希死念慮
狐は探し求めていた。
まだ近くに居るはずだ。我が半身を殺した憎い人間が。
漂う匂い。埃臭い中、誘うように一筋の匂いが見える。これを辿っていけば、すぐに目的まで辿り着く。
森に入れば、目的の匂いは薄くなった。
弱者の匂いが邪魔だ。狐はそう歯噛みした。人間の匂いが弱者の匂いに紛れてしまっている。
今はお前らを食らう気は無い。
相棒は、死んだのだ。
もはや鳴くことも餌を食むことも許されぬ、暗黒の世界へと消えたのだ。
その暗黒の世界へと相棒を連れ去った、憎き人間を捧げなければいけない。
そうでなければ、自分にも餌を食む資格はない。
それは、本来その狐は持たぬはずの哀悼という感情だった。
憎き人間の匂いを辿っていると、途中弱者ともすれ違う。
弱者にしては知恵があるようで、頭数を揃えて自分に立ち向かってくる。
お前らに構っている暇はない。
そう一睨みするだけで、弱者どもは簡単に道を譲った。
弱者が許しを請うように死体となっていくが、そんなことは今はどうでもいい。それよりも、憎き人間はどこにいるのか。
昼も夜も、次の日に至るまで、死を呼ぶ狐の行進は続いていた。
駆け回るうちに、自らの体に起きた変化を狐は知らない。
その体毛はより硬く、より長く伸びていき、自らの体を守る鎧となった。
爪は太く鋭くなり、鋼ですら容易に抉れるだろう。
背中のヒレは鋭い棘を形作り、傷つけたものに痛みを与える毒を帯びるようになっていた。
浸透した魔力による変化であり、これは魔力を持つ者ならば誰もが起こしうる変化ではある。
しかし、人間たちに詳細は知られていない。
ただ魔法使いの一部が、知らずに活用しているだけなのであった。
一段と強力になった狐は、獲物を探し求める。
そして、次の日の昼過ぎ、ようやく決定的な匂いを捉えた。
新鮮な、まだ新しい匂い。
ハッキリと匂いの線が見える。弱者の匂いに混じっていても、ハッキリとわかる。
その先を追っていく。
焼け焦げた木の匂いや、血の匂いが邪魔をするが、そんなものは意にも介さない。
クッキリと地面に爪痕を残しながら、狐は疾走していった。
人間達の建物だろう。
忌々しい石が、積まれている。
中から憎い人間の匂いがする。しかし、嫌な匂いも同時にする。
森で何度か嗅いだことのある。相棒も自分も、そこに近寄ろうともしなかったが。
嫌な匂いだ。しかし、憎い匂いが香ってくる。
どうしたものか。
匂いの薄い場所から入ればいいか。
そう思い、建物を見回していたちょうどそのとき、橙の光が目に付いた。
火だ。
相棒を焼き、餌と同じ姿にした、火だ。
狐の目が憎しみに染まる。
どこから匂いがしているかなど、どうでもよくなった。
木を伝い、その火の元に駆け上がる。
音もなく着地すると、そこには火と、何匹かの人間がいた。
そいつらから、憎い匂いはしない。
だが、人間だ。相棒を殺した人間と同じ、人間だ。
狐にとって、復讐の対象としてはそれだけで充分だった。
死ね。死ね。
そして、償うのだ。
我が半身を奪ったその罪を、その命で償うがいい。
狐のその目は、濁っていた。
突然の乱入者に、テトラの焦燥は増した。
ただの獣ならばまだいい。しかし、相手は恐らく魔物。それも、凶悪な部類だ。
伝聞でしかないが、彼女も聞いたことがある。
それは、大軍を前に怯まず、退かず、一声吠えるだけで一個大隊を壊滅させる魔物。
駆ければ包囲を突き破り、立ち塞がれば山脈と同じように部隊の動きを阻む。
そしてその姿は恐怖を呼び起こし、視線を受ければ誰であろうと狂乱する。
背中にヒレを持ち、その姿は白い狐の如し。
フルシールと呼ばれたその狐は、そう伝えられていた。
狐が口を開く。その牙を見て、暗殺者が動いた。
その恐怖を湧き起こす魔法は、やはり闘気を帯びていれば緩和される。狐により近い暗殺者であっても、その姿は警戒心を巻き起こす程度で済んでいた。
邪魔者は即座に排除する。
伝説の魔物であろうとも、瞬殺出来る。彼らはそう思っていた。
このときまでは。
目配せもせず、合図もせずに暗殺者達はタイミングを完璧に合わせる。
一人は腹、一人は顎の下。およそ普通の生物であれば命を奪える箇所に攻撃を叩き込む。完璧な連携。テトラの目から見ても、その恐るべき狐は狩られたと思われた。
だが、そうはいかない。
暗殺者たちの小剣が、力負けしてぐにゃりと曲がる。
闘気を帯びている小剣が、狐の素の体に負けたのだ。
勿論それはそれだけの力を込めることが出来るという証拠であり、この暗殺者たちが無能ではないという証明にもなっている。
「……!?」
驚き飛び退く暗殺者。その内の一人の方を、面倒そうに狐は見た。
視線が絡み合う。
ただそれだけだった。
「~~~~~~~~!!」
暗殺者の覆面を嘔吐物が濡らす。全身の血管が急激に締め付けられる。
目が離せない。その数瞬で、目を合わせた暗殺者の衣服は汗を吸って重たくなった。
恐怖が彼の心を支配する。泡を吹きながら頭部を掻き毟る。
目を合わせていない方は、その姿を見て異変に気付いた。相棒の様子がおかしい。
異変が起きれば、瞬時に逃走を選択する。それが彼らの流儀だった。
相方に向かい跳び、その勢いで抱きかかえる。
窓の方を確認し、最後に狐の位置を確認する。
テトラのことは今はどうでもいい。そう判断して、狐を見てしまったのが彼の最大のミスだった。
視線が絡み合い、彼の本能が危険信号を全力で発する。
思わず相棒の胴を抱えた腕に力がこもる。それでも相方は呻くだけで、抵抗をしなかった。
「シュウゥゥゥゥ!!!!」
狐が威嚇の声を発する。それは威嚇のためでなく牽制のために出した声だったのだが、暗殺者達には威嚇では済まなかった。
逃げなければ。
彼らの頭の中は、その言葉で一杯になった。
逃げなければいけない。この狐から離れて。テトラ嬢などどうでもいい。今は身の安全が先決だ。何処へ逃げようか。外へ逃げて、それから何処へ行けば。
逃げるんだ。何処か遠くの、この狐が追ってこない所へ。
狐も追ってこない場所。そんなものが何処にあるというのか。きっとこの狐はどこにいても追ってくる。仕事も、食事も、睡眠も、まぐわいあう時も、この狐に怯えて暮らすのか。
そんなものは嫌だ。どこか、この狐が追ってこない世界は。
自分たちの持っている短剣が目に入った。
その蒼い輝きを見つめ、彼らの脳内に天恵が走る。
自分たちが仕事の対象を今まで送っていた世界。誰も追ってこない世界。
死ねば、その狐は追ってこない。
突然の光明に、暗殺者達は縋り付く。
その刃を抜き放ち、相棒へ切っ先を向けた。
相棒は今動けない。相棒を抱えている暗殺者は決心した。
ならば、先に逃がしてやる。自分はそのあと行こう。
それは、純粋な善意だった。
抱えられた暗殺者も、同じ考えに行き着いた。
相棒は今自分を抱えていて手が離せない。ならば、自分の手で相棒を逃がしてやるべきだろう。まずは相棒を殺し、そのあとに自分だ。
狐が放つ恐怖は、彼らの死への恐怖を上回り、優先順位をねじ曲げる。
彼らの持つ、互いへの優しさから放たれた一撃。
それは彼らを一瞬の時間差もなく死の世界へと送り届けた。
テトラは一部始終を見届けていた。
勇猛果敢にも狐に向かっていった暗殺者達は、ただの一度の衝突で逃走を選択。そして自害した。
何故自害する必要があったのか。それはわからなかった。
強大な魔物だ。自分では太刀打ち出来ない。
ここにいるだけでも脚が震える。同じ部屋にいるだけで、脳内を侵食されている。
もう駄目だ。そう思った。
腹が減っているのであれば、暗殺者達の死体だけで満足してくれないだろうか。そうした願望が僅かに胸中に浮かび上がる。しかし、狐が立ち去る気配がない。
これは、もう駄目だ。
明らかに何かの敵意を持って、この狐はここにいる。
食欲ではない。何かの害意を持って、今ここに佇んでいるのだ。
狐が一歩動いた。
全身の毛が怖気だつ。手足が硬直する。
追い払えないか。それをほんの少しチラリと考えた。
何しろ、この魔物の話は伝聞でしか知らない。あの話が、単なる噂話であるという可能性もあるのだ。
対人間では暗殺者に一歩劣るが、対魔物では負けていない。
そう信じ、灼髪を起動する。それが可能だったのは、ひとえに岩のような精神力のなせるものだった。
牽制の灼髪を振り回す。
縦横無尽に振り回されたその火力は、魔力で変化する前の狐であれば焼けていたかもしれない。
しかし、そんなものを無視して、狐は佇む。
元気な獲物だ。そう思った狐は、一歩踏み出した。
ただそれだけで、テトラの抵抗も無意味なものになった。
「……あ……」
テトラの体の力が抜ける。ドスンと勢いよく、床に臀部が叩きつけられた。
尻餅をついて尻は痛いが、今はそんなものどうでもいい。
圧倒的な恐怖。狐から感じる、その恐怖に、彼女の精神力もついに折れた。
堪えていた感情が、堰を切って溢れ出る。
「い、嫌あぁぁぁぁぁぁ!!」
叫び声が上がる。
自らの口を押さえようとも上がるその叫びに、自らが絶望を感じた。
涙が溢れる。息が全て吐き出され、叫び声がついに止まった。
「ヒッ……ヒッ…………!」
それでも止まらない喘ぎ声。肺から空気が絞り出されても、まだ止まることはない。
狐が一歩近付く。
後ずさろうと脚に力を込めるが、床の上を滑るだけで用はなさなかった。
股間がジワリと温かくなる。濡れて下衣の色が変わっていく。
羞恥心は感じない。その心の中は、ただただ目の前の狐に与えられた恐怖で一杯だった。
テトラの不運は、今日この砦に逃げ込んだことだった。
しかし、幸運は不運の中にも隠れている。
今日この砦に逃げ込んだのは、彼女にとって僥倖でもあった。
ダン! と勢いよく扉が蹴り飛ばされた。
新手か。
そう心の隅で考えられた。誰かが来て、余裕が出来たということだろう。
しかし、どんな新手であろうとも、もはやどうでもいい。
この狐の前に立てば、死ぬのだ。誰であろうとも、例外なく。
絶望に染まったテトラの感情は、もう既に死んでいる。自分は、どうせ死ぬのだ。ならば、せめて敵ではなく自分で。こんな畜生に殺されるよりは、自分で引導を渡したい。
そう考えた彼女は、舌を前歯に挟む。そして、勢いよく噛みちぎろうとした。
また血が口の中に流れる。このまま噛みきれば、舌は巻き取られ気管を塞ぐ。
つまり、死ねたのだ。
しかし、そこで目の前が明るくなった。
恐怖は未だに感じている。しかし、先程よりも大分軽い。
辺りを見回す余裕も出てきた。口の中の痛みを感じながら、原因を探る。
すぐにわかった。
狐の興味が、乱入者の方を向いていたのだ。
狐が吠える。威嚇ではなく、雄叫びとして。
逃げて。そう叫ぼうとした。しかし、息が抜けた今では、そんな声が出せない。
ただただテトラは、乱入者の方を見るに留まった。
乱入者は少年だった。
まだ成人していないだろう小柄な体格に、体を覆う漆黒の外套を纏っている。その髪の毛は外套に負けず吸い込まれるような黒髪で、そんな事態ではないのに彼女は美しいと感じた。
「あれ? 昨日の狐?」
そう、場違いなほどに緊迫感のない呟きを少年は発する。
警戒心のないその呟きに、テトラは少し苛ついた。それだけの余裕が戻っていたのだ。
「オン!!」
短く叫び声を上げ、狐が身をかがめる。そして次の瞬間には、矢のような速さでその場から跳んでいた。
少年めがけて行われた攻撃。
壁が破壊される。上がる土煙で、何も見えなくなった。
テトラの脳裏に、少年への謝罪の念が浮かぶ。
もうあの少年は死んだ。自分が声をかけていれば、助かったかもしれないのに。狐の興味も自分に向いたままで、あの少年は逃げおおせていたかもしれないのに。自分のせいで、無知な少年が死んだ。
鼻水も拭かずに、彼女は目を伏せる。ごめんなさい、ごめんなさいと呟きながら。ぎゅうっと瞑られた瞼は、少年の死体を見ることを拒否していた。
「あぁ!? これ修繕費引かれるやつじゃん!?」
暗闇に、また能天気な声が響く。
聞こえた方を見ると、すぐ横に少年は立っていた。無傷のままで、何事もないように。
驚愕に染まる自分を見ようともせず、少年は廊下の方を見つめる。
よだれをまき散らしながら、そこでは狐が吠えていた。
「あ、あの、逃げっ……」
ようやく声が出るようになったテトラは、少年へ退却を促そうとした。
どうやって一度目を防いだかはわからないが、次はない。
だが、その言葉を紡ごうとしたところで、狐がまた少年に飛びかかる。
強烈なぶちかまし。部屋に轟音が響く。
今度こそ、死んだとテトラは確信した。
しかし、そうでもなかった。
「だから、部屋壊さないでくださいよ……」
狐がたたき伏せられている。
その事実が、テトラには信じられなかった。思わず目をこする。しかし、目の前の光景は変わらない。
「……? 昨日よりか硬いな……」
少年は呟きながら、後ろへ跳ぶ。体勢を立て直した狐は、また飛びかかる。今度は腕を振り上げ、その爪で少年を襲う。
少年と狐の交錯。
何をしたのかはテトラには見えなかった。
自分は、今際の際に夢でも見ているのだろうか。
それとも、恐怖のあまり、幻覚でも見ているのだろうか。
あの魔物が、一頭で騎士団を壊滅させる魔物が、先程自分たちを絶望へと叩きのめした魔物が、小さな彼を相手に手間取っている。
そんなこと、起こるはずがない。
テトラの脳内は、困惑に満ちている。
しかしその頭でも。
「早速役に立ってよかった」
狐の頭が床に落ちた。それだけははっきりと認識出来た。




