落とす。何度か握りしめて、その手に残った感触を確かめるようにしていた。
「いやはや、何でも出てくるね、君は」
「これも今回クロード団長に渡そうと思っていたものです」
「これ私がこのままもらっちゃ駄目かね。いつもは部屋に戻った後に何度か油や灰汁なんかで洗って済ませるんだが、何せ……」
言葉を切ったティリーは、親指を立てて侍女を示す。
「それまでによく怒られるんだよ。家財に泥がつくってさ」
「別に構いませんが」
使えても数回だが、まあいいだろう。そして、この後もう少し大量に届ければいい。
「ありがたい。感謝感謝」
抑揚なくそう言って、ティリーはその石鹸液を侍女にまた手渡す。侍女は抱えた百合の花を一旦どうしていいかわからずアタフタし、とりあえず片手に持って受け取り腰の隠しに入れる。
ティリーが今度は懐からハンカチを取り出し、適当に手を拭う。タオル地のような荒い布で、ハンカチというよりも手拭いに見えた。
「それにしても君からもらったこの軟膏はいいね。こんなのに興味がなかった私でも使って衝撃を受けるんだ。気にしているルネスのような奴には相当効くだろう」
今度は僕の渡した軟膏、それを豆粒のような少量指先に取り、手全体に伸ばしていく。
「傷だらけだった私の手も、これこの通りさ」
塗り終わった手を僕に見せるように差し出す。その掌を見れば、確かに効果はあったようで……いや、元をよく見てないから効果などわからないが。それでも、悪くはなっていないらしい
「喜んでいただけたら」
「でも」
話が終わりそう。
そう思ったのだが、ティリーが小さく首を振りながら差しだした手を開閉させる。
この感じ。なんだろう、問題でもあったか。
僕は怪訝な目を向けて、言葉の続きを待つ。
「一つ惜しいかなぁ……ってところがあるよねぇ。わかるかい?」
「……いいえ?」
「なら、もう少し近くに寄って」
アネットたちにも、古くはムジカルの娼館でも好評だったこの薬。どこか至らないところがあっただろうか。
僕は一度首を傾げてから、一歩ティリーに歩み寄る。
「誤解しないでほしいけど、文句じゃあない。私なりに、惜しいなぁってだけで」
「実際、わからないんですけど」
「この軟膏。匂いが寂しくないかい。馬油なんかと違って不自然なまでに脂臭さもないし、抜いているんだろうけどねぇ」
「ええ。あえて無臭にしていますが……」
この軟膏。グスタフさんのレシピだと若干の草の臭いが残る。やや青臭い、といってもいいけど、それが好ましいものだとは思えなかったのでサロメの協力で臭いを消したのだが。
「どうせなら、何かいい匂いでもつけられないだろうか。薔薇の香りや林檎の香り。香水なんかもあるけれど、そういう香りがしても素敵だと思うんだが?」
「それは考えましたが、やはり皆様香水などつけていらっしゃるので……」
「うん?」
実はそういうことは少し考えた。練り香水というのもあるし、そういう用途で使ってもいいのではないかと。
だが、僕の頭の中で構想を練っただけで、それは頓挫している。
「それ以外にも、皆様は既に香水や衣服を焚き染めた香などを纏っていらっしゃるので。いつもお使いになっているそういったものと干渉してしまっては、使いづらいのではないかと」
「……なるほど」
「精油などの入手も問題ですね。そこに精油などで匂いをつけるのなら、そのまま精油を塗った方が早いですし」
色々な液体を塗るよりも、一度で済む、というのは確かに利点だろう。そしてもちろん、手指用軟膏にそういう用途を持たせるのもありだとは思う。
だが、普遍的には使いづらいと僕は思う。店先に置いておいて選ばせたり、注文を受けて作るようなものとは違い、こちらから送りつけるこういった類いのものには。
僕が話し終えると、ティリーは口元に手を当てて悩むように黙る。
だが一瞬後のこと、「短慮だったね」と一言だけ呟いた。
「しかし君たちのためとはいえ、ここまで何か物をもらってしまうのも心苦しいねぇ。何かお礼が出来たらいいんだが」
「いいえ。こちらとしては、受け取っていただいて、形だけでも感謝していただければそれで目的は果たせておりますので」
あとは何かしらの問題が起きたときに、ルルの後ろ盾になってもらえれば結構だ。
「それはそうなのだろうが……まあ、君が困ったことがあっても何でも言いたまえ。個人的に力になるよ」
「私ではなく、その分もルル様にお願いします」
「はっはー、欲がないねぇ」
ティリーが楽しそうに笑う。そして、侍女に目配せし、歩き出した。
「……じゃあ、行こうか」
「どちらへ?」
僕が問いかけると、うっすらと笑いながら、表情を変えずにティリーはゆっくりと振り返る。
「おいおい。君の用事じゃあないか。クロード卿に贈り物をさせるんだろう?」
「そうですが」
「これは明らかに女性用の物だ、男に贈るとは考えにくい」
まあそうだけど。送り先は知っているし、むしろ僕が指定した。
「何する気です?」
「なら、その贈られるのが誰かか知りたい。あわよくば、からかってやりたい」
「やめてあげてください」
彼の方が立場が上なのに何を考えているんだろう。この人。
そんな僕の言葉に耳を貸した様子もなく、「まあまあ行こうじゃないか」とティリーは先陣を切って歩き出し、僕はそれを追いかけていった。