方違え
今日からもう、城の食堂は使わない。
そう決めた僕は、サロメが寝静まり、オトフシと交代の時間が来ると同時に王城の外へと飛びだした。
もはや廊下で交わす挨拶なども何となく慣れて……もきていないのだけれども、それでもつつがなく王城の外へと出れば、夜の王都の元気な街が僕の前に立ち塞がっていた。
足を踏み入れれば、並ぶ松明は大きく眩しい。
昼は食堂も兼ねているのだろう酒場のような物件がぽつんぽつんとそこかしこに見えて、ほとんど全てのその奥からは、大きな陽気な笑い声が響く。
繁華街ということもあって人も多く、『夜の店』が立ち並ぶところでもないために子供たちも疎らにいる。店員として働く十代前半の子供が、酒を運んできらきらとした汗を流していた。
石畳を靴で叩きながら、僕はその店の前を横切っていく。
今日はどうしよう。この前の、登城前に食べ歩いた店のどれかでも構わないとは思っていた。しかしこの遅い時間は初めてだ。
時間的には食事よりも飲酒に重点を置き始めているのだろう。普通の料理を出す店などはまだあるだろうか。
歩いていれば、ちょくちょく食べ物の匂いも僕の鼻に届く。甘辛いもの、しょっぱいもの、と色々ありそうなものが。しかしどれも、濃い味のもの、と即座に断定出来るような種のものだった。
それと一緒に葡萄酒や麦酒の匂いや汗の臭いも届く。
視線を向ければ、濁ってはいるが、透き通った硝子窓。その向こう側で人々が蠢いている。きっとその向こうでは楽しく酒を飲み、その日の憂さを晴らしているのだろう。
……これは失敗だったか。下調べが足りない。
いわゆる『落ち着いた店』というか、普通の食堂はないものだろうか。
僕にはそういう習慣がないのでピンとは来ないが、酒の後はしょっぱい麺類が美味しいとどこかで聞いたことがある気がする。そういうものを出す食堂はこの時間にも開いていないのだろうか。
見回してもまあそういうものはない。
仮にそういう料理があるとしても、酒類の提供と排他的なものでもないし、酒場でつまみと同じように出されているのだろう。
そしていつも思うが、『楽しそうな酒場』というのはとても入りづらい。そこ特有の空気が出来上がっており、席が遠く無関係の人間同士でも、同じ秩序に支配されているような感覚がある。
もちろんこの国で多くを過ごしたときは僕はまだ酒を飲めるような年齢でもなかったので、そういう意味でも仲間はずれというか疎外感があったのだと思うけれど。
まあ失敗だった。
食堂の料理と同じようなものの気がするが、今夜は北の森で食事を済ませようか。
移動する獣や魚は置いておいて、果物の大体の分布などは昨日の夜で覚えている。食べられそうな果実も、たしか森に入ったすぐのところにもあった。
……舌が肥えてきたのも、戻さなければいけないし。
……。
…………。
酒というのは、人の気を大きくする。もちろんそういう者ばかりでもないが、中には日中は気弱なのに酒を飲むだけで短気で粗暴になる者もいるだろう。
今目の前にしている者らも、同様に。
「っぁ!!」
「だてめぇ!」
目の前で行われているのは、一対一の単純な殴り合いだ。
往来ですれ違うときに、肩が触れるとかしたのだろうか。共に三十過ぎくらいの男性。痩せてもいないが、太ってもいない中年とも若年とも言い難い者たちが喧嘩をしていた。
いや、彼らが酒を飲んだせいで短気になっているのとかそういうことはわからない。けれども、確実に酒気は帯びている。
酒気を帯びて、動きに精彩がない状態での殴り合い。
拳は握られているが、締まらずなんというか、ふにゃりとしている。蹴りは使われず、そして急所すら狙われず二人ともが頬や胸を拳で叩き合っている。
遠巻きに見ている人々が、口々に『もっとやれ』というような事を喚いている。こんな、口の中を切るくらいが精々の殴り合いを。
楽しいのだろうか、これが。
何故だろう。そんな姿を見て僕は、のどかだな、と思う。
酔った人々が見物し、楽しみ、楽しめない人は眉を顰めて通り過ぎている。周囲に動揺しているような人は見えない。この程度、きっと王都の住人にとっては日常の風景に花を添える程度の出来事なのだろう。
貧民街とは違う。あそこであれば結果はすぐに凄惨なことになるし、そして周囲の人間にとっても、敗残者の持ち物の取り合いという二回戦が必ず起こり、その日を食い繋ぐためのチャンスとなるために、もっと周囲の視線は厳しくなる。
目の前の喧嘩は、握られた拳に殺意どころか敵意すら込められていない。
効果音をつけるならば『ぽかぽか』といったところで、そして当たりどころが悪くても結末はどちらかの気絶程度。そして勝った方は捨て台詞を残すくらいで、何も取らずに機嫌良く帰るということになると僕は感じた。
怪我をさせたければもっと力を込めればいいのに。拳が当たったところで反射的に引いてしまっていて、最後の押しが足りない。
それに、急所を狙えばすぐに仕留められる。素人ならば、手を広げて叩くように目を叩く程度でも有効な目潰しになる。
髪の毛や耳を掴めば相手の動きを封じられる。組み付いて転がして、馬乗りになれば殴り放題なのに。
どれも、今は知らないが、ハイロやリコでも出来たことなのに。
……もちろん、彼らが今それを出来ないことも知っている。
そして今目の前で喧嘩をしている二人も、それを躊躇するからこそ街にいることが出来て、どちらもそういうことに躊躇出来るからこそ、周囲も楽しんで見られているのだろう。
だから、のどかなのだ。
見ていても、僕にはつまらない出来事だ。
塞がれている道を避けるようにして、僕は道を変える。そもそも屋根の上でも走っていこうか。人間用の道を使わなければいけないわけではない。
「……くだらないな」
踵を返した直後。
囃し立てるような言葉の雨の中、そんな小さな呟きが僕の耳に届く。
やけにしっかりと聞こえたその声は僕に聞こえるように発せられたわけでもないだろうが、それでもその周囲にもはっきりと聞こえたのだろう。その女性の周辺の数人が、威圧され驚いたように押し黙った。
声の主が、一歩踏み出す。その周辺の人混みが割れるように隙間を作った。
未だそれに気が付かない渦中の二人はまだ互いの肉を叩き、威嚇するように声だけは威勢よく発していた。
歩み寄っていった女性。その長身が気配なく二人の首元を両手でそれぞれ掴み振ると、まるでタオルが舞うように綺麗に二人の男性が宙を舞った。
「っぇ!?」
一回転して背中から地面に落とされ、揃ったようにほぼ同じタイミングで同じような呻き声を発する男性たち。息が出来ないのだろう苦しみと、それに突然景色が変わった驚きに目を丸くして、その投げ飛ばした女性を見る。
そんな男性たちを見て、女性が口を開く。
「なんだその体たらくは!」
だが、その口から出た言葉は皆の予想とは少しずれていた気がする。
「見苦しい!! 喧嘩するなら喧嘩する! やめるならやめる!! もっと本気でやれ馬鹿者どもが!!」
「は?」
そしてそう、第七位聖騎士団長、テレーズ・タレーランの発した言葉に男の一人が困惑の声を発し、そして観衆の心の声もそれに揃ったように僕には感じられた。
「それでは失礼します」
「ああ、よろしく頼むぞ」
結局、男たち二人は誰かが呼んだ衛兵たちに連行されていった。別に罪を犯したわけでもないとは思うので、酔いが覚めたら説教の後に解放される程度で済むのだろうが。
衛兵たちは最初テレーズも連行しようとしていたが、テレーズが徽章のようなもので身分を示すと身を正して協力の礼を述べていた。
衛兵たちが来た辺りで、観客たちは散っていった。
もう終わりか、と残念そうに唇を尖らせる者たちもそこそこいたが、テレーズが一睨みするとそれらも黙って帰っていったようだった。
凜々しい雰囲気はそのままに、今はプライベートなのかセーターのような服にジーンズ生地のような密度の高いズボンを履いている。大分ラフな格好だ。
仕事から離れてまで、それでも仕事らしきものをしているというのはきっと美徳なのだろう。僕にはあまり理解出来ない。
もともと見物する気もなかったが、つい足を止めてしまった。
早々に立ち去ろう。
僕は、屋根に上がるための目立たない場所を探し始める。この場で透明化してもいいが、さすがにこの場所で誰の視界にも入らずに姿を消すことは僕には不可能だ。
適当な路地に目をつけ、僕は足を向ける。そして一歩踏み出し、歩き出そうとしていた。
「おお、そこに見えるのは……もしや、探索者のカラス殿じゃないか!?」
まるで知り合いに声をかけるように、テレーズが手を振りながら陽気に声をかけてくるまでは。
知らないフリはさすがに出来ない。
僕は足を止めて、そちらを振り返り頭を軽く下げる。そして向こうが歩み寄ってくるのに合わせて、一歩踏みこんでから足を揃えた。
胸に手を当て、改めて頭を下げる。
「私のような者のことをお留めいただき光栄です」
「今は勤務時間外だ。そういうのはいい」
テレーズが腰に手を当てて、僕の言葉に返す。長身のため見下ろされるような形、だが嫌みではない。
「あー……勇者の訓練は見に来ていたが、直接話すのは初めてだったな。自己紹介の必要もないと思うが、テレーズ・タレーランだ」
手を差し出される。引き起こすとかそういう意味のものではないだろう。
さすがにそういうことも慣れてきたと思う。僕は迷わずに、その手をゆっくりと握った。お互い軽く力を入れて、すぐにそっと離す。
握手。未だにそれが自然とは出来ないが。
僕の手から手を離したテレーズは、その自分の手を見つめてほんのわずかに口元を緩める。
「……何か?」
「いや。クロードと互角に渡り合った男の手にしては、生娘のような手触りだと思ってな。私のほうがごついくらいだ」
それから、ははは、と笑う。凜々しさに豪快さが加わって、多分今名前が出たからだろうが、その印象がクロードの笑みを彷彿とさせた。
「互角など」
「互角だろう? 魔法使いのはずが、闘気まで使いクロードと互角に打ち合って見せた。双方本気でないにしろ、私にもなかなか難しいことだ。胸を張れよ」
脚の付け根のポケットに手を半分だけ入れて、テレーズは僕に斜に立つ。何となく気取って見えるようで、その笑みにも自信が見えた。
……そういえばその件、口止めか誤魔化すかしておかないと。でも、どうしよう。
テレーズがふと言葉を止めて、周囲を見渡す。疎らに散っていった観客ももうほとんど残っておらず、残るは……興味深そうにテレーズを見つめている女性が数名だけだった。
「今日は街の巡邏でしょうか?」
僕は間が持たず、こちらから問いを発する。言いながら、もちろん違うとも思う。だったら衣装はいつものロングコートだろうし、帯刀すらしていない様子の今は警護や何かの身を窶すような業務でもないだろう。
僕の問いを冗談とでも思ったのか、テレーズは唇の端をつり上げて鼻から長い息を吐く。
「そんなわけないだろう。ただ私的に奢られに来ただけだよ」
「奢られる、ですか?」
「王城の南の広場で落ち合うことになっててな。それでこっちに歩いてきたところ、先ほどの騒動に遭遇したというわけだ」
「南、ですか?」
僕は思わず聞き返す。ちょっとなんか違う気がして。
だがテレーズば、何のてらいもなくまた同じような言葉を繰り返した。
「そう、そこの広場だ。少し場所がわかりづらかったが……」
「ここ西側ですけど」
「……えっ……」
もっと言うと、西北西といったくらいだ。西側から出て、僕はそのまま北に向かおうと歩いてきたはずだ。
「そそそそそんなわけないだろう?」
「いえ、本当に」
慌てた様子で、テレーズが周囲を振り返って確認する。
そういう表記はどこにもないし、日が沈んだ今中々把握は出来ないが、王城を見慣れている彼女ならばわかるのではないだろうか。
とは思ったのだけれども。
「たしかに、あの店は南じゃなかった気もするし……あれぇ?」
この反応、まさか本気か。
「南の広場は、たしかこの道を真っ直ぐ進んで……」
「カラス殿」
テレーズの歳は知らないが、何年も、ことによれば何十年もこの国で暮らしている以上、必要ないとは思う。けれども、何となくその表情に本気が見えて、僕は道を教えるべく指を差したのだけれども……。
しかし僕の言葉を遮り、テレーズがまた胸を張る。先ほどの気取った格好をまた作り、見下ろすような視線をこちらに向けて笑った。
「すまないが、案内を頼めないか?」
「……私よりもテレーズ様の方が詳しいのでは?」
「この王都を出歩くのは中々なくてな。ここ十年で数えるほどだ。だから、頼む。私一人では辿り着けなさそうだ」
「えぇ……?」
思わず僕が声に出すと、テレーズは心苦しそうに目を逸らす。
「いや、私はよく道に迷うんだ。いつもは部下を連れて……今日はいけると思ったんだが……」
はは、とテレーズは笑うが、笑みに力がなくなっている。
「……今日もこの時点で、私一人だと、もう無理な気がしてならない」
「それには同意致します」
笑いながら、テレーズの視線が下を向く。白っぽい緑のような金の髪が頬にまでかかり、耳のピアスを覆い隠した。
更にその上、思わず口から出てしまった僕の言葉で、より一層落ち込んだように見えた。
方向音痴。酷い人は、職場から自宅に帰るのでも迷うと聞いたことがあるけれども……。
「いやほんと、すまないが」
どうしよう。目的地の北の森の反対側だ。案内するのは簡単だけれども、少し帰るのが遅くなるし……。
辻馬車をつかまえて乗せてもいいし、……その方が早い気もする。夜の辻馬車は昼のものよりも安全の面でそこそこ気をつけたほうがいいと思うけれど、それこそ聖騎士団長たる彼女の身に危険を及ぼせるとなるとよっぽどのことだし。
「そうだ、カラス殿も一緒にどうだ? 仲間内の小さな集まりだ、金揚げの食べ放題を……」
「そこまで親しくない方と一緒に食べるのは辛いので」
というか、彼女らも一応騎士爵という貴族の端くれだ。
その仲間たちの集まりというと、やはりそれと同等で……それにしては食べ放題というのはなんとなく庶民的に過ぎると思うけれども。
「ならせめて、案内だけでも」
なにが『なら』だろうか。いやたしか、そういうのも交渉術の一つだったとも思うけれども。
……まあ、困っているのは多分本当らしいし、裏に何かしらの魂胆もなさそうだ。
「わかりました。お供致します」
僕は頷く。
むしろそこで食べてしまってもいい。一緒に食べるのはちょっと辛いけど、まあ席だけ離してもらえばいいや。
しかし、聖騎士団長ともあろう者が、そんな庶民的な食べ物を奢ったり奢られたりするのか。
そんな疑問を浮かべながら、僕はテレーズの案内をすべく前を歩き始めた。