俺だけが
出ていない涙を拭うように手を顔に当てたまま下に下げて、ジグは天井を仰ぎ見る。
「今日俺に与えられた任務は、……無理だったようだ」
「任務ですか」
「ああ。団長がいらっしゃるまでテレーズ殿を起こしておくことだったが、……」
言葉とは裏腹に、何事かの仕事をやり遂げたような顔で、そう呟いた。
しかし、起こしておかなければいけないというのならば。
「起こしますか?」
毒の体の巡りを遅くする点穴はある。それと同様にというか逆にアルコールを体に早く巡らせて、酔いを早く覚ますようなものもある。一口飲んだだけで倒れるようならそこまで早く復活はしないだろうが、それなりに効果はあるはずだ。
だが、ジグは首を横に振る。
「寝かせておいてやってくれ。安らかに、お眠りになっているのだから……」
「死んでるみたいな言い方やめません?」
ジグも酔っ払っているのだろう。
先ほどから言葉がおかしい。丁寧ではあるが、何となくチョイスがおかしいというべきか。
それに僕は嫌だけど、テレーズの酒癖は、不快とはいえさすがに耐えられないほどではなかったと思う。僕は嫌だけど、ジグならばまだ耐えられたのではないだろうか。
クロードが来るまで起こしておく。テレーズは酒を飲んでいない以上、その任務は僕たちがわざと何かしなければ間違いなく達成出来たのではないだろうか。僕は嫌だけど。
先ほど持ってきた魚のフライを囓り、ジグが感慨深げに呟く。
「我慢、出来なかったんだ」
「…………」
そして出ていない涙を拭くように、また目の下を拭い、今度は本当に鼻水を啜り、また顔を手で覆った。
「下っ端だからと酷いとは思わないか? せめて、何人か参加させてくれればいいのに、俺だけにみんな押しつけて……」
「いや、それはわかりますが」
「なんで俺が……、俺だけがこんな……」
覆っているジグの手の下から、水が一滴滴り落ちていた。鼻水の可能性もあるが、これはそうではあるまい。
「任務というのは、クロード団長からのでしょうか」
「そうだ。……俺を選んだのは、……俺の隊の隊長……だがな……」
言葉から、怨嗟のようなものまで感じられる。大丈夫だろうか、その隊長、後で刺されないだろうか。
「俺ばかりだ。もう、俺ばっかり。なんだよもう……全部俺だよ……」
「それはまあ、お気の毒と言いますか……」
多分、『俺ばかり』の中にはその他の仕事のことも入っているのだろうと思う。
しかし酔っているからか、それとも最後に残った職業倫理か、具体的な事案はほぼないし、そもそもあまり共感の出来ないことなので情景が浮かばない。なんと言葉をかけていいかわからない。
しかしそれでも、愚痴への対応というのはどういうときでも同じだろう。……多分。
「クロード団長は、いつ頃いらっしゃるのでしょうか?」
「……少し遅れる、と言っていたからもう来るだろう……」
ふう、とまた深い溜息をついて、また机の上に置かれていた小樽を呷る。まだまだ吐きそうだった愚痴を飲み込むようにしながら。
「その間の時間つなぎに……今回は本当お前が来てくれて助かった。お前が来なかったら、俺とテレーズ団長二人きりだ」
「それはまあ、色々とありそうですけれども。しかしたしかにこれでは、他の方が来なかった理由も頷けますね」
気を大きくして大きな声で同じ話を繰り返しながら人に絡む。酒盛り中の行動としては、そう変わったものではない。
けれども、楽しい会の邪魔にはなるだろう。大人数に一人でも混ざっていれば、その周囲の人には特に。
「半分はな。だから、なんだが……」
ジグが、揚げられた魚を噛み砕く。音からすると、多分中にあって取り切られていなかった小骨ごと。
「団長が来られたら、俺たちは退散するぞ。お前もそれまでに食っておけ。いっぱい」
「……食事会じゃ?」
「食事会だ。団長とテレーズ殿二人のな」
言い切ってから、何となく楽しそうにジグが笑う。テレーズの微動だにしない頭頂部を見ながら。
「団長に急用が出来なければ、……どうなってたと思う?」
「テレーズ殿とクロード殿、それにジグ殿三人の食事会……。……でもないみたいですね」
僕の言葉にジグが頷く。そういえばここまでの話を統合するに、ジグも来る気はなかったというのだから、その場合はそうなるだろう。
「まったく、うちの団長も困る。せっかく俺たちが二人きりにさせてやろうとしてるのにな」
これまでの腹いせのように、ナゲットを二つ一気にジグは頬張る。
僕もそれに倣い、それでも先ほどと変わらず一つ口の中に放り込んだ。
「自然な流れとするなら、具合が悪くなったお前を、まだ元気な俺が介抱するべく帰るとしたほうがいいのか……?」
「私が調子悪くなるのは少し不自然ですけれども」
「文句言うのか貴さ…………」
口を開けた拍子に食べかけの肉片が飛び出そうになるのをジグが抑え、僕もそれを避けようとする。啜るようにその肉片を口の中に戻し、気を取り直して、と喉の奥に落としていた。
そこで何かの限界が来たのだろうか? ジグの言葉尻も少々怪しくなってきた。言葉の最後の母音が伸び、それに呂律も回っていないかのように。
「じゃあ何か、俺が具合悪くなったフリをしろというのか、俺が。お前も、俺にやれと」
「魔法使いが酒を飲んで酔うとお思いですか?」
「……酔わんのか?」
「ええ」
いや実際、意識的にどうにか酔おうとすれば出来なくもないのかもしれないが、やりたくないし。今後もやる気はないし。
それよりも、と僕は話題を操作するべく口を開く。
「……二人が恋仲だと?」
「恋仲ではない。その一歩……いや、二……三……ちょっと前だ」
「大分前じゃないですか」
「テレーズ殿からはわかりやすいもんだぞ。団長は鈍いからわからないだろうけどな!!」
ははは、と笑いながらまた口の中のものを酒で落とす。
「団長は気づかないし、テレーズ殿からは中々歩み寄れないでいるし、もう俺たちがやるしかないだろう!? そうだ、俺たちが……俺が……」
その笑い声がカラカラとした乾いたものになり、更には泣き笑いのようなものになっていく。その辺りの話題はジグには禁句らしい。少なくとも、自制心の薄れているこういう会の間は。
「ちり紙とかは持っていないので、自分でどうにかしてくださいね」
「悪い……本当に、悪い……」
鼻水まで溢れてきたようで、またジグが俯く。顔を上げたり俯いたり忙しいものだ。
「男女の仲なんて、周りからどうにかするものではないでしょうに」
「どうにかしないと……聖騎士なんてそんなもんだぞ……訓練訓練で、それにもともと実家が貴族なんてそうそういないんだから……」
「偉いんでしょう?」
「……爵位もあるからな……そりゃ偉い。そうだ、俺は偉いんだぞ。俺は偉いのに……何で……お前たちに……使われたんだ……」
恨みがましい目が、じろっと窺うように向けられる。その目はもはや胡乱で、泣いて腫らしているような目だったが、これは完全に酔っているのだろう。
警護の件ならば、正直あまりこちらに非はない。
「クロード団長の命令では」
「そうだ、団長の命でなければ、…………なのに、なんだあの女は……、自由になるのは食事の時だけで……」
訂正。非があった。三日間ほぼ休み無しで働かせるのはさすがに可哀想だとも思う。止める気はなかったけど。
「それはご迷惑をおかけしました」
「……ラルミナの令嬢のことに巻き込まれたときには、はっ倒そうかと思った……」
先ほどは言うべき言葉が見つからなかったが、今度は返す言葉が見つからない。
いやしかし、ディアーヌの成長のためにはそうしたほうがいいという言い分もあるし……というのは今この場で言っても無意味なことか。
「いいか、俺はな、俺は聖騎士で、騎士爵という地位を持っている……。だから、俺は、俺は……俺はな……」
僕の反応はもはや見えないようで、最後とばかりに小樽を一気に傾ける。そしてそれを勢いよく机に叩きつけてから、まるで勉強か何かに疲れて机に伏すように、体が前のめりになっていく。
「水天流だって皆伝してるんだ。だから俺は、……俺は、……」
「…………」
「……俺は、……いったい何なんだ……? …………」
そして、寝た。
テレーズが机に顔面をくっつけたまま寝息を立てているのとは違い、腕を伸ばして机に齧り付くようにしながら。
最後の方も何やらムニャムニャと言っていたようだが、そこまでは聞き取れなかった。
僕は自分の分の小樽を軽く傾けて、喉を湿らせながらそれを見下ろす。
ジグもそれなりにストレスが溜まっていたのだろう。それが酔って出た。そしてテレーズが寝るまでは何とか抑えていたが、テレーズが寝てしまってからは歯止めがきかなかったらしい。
まあ、飲み会とはそういうものだし、そういうのもいいと思う。あまり『良い酒』とはいえないが、そういう効能もあるものだろう。
大分テレーズに一気飲みで飲まされていたし、そういう意味ではテレーズの酔い方は明らかに悪いものだ。
しかし、……。
「どうしようこれ」
とりあえず、クロードが来るまで待っていればいいだろうか。
店員にナゲットの皿のお代わりを頼み、また僕は安らかに眠る二人の後頭部を見渡した。
飲み会は次回で終わり